危険なお姫様
第5回ダ・ヴィンチ文学賞で落選したものです。
水石は『喫煙人形』と『人肉のお味』と『読書コンプレックス』にも別の名前で登場します。まだお読みでない方はそちらもぜひどうぞ。
夢を見ていた。
星々が瞬く宇宙空間の中、あたしと水石さんは、ジェットコースターと名づけられた速度のゆったりとした小さな乗り物に乗っていた。その矛盾した名前の乗り物の中で、水石さんはあたしの首筋にするすると指を流した。水石さんの指使いは優しいのに、あたしはまるで、粘膜を直接触られているかのような心地になってぞくぞくした。
水石さんのだらしない指先が、首筋から衣服を分け入って鎖骨の辺りをなぞり始め、期待に胸を高鳴らせていると、右手に国名が書かれた出窓のような物が並び始めた。あたしたちの乗った乗り物は、トルコと書かれた所を過ぎロシアと書かれた所で止まった。辺りには七色の光が立ち込め、まばゆさに目がくらんだ。
乗り物を降り、水石さんと二人で当てどなく歩き始めると、後方でも次々と乗り物から下車した人々が、あたしたちの後ろをついて来るのを感じた。ふと気付くと目の前にもやはり人々の群れがあった。皆あの乗り物から降りた人たちなのだなと、あたしはぼんやりと考えた。
振り返ると行列のやや後ろにヘイちゃんの姿が見え、あたしはぎょっとした。別れたはずの水石さんと共にいるあたしを見て、ヘイちゃんはどう思っていることだろう。早くヘイちゃんの元に戻らなければ、離婚されてしまうかも知れない。
けれどあたしは水石さんにさっきの続きをして欲しかった。あたしは水石さんに
「ちょっと、待ってて」
と告げた。ヘイちゃんを上手い具合に言いくるめて、再び水石さんの元に戻ろう。あたしはそう画策しながらヘイちゃんの側に行き、名前を呼びかけた。何度も呼びかけたのにヘイちゃんはあたしを無視した。
もうヘイちゃんは、あたしを許してくれないんだと悟った時、あたしは不思議と失望せずに
「だったら、いいよ」
と捨て台詞を残して水石さんの元へ向かった。水石さんの指先が恋しかった。水石さんのだらしない指先が恋しかった。
水石さんの元に戻り二人で佇んでいると、新たな乗り物が目の前に現れた。名前は分からなかったし名前などどうでもよかった。あたしは早く乗り物に乗り込んで、きらめく宇宙空間をバックに水石さんに触れて欲しかった。
あたしたちが乗り物に乗り込もうとしたその時、ガチャガチャという現実音が眠りを破った。あたしは瞳を開いた。そこには光を放つ宇宙空間も、訳の分からない乗り物も、水石さんのだらしない指先も無かった。ただ閉めきったカーテンのすき間から忍び込んだ宵闇が、部屋を支配していた。
ドアを開ける音が玄関から響いた時、あたしは自分を覚醒させたその音が、ヘイちゃんが鍵を開けた音だったのだと理解した。同時にあたしは、自分が居間のソファーでうたたねをしていたことを悟った。こたつに突っ込んだ両足がじりじりと熱を持ち、むき出しになった首筋と肩まで、ねっとりと汗をかいていた。先ほど水石さんに触れられた首筋が水石さんの体に委ねた肩が、ねっとりと汗をかいていた。
闇の中に、先ほどの夢のきらめきを捜し求めていると、ヘイちゃんがふすまをガラリと開けた。廊下の照明が居間に差し込んだ。その輝きに夢の残骸を感じていると、頭上で「寝てたの?」とヘイちゃんの不機嫌な声がした。
官能的な夢から覚醒させられてしまったことに失望しながら、あたしはヘイちゃんと近所の日帰り温泉に行く約束をしていたことを思い出した。
あたしは体を起こしながら
「うん。でも行く支度はしてたよ。ほら」
とお風呂セットや着替えを詰め込んだVIVA YOUの買物袋を指した。
ヘイちゃんは一重まぶたの冷ややかな視線で袋を一瞥すると、「ふうん」とつぶやき
「じゃあもう、行くよ」
と相変わらず不機嫌そうな声であたしを促した。
ヘイちゃんが帰って来るまでの間に、居眠りをしていたからといって、どうして機嫌が悪いのか、さっぱり分からなかった。けれど先ほどの夢の余韻に取り付かれていたあたしは、うなずくと袋を手に立ち上がった。何だかまだその辺に夢の残骸があるような気がした。
玄関のドアを開けると、晩秋の夜風が寝汗で湿ったあたしの肌をなぶった。あたしは寒さに両腕を抱えると、急ぎ足でヘイちゃんの車の助手席のドアを開けた。シートに見慣れない物が載っていた。
ヘイちゃんが運転席に乗り込みながら
「ひざ掛け、買っといたから」
と笑った。いつの間にか機嫌が直っている。この人はいつもこうだ。普通の人が怒りそうなシーンで笑っているくせに、時々訳の分からないことで機嫌を損ね、そしてあっという間に機嫌を直している。
時には、どうして怒ったのか尋ねてみようとも思うのだけど、ヘイちゃんは基本的に優しい。極度な敏感肌で、綿製品以外の生地に触れると即座に手荒れを起こしてしまうほどだというのに、こうして冷え性のあたしのために、ウールのひざ掛けを用意しておいてくれたりする。
こんな思いやりを示されてしまうと、先ほどの不機嫌の件を持ち出すことがためらわれる。結局あたしは
「わあ、ありがとう」
などと言いながらひざ掛けで下半身をくるんだ。ヘイちゃんはノートを発進させながら
「黒と茶色も、あったんだけどねえ」
などと買物の経過を語り出す。あたしはそれに反応する。そうしてヘイちゃんが垣間見せた不機嫌は闇に葬り去られてしまう。
多分これが夫婦というものなんだろうと思う。若い頃は、相手に対して感じたことは、全て話し合わなければならないと思い込んでいた。だから言わずもよいことまで洗いざらい全てをぶちまけ、騒動を引き起こしていた。けれど今にして思えばあれは戦争のようなものだ。戦争に比べたら、少しくらい納得のいかないことがあっても平和な方がいい。
昔は率直さこそが美徳だと思っていた。だから相手にも、全てをさらけ出すことを望んだ。けれど聞かなくてもいいこと言わなくてもいいことが人間関係の中には沢山ある。ヘイちゃんに先ほどの不機嫌の理由を尋ねることも、あたしが先ほど観た夢に、どれだけ感じたかを話すことも愚かなことだ。
でも口に出さない思いは、頭の中でぐるぐると渦を巻く。そしてあたしはヘイちゃんが垣間見せた不機嫌さを思うよりも、先ほどの夢を想起することを選んだ。助手席から眺めるネオンや車のヘッドライトが、夢の中の宇宙空間の輝きや七色の光を連想させた。その風景の中であたしに触れた、水石さんのだらしない指先も。
夫の運転する車の助手席で、昔の男に欲情することに罪悪感を覚えながら、あたしは先ほどの夢を反芻することを止められなかった。ヘイちゃんが放つ
「ひざ掛けどう?あったかい?」
といういたわりに満ちた質問を、煩わしく感じてしまうことも。
あたしは
「うん。あったかくて気持ちいい。寝起きで車に乗って夜景見るのも気持ちいい。ちょっと浸らせて」
と言ってヘイちゃんを黙らせると、眼鏡を外してフロントガラスの向こう側を眺めた。
普段はコンタクトレンズを使用しているのだけれど、温泉に行く時は、眼鏡をかけるようにしている。コンタクトをしたまま入浴しては目に悪影響を及ぼす。あたしは裸眼では0.08くらいしか無いので、自宅の浴室ならともかく、温泉に裸眼で入ることができない。
脱衣所で度の合わなくなった古い眼鏡にかけ替えて、あたしは入浴する。サウナでは眼鏡が禁止されているけれど、高温サウナの入り口には、眼鏡置き場が設けられているから、あたしは高温サウナの中でだけ裸眼になる。サウナで熱気に耐える客のためにと設置された、ハイビジョンテレビの放映を観ることができないのは誠に悔しいが、しかし近視には近視の利点がある。
いやもしかしたら、乱視の利点だろうか。あたしは視力の下がり始めた十歳の頃から乱視にもなり始めていたので、純粋な近視の世界を知らないのだ。あたしは乱視の入った近視の目で、流れる夜景を眺め始めた。
コンタクトや眼鏡で矯正された正しい風景に於いては、何の変哲も無い、街灯や車のライトが、裸眼の世界では十倍くらいに大きな光の塊になって表れる。しかも光の輪郭がそれぞれにとても面白い形になるのだ。それらの光が突然ぼこっと眼前に現れ、そして何の前兆も無いまま消えていく。この幻想的な様は打ち上げ花火の比では無い。
あたしはけらけらと笑い声を立てた。実際に歩いたり運転したりする際には、危険極まりない景色だけれど、ただ眺める分にはこんな愉快な世界は無い。ひょっとしたらドラッグに溺れる人が楽しんでいる幻覚は、こんな感じなのかも知れないと思う。視力がよく乱視の入っていない人は気の毒だ。あたしのように心身に何の害も無く、無料で合法的に誰にも迷惑をかけない方法で、楽しむことができない訳だから。
そういえば水石さんも視力がよかった。乱視でもなかったはずだ。
そのせいだろうかと考えながら、あたしは不可思議な光の塊が浮かぶ闇を眺めながら、先ほどの夢を思い起こした。
夢の中で水石さんが触れた首筋、背中、そして現実に水石さんが触れたあたしの全身。
昔、あたしの体中を這いずり回った水石さんのだらしない指先。
あの頃あたしは二十一歳だった。あの年は実に騒々しい一年だった。
かねてから肩凝りによる偏頭痛に参っていたというのに、誕生日の翌日から、腰痛にまで悩まされ始めた。あたしは生理時に腰痛が起こるため、婦人科で処方されたロキソニンを使っていたのだけれど、生理日以外も連日腰が痛み出し、とうとう近所の整体院に出かけて行った。
髭面のいかめしい顔をした整体師が、あたしの体を診ながら
「三回通えば、治ります」
と断言した。一回の料金は五千円だった。親元を離れている上に短大時代に受けた奨学金の返済をしていたあたしにとっては、痛い出費だった。けれどそれ以上に肉体的苦痛があたしを苛んだ。あたしは通うことを決意した。
それなのに五回通っても、症状がよくなるどころか、かえって今度は背中までもが痛み出した。あたしはそこに通うことをやめると、通勤ルート途中にあった接骨院に会社帰りにふらっと足を踏み入れた。正確な料金は忘れてしまったけれど、保険が適用されたため値段は安かった。今まで通っていた整体院の大体十分の一程度の額だった。
施術を受けながら、あたしは先生に
「どれくらいの期間で、治りますか」
と尋ねた。先生はふっくらとした顔で微笑みながら
「それは、分かりません」
と答えた。その時あたしはこの男は信用できると思った。
何度か通う内に、この接骨院は先生が一人で営業しているらしいことが分かった。患者はいつも、あたしの他に二~三人ほどだった。一人が待合所のソファーに座り一人が電気治療を受け一人がマッサージをされている。大抵いつもそんな具合だった。
ある日珍しく患者が一人もおらず、先生と二人きりになった。先生は当時二十六歳だったから、あのこじんまりとした空間で年恰好のいい男と二人きりになり、ベッドに横たわり体を触られているという事態に、ドギマギしてもよかったのかも知れない。だけど先生は見た目年齢が四十代だったので、あたしは別に緊張するでもなく先生に身を任せていた。
いやむしろあたしはリラックスしていた。他に患者がいないという安心感もあり、あたしは不意に先生に話しかけた。
「あたし、カレシに振られちゃったんですよ」
今にして思えば、どうして自分がそんなことを言い出したのか分からない。そもそもそれまであたしは、先生と世間話の一つも交わしたことが無かったのだ。それなのにそんな相手に対して突然、失恋を口にするとは、一体どういう風の吹き回しだろう。
振られたことが余程ショックだったのだろうか。それとも自分にマッサージを施し、自分の体に快楽を与えてくれる相手に、人は好意を持ってしまうからだろうか。あるいは先生の眉の下がった人のよさそうな顔立ちや、丸っこい体つきなどから、先生を優しい人だと思い込んだのだろうか。
ただ考えてみれば、その失恋は確かにショックなものだった。まだ九月だというのにあたしはその年、カレシと別れたのがそれで三度目だったのだ。あたしは元々色んな人と恋愛をしたいというタイプではない。それどころか、結婚したいとまで思えるほど惚れた相手とでなければ、交際もする気にならない腰の重いタイプだ。そんなあたしがたった半年の間に三度も男との別れを体験したという事実は、あたしの心を容赦なく引き裂いた。
多分あたしは慰めて欲しかったんだと思う。そして今にして思えば、先生はあたしの心を読んだからこそ、こう答えたんだと思う。
「武藤さんでも、振られることがあるんですか」
その驚いたような口調に、あたしは満足し
「今まで振られるより振る方が辛いって思ってたんですけど、実際振られてみると、振られるのも辛いですね」
と返事をした。
あたしはそれまでもまた今日に至るまで、相手を嫌いになって振った経験が無い。相手を好きだけれど相手が悪い人だから、身を切るような思いで別れを告げるのだ。例えば四股をかけられていたことが発覚したとか、始終、金の無心をされるとかそういう理由で。
そういう悪い男は、こちらの恋愛感情につけ込んでいる訳だから、別れを持ち出してもなかなか首を縦に振らない。未練ある心でそんな相手を説得し別れにこぎ着けるのは、心身が疲労する大変な作業だ。だから振るより振られる方がいいと思っていた。振られる場合は、「別れたくない」とすがりつくことができるから。感情をセーブせずに泣き喚くことができるから。
けれど横川に、付き合った相手に振られるという初めての経験をさせられ、振られるのもなかなか切ないものだと理解できた。
言い寄ってきたのは横川の方だったのに、たった二ヶ月で、立場が逆転してしまったのはどういう訳だろうと思った。
今年に入ってからの二度の別れによって、情緒不安定になっていたあたしが
「あたし今、情緒不安定だから、付き合ったりしたら迷惑かけちゃうから」
と断った時
「俺、勤め先にも精神科通ってる人いるし、そういう人、慣れてるから平気だよ」
と言ったくせに、あたしが自殺未遂をした途端
「こんなことされて気持ち冷めた。つーか精神科行けば?」
と冷たく言い放たれたのはなぜかと頭を抱えた。
それでも横川の勧めに従って精神科を受診し、それを横川に報告すると
「あー俺、精神科とか行ってる人、無理」
とあっさり振られた時は訳が分からなかった。
何だか最初と言ってること全然違うじゃん。だったらあたしが断った時点で身を引いてくれれば、あたしはそもそも手首なんか切らなかったのに。あたしがあんなことをしたのは、今まではカレシができれば気分が安定したのに、横川と付き合っても気分が一向に安定しなくて、それで悲観的になって死を望んでしまったのに、あたしは結果的に、振り回されてボロボロになっただけだったんだなあ。などといった思いを味わうのはやるせないものだ。
ただ振られてよかった点もあった。こんな状態のあたしを、よく捨てられるなあと思ったら、横川に対し怒りを覚え何だかすっかり死ぬ気が失せてしまったのだ。つくづく怒りの方が悲しみよりもマシな感情だと思う。
そんな経緯を、あたしはぽつぽつと先生に話した。先生は相槌を打ちながらあたしの話に耳を傾け、そして
「武藤さんは可愛いから、すぐにまたカレシできますよ。大丈夫ですよ」
と穏やかに慰めてくれた。
「そうですかねえ」
あたしは嬉しさ半分疑わしさ半分だった。あたしは三年前くらいまで、自分は十人並みの容姿だと思っていたからだ。
その二年くらい前から周囲に
「最近、綺麗になったね」
などと言われ始めていたから、自分の外見が、レベルアップしたらしいことは感じていた。けれど鏡を見ても自分では違いがよく分からなかった。かんばせというものは本人は案外理解できないものだ。自分の顔を肉眼で見ることができる人は誰もいないのだから。
そのため「綺麗になった」と言われても、では自分の容姿が、客観的にどの程度になったのか、その頃あたしはよく分かっていなかった。だからあたしは半信半疑で聞き流そうとした。
しかし先生は
「だって武藤さん、ここの通りを通学路にしてる高校生たちの話題の人だし」
と何かを打ち明けようとする人間特有の嬉しそうな顔をした。
「えっ?」
「ほらここ、待合所がガラス越しで通りから見えるでしょう。最近美人が夕方ここに座ってるって、男子高生の間で話題らしいんですよ。いや僕も患者さんに聞かされた時はびっくりしたんですけどね。だって彼ら自転車通学ですよ。そんなよそ見運転してたら危ないよーって」
「……そうですね。危ないですよね」
いつの間にか話の趣旨がずれているような気がしたけれど、あたしはそう返事をした。しかし事故の危険はともかくとして、自分が自分の美貌ゆえに、高校生の話題にのぼっているという事実にあたしは驚嘆した。
通勤途中、朝っぱらからナンパされたり、会社にやって来たお客さんに
「まあー、美人ねえ。こんな会社に勤めるより女優さんにでもなればよかったのに」
などと真顔で言われたりしたことから、自分の外見ランクが、上がっているらしいことは察していた。けれどまさか漫画に出てくるマドンナのように、男たちに噂されるレベルにまで達していたとは、思ってもいなかった。
失恋の涙に明け暮れている内に、世間がいつの間にか、あたしを美人の部類に入れていたことを知らされた。心が少し救われたような気がした。あたしは当時、面食いだったから、美しい容貌というものは幸福をもたらすものだと信じていたのだ。
その日を境に、あたしは接骨院に行く度に先生と世間話を交わすようになった。大抵そこには他に二~三人程度の患者がいたけれど、ごくたまに二人きりになることがあった。先生が、霊感占いをやっていたことがあると打ち明けてくれた日も、あたしと先生以外に誰もいない、秋雨が窓を打つ音と電気治療器の機械音だけが妙に耳につく、侘しい日だった。
聞くところによると、先生には生まれつき不思議な能力があって、見ようと思うと相手の過去や未来が頭の中に浮かぶらしい。そのためその能力を使って、出張占い師をしていたらしいのだけど、占いを専業にしていた頃、先生の自宅には霊がしょっちゅう出没していたとのことだった。
なぜ占い師を辞め接骨院を専業にしたのかと尋ねると
「カノジョが、できたからです」
と先生は答えた。カノジョが自宅に来ている時に霊が現れて、カノジョに迷惑をかけてはならないという思いからだったらしい。
あたしはその話を聞いた時、先生の家に霊が来ることよりも、先生にカノジョがいることの方にびっくりした。筋金入りの面食いだったあたしには、二十六歳にして四十代の風格を持つ男にカノジョがいるという事実は、驚愕だったのだ。
けれど先生にカノジョがいることなど、正直に言えばどうでもいいことだった。その頃あたしは横川の前の前のカレシ、求とヨリが戻りそうになっていて、そのことを是非占って欲しかった。大抵の若い女がそうであるように、あたしも占いが好きだった。いやこの件に関して過去形は当てはまらない。あたしは今でも占いが好きだ。
しかし先生は
「カノジョに、迷惑をかけたくない」
の一点張りであたしを占うことを拒否した。だが罪の意識を覚えたのか会計時、先生は
「お代はいいですよ。これからも武藤さんは無料でいいです」
と料金を受け取ろうとしなかった。
保険が効くとはいえ、あたしは当時、一日おきに接骨院に通うほど全身が凝っていたからこの申し出はありがたかった。あたしは先生に占ってもらうことを諦めた。
ところがその後、求があたしの親友の芽衣子とも会っていることが分かった。実は芽衣子は求の元カノだった。あたしが求や芽衣子と知り合う以前、高校時代に二人は付き合いそして別れた。その後、芽衣子と知り合ったあたしが、芽衣子と二人で出かけた花火大会で求とその友人にばったり出会った。あたしたちは四人で花火を観た後、カラオケに行った。そして連絡先を交換し合い、あたしは求と付き合い始めた。
求のことは芽衣子が振ったという話だったから、あたしは芽衣子に、悪いとは思わなかった。芽衣子も別にあたしに苦言を呈さなかった。いやむしろ求と付き合い始めてから芽衣子はあたしのよい相談相手になってくれた。
付き合って三日後に
「将来、結婚して欲しい」
とプロポーズされ
「そんな先のこと、まだ分かんないよ」
と答えると、こちらが「うん」と言うまで五時間も説得されたりとか、一日に何度も鳴る電話のベルの煩わしさなどは、芽衣子も経験済みだったから、同じ煩わしさを経験した者同士として、あたしたちの友情はむしろ深まった。
説明するまでも無いかも知れないが、高校時代に芽衣子が求を振ったのは、その煩わしさが原因だった。そしてその後あたしが求を振ったのも同じ理由だった。一人の男を同じ理由で振ったことによって、あたしたちの友情は更に固いものになった。
しかし初めて男に振られ憔悴していたあたしは、求を懐かしみ、再び逢瀬を重ねるようになった。けれどその裏で求は芽衣子とも逢引していたのだ。
あたしは頭に血が上った。芽衣子だけはやめて欲しかった。もし求が芽衣子とやり直してしまったら、あたしの存在は一体何だったのだろうと思った。芽衣子との友情にも亀裂が走ると危惧した。
だからあたしは芽衣子に直談判した。どういうつもりで、求と会っているのかと問いただした。
芽衣子はりりしい眉毛を切なげにひそめながら
「だってわたしも求君のこと、好きなんだもん」
と言った。
「自分から、振ったくせに」
という言葉をあたしは飲み込んだ。それを言ったらあたしも同じなのだ。あたしだって自分から振った求と、関わっているのだ。
けれどあたしは思った。芽衣子でさえなければいいのだと。求にカノジョができてしまったらそれは悲しいことだけれど、最初に手を離したのはあたしだ。だから求と復縁できなくても仕方が無い。しかし芽衣子と元の鞘に戻られてしまったら、あたしと求の付き合っていた一年半は一体何だったのかと。
だが芽衣子は切れ長の目を潤ませながら
「求君が保美と付き合い始めた時、わたしだって悲しかったんだよ。最初は求君は、わたしにヤキモチ焼かせるために、保美に言い寄ってるのかなあとか思ってたけど、何だか本気みたいで、わたし……」
と声を詰まらせた。
あたしはあなたと求が付き合っていた時代を、知らないじゃないか。そんなに悲しく思うなら求を振らなければよかったじゃないか。色んな言葉が頭を去来したけれど、あたしは黙り込んだ。芽衣子にとっては、元カレが親友と付き合うという経験を自分は文句一つ言わずに耐え忍んだのだから、次はあなたの番だということなのだ。
かろうじて涙を頬に伝わらせることなく、唇を噛み締めている芽衣子を眺めながら、あたしはようやく口を開き
「求と、やり直すつもりなの」
と尋ねた。
「分かんない。求君は保美とも会ってるし。……保美は?」
「正直に言えば、今はただ寂しいだけで、それで気心知れた求と会ってるだけなのかも知れないとも思う。でも求と別れてから二人の男の人と付き合ったけど、求の方がマシだったなあとも思うから……。ただ求があたしと芽衣子を両天秤にかけてる以上は、『やり直そう』って言われても断るけど」
「そうだよね」
結局、求次第なのだと思った。過去に求を振ったあたしたち二人を今、求が振り回していることが腹立たしい気がした。
そんな折、故郷の弟からこちらに遊びに来たいという電話が入った。あたしは求と芽衣子に連絡を取ると、三人で弟を駅まで出迎えに行った。非常に微妙な関係にあったというのに、求も芽衣子もあたしの誘いを断らなかった。提案したあたしもあたしだが承諾した二人も二人だと思う。あの頃あたしはおかしかった。あたしを取り巻く人々も普通ではなかった。
今思えば、弟がせっかくこちらに遊びに来たのだから、観光地に連れて行ったり郷土料理を食べさせてあげたりすればよかった。しかし若かったあたしたちは、全くそういったことに思い当たらず、ファミレスで食事をしてボーリング場へ向かい、写真を撮り合った。弟は夕飯を食べると故郷へと帰って行った。あたしは弟を見送った足で、写真をプリントするためにカメラ屋に向かった。
できあがった写真を接骨院に持って行ったのは、数日後だった。その日も患者は他にいなかった。外を通る車の音と電気治療器の機械音以外は何も聞こえない、静かな夕暮れだった。
あたしは有無を言わさずに、芽衣子と求の写った写真の束を先生の鼻先に突きつけると
「この二人は、付き合うことになりますか」
と尋ねた。
先生は愛嬌のある団子鼻に、一瞬困ったようなシワを寄せたけれど、すぐに観念して写真に見入り、そして
「多分、付き合うことになるでしょうね」
と答えた。
あたしは絶望し、待合所のソファーの上に崩れ落ちるように腰を下ろした。先生はあたしの様子に気付かず
「それにしても武藤さん写真写り悪いねえ。実物はもっと可愛いのに」
などと、どうでもいいことをつぶやきながら写真をめくっていたが、突然「おや」と手を止めた。
「この女の子には、この男の子よりもっと好きな相手がいるなあ」
「えっ」
あたしは走り寄ると、先生の手元を見詰めた。先生はあたしと芽衣子のツーショット写真を眺めていた。そこには、ウェーブのかかった髪をポニーテールにして微笑むあたしの隣で、濃いルージュを塗った唇の両端を軽く持ち上げておきながら、妙に冷静な目をした芽衣子の顔があった。
「他の写真からは、お互いの好意が感じられるから、多分付き合うんだろうなあと思ったんだけど、この写真からは他の男性に対する強い恋心が見えるなあ」
芋虫のような指で芽衣子の顔を指し示す先生の言葉に、あたしはまさかと思い
「それは、ないですよ」
と笑った。けれど先生も
「聞いてないだけじゃないの?」
と笑った。
これ以上、反発することが面倒臭くなったあたしは、腹の中でそんなことがある訳が無いと思った。あたしと芽衣子は互いの月経日までも熟知している仲なのだ。芽衣子があたしに隠し事などする訳が無い。そう思った。
そしてあたしの予想に違わず、その件を告げると芽衣子は
「えー、それ誰? わたしが自覚してないのにわたしに好きな人がいるはずないじゃん」
と笑った。
占いなんていい加減なものだなと、あたしは思った。写真の鑑定を先生は無料でやってくれたから金銭的な損失は無かったけれど、こんなにも当てにならない占いを、やって欲しいと願っていた自分が、馬鹿みたいだった。自宅に霊が来るから占い師を辞めたと先生は言っていたけれど、本当は占いでは食えなくて、接骨院に転職しただけだったんじゃないだろうかとまであたしは勘繰った。
その翌日、あたしは求に誘われて求の車でドライブしていた。気付くと車は人家も人通りも無い寂れた野道を走っていた。黄昏が宵闇に変わる頃、求が車を停車しあたしに後部座席に移るよう言い出した。理由を聞きたかったけれど、その口調には逆らいがたい迫力があった。
後部座席に乗り込むと、求が運転席と助手席のシートを前に倒してから後部座席にやって来て、あたしに覆いかぶさった。耳元で「ヤろう」という声がした。カレシ以外の男と寝たことのなかったあたしは戸惑った。けれど付き合っていた間、数え切れない程情を交わした相手のことを、今更拒んでも意味が無い気がした。それにあたしは男の部屋やホテル以外で男と交わった経験が無かった。
求と寝たいというよりも、一度カーセックスというものをしてみたいという好奇心に抗えず、あたしは「ゴムは?」と尋ねた。求はシートのすき間から、コンドームを取り出した。
付き合っていた間、求は多い時で一日に五回も挑んでくるような男だったから、求とまぐわった回数は最早、見当がつかない。けれどその求との最後の交接は印象的だった。快感をまるで覚えなかったのだ。
車内という狭い空間だったため、行為に没頭できなかったせいなのか、それとも求があたしの服を脱がせながら
「芽衣子には、言うなよ」
と言ったせいなのか、それとも他に理由があったのかは分からない。
いずれにしろ、つまらない情事を行なったことによって、あたしの情緒は不安定になった。だからあたしは芽衣子に電話をして求と寝たことを告げた。情緒が不安定になった時、芽衣子と話をして感情の整理をすることが当時のあたしの習慣だったから。
電話口の向こうで、芽衣子は「信じられない」とつぶやいた。けれどあたしが嘘をついている訳ではないことを芽衣子が理解していることを、あたしは分かっていた。
結局それがきっかけとなって、芽衣子は求と会うのをやめた。求から抗議の電話が来たけれどあたしは平気だった。あたしにとっては、求とヨリを戻すことよりも芽衣子との友情を守ることの方が大切だったからだ。そしてそれは、あたし一人だけの思いではなかった。芽衣子に言い寄っておきながらあたしと寝た求にすっかり失望した芽衣子は、危ういところであたしとの友情が壊れるところだったことに思い当たり、求を憎み始めたのだ。
危機を乗り越え共通の敵を持つことによって、あたしと芽衣子の友情は、むしろ堅固なものになった。あたしはそれに安堵したが、しかし求を失ったことにより新たな男と関係を持つようになった。それはあたしを振った横川の友人の湯泉さんだった。
実はあたしは最初、湯泉さんを気に入っていたのだ。しかし湯泉さんにはカノジョがいた。そして横川が熱心にアプローチしてきた。横川の外見は湯泉さんに見劣りしたけれど、湯泉さんと比べなければ我慢できないほどではなかった。あたしはほだされて付き合い始めた。
横川との交際中も、湯泉さんとはちょくちょく飲む機会があった。あたしは湯泉さんに会う度に胸がときめいた。けれどその時まで自分は、カノジョのいる男に対する恋心などコントロールできると思い込んでいたので、自分のときめきを自覚していなかった。
今にして思えば、横川と付き合い始めても情緒が安定しなかったのは、湯泉さんへの恋情ゆえだったのかも知れない。けれど当時のあたしはそれに気付かず、横川と会う度に泣いていて横川に疎んじられた。その横川のつれなさにあたしは更に傷付き、しばしば湯泉さんに相談の電話をかけていた。湯泉さんとの通話の習慣は、横川に振られてからも続いた。
求から抗議の電話を受けた翌日、あたしは急に思い立って湯泉さんに電話をかけ
「今から、行っていい?」
と尋ねた。真夜中だったが湯泉さんは「いいよ」と即答した。
一人暮らしをしている湯泉さんのアパートを訪れたのは、その時が三度目だった。けれど一人で訪問したのは初めてだった。ろくに言葉も交わさないまま、暗黙の了解のようにあたしは湯泉さんの寝床に引っ張り込まれた。あたしは幸福だった。
しかしその幸福感は、長く続かなかった。湯泉さんはカノジョと別れる気が無かったからだ。湯泉さんが横川の友人であることは全く気にならなかったが、湯泉さんにカノジョがいることが、あたしの心を不安定にさせた。ほんの一時、心を安定させるために、あたしは湯泉さんのアパートに通った。カノジョと会う約束が無い限り、湯泉さんはあたしの来訪を許してくれたけれど、通えば通うほど幸福を感じていられる時間は短くなった。
その内あたしは、行為を終えた後も、湯泉さんのアパートを立ち去りがたくなるのかも知れない。その想像はあたしを恐怖にわななかせた。あたしは元々、男が射精した後せいぜいニ十分もピロートークを交わせば、相手が疎ましくなるタイプなのだ。あたしは一人で寝るのが好きなのだ。男と寝た後、一人で寝るのが好きなのだ。
それなのに湯泉さんの傍らで、眠りたくなってしまったらどうするのだ。カノジョがいる男と、ずっと一緒にいたいなどと願い始めてしまったらどうするのだ。ほんの僅かな時間でいい、気分を安定させたいと願い近づいた湯泉さんの存在が、かえってあたしを不安定にさせるような事態になってしまったら、どうしたらいいのだと。
あたしが頭を悩ませていると、芽衣子から電話がかかってきた。受話器の向こうから泣き声が聞こえた。聞けば付き合いを目前にしていた男に振られたという。芽衣子にそんな相手がいたなどということは初耳だったから、あたしはどういうことかと問いただした。すると何と芽衣子は、先月から会社の先輩とデートを重ねていたというのだ。
どうして今まで黙っていたのかと尋ねると、芽衣子は
「だって先輩と会っていながら求君とも会ってるなんて、言い辛くて」
と申し訳なさそうな声を出した。ならば先輩に振られたことも黙っていればいいのに、結局こうして打ち明けてしまうところが、芽衣子の短所でもあり長所でもある。芽衣子はあたしに愚痴を聞いて欲しいのだ。あたしなら聞いてくれると期待しているのだ。
芽衣子の期待に応え、あたしは芽衣子の愚痴を聞き会社の先輩を罵り芽衣子を慰めた。先輩の存在を隠されていたことは、あまり腹が立たなかった。むしろこういったケースの場合、芽衣子は口を閉ざすのだなということが分かり、芽衣子をより理解できた気がして嬉しかった。求の件もあり複雑な感情も潜んではいるけれど、結局あたしは芽衣子が好きなのだと思う。だから今に至るまで交際を続けているのだろう。
だがあたしは、あることに思い当たった。先月から会社の先輩とデートを重ねていたということは、四人でボーリング場へ行った時期と一致するのではないだろうか。
あたしがそう尋ねると、芽衣子は
「そうなの。だから保美の接骨院の先生が、この子にはもっと好きな相手がいるって言ってたって聞いた時ドキッとしたのね」
と深刻な声を出した。
あたしはぞっとした。よく占い師は相手との会話によって相手の人となりを予想して
「あなたは、こういう人ですね」
などと、あたかも占いによって導き出された答えであるかのように告げ、相手を信じさせるという話を聞く。でもあたしは芽衣子に関する情報を、何一つ先生に言わなかった。それどころか先生が、この子にはもっと好きな相手がいると言った後に反論すらしたのだ。
それなのに先生は自分の意見を変えなかった。そして芽衣子の証言によって、先生の占いが当たっていたことが証明された。
翌日、接骨院に行くと、着いた頃には三人ほどいた患者たちがあたしが施術用のベッドに横たわった頃には一人もいなくなっていた。あたしは早速
「あたしは、結婚できるでしょうか」
と先生に尋ねた。
別に先生に
「これからも、占ってあげますよ」
とも何とも言われていないのに、一度、写真を霊視してもらったことによって、あたしは勝手に先生を無料の占い師として利用することにしたのだ。
先生はどうやら押しに弱い性格らしく、しばらく黙り込んだ後
「運命の人は、二年後に現れます」
と言った。「二年後?」とあたしはオウム返しに尋ねた。その時のあたしにとって二年とはとてつもなく長い歳月だった。
どんどん湯泉さんに傾倒していく心と体。横川の勧めに応じて通い始めたというのに、診察時に何を訴えてものれんに腕押しの精神科医。効かない精神安定剤。効かない精神安定剤によって痛む胃。痛んだ胃によって飲めなくなった酒。飲めなくなった酒によってもたらされる眠れない夜。効かない睡眠導入剤。慢性睡眠不足によって接骨院に通いつめてもほぐれない全身。凝りによってもたらされる頭痛。
一日に六錠も飲んでいる鎮痛剤。鎮痛剤によって荒れる胃。胃が荒れることによって引き起こされる背中の痛み。そんな体をひきずって通う会社。会社の借り上げてくれたマンションに住んでいることにより辞められない現状。勤続二年目で、短大の奨学金の返済や、親元を離れたことにより発生する生活費を捻出することに精一杯で、貯金も無い。
こんな生活を、二年も送れるはずが無いと思った。あたしはきっと運命の相手に会う前に死んでしまう。
外で鳴り響く木枯らしの音を聞きながら、うなだれるあたしに気付かず、先生はあたしの体に電気治療器も装着せずに黙り込んでいた。
二年後にやって来る、のん気な運命の人の姿でも見ているのだろうか。そう思いながらうつぶせたまま目を閉じていると、頭の上で
「ただカレシは、クリスマスまでにはできますね」
という声がした。
目の前にぱっと光明が差した気がして、あたしは思わず体を起こした。二年後に運命の人が現れるということは、クリスマスまで、つまり一ヶ月以内に付き合い始める相手とはいずれ別れることになるということだろう。しかしこの際そんなことはどうでもよかった。
誰かと付き合う度に、いずれこの人と結婚するのだと夢見るあたしはもういなかった。あたしの心と体を湯泉から引き離してくれるなら、それでよかった。
あたしは胸を弾ませながら、「かっこいいですか」と尋ねた。あたしの質問に先生は
「割合、かっこいいです」
と答えた。あたしは「割合」にちょっとがっかりしたものの、とりあえずあたしが付き合おうと思う程度にはかっこいい相手なのなら、構わないと思い直した。
すると先生が
「でもその人とは付き合わない方がいい。三ヵ月後に武藤さんが振ることになるから」
と言い足した。
「あたしが、振るんですか」
「そう。ただこの占いを聞いちゃったから、もしかしたら付き合わないかも知れないけど。そもそも占いというものは100%当たることは無いんだけど、それは占いを聞いてしまうからなんですよ。例えば『事故に注意』と言われて事故に注意すれば、事故に遭う運命にあっても回避することができる。だから結果的に占いは外れるけど、当人にとってはいい」
先生はそう言うと、あたしにベッドに寝そべるよう促し、あたしの肩と腰に電気治療器を当てた。あたしは肌に吸い付くパッドの感触を感じながら、男のことが諦めきれずに
「その人は、いい人ですか」
と尋ねた。
先生は
「三ヶ月程度であなたが振るんだから、それだけの人です」
と答えた。
三ヶ月かとあたしは考えた。求と別れた直後に付き合い始めた男とも、その次に付き合った横川とも、あたしはせいぜい二ヶ月しかもたなかった。しかしこれから付き合うことになる男とは三ヶ月もつのなら、その男は、求以降に付き合った二人よりもむしろいい人なんじゃないかという気がした。
だとしたら例え別れる運命にあるとしても、付き合ってもいいんじゃないかと思った。少なくとも三ヶ月は、あたしを今の生活から救ってくれるのなら、是非付き合うべきじゃないだろうかと思った。先生の助言とは裏腹に、あたしはその男が現れるのを心待ちにした。
けれど十二月になっても、あたしの周辺にはそれらしき男が現れなかった。
「もうクリスマスまで一週間しか無いじゃん。その占い外れたよ。もしほんとに保美にクリスマスまでにカレシができたら、わたしおごってあげるよ」
と芽衣子は高らかに笑った。自分に好きな男がいたことを、写真から読み取られた件については、あんなにおびえていたくせに、芽衣子はもうすっかり期日までにあたしにカレシができるはずが無いと決めてかかっていた。
ところがあたしが
「でも二十二日に、取引先主催のクリスマスパーティーがあるんだよねー」
と言うと、芽衣子は切れ長の目を丸くして
「ええっ、保美にカレシできたらわたしクリスマス一人じゃん。そしたらおごってもらうよ」
と言い出した。
結局クリスマスまでにカレシができたら、おごってもらえるのかおごる羽目になるのかよく分からなかった。けれどそんなことはどちらでもいい気がした。あたしは占いでクリスマス頃までにカレシができると言われたから期待していただけであって、何が何でも、クリスマスを男と過ごしたいと思っていた訳ではなかった。
あたしはそれまで、女友達と過ごすクリスマスというものを、経験したことが無かった。人生一回くらいはそんなクリスマスもいいと考え始め、芽衣子とクリスマスイブに、河口湖の宝石の森へ行く約束をした。土曜日だったのか日曜日だったのかは忘れたが、その年のイブは休日だったからだ。芽衣子と知り合ってから四年目のイブだったけれど、それまではお互いカレシがいたために、芽衣子とイブを過ごすのはそれが初めてだった。
来年にはどちらかにカレシができている可能性は充分にあるのだから、もしかしたらこれが、芽衣子と過ごす最初で最後のイブかも知れないと思った。そう思うと、占いが外れてもよい気すらした。
あたしはすっかり、クリスマスまでにカレシをつくることを諦めると
「年末年始の休みに入ったらさあ、ナンパされに行かない?」
と提案した。湯泉さんとカノジョがナンパで知り合ったと聞いていたあたしは、一度ナンパがきっかけで付き合うという経験を、してみたいと考えていた。
「行きたいー」
「あとあたし、逆ナンやってみたい」
「あーそれは、若い内じゃないとできないもんね」
乗り気な芽衣子の返事に、あたしはすっかり気をよくした。もうカレシどころか逆ナンが成功しなくてもよい気すらした。逆ナンという行為を、若気の至りでやってみるという目標ができたことがあたしは嬉しかった。
しかし二十二日のクリスマスパーティーに行った途端、あたしは機嫌が悪くなった。何だかんだいって、あたしはそのパーティーに期待していたらしい。二月に行なわれる予定の、友達の披露宴用に購入した、ワンピースとフェイクファーのコートを身にまとって出かけて行ったパーティーは、参加者が家族連ればかりで、あたしは早々に見切りをつけると二十一時には帰宅した。
コートもワンピースも脱ぐ気にならず、あたしはしばらくぼんやりしていたが、やがて芽衣子に電話をかけ
「今から、ナンパされに行かない?」
と提案した。突然の予定繰り上げにてっきり断られるかと思っていたが、芽衣子は二つ返事で了解すると、車を出してあたしを迎えに来てくれた。
あたしたちは、街の中心の駐車場に車を駐車すると、居酒屋でカクテルを一杯ひっかけながら
「やっぱ、歩きだよね」
と確認した。
車で街を流すという方法があるとは聞いていたけれど、それはあたしたちの気に入らなかった。男の子がこちらの車にパッシングを送ってきたら、OKの場合は車を停車して、合流するというシステムらしいけれど、車同士ではお互い顔が分かりにくいので、うっかり見間違えてしまったら大変だからだ。
またパッシングは、車社会では、必ずしもナンパのサインだけに使われる訳ではない。勘違いをしてしまったら死ぬほど恥ずかしい。加えてパッシングでナンパをしてくる相手は、ナンパ慣れをしているようでどうもいけ好かなかった。一度ナンパがきっかけで付き合うという経験をしてみたいと思いつつも、あたしはできるだけ、真面目な相手と付き合いたかった。
それに車よりも歩きの方が、見つけてもらい易いという利点もあった。あたしたちはドアを開けて居酒屋の外に出た。師走の夜風があたしの全身を貫いた。
あたしは早速、気持ちが萎えてしまったが、自分から芽衣子を誘った手前、最早引っ込みがつかず、気持ちを奮い立たせようと
「ううー、寒い。でもこれもまた試練」
とつぶやいた。すると芽衣子がけらけらと笑った。
芽衣子はいつも、あたしの発言に驚くほどよくうける。あたしは芽衣子のそんなところが好きだ。こうして寒さに震えながら、収穫があるかどうかも分からない狩りに行けるのも芽衣子が一緒だからだ。
けれど声をかけてくる男たちを芽衣子は
「若すぎる」
だの
「あのファッションは絶対、学生だと思う」
だのと難癖をつけて、片っ端から断った。
あたしはこの際、かっこよければ若かろうが学生だろうが何でもよかったのだけど、芽衣子は少なくとも、自分と同い年以上の社会人でなければ相手にしたくないらしかった。あたしはすっかり疲れ果て
「何かもう、やんなっちゃったー」
とつぶやいた。
すると芽衣子が
「わたしもー。もうこうなったら誰とでもいいからただでカラオケしたーい」
と言い出した。あたしはすぐやる気が無くなるタイプだけれど芽衣子も負けていない。あたしたちは好奇心旺盛な割に根性が無いという点で、波長が合うのかも知れない。
だけどあたしは
「そうだよね。でもそれなら、最初に声かけてきた人たちと行けばよかったと思うのね。結構かっこよかったのに一回断った後でまた声かけてきて熱心だったし」
と苦言を呈した。芽衣子は高望みをしすぎるくせに、すぐ気合が無くなってしまうという欠点があるのだ。
「そっかー。やっぱ望まれて行くのが幸せかなあ」
「まあいいよ。もうしょうがないから二人でカラオケ行こうよ」
「そうするー?」
話がまとまったので、あたしたちは駐車場へと向かいながら
「それにしても、今日はナンパ多いよね」
「多分、保美のそのコートが威力を発してると思うのね」
と話し合った。あたしは芽衣子の、「威力を発してる」という表現が気に入った。
今年最後の悪あがきとばかりにやって来た深夜の繁華街で、北風になぶられながら、一向に成果が上がらない現状も、芽衣子と一緒なら苦にならなかった。多分それが若さというものなのだろう。もし現在のあたしが仮にフリーになったとしても、もうあんなことはできない。
それはさておき、いつもと比べてナンパが多いのは、確かにあたしが身に着けていたコートのおかげであるように思えた。芽衣子の着ていたベージュのPコートも、芽衣子を愛らしく見せていたけれど、あたしがその日着ていた黒いフワフワとしたコートは、その後も袖を通す度にナンパされる必勝コートとして、何年も活躍した。
とはいえ、いくらナンパの数が多くても、ついていきたいと思える相手に声をかけられなければ意味が無かった。あたしたちががっかりしながら歩いていると、傍らを通り過ぎた白いスカイラインが、Uターンしてあたしたちの横で停車した。「すいません」の声に目をやると、スーツ姿の若い二人組の男たちの姿が目に入った。
あたしたちが足を止めると、二人はスカイラインから降りて来て
「どっか、遊びに行かない?」
と言った。大抵の男たちは車中から声をかけてくるので、わざわざ車から降りて来た彼らにあたしは好感を持った。加えて彼らが割合かっこよかったことも気に入った。
一人は背がすらりと高く、ぱっちりとした目が印象的なおぼっちゃん風で、もう一人はホストをちょっと真面目にさせたような、鋭い眼光の持ち主だった。どちらもよかったけれど、強いていえばあたしはホスト風味の男が好みだった。カレの顔立ちがシャープだったからだ。
芽衣子と目で確認を取り合うと、芽衣子が顔を緩ませて
「カラオケ、行きたい」
と言った。先ほどまでは諦めていたのに思わぬ好条件な男たちが現れて、あたしは何だか地に足がついていないような、ふわふわとした気分になった。
「いいよ。ところで二人は歩き?」
とホスト風味の男が尋ねた。その声は心に染みとおるようなバリトンだった。あたしはその声にうっとりしながら
「ううん。車、すぐそこに停めてあるの」
と答えた。
「あ、じゃあついてくよ」
とぼっちゃん風の男が歩き出そうとしたので、芽衣子が
「え、でもホントすぐそこだから車でついて来て」
と制した。
けれどホスト風味の男が
「でもそこに行くまでに、他の野郎たちにさらわれちゃうと困るからついてくよ」
とぼっちゃん風の男に加勢した。随分、心配性だなあと思いながら、あたしは「大丈夫よー」と受け流したが、ぼっちゃん風の男が
「でも後ろで車が待機してるし。あいつらが駄目だったら次行くぞって思ってるから」
と言い足した。
結局そんな問答を交わしている内に、あたしたち四人は、徒歩で駐車場に着いてしまった。あたしと芽衣子は車に乗り込むと男たちが停めたスカイラインの所まで乗りつけ、ホスト風味の男が自分のカリーナを転がして来るのを待った。ホスト風味の男に促され、あたしはカリーナに乗り換えた。それが水石さんだった。
あたしは水石さんの方が好みだったので、水石さんの車に乗れたことが嬉しかった。だけど水石さんは車を発進させながら
「あっちの車に、乗りたかったんじゃない?」
と不安げに尋ねた。
「何で?」
「あいつ、白のGTRだし。カリーナなんて日本のファミリーカーだからさ」
「あたし車詳しくないから、そうゆうのどうでもいいの。軽トラじゃなきゃいいって感じ」
後年、会社の先輩に
「軽トラほど、足回りのいい車は無い」
と反論されたこともあるけれど、あたしはやっぱりナンパ相手の車が軽トラじゃ嫌だ。軽トラに乗せられたら、何だか荷物として運搬されているような気分になってしまう。
あたしのその発言にホッとしたのか、水石さんは
「飲みに行った帰りだった?」
と話題を転じてきた。後で知ったのだけど、水石さんはローンの残っているアウディーを潰したばかりで、車を買いなおす財力がなく無く、母親のカリーナを拝借している立場だったので、早く車の話題から離れたかったらしい。
「そう。二人で忘年会してたの」
「へえ、俺たちは会社の忘年会の帰りなんだけどね」
「あ、そうなんだー。二人は同じ会社?」
スーツは伊達じゃなかったんだなと考えながら、あたしは尋ねた。あたしだってどうせ関わるなら学生より社会人の方がいい。すると水石さんは
「そう。俺の方が一コ上なんだけどね。あいつの方が先輩なんだ」
と説明した。
「え、歳いくつですか」
「俺が二十三」
「あ、じゃあ一コ上だ」
あたしは前の前のカレシが九歳上だったから、九歳上までならOKだったけど、歳が近いならそれに越したことはなかったから、少し嬉しくなった。ジェネレーションギャップというものは、仲が上手くいっている時は楽しいものだけど、隙間風が吹き始めた時には距離感を深めるものだ。水石さんは何だか気取った顔つきで「二十二歳?」と尋ねた。
「ううん、早生まれだから二十一歳」
「そうか良かったー。いや声かけた時さあ、ちょっと待てよ。これぐらいの二十五歳っているよなーとか思って」
「えーひどーい。二十五に見えるんだ」
当時、世間では二十五歳はおばさんということになっていたから、あたしは少し気分を害した。あたしはそれまで年下に間違われることの方が多かったから。
あたしは冗談ぽく言ったのだけど、水石さんは
「いや、十八ぐらいかなとも思ったんだけど」
と付け加えた。二十一歳なのに十八歳と思われることも、それはそれであたしは納得いかず
「え、どっち?」
と問い詰めた。
「いや、それぐらい幅があって分かんないってこと」
「あ、でも『十八?』とか『二十三?』とか色々言われるの。あたし」
「うん、十八に見えるよ」
さっきは二十五歳かも知れないと思ったと言った唇が、平然と十八に見えると言い出し、あたしは咎められたような気分になった。世の中には、若く見られて嬉しがる人も多いけれど、あたしは年相応に見られたかった。あたしは年下と間違われるのと同じくらい、一人っ子や末っ子に間違われることが多かったから。
「一人っ子で、甘やかされてわがままに育ったって感じだよね」
などと決め付けられる度に、あたしは傷付いていた。あたしは本当は四人きょうだいの長子だったから。
加えて両親はとても厳しい人たちで、たとえば父親は「抱っこ」とせがむと
「抱っこが、どうしたの?」
と聞くような人だった。まだ幼稚園に上がる前だというのに父親は
「『抱っこして』と、ちゃんと言いなさい」
と真顔で言うような人だったのだ。
甘えたい気分の時にそんなことを言われたら、幼児といえど白ける。だからあたしは両親にあまり甘えなかった。父親はそんな感じだったし、母親は下の子たちの世話に追われて、あたしに関心を持ってくれなかったから。
それなのに一人っ子に見えるだの、末っ子でしょうだの、甘やかされてわがままに育ったって感じだのと見当違いなことばかり言われて、あたしは世間に傷付いていた。世の中には弟妹をこき使う人も多いが、あたしは弟妹の世話ばかりしていたからだ。
そんなことがふっと頭をかすめ、あたしは
「何でだろー。幼いってこと?」
と尋ねた。世間から見えるあたしと本当のあたしの間に生じるギャップの理由を、あたしは知りたかった。
「赤ちゃん顔だよね。煙草吸ってたら絶対注意されるよ」
「えーっ、赤ちゃん顔?」
「そう最初後ろから見た時は、随分きめてるからプロの人かなあと思ったんだけど」
「赤ちゃん顔」と言ったかと思えば、「プロの人」と言い出す水石さんに、あたしは翻弄された。あたしは一体どう見えるのか聞きたくてたまらなくなった。水石さんの目にあたしはどう映るのか、聞きたくてたまらなくなった。
でもあたしは、水石さんに対抗するボキャブラリーを持たなかった。あたしは実に平凡に
「えーっ、プロ?」
と問い返した後、身に着けていた黒いフェイクファーのコートに思い当たり
「そう今日、会社の取引先のパーティー行ってそのままの格好で来たから、ちょっときめてるのね」
と言い訳した。
芽衣子に
「保美のそのコートが威力を発してる」
と言わしめたそのモテコートを、身にまとっていることが、何だか恥ずかしいような気がした。
「ああそうなんだ。でも前から見たらプロじゃなさそうだったから声かけたんだけど」
「二人でよく、ナンパとかしに行くの?」
「いや声かけたのは今日が初めて。いつもはあいつ、貝瀬がうるさくってさ。『脚が太いから駄目だ』とか色々言うんだよ」
全く困ったもんだといった調子で語る水石さんを見て、ということは、この人の求める女の外見レベルは、そんなに高くないってことだなと安堵しながらあたしは
「え、じゃああたしたちはお眼鏡にかなったの?」
と尋ねた。
水石さんの方を気に入ってはいたけれど、これから四人で、カラオケをすることを考えれば、貝瀬さんにもとりあえず、外見的にはOKと思ってもらわなければ居心地が悪いからだ。
「当然。珍しく貝瀬がOK出すから速攻で声かけたんだけど、貝瀬がぐずぐずしてたんだよなー。後ろに二台と前の方にも待機してたから、焦って『降りろ』って言ったんだけど」
ホントに危ないところだったぜといった感じで話す、水石さんの説明を聞きながら、そうか三台も待機していたのかと、あたしは考えた。ならばこの人たちについて行かなければ、一体どんな人たちがナンパしてきたんだろうと思った。ナンパというものは、必ずしも相手について行って一緒に遊ぶことが目的じゃなくても楽しめる。
例えばあたしと芽衣子は、今日は知らない男について行く気分じゃないという夜でも、ナンパスポットを徘徊することがあった。目的は、一時間辺りにナンパしてきた男の数を数えたり、どの時間帯やスポットにナンパが多いか調べたり、時間帯やスポットによる男の傾向を分析することだ。
多分あたしは世間を研究したかったんだと思う。男と別れる度に
「見る目が無い」
とあたしを非難する世間が、あたしのことを、一人っ子だの末っ子だのと誤解する現実を踏まえ、見る目をつけたかったんだと思う。
芽衣子が付き合ってくれたのは、純粋な好奇心だろう。芽衣子とは好奇心旺盛な点で気が合った。あたしは芽衣子に誘われてストリップ劇場にまで行ったことがある。
駐車場に車を停めると支配人らしき人が出て来て
「えっ、見に来たの?」
と心底びっくりした顔で尋ねるので、「はい」と笑顔で答えると、なぜか無料で入れてくれた。今考えても、二十一歳の女を二人、無料にしたことが、劇場側にとって何のメリットがあったのかさっぱり分からないけれど。
観客は男ばかりで、あたしたちが席に着くと、皆ステージそっちのけであたしたちの方を振り返っていたのでうっとうしいことこの上無かった。せっかくステージ上で、踊り子さんが裸になっているのに、着衣しているあたしたちが、男たちの目を釘付けにしてしまい、大変申し訳ない気分だった。
ショーが終わると男たちがしつこくナンパしてきたことにも驚いた。後にも先にも、あれだけの短い時間に、あれほど多くの男たちにナンパされた経験は無い。だからあたしの経験上、最もナンパされ易いスポットはストリップ劇場だ。もちろん二度と足を運ぶことは無かったしナンパは全て断った。あたしも芽衣子もそこまで向こう見ずではない。
それを考えれば、街中でナンパしてきたスーツ姿の水石さんと貝瀬さんは、安全な男に思えた。だからあたしは、GTRに続いてカラオケボックスの駐車場に入って行くカリーナの中で、期待だけを感じていた。
車を降りて芽衣子たちと合流すると、二人は話が弾んでいて、それはカラオケボックスに入ってからも続いていた。それを見て水石さんは、芽衣子たちを「ヤングチーム」自分たちを「アダルトチーム」と呼んで、カップル分けをした。本当は芽衣子の方が生まれ月が早いから、あたしより芽衣子の方がアダルトなのだけど、そんなことはどうでもいいことだった。あたしは水石さんを気に入っていたから。
けれどあの夜、あたしがもし貝瀬さんの方の車に乗っていたら、どうなっていたのだろうとは思う。貝瀬さんは背が低い女が好みで水石さんは背が高い女が好みだから、車の割り振りがああなったと後で聞いた。けれどそれでももしあたしが、貝瀬さんの車に乗っていたら、もしかしたらあの後、何事も起きなかったのかも知れない。
でも現実的にあたしは水石さんの車に乗って、アダルトチームに入れられた。そして水石さんはあたしが歌っている時だけ耳を澄ませ、芽衣子や貝瀬さんが歌い始めると、ジュエリーの専門学校を出て、貴金属会社の営業をやっているという自己紹介をした。
偽名を使っていた元カレと同じ職業だったので、あたしが少し、不吉な気分に駆られていると、水石さんはあたしの暗い表情に気付いたのか
「二人は、どういう友達?」
と話題を転じた。
「短大時代の友達なの。学科は違うけど」
「どこ?」
あたしが短大名と学科を告げると、水石さんは
「ああ、えーと白石先生とか」
とつぶやいた。
あたしが通っていた国文科と宝飾関係では、何のつながりも無さそうなのに、どうして白石教授の名前を知っているんだろうと考えながら、あたしは
「うん、いたよー。ゼミ違うけど講義は受けてた」
と答えた。心理学の教授はたまにテレビや雑誌などにも出ていたから、そこそこ有名だとは思っていたけれど、水石さんが白石教授の名を知っていることが不思議だった。
「白石先生って、太宰治の研究とかやってんだよね」
「え、そうなの?近松門左衛門とかじゃなくて?」
「うん。それだけじゃなくて」
あたしの在籍していた国文科は、作者の時代ごとにゼミが分けられていたので、江戸中期の近松門左衛門の講義をしていた白石教授が、近代作家である太宰治の研究をしていたなんて、意外な気がした。
でも今考えてみれば、時代は違えど、心中ものを数多く書いた近松門左衛門と心中未遂を繰り返しそして最後は心中で亡くなった太宰には共通点がある。おそらく白石教授は、こんな言い方をしては物騒だけど、心中に何か心惹かれるものがあったのだろう。
けれどその時のあたしにとっては、白石教授の内面よりも、水石さんの内面の方が重要だった。白石教授は他の大学でも講義をしていて無名ではないことは知っていたが、しかし貴金属会社の営業マンにとって、畑違いである白石教授のことを、そこまで知っているなんてすごいとあたしは単純に感心した。
あたしが興味を示し始めたことを悟ったらしい水石さんは
「俺、実は太宰が好きで、以前、三鷹に住んでたんだけど、太宰が昔、下宿してた所の近くだったんだよね」
と嬉しげに話し始めた。
あたしは太宰の昔の住所まで知っている水石さんに驚き
「え、そうなの?」
と相槌を打った。
「うん。時々お墓参りに行ったりね」
「へえー。そこまで好きなんだー」
「うん。本はほとんど持ってるんじゃないかな」
あたしは今まで読書家と付き合ったことが無かったので、すっかり嬉しくなった。国文科に行ったくらいだからあたしも読書は好きだ。これは話が合いそうだと思いながら
「あたし太宰ってあんまり読んだことないんだけど、面白い?」
と尋ねた。あたしは読書好きで国文学科を修めたが、しかしその時点では太宰は『走れメロス』しか読んだことがなかった。
「うん。今度貸してあげるよ」
「え、ホント?」
その時あたしの心は、少しトーンダウンした。そもそも先ほど名前の出た白石教授の講義は、講義中に友達と雑談ばかりしていたのでちんぷんかんぷんだったのだ。しかもあたしは、あまりにも雑談が過ぎるので、白石教授に「出てって下さい」と怒られたことがある。
もちろんそれは、雑談をしていたあたしが悪い。しかし講義は学籍番号順に座ることが多かったので仕方なかったのだ。学籍番号が隣の子が、しょっちゅう話しかけてきたからだ。あたしは基本的に真面目なので、講義中に自分から私語を発することは無かった。だが人に話しかけられると、つい話し込んでしまう癖があった。
学籍番号が隣の子とは、他の講義でも席が隣になることが多かったから、あたしは白石教授の講義以外でも、雑談にふけっていた。だけど注意を受けたのは白石教授からだけだ。それはあたしが江戸時代の文学が苦手だったからだ。
他の講義の場合は、雑談をしていても、講師が大事なことを言った時に雰囲気で分かった。だから
「あ、今、重要っぽいこと言ったよ」
と相手の話をさえぎって、ノートをとっていた。けれど江戸時代の文学は、一体どの辺が重要なのかよく分からなかったため、つい雑談に熱中してしまったのだ。
そのためあたしは、試験前に白紙のノートの前で顔面蒼白になっていたのだけど
「試験の時に、とにかく近松門左衛門は素晴らしいって書いておけば、単位がもらえるらしい」
との噂を耳にした。他に方法が無かったので、答案用紙にとりあえず近松門左衛門を褒めちぎる文章を羅列したところ、試験は通ってしまった。
こんなことでいいのかとあたしは義憤に駆られた。真面目に講義に出ていた学生が、追試だの再試だのを受けているというのに、講義中に、私語で講義の邪魔をしていたあたしが、近松を褒めただけで試験に通ってしまうなんて、こんなことがあっていいのだろうかと。
結局、白石教授は近松を盲愛しているだけなんじゃないかと疑った。もっとも、あたしはあまり嘘をつかない代わりに、嘘が大変上手いので、あたしが純粋な白石教授を騙しただけだったのかも知れない。けれどあたしはひそかに、白石教授の近松盲愛説という仮説を立てていた。
だからそんな白石教授が研究している太宰に、胡散臭さを感じていた。仮に白石教授の純粋説が正しいとしても、だとしたら白石教授は、太宰に騙されている可能性があるからだ。
それにあたしが、『走れメロス』しか読んだことがなかったのは、『走れメロス』が嫌いだったからだ。あたしから見ればメロスは、勝手に友人のセリヌンティウスを人質にした挙句、セリヌンティウスを見殺しにしようとまで考えた極悪人だからだ。
それでも結局、思い直してセリヌンティウスの元に行ったのはいいとしても、彼を裏切ろうとしたことを、懺悔している点が気に入らない。それを聞かされたセリヌンティウスのショックはいかばかりかと思うと、胸が痛む。懺悔したメロスはすっきりして気持ちいいかも知れないが、メロスを信じて人質になった挙句、実はやっぱ行くのやめようかと思ったんだけどなどと聞かされたら、命が助かった喜びも半減する。
というかそもそもセリヌンティウスは、メロスのせいで殺されそうになったのだから、メロスが助けに来てくれたからといって、恩を感じる必要は無い。それどころか精神的苦痛に対する慰謝料を請求してもいいくらいだ。それなのに一発殴っただけで、無かったことにされるなんて納得がいかない。命かかってたんですけどと言いたくなる。
それにも関わらずセリヌンティウスまで、君が助けに来ないんじゃないかと、一回だけ思っちゃったから、自分のことも殴れとか言い出して訳が分からない。あんな単細胞の気分屋のことなんて疑って当然なんだから、謝る必要なんか全く無い。それなのにうっかりそんなことを口走ったのは、危うく殺されかけた上に、友人にまで見捨てられるところだったことを知って、気が動転していたのだろうか。
もしくはメロスの懺悔を聞いて腹が立ち、一発殴っただけじゃ気が済まず、俺だってお前を完全に信じていた訳じゃないんだぜと、言いたかったのかも知れない。それなのにメロスが、真に受けて殴りかかってきたので、セリヌンティウスはさぞかしびっくりしたに違いない。それともメロスは、セリヌンティウスが気を動転させていると思い正気に戻すために殴ったのだろうか。
だとしても殴るのはいささか乱暴に過ぎる気がする。何かもっとこう優しい方法で、なだめてやることはできなかったものか。そもそもそれはメロスが撒いた種なのだ。
それなのに世間では、『走れメロス』が友情ものとして語り継がれているので、あたしは甚だ納得いかない。『走れメロス』に比べたら、一度は男を取り合ったもののその後、男よりお互いを選んだあたしと芽衣子の方が、よっぽど友情に厚いと思う。
ただ『走れメロス』が友情物語にされているのは、世間が勝手にやっていることで、太宰自身には、そんなつもりは無かったかも知れないとも思う。だとしたら太宰を憎むのは筋違いというものなので、あたしは太宰を貸してもらう約束をしたのだ。他の太宰作品を読めば、もしかしたら太宰は、『走れメロス』の主題を、セリヌンティウスという男のとばっちり体験にしていたということが察せられるかも知れないからだ。
とはいえ世間のとんちんかんな評価によって、あたしが太宰に、少し不信感を抱いていたことも事実だ。それでもたった一作品で、太宰を毛嫌いしてはいけないという義務感から太宰を借りる約束をした。
すると水石さんは
「村上龍もお勧めしたいな」
と言い出した。あたしは落胆した。当時あたしは初めて村上龍を読んだばかりだったのだが、正直言ってつまらなかったのだ。
だからあたしは
「あたし村上龍って、この間初めて短編読んだんだけど、たまたま読んだのが悪かったのかも知れないけど、ちょっとイマイチだったんだけど……、面白い?」
と恐る恐る尋ねた。せっかく水石さんの趣味が読書だったのに、水石さんが口に出すものが全ていけ好かなくて、何だか台無しな気分だった。
「何、読んだの?」
「えっとね。今持ってるんだけどこれ。色んな作家のが載ってるんだけどね」
あたしがバックから読みかけの本を取り出すと、水石さんが手を伸ばして、それを受け取った。左手の中指に十八金を土台にしたシンプルなダイヤのリングがはめられていて、あたしは一瞬それに見蕩れた。ジュエリーを扱っている男らしい、リングの似合うしなやかな手と指だった。
水石さんは、ぱらぱらとページをめくると
「うーん、これはさ、他の気取った作家たちと一緒に出してる本だからちょっと内容的に違うと思うんだ。まあ今度お勧めを貸してあげるから」
とあたしの手に本を返した。
実際、水石さんに出会わなければ、太宰や村上龍をそれ以上読むことは無かったかも知れない。だからその点では水石さんと出会えてよかったのかも知れない。あたしはその後、村上龍の愛読者になったし ―とはいえ受けつけるものと、受けつけないものがあるのだけど― 太宰も作品によっては割と面白いと思う。
ただあたしは、水石さんと別れた後、水石さんの嫌っていた三島由紀夫のファンになってしまった。もちろん三島が太宰を嫌っていたからこそ、水石さんは三島を嫌っていたのだけど、あたしにとっては太宰より三島の方が面白いのだ。
とはいえ、自害する少し前に書かれた小説やエッセイは、すっかり視野が狭窄してしまっているのが感じられるので、もしそこから三島に入っていたら、好きにはならなかったと思うけれど、いずれにしろあたしが三島に出会えたのも水石さんのおかげだ。
水石さんと付き合っている間、水石さんがあまりにも三島を嫌うので、あたしも三島を読むことを遠慮していたのだけど、禁じられた書物だと思うと読みたくなるのが人情だ。だから水石さんと別れてしばらくしてから、あたしはふと、そうか自分はもう三島を読んでいいのかと思って三島を手に取り、そしてはまった。
三島の小説を原語で読めるなんて、日本人に生まれてよかったとまで思った。三島作品は海外でも評価されているけれど、外国人は日本語を勉強しない限り、翻訳された三島しか読めなくて気の毒だと思う。
けれど当時のあたしは、三島を読んだことが無かった。あたしは近代文芸のゼミに所属していたくせに、太宰は一冊しか読んでいないわ、三島は全く読んでいないわと不勉強も甚だしかった。それは太宰はともかく三島は、ゼミの教授にやんわりと止められていたからだけど。
別に読んではいけないということではないが
「三島は難しいので、卒論の題材に選ばない方がいい」
と言われていた。
あたしの通っていた短大は、短大には珍しく卒論があったのだ。あたしは本が好きだったけれど、卒論に向かないと言われる作家の作品を読んでいる暇は無かった。一年生の内に、卒論対象を決めなければいけなかったから、そんな作家に手を伸ばしている暇があったら、一人でも多くの作家の作品を読まなければいけなかった。太宰をたった一冊でやめた背景にはそんな経緯もあった。
短大卒業後は、もう卒論を意識する必要は無かったのだけど、教授に言われた「三島は難しい」の言葉に縛られていて、三島に手が出せなかった。
だからあたしは、まだ三島の魅力も三島が太宰を嫌っていたことも知らなかったので、太宰と村上龍を貸してくれるという水石さんの言葉に
「わあ、嬉しい」
と返事をした。
その頃あたしは、貧乏のくせに、公立の図書館を活用するという方法を知らなかったので、書籍を読むには購入費がかかっていたから、無料で本を貸してもらえることが嬉しかった。
「ところでゼミは、どこだったの」
「近代文芸。漱石とか芥川とかやってたの」
「卒論は?」
そう尋ねる水石さんにあたしは驚いた。本を貸してくれるということだから、あたしとまた会いたいという意思表示を、しているのだということは分かっていたけれど、まさか卒論のテーマまで聞かれるとは思わなかった。
この人は本当に本の虫なんだなあと思いながら、あたしは
「堀辰雄の、『菜穂子』論」
と答えた。主人公の菜穂子の、差し向かいの孤独より全くの孤独の方がマシという感性に共感して選んだ一冊だった。
「読んだことないな」
「今度、貸しますよ」
「ありがとう。できれば卒論の方も読ませて欲しいな」
その言葉に、あたしはびっくり仰天した。「菜穂子」はともかく、それについて論じたあたしの文章まで読ませてくれと言われるとは、思ってもみなかった。でもあたしは嬉しくてたまらなかった。卒論を完成させた時は求と付き合っていたので、あたしは求に卒論を読んでくれと頼み無理矢理貸したのだけど、結局読んでくれなかったからだ。
求は漫画は読むけれど、文章だけの本は読まない人だったから、仕方ないことだったのかも知れない。けれどあたしは不満だった。あたしのことを好きなら、あたしが心惹かれて約一年間携わった一冊の小説と、それに対するあたしの考察を、読みたいと思うはずなんじゃないかと思った。
あたしたちの二年先輩に、卒論に行き詰ってガス自殺を図った人がいる。それを聞いた時はどうしてそんなことでと思ったけれど、いざ卒論に取り組み始めると、先輩の気持ちが分かった。友達も
「その気持ち、分かる」
と頭を抱えていた。
結局その子もあたしも卒論で優を取ったので、今考えれば悩みすぎだった。だけどその時は必死だった。あたしは卒論が書きたかったからこそ、短大には珍しく卒論のある学校を選んだのだけど、それでも堀辰雄に関する膨大な文献を読んでいると、何が何だか分からなくなってきた。卒論落としたら卒業できないのにあたしはおしまいだ、もう死んでしまいたいと思った。
だから大げさかも知れないけれど、卒論とは約一年もの間、命をかけて執筆したようなものなのだ。そこまで真剣に取り組んだ卒論を貸したのに読んでくれなかった求は、遠距離恋愛だからと、あれだけ寂しがっていたくせに、会えない時間に卒論を読んでくれなかった求は、本当はあたしのことを好きじゃないんじゃないかと思った。
でもあたしと同じく遠恋中だった友達は
「別に、カレシに卒論なんて読ませたくない」
と言っていたから、もしかしたらあたしが変わっているのかも知れない。
あたしは小学生の頃から、提出した作文が教師から返される度に、周囲の児童に「読ませて」と頼んで片っ端から読んでいるような子だった。けれど他に誰も、そんなことをしている子はいなかったから、あたしが変わっているのかも知れない。でも今になっても、どうして皆が、他人の作文を読みたがらなかったのか不思議だけど。周囲の人が何を考えているか、知りたがらなかったことが不思議だけど。
だからあたしの内面がほとばしる卒論を、「読ませて」と言った水石さんに、あたしは胸が高鳴るのを覚え、照れ隠しに目にコンタクトの保存液をさした。いや本当はそんなことをするべきではなかった。というか、目が乾いたのなら、コンタクト用の目薬をさすべきだった。しかし貧乏だったあたしは、目薬を買う金惜しさに保存液を小さな容器に入れて持ち歩いていたのだ。
水石さんはそれを見ると、「コンタクト?」と質問してきた。
「そう」
「へえ、目が綺麗な人ってコンタクトの場合多いから、コンタクトかなって思ってたんだ」
今にして考えると、もしあたしが、目薬代わりに保存液を点眼していたことを水石さんが知っていたら、果たしてこのセリフが出てきただろうかと疑問に思う。いくらお金が無いからといって、目薬代わりに保存液をさすなんて突飛すぎるからだ。
あたしは当時、自分で茶髪にしていたのだけど、髪を脱色する金があるなら目薬を買うべきだったと思う。全く若い頃というのは突拍子も無いことをするものだ。
けれど水石さんは、あたしの大胆な節約術に気付かずそんなことを口走り、あたしはすっかりいい気分になった。目が綺麗だねと、ストレートに言われるのも悪い気はしないけれど、やっぱりコンタクトだったんだねという言葉の中に褒め言葉をまぶされると、褒められた上に、相手の話術にも感心できるので喜びが大きくなる。
あたしは嬉しいような恥ずかしいような複雑な気分になって
「近眼の人は瞳孔が開いてるから、目がうるうるしてて綺麗に見えるんだって」
と照れ隠しに説明を始めた。すると水石さんが
「ああ、あとクスリでラリッちゃってる奴とかね」
と突然話をずらした。
「えっ」
「瞳孔、開いてるんだよ」
ニヤリと笑ってそう答える水石さんの鋭い眼差しに、危ない光が宿ったけれど、不思議と嫌な感じがしなかった。こういうブラックユーモアは、ホスト風味の水石さんに似つかわしかったし、その話題が出る前に本の話が出ていたので、むしろ水石さんのことをバランスのいい人だと思った。
けれど今にして思えば、太宰自身はパピナール中毒だったし、村上龍の小説にも薬物はよく出てくる。
つまり先ほど水石さんが口にした太宰と村上龍と、その後の悪い冗談には、つながりがあったのだ。けれどど太宰と村上龍をよく知らなかったあたしは、先ほどの小説の話を、純粋にインテリジェンスな話題として捉えた。そしてその後出たクスリの話を、ちょっとお行儀の悪いジョークと分類した。結果的にあたしは、色んな引き出しを持っている人なんだなあと水石さんに好意を持った。
だから知識というものはとても大切だと思う。人を見る目を持つには、知識が重要だ。若かったあたしは、教養の無さから水石さんがアンタッチャブルな男であることに気付けなかった。
けれどそうはいっても、突然のクスリ発言にあたしは少し動揺していたから、水石さんは
「君って色素、薄いよね」
と話題を転じてきた。色白だと言われたことは何度もあるけれど、そんな表現をされたことのなかったあたしは何だか新鮮な気分で「そう?」と尋ねた。
「髪は天然?」
「ううん、脱色してる」
「でも顔はファンデーション塗ってるだろうけど、首とか手の肌は天然でしょ? 俺、色素薄い子に弱いんだよね」
参ったなという感じでつぶやく水石さんにあたしも参ってしまった。気に入った男に、綺麗だの可愛いだのと言われるのも、確かに嬉しい。けれどこうやってあたしの特徴を述べて、それに弱いなどと言われたら何だか弱みを握れたようで有頂天になる。また水石さんが、先ほどからあたしをいい気分にさせるものの、何一つ、言質を取られるような真似をしていないことも気に入った。
お眼鏡に当然かなったと言われても、それはあくまで貝瀬さんのお眼鏡だ。目が綺麗だと言われても、水石さんは目が綺麗な女が好きだとは言っていない。色素薄い子に弱いと言われても、世の中には他にも色素の薄い女は大勢いる。つまり水石さんはあたしをその気にさせておきながら、その気にさせた責任は取る必要が無かった。
水石さんのそうした慎重さをあたしは好ましく思った。作文の件に限らず、あたしは子供の頃から、周囲に「変わってる」と言われていたから、男が責任を取らなければならないほどはっきりと口説き始める前に、あたしのことをある程度、理解して欲しかった。
その後
「お時間、十分前です」
の連絡をフロントから受けて、四人でぞろぞろとカウンターへ向かうと、水石さんと貝瀬さんが
「俺たちが払うから」
とあたしと芽衣子が財布を出すのを押し留めた。
当初の目論見通り、ただでカラオケができた上に、相手がちゃんとした社会人で色男でしかも仲良くなれた。あたしと芽衣子が、浮かれて小声できゃっきゃとはしゃぎ合っていると水石さんが
「君たちって、ほんとに仲いいねえー」
と感心するように言った。
そのセリフに、あたしはますますご機嫌になった。実は芽衣子は会社の先輩に振られた後、一時期カレシができたのだけど、そのカレシを紹介された時カレシがあたしに冷たかったのでカレシを振ってしまったのだ。だからあたしたちと付き合う男は、あたしたちの友情を尊重して、最低限の礼儀をもって接してくれなければ困るのだった。そのためあたしたちの仲のよさを認識してくれた水石さんに、あたしは好感を抱いた。
けれどその時さしあたって大切なことは、各々のカップルの絆を深めることだった。芽衣子と貝瀬さんは
「お茶でも、飲んでく?」
と盛り上がっていたので、あたしもすんなり、水石さんのカリーナに乗り込むことができた。
運転をしながら水石さんは米倉利紀のCDをかけ、この歌手が好きだと言った。あたしが
「よく知らない」
と言うと『Emergency』の出だしを口ずさんでくれた。
ああその曲ならあたしも好きだと思い、好みの一致を嬉しく思った。加えて水石さんが別の曲がかかっている最中に、ちゃんとした音程とリズムで歌ったことも嬉しく思った。
あたしは三歳の頃から九年間、エレクトーン教室に通っていたおかげで、音感やリズム感がいい。だからカラオケが下手な人が苦手だった。水石さんのカラオケは上手かったのだけど、当時のあたしにとってそれは当たり前の条件で、特に何とも思わなかったのだが、流れている曲とは全く別のメロディーを、綺麗なバリトンで歌い上げるのを聞いて、これはいいぞと思った。
それにあたしは、カラオケボックス以外の場所でも歌を歌う人が好きだった。そういう人は本当に音楽が好きなんだなと思うから。水石さんはそれ以外にも、流れる曲に合いの手を入れたりして、心から音楽を楽しんでいることが分かった。
あたしがにこにこしながら、流れる音楽と、水石さんの唇によってもたらされる相乗効果を楽しんでいると、水石さんが
「実はさっきカラオケに向かう途中も、これかけてたんだけどね。でも君と大事な話してたから会話の邪魔にならないように切ったんだけど」
と何でもなさそうに言った。
大事な話? とあたしは思った。あたしの車の好みとか、あたしと芽衣子が二人で忘年会をしていたとか、水石さんと貝瀬さんが同じ会社だとかそれが大事な話? と思った。初対面の人間同士なら、どんな些細な情報のやり取りでも大事だということは分かるけれど、そんなに音楽が好きなあなたが、音楽を消してまで、あたしとの会話を重視してくれたなんてとあたしはありがたく思った。
けれど今思えばこれは水石さんの作戦だったと思う。普通に考えれば、せっかく苦労してナンパしたのなら、相手との会話を大事にするのは当然のことだ。そのためにBGMを消すくらいたいしたことではない。女と会話するより音楽が聴きたいなら、最初からナンパなどせず一人で聴いていればいいのだ。
それなのに若かったあたしは、そんな簡単な理屈に気付かず、この人はあたしのことを大事に考えてくれているんだと、ドキドキした。悪知恵の働く男と恋に落ちることほど容易いことは無いと思う。後になってあれはカレの策略だったのだなと気付いても、策略を練ってまであたしをモノにしようとしてくれたんだなと、そのやる気に感嘆してしまう。そんな男は自分に限らず、ありとあらゆる女に策を講じているというのに。
時間が時間だったから、あまり遠くに行くこともできないと思ったのか、水石さんは地元の有名な夜景スポットに、カリーナを停車させた。ここはかなり山道を走らなければいけないので車を使わなければ来ることができない。そしてそこに利点がある。
車の中にこもっていれば、寒い思いをすることも無い。他のカップルに出くわす心配も無い。またスポットがあちこちに点在しているため、車同士の距離もかなり離すことができて、車内がすぐさま個室になるのだ。
だからこそその便利さが、そこを有名な夜景スポットにしたのだが、そこが有名だからこそ水石さんは
「ここの夜景なんて、もう何回も見たことあるでしょう」
と申し訳無さそうに尋ねた。実際あたしは二人の男とすでに来たことがあった。
「うん。でもあたしコンタクト入れたの最近だから入れてから来るのは初めてなのね。裸眼で見るよりずっと綺麗で嬉しい」
「喜んでもらえて良かった」
ホッとしたように言う水石さんに、良心の呵責は覚えなかった。あたしは今でこそ裸眼で見る夜景の方が好きだけれど、当時はコンタクトを入れたばかりだったので、コンタクトを通して見る正常な風景の方が新鮮だったのだ。一年の内で最も美しい時期の星空と、眼下に広がる家々の灯を眺めながら、これが普通の人が見ていた夜景だったんだなと、あたしはぼんやり思った。
あたしを連れて夜景を見に来たくらいだから、前述の二人の男は、あたしに好意を持っていた。あたしだってついて行ったくらいだから、それぞれ二人の男に好意を持っていた。けれど二人で見ていた景色が全く違うものだったことが何だか切なかった。そして水石さんとは、同じ景色を愛でていられることが嬉しかった。
そんなことを考えながら散らばった光の数々に目を奪われていると、水石さんが
「俺って、綺麗なものが好きなんだよね」
とつぶやいた。運転席に座る水石さんの方をちらりと見ると、左耳にダイヤのピアスが光っていた。この人を最初に見た時にホスト風味だと思ったのは、このピアスのせいかも知れないと思った。当時はまだピアスをする男は少なかった。
けれど水石さんの職業を知った今、左耳のピアスも左手のリングも、当たり前の装飾に感じられて、あたしの心から警戒心は消えていた。
そんなあたしの心を見透かすかのように、水石さんは
「だから俺、宝石とかすごい好きでこの仕事に就いたんだ。クリスマス前とかさ男がジュエリーショップでうろうろしてるじゃん? あれってすごく可愛いと思うんだよね。値段の高い物じゃなくて、本当に綺麗な物を提供したいって思うんだよね」
と付け加えた。
その時あたしは複雑な気分になった。その言葉には、そろそろクリスマスだし俺と関わってれば、アクセサリーのプレゼントを期待できるかもよというメッセージが、込められていることは分かったけれど、ただし宝石の価値は値段じゃないんで、そこんとこよろしくと、釘を刺されたことも分かったからだ。
この分ではこっちは貴金属に関しては素人だから、安物を何だかんだ理屈つけて、つかまされる可能性がありはしまいかという危惧に駆られ、あたしは曖昧に微笑んだ。
すると水石さんは
「綺麗な物って感動するんだよ。芸術とかさ。だからゴッホの『ひまわり』を何十億で落札したとかいう話聞くと、頭にくるんだよ。何でそんな価値の決まった物に投資するんだよ。芸術っていうのは自分が見つけて育ててくもんだろ」
と話をいきなり大きくした。その途端あたしは、自分がとても小さなことにこだわっていたような気分になって恥ずかしくなった。
「そういえばそうだよね。そういう企業の人たちって、本当にゴッホの『ひまわり』が好きな訳じゃないよね。有名な物を持ってるって、それだけ財力があるって世間に誇示したいだけだよね」
「そうなんだよ。日本ってアートが育たないんだよ。例えば作家になりたいっていう青年がいたとするよね? でもそいつはメシを食うためにまず働かなきゃならない。だから小説を書く時間が無い。だけど外国は違うんだ。企業が芸術家をバックアップして育てていくんだよ」
「そうなんだー。いいねー」
無知だったあたしは当時、ルネサンス時代のメディチ家の存在すら知らなかったので、水石さんの披露した知識に単純に驚き、素晴らしいと思った。
あたしは子供の頃から絵画が好きで、実家にある画集などをよく眺めていたのだけど、それは子供向けだったので、画家たちが、色々なスポンサーに庇護されて絵画を作成していたということが記されていなかった。あたしはただ、ピカソが『ゲルニカ』を描いた経緯とか、『モナリザ』『が世界で一番美しい絵だと言われているといったような事柄しか、知らなかったのだ。
けれど芸術家は、最初から芸術家な訳ではない。働かなくても食べられる環境になければ、才能があっても創作をする時間を確保することが難しいだろう。
水石さんの言う外国のそのシステムにあたしが感嘆していると、水石さんは
「だから俺の夢は、金持ちになって芸術家のパトロンになることなんだ。この国では金が無きゃ才能が埋もれるからね。たとえばピアニストになりたいと思っても、ピアノの購入費とかピアノ教室の月謝とか音大の入学金とか、色々、出費があるからね」
と更にでっかいことを言い出した。
あたしはそれまで、金持ちになりたいと言う人には数え切れないほど会ってきたけど、金持ちになって、芸術家のパトロンになりたいと言う人は初めてだったので、すっかりカルチャーショックを受けた。
「何か嬉しい。お金をそういうことに使いたいって思ってくれる人がいて。あたしだったら単純に募金とかしか思いつかないけど、そういう使い道も必要なのよね」
「まあ金持ってない俺が、こんなこと思ってても仕方ないんだけどね。でも俺は今の仕事で成功して金稼ぐから。俺には才能あるから」
「うん。そうなって欲しい」
当時のあたしは自分に自信が無かったから、自分で「俺には才能ある」と言う人は、自分で言うくらいなんだから本当に才能があるんだろうと思った。人はつくづく、自分の物差しで他人を測るものだと思う。あたしはあの頃、世の中には根拠の無い自信に満ち溢れている人が、大勢いることを知らなかったのだ。
あたしはただひたすら、水石さんの知識と考え方に感銘を受け、そして芸術を愛する水石さんの感性に刺激された。十二歳でエレクトーンをやめたとはいえ、それは必須だった部活との両立が大変になったからやめただけで、部活も結局、吹奏楽部だったから、あたしは芸術に触れ続けていたのだ。
けれどその内、自分の一番好きな芸術が文学であることに気付き、学生時代は学校の図書館をひたすら利用した。卒業後も生活を切り詰めて本を買い、同じ本を何十回も読み返してきた。
それでも今までは、こんなあたしの特徴を、意に介さない男とばかり付き合ってきた。けれどこうして水石さんと出会った。水石さんとなら今までとは違うしっかりとした手応えのある会話ができると思った。水石さんとなら心のひだまで垣間見せるような、言葉のやり取りができると思った。
するとあたしのその思いを察したのか、水石さんは突然
「俺、前、ドラッグやってたんだ」
とカミングアウトしてきた。あたしは「えっ」とつぶやいて次の言葉を待った。
「クスリのことだって色々調べたんだ。何をどれぐらい使えばトリップするかとか、みんな知ってるんだよ。それで体壊して血ィ吐いて、知り合いの口の固い医者に頼んで治してもらって、それで懲りてもうやってないけどね」
「どうして、そんなことしたの」
「夜眠れなくってさ。起きてると色んなこと考えちゃうだろ。それが辛くてさ。だから本もいっぱい読んだよ。太宰もさクスリやってたんだよ。アップ系とダウン系とあってさ。性格なのかな。太宰はダウン系だったんだ」
アップとかダウンとかいう分類なんてどうでもよかった。体を壊して、それに懲りてもうやってないということだったからひとまず安心したけれど、でもその後
「どうしたら眠れるようになるのか、教えて欲しいよ」
と心の底からふりしぼるように水石さんがもらした言葉を聞いて、ああこの人は、あたしと同類だと思った。
あたしも精神科に行く度に、眠剤を強めてもらっているにも関わらず、眠れない夜を過ごしている最中だったから、眠れない水石さんの辛さがよく分かった。
一見明るそうな人が、心に悩みを抱えているケースも知っていた。あたしは精神科に通院する前から、そして通院するようになってからも周囲に
「悩みとか、全然無さそうだよね」
などと言われていたから。
初対面のあたしに、水石さんが突然こんなことを告白したのは、無理解な世間に疲れ果てていた中で、あたしから何か共通点を嗅ぎ取ったからだろうと思った。だから自分の弱点を明らかにしたんだろうと考えながら、あたしは
「もうそんなこと、しない方がいいですよ」
と静かに言った。水石さんは即座に眉間にしわを寄せた。
「どうして君はそんなこと言うの? 世間的に悪いことだから? それとも法律で禁止されてるから?」
「あたしも精神安定剤と睡眠剤処方されてるから、気持ち分かりますよ。ドラッグとは違うけど、でもドラッグとか使うのって気持ちが辛いからだと思うの。けどドラッグ使って体壊したり心がボロボロになっちゃったら、楽になりたいはずなのに、かえって自分を追い詰めることになると思うから」
「……うん。体壊れたよ。ボロボロ。だからもうやんない」
水石さんがそう言った時、あたしは精神科に通っていてよかったと初めて思った。最初に精神科に足を踏み入れた時は、自分はとうとう、ここまで堕ちてしまったかと思ったというのに。あたしは待合室に置かれた水槽の中でのん気に泳ぐ魚まで憎んだ。お前たちは精神を病んでいるんだから、ほらこうしてリラックスできる環境をつくってやったぜと、病院側に、上から見下ろされているような気分だった。
通い始めても、医者と信頼関係を築けなかった。
「何も、楽しいと思えないんです」
と訴えるあたしに
「何も、楽しいと思えないんですかー」
とオウム返しに答えるだけのその医者は、何を言っても響かない人に思えた。
一度、評判の精神科医と電話で話をした時は、この先生に診てもらいたいと思った。けれど遠くて行くことができなかった。だからあたしは仕方なく同じ精神科に通い続けたけれど、通えば通うほど医者への不信感は増した。処方される薬は強くなったのに効果は一向に表れなかった。一体何のために受診しているのか分からなかった。けれど通院をやめて症状がもっと酷くなることが怖かった。
それなのにその時、あたしは水石さんと話すことが楽しかった。心から人との会話が楽しいと思えたのは久し振りだった。
その貴重な存在である水石さんの、ドラッグ体験という過ちも、自分が精神科を受診していることによって、その過ちを繰り返さぬよう忠告できる権利を持てたことや、水石さんが素直に応じたことに感謝しながらあたしは
「何か、人とこういう話ができるなんて思わなかった。こういう話ができる人との出会いもあるんだってすごく嬉しい」
と笑った。
自分が精神科を受診していたからこそ、あたしはそれまで持っていた、ジャンキー及び元ジャンキーへの警戒心を失っていた。
「俺だって女の子とこんな話できたの初めてだよ。普通こんな話したら、この人何言ってるの? って顔されるもん。俺と同じ考え方する奴って、そりゃどこかにいるかもとは思ってたけど、こんな身近にいるなんて。俺、自分って変なのかなと思ってたけどそうじゃないんだって分かって嬉しいよ」
「そうなんだ」
「俺たちって、気が合うのかも知れないな」
こんな話したら、この人何言ってるの? って顔されるってことは、女の子とこんな話できたのは初めてじゃないってことじゃんと思ったけれど、あたしはもうその時、水石さんに惚れていたから考えないことにした。つくづく男と女というものは、男が女を騙す訳ではなくまた女が男を騙す訳でもない。男も女も自分で望んで騙されるのだなと思う。
あたしは占いで、クリスマスまでに、割合かっこいいカレシができると言われていたから、クリスマス前に現れた、割合かっこよくて年回りもよくて社会人で会話の滑らかな水石さんと付き合いたかった。そのためには、水石さんがちょっとくらい矛盾したことを口にしようが、どうでもよかった。
でもこうなってしまったら、もう水石さんとの会話は探り合いにならなかった。
だから水石さんが
「不倫とかって嫌だよな。責任が無いんだから。女が夜中に『会いに来て』って言った時に行けないんだから。だったらやめろって」
と言った後、話の流れがいつしか太宰に戻り、水石さんが
「太宰の愛人が」
と言いかけた時に、あたしは
「ちょっと待って。太宰って愛人いたの? さっき不倫は駄目って言っときながら太宰ならいいの?」
と聞きとがめたものの
「いや太宰の著書を読むと、経緯なんかが詳しく書いてあって、それを読むとそうなってしまうのも仕方ないって思えるんだけど。まあとにかく読んでみないと分かんないよ」
という水石さんの言葉に、「そんなもの?」と言いくるめられてしまった。
水石さんは何て嘘つきな男だったんだろうと思う。そしてそんな嘘つきに、ころっと参ってしまうなんて、あの頃のあたしは何て寂しかったんだろう。
あたしがちょっと不審を覚えると、さすがに営業を生業としている水石さんは、即座にそれを感じ取って
「前のカノジョと別れた後、ナンパとかでインスタントな女の子と知り合ったけど、やっぱ違うんだよね。こういう風な話とかできないんだよね」
などと、耳に心地好い言葉を流し込んだ。あたしは自分に都合のいい言葉だけを胸に留めた。
あの頃あたしは知らなかったのだ。人間は信憑性の高いものを信じるのではなく、自分が信じたいことを信じるものなのだということを。
自分にとって都合のいいセリフだけを心に記しながらあたしは、頃合かなと思って
「そろそろ、送って頂けますか」
と切り出した。水石さんは「そうだね」と言った後、真剣な眼差しであたしの瞳を見詰めた。キスの気配を感じたけれどあたしは唇を許すつもりは無かった。もう水石さんに恋をしていたから、軽い女だと思われたくなかった。
あたしは水石さんの思惑に気付かない振りをした。経験上、きょとんとしている女に男はなかなか手を出せないものだと知っていたから、あたしはどうかした? と言いたげな表情で水石さんを見詰め返した。水石さんの眼差しにためらいが宿った。あたしは表情を変えなかった。とぼけた顔をしながらあたしは負けるものかと緊迫していた。
水石さんがハンドルに顔を埋め
「俺も、根性無くなったな」
とつぶやいた時、あたしはそれが演技だと分かっていたけれど、あたしも演技の最中だったので、同じ役者として水石さんの演技を認めつつ「えっ?」と一応尋ね、にっこりと笑った。
水石さんがカリーナを発進させたので、あたしはホッとして他愛ない話題を振った。気まずくなりたくない水石さんは、やすやすと話に乗った。
しめしめ思い通りだと、あたしが内心ほくそ笑んでいると、坂を下っていたカリーナの左手に突然、市内の灯の数々が広がった。水石さんは
「じゃあここで最後に、もう一度ゆっくり見て」
とカリーナを停車させた。
あたしは体を捻って車窓から見える風景を眺め、感激した。考えてみれば純粋に夜景だけを見に来たのはこれが初めての経験だと思い当たった。いつも男の目的は別にあって、おちおち夜景なんか見ていられなかったけど、水石さんは本当に、美しいものが好きなんだなと思った。
「綺麗」とつぶやきながらあたしは、貴金属をプレゼントされた時以外で、男の人の前で、素直にきらびやかなものに感動することを許されたのは、多分これが初めてだと思った。綺麗なものを愛する水石さんの前では、あたしは安心して、この宝石箱をひっくり返したような眼前の光景に、酔っていていいのだと思った。
その時、不意に水石さんの手が伸び後ろから抱きしめられた。あたしはしまったと思ったけれど、その心地好い感触に流されそうになった。視覚が漆黒に散らばる麗しいきらめきの愉楽を覚え、触覚があたしの体を包み込む水石さんの体に、安らぎと高揚を感じていた。けれどあたしは何とか理性を打ち勝たせ、交差された水石さんの手を解こうと肩に力を入れた。
しかし水石さんが
「ん、大丈夫、大丈夫」
とあやすような言い方をした途端、あたしの力は抜けてしまった。一体何が大丈夫なのかよく分からなかったけれど、そう言われてしまうとなぜか大丈夫なような気がした。
こんなのフェイントだ、悔しいとも思った。だけど抱きしめる時の水石さんの手の動きが実にスムーズで、腕の位置も力の込め方も丁度よかったので、決してそれ以上許す気は無かったのに水石さんに体を任せてしまえた。水石さんの抱きしめ方は、あまりにも自然でいやらしさが無かった。ただ純粋にあたしを可愛く思って、優しく包んでくれたのだという安心感が持てた。
もっとも水石さんは、そんなこと一言も言わなかったのだけど、女に勝手にそう思わせて警戒心を解かせることができるほど、水石さんは女を抱き慣れていたのだと思う。女たらしほど女を、壊れ物のように扱うものだから。
水石さんが再びハンドルを握った時、一方通行ではない恋が確かに始まったことを、あたしは感じていた。その思いに応えるかのように水石さんが
「今度、どっか遊びに行こうね」
と言った。水石さんの絡めた腕をあたしがふりほどかなかったことで、明らかに水石さんは勝利を確信していたが、あたしは悪い気はしなかった。
「うん。ぜひ」
「俺、寂しがり屋だから、さっきみたいにまた抱きしめたくなっちゃうかも知れないけど心配しないで。それ以上のことはしないから。嫌がる女に無理強いはしないから」
上手いなあと思いながら、あたしは無言で笑った。何も言わなければあたしが警戒してしまうし、下手に何か言えば手出しができなくなってしまう。けれど抱きしめるくらいならするけどねと、よくまあこんなスマートに伝えられるものだと思った。
また抱きしめられてしまったら、次はもっと抵抗できなくなって、唇を許してしまいそうだから、本当はまた抱きしめられるかも知れないという可能性に躊躇した。だけどまさか、それをそのまま口にしてしまったら、誘っていることになってしまうので、あたしは口を閉ざしていた。もちろん水石さんもそれを見越した上で、次もまた抱きしめるかも知れないと宣言したのだろう。けれど当時のあたしは、そこまで頭が回らなかった。
信号待ちに差し掛かった時、水石さんは
「顔、結構ちっちゃいよね」
とあたしの顔を覗き込んだ。
別に顔が大きいと言われたことも無かったけれど、ちっちゃいと言われたのは初めてだったので、あたしは
「そうかな。お肉沢山ついててぷよぷよしてるんだけど」
と答えた。すると水石さんはあたしの頬にすっと手を伸ばして
「ほんとだ。柔らかいね」
と言った。
あたしは男の人に頬を触られたり、頭を撫でられると、何だか甘やかされているみたいで気分がいいので幸福を感じた。
水石さんはその後もちょくちょく
「非常に申し訳ないんだけど、つい触っちゃうんだよね」
と言ってあたしの頬に触れたけれど、それは甘美な記憶になって、あたしの心の引き出しにしまわれている。嘘ばかりついていた水石さんだけど、あたしの頬の感触を気に入っていたことは、おそらく事実だろうと思うから。
カリーナをマンション前に停車させると、水石さんは
「えーと、ここで帰しちゃったらもう会えないな」
と言って、名刺に連絡先を書き込んで渡してきた。古典的だけどこういう方法で電話番号を教わったことのなかったあたしは、新鮮なときめきを感じた。
カリーナが走り去るのを見送り、部屋に戻った時、あたしは口角が持ち上がるのを止められなかった。数時間前までは、クリスマスまでにカレシをつくるなんて絶望的だと思っていたのに、ぎりぎりになってこんな出会いが飛び込んできたことが、嬉しくてたまらなかった。
イブは明後日だったから、それまでに水石さんと付き合う約束をするのは、無理だろうとは思ったけれど、この際そんなことはどうでもよかった。例えクリスマス以降でも水石さんと付き合えるかも知れない可能性に、あたしは希望の光を見た。
その時、電話のベルが鳴り出し、こんな遅くにかけてくるなんて誰だろうと訝りながらあたしは電話に出た。「水石ですけど」という声がした。
「えっ、やだ。びっくりした」
「びっくりした?」
「だって電話番号教えた日にかかってくるなんて、初めてで」
実は以前にも、一度同じような経験はあったのだけど、教えてからかかってくるまでの時間はこちらが最速だったので、あたしは非常に驚いた訳なのだが、それを正直に詳しく説明するのが面倒だったので、あたしはそういう言い方をした。
水石さんは意に介さない様子で
「うん。ちょっとかけてみようかと思って」
と言った。今にして思えば、水石さんは自身の嘘つきさゆえに非常に疑り深い性格だったので、電話番号が本物かどうかすぐさま確認したんだろう。でもあたしは単純にスピーディーな連絡を喜んだ。
「もう、うち着いたの?」
「うん。近いからね。それより、二十四日に、芽衣子ちゃんだっけ、彼女と遊ぶんだよね?」
「そう。河口湖に行くのー」
もう自宅に着いたなんて早いなあと思いながら、あたしは答えた。住まいは隣町だと聞いていたけれど、車を飛ばせば本当に近い距離なんだなあと思った。
そしてカラオケボックスで、あたしが遠恋の経験があると言った時に、水石さんに「大変でしょ」と言われ、「こりごり」と答えると
「やっぱ隣町くらいが、ベストだよね」
と言われたことを思い出した。
確かに遠恋と比べたら、隣町に住む男との交際は、比べようがないほど望ましいなあと考えていると、水石さんが
「俺、夕方、出張から帰って来るんだけど一緒に行ってもいいかな」
と言い出した。イブが出張だということは聞いてあったので、イブには会えないものと思い込んでいたあたしは、その申し出に驚いた。
「あーあたしたち、午前中から出かけちゃうのねー」
「じゃあ戻ったらベル打つよ。貝瀬も呼ぶから遊びに行こう」
「分かった。芽衣子に言っとくね」
電話を切るとあたしは、楽しいイブになりそうだとわくわくした。女友達と二人で過ごすイブというものを経験したことが無かったので、芽衣子と二人のイブも、楽しみにはしていた。だけど恋人未満の男を交えて複数で遊ぶイブも初めてだったし、その方が気分が盛り上がるのは当然だ。
それにいくら好きになった相手とはいえ、出会ったばかりの男と、突然イブにデートをしてしまったら、何だか自分たちが、イブのための即席カップルになってしまったようだ。それくらいなら、四人で会うのが理想的な流れに思えた。
あたしはその夜、久し振りに眠剤を使わずに眠りに落ちた。つくづくあの頃のあたしにとって恋愛は、精神安定剤の役割を果たしていたのだと思う。
そしてイブの日、芽衣子と河口湖の宝石の森を訪れた。宝石庭園やら彫刻の大噴水やらと見応えがあって面白かったけれど、ジュエリーショップが入っているせいか、カップルばかりで何だかあてられてしまった。その後、水石さんたちと会う約束になっていたからよかったけれど、もしそうでなければ行ったことを後悔したかも知れない。
それにしても、水石さんたちと出会う前からここに来る予定だったということは、今は宝石に縁のある時期なんだろうかと思った。一昨日の晩、駐車場へ向かったのがほんの一分でもずれていたら、水石さんたちと出会うことは無かったかも知れないのだ。
宵になってから水石さんたちと合流して、あたしたちはバーへ向かった。あたしたち四人はバーで飲みしゃべり盛り上がり、四人で初詣でに行く約束をした。水石さんは少し酔っていたようだったけれど、とてもご機嫌だったのであたしはそれを好ましく思った。水石さんからのクリスマスプレゼントは特に無かったけれど、あたしも別に、期待していなかった。
それより賑やかなイブを過ごせたことに満足だった。接骨院の先生は、もしかしたらこの光景を見て、あたしがイブまでにカレシができると解釈したのかなと思った。ということは水石さんのことを、やっぱりあたしは、三ヵ月後に振ることになるんだろうかと考えた。
バーからの帰り道、水石さんはハンドルを握りながら
「実は俺、酒飲めなくて店員に頼んでウーロン茶にしてもらってたんだよね」
と言った。酒に強そうな外見なのに意外だなあと思ったけれど、そんなことよりもあたしは、いずれ水石さんと別れなければいけないことが気がかりになり始めた。
先生の占いを聞いた時は、つなぎのカレシでいいから欲しいと思ったけれど、こうして水石さんと過ごしていると別れることが辛かった。占いが外れて欲しいと思った。
先生の占いを聞いたからこそ、あたしは二十二日のパーティーに期待した。期待したからこそ期待外れが辛く芽衣子を誘って街に繰り出した。だから先生の言った、占いを聞いた時点で占いは外れるの法則通り、水石さんとの出会いは実は予定には無かったことで、だから別れるという運命も、発生しないということにならないだろうかと思った。
水石さんがイブの晩、実はシラフだったらしいと告げると芽衣子は
「飲んでないのにあんなに盛り上げてくれて、いい人だよね」
言っていたし、水石さんはいい人なんじゃないだろうかと思った。
けれど接骨院に出かけて行って再び霊視をしてもらうと、先生は
「その水石さんという人が、武藤さんが付き合う運命だった人です。三ヵ月後に武藤さんが振るという運命も変わりません」
ときっぱりと言い切った。
あたしが愕然としていると、先生は更に
「あと突然なんだけど、ここ今年いっぱいで閉めることになったんですよ」
と言い出した。何でも社長が、ここのテナントを健康機材の販売店に変えることを決めてしまい、先生は社長の秘書として東京で働くことになったらしい。
水石さんを失うかも知れないというのに、先生とまでお別れになってしまうなんて、あたしは絶望的な気分になって、初めて男の人に自分から連絡先を尋ねた。けれど先生は教えてくれなかった。先生の占いによると、このまま関わり続けていても、数年後にあたしが先生を煩わしく思って関係を断とうとするので、そうされるのが辛いというのが理由だった。
水石さんといい先生といい、あたしが今必要としている人を、あたしが自分から切るという予言は全く信じられなかった。だけど先生が今まで言ったことは、全て的中していたので、あたしは無理強いができなかった。結局あたしは先生を失う寂しさを水石さんにぶつけることにした。水石さんは毎晩電話をくれていたので、それはあたしの大好きな日課になった。
ある夜、水石さんは電話越しに
「俺は、病気にかかっちゃったみたいなんだ」
と悩ましい声を出した。水石さんは声にも色気があったのであたしは脳がじんとした。
「何の病気?」
「君にしか治せない病気。俺は患者。君はお医者さん。分かる?」
意味は分かっていたけれど、あたしは「分からない」ととぼけた。水石さんにはすっかり首ったけだったのだけど、あたしは見る目が無いと周囲に評されていたので、できるだけ付き合うまでに、時間を稼がなければと思っていた。けれどそこで時間をかけることには何の意味も無かった。
あたしは本当は、付き合うまでの時間で水石さんの人間性を探り、付き合うに値しない相手だと分かったら手をひくべきだった。それなのにあたしは、遅かれ早かれ水石さんと付き合うつもりでいた。そのつもりで関わっている以上、付き合うまでの時間を引き延ばしたところで何の意味も無かった。若かったあたしはそんなことすら気付かなかった。
年が明け四人で初詣に行った帰りに、芽衣子が
「近所のスケート場が、今度潰れるらしいのね」
と言い出した。当時は今ほどスケート人気が無かったので、閉鎖されることになったらしかった。
「潰れる前に、行っときたいね」
とあたしが言うと芽衣子がすかさず同意し、それを聞いた男共が
「四人で、行こう」
と言い出した。あたしはそれまでダブルデートの経験が無かったので、こういうのもいいなあと思った。
水石さんのカリーナで送られる帰り道に
「あたしの地元ってすっごく寒かったから、小学校の校庭に水張っとくと、天然のスケートリンクになったのね」
とあたしは話題を振った。この話をすると大概の人は興味津々になるからだ。けれど水石さんは「ふうん」と微笑んだ後
「君って、ほんとに可愛いよね」
と話題を変えた。その時あたしは、自分が提供した話題に水石さんが反応してくれなかったことなどどうでもよくなってしまって、「そう?」とつぶやいた。
「今まで女の子に、お兄さんみたいに思われるのはごめんだったけど、君だったらお兄さんでもいいや。我慢しようって気になる」
それを聞いた時あたしは、お兄さんもいいなあと思った。あたしは四人きょうだいの長子だからお兄さんやお姉さんが欲しかった。でもやっぱり水石さんが好きだから、水石さんにはカレシになって欲しかった。けれど水石さんが、こういうスタンスでいてくれるなら、水石さんと付き合うことになっても、水石さんはお兄さんの役割も果たしてくれそうな気がした。
ところが四人で行ったスケート場で、水石さんはまるで、くたびれたお父さんのようだった。
「俺は、滑りたくないから」
と言って観客席に座ったままだったのだ。仕方なくあたしたちは、三人で滑ったのだけど、水石さんをほったらかしにしておく訳にもいかず、あたしはリンクと観客席を往復して忙しい思いをした。
滑らない理由を聞いても教えてくれなかったので、スケートなんか、かっこ悪いと思っているのかなあと思ったのだけど、今にして思うと水石さんは滑れなかったんだろう。水石さんはプライドが高い上に小心者だったから、「滑れない」の一言も、言えなかったんだろう。それなら一緒に来なければいいのに、ついて来てそして機嫌を損ねているようなわがままな男だった。
何だかよく分からないけど、機嫌が悪そうだということが察せられたので、帰りの車内であたしは少し憂鬱だった。もう夕飯も食べ終えたというのに、水石さんはあたしをまっすぐ送り届けず、カリーナは公園の駐車場に停車した。
ギアをパーキングに入れると、水石さんは突然
「俺は昔、画集で見たイノセントな少女が忘れられないんだよね。画家の名前も絵のタイトルも忘れちゃったんだけど、いつかまたあの少女に会いたいって、ずっと思い続けてるんだ」
と言い出した。あたしは随分ロマンティックな人だなとびっくりしながら、黙って聞いていた。
「実は君には、その少女の面影があるんだよね。だから俺は君をずっと見ていたい。君さえ迷惑じゃなければ」
こんな口説き文句もあるのかとあたしは感心した。多分こんな口説き文句を耳にすることは、もう一生無いだろうと思った。そう思ったら、これはもう授業料として付き合わない訳にはいかないだろうという気になった。
だからあたしは
「嬉しいけどでも、そんな言葉じゃ嫌」
とすねてみせた。水石さんはちょっと考え込むと
「君は、僕のお姫様だよ」
と言った。
あたしはその言葉にも感激したけれど、もっとはっきり言って欲しくて
「もっと、直接的に言って」
とねだった。水石さんはようやく「付き合って」と申し込み、あたしはこくんとうなずいた。
水石さんは
「やれやれ、注文の多いお姫様だ」
と言いながら、あたしの顔を引き寄せキスをした。
ついさっきまで、理由の分からない憂鬱の虫に取り付かれていた恋しい男が、いつの間にか、あたしの望む言葉を汲み取ろうと骨を折ってくれた。そしてようやく発せられた言葉で、あたしをつかまえてくれた。頭の芯がとろけそうになりながら、あたしは全身を水石さんに任せた。思っていた通り水石さんは口づけ以上は求めてこなかった。
その後、幸福な一週間が流れた。水石さんからの電話は毎晩続き、あたしたちはその間、忍野八海と山中湖美術館でデートをした。
山中湖美術館でブラックの絵に出会えたことも、水石さんにもたらされた、プレゼントかも知れない。あたしはそれまで抽象画というものがさっぱり分からなかったのだけど、ブラックの絵とタイトルには、脳みそをのっとられたような衝撃があった。そして絵の解釈を巡って水石さんと語り合うのも感性が刺激された。
帰りの車内で、水石さんは
「俺さ、結構、手早いから心の準備しといてね」
と何気ない様子で言った。ついこの間までは、抱きしめるだけでいいはずだったのにと思ったけれど、付き合うことになった以上は当たり前かと思い直し
「『手早い』って、どれくらい?」
と尋ねた。こんなにも奥深く鋭い感性の男に抱かれるのだと考えると、何だかぞくぞくした。
「基本的には、本気の子には一ヶ月は我慢するポリシーなんだけど、君は魅力的だから約束はできないなあ」
「本気じゃない相手とも、したことあるの?」
「本気じゃない相手と、したことの方が多いよ」
何でもないことのように言い放つ水石さんに、あたしは仰天した。あたしも付き合ってもいない求や湯泉さんと寝たけれど、彼らに好意は持っていた。それなのに本気じゃない相手としたことの方が多いなんて、一体どういうことだろうと思った。男の人は、好きでもない相手とも寝ることができることは知っていた。けれど好きでもない相手と寝たことの方が多いなんて理解できなかった。
あたしはもっと早く聞いておくべきだったかなと考えながら
「水石さんて、体験人数どれくらいなの」
と尋ねた。まだ体の関係の無い男にこんなことを聞くのはちょっと照れ臭かった。
「百人超えた時点で、数えるのやめちゃったからなあ。多分、百五十人ぐらいだと思うけど」
「百五十人?」
「俺、こんな真面目なナンパしたの初めてなんだよ。いつもだったら車に乗り込んだ瞬間キスしてたし、そういう女には偽名使ってたし」
水石さんの唇から次々とあたしの理解を超える発言が飛び出し、あたしは絶句した。あたしはそれまでに、百人切りの人に会ったことはあったけれど、百五十人切りの人に会ったのは初めてだった。
あたしが動揺しているとカリーナがマンション前に到着した。水石さんは「じゃあね」と笑顔で帰って行った。
部屋に戻ったあたしは、コートも脱がずにカーペットの上にぺたりと腰を下ろすと、こんがらかった頭の中を整理した。まず体験人数が百五十人というのが、理解できないと思った。もし百人だったなら、百人切りという目標に向かって尽力した結果だという結論にしてもよかった。けれど百五十人ぐらいという中途半端にして膨大な数は、一体何なのか分からなかった。
それに普段の水石さんのナンパが、あたしたちに近づいて来た時の紳士的な様子とは、全く違った、堕落したやり方だったことにも唖然とした。加えて前の前のカレシがあたしにしたように、水石さんがよそで偽名を使っていたことにも失望した。
でもあたしは水石さんと別れたくなかったから、好意的に解釈することにした。水石さんはあたしには本気だったから、水石さんの言う、「インスタントな女の子」にするようなふしだらな行為を仕掛けてこなかったのだと。けれど水石はさんは、なぜあたしには本気になったのだろうか。
カラオケボックスに行った時、水石さんとは文学の話を交わしたから、その時に水石さんがあたしを、いつもの「インスタントな女の子」とは、どうやら違うようだと思ったんだろうということは分かる。けれど女を車に乗せた瞬間キスなどしていたら、あとはもうセックスに持ち込むのもスムーズだろうから、相手の内面を知る前に、「インスタントな女の子」になってしまうじゃないか。
それなのにあたしたちには、どうして紳士的な態度を取っていたんだろう。カラオケボックスに向かう車内でも、水石さんからはそんな節操の無さは微塵も感じられなかった。
水石さんはあたしのことを、本当に好きなんだろうかという疑念が湧いた。百五十人もの女と寝てきた男が一人の女を愛するなんてことが、本当にあるんだろうかと。
その夜は眠剤を飲んでもなかなか寝付けず、あたしはベッドで何度も寝返りを打った。今何を悩んだところで解決する訳はないのだから、とりあえず明日の電話を待って、疑問を全部ぶつけようと頭では考えた。だけどまぶたは一向に重くなってくれなかった。
そして翌日、待てど暮らせど電話がかかってこなかったので、あたしはこちらから電話をすることにした。カノジョなのだから遠慮せず電話をすればよかったのだけど、あたしから水石さんに電話をかけたのは、それが初めてだった。それまでは水石さんから必ず電話があったので、あたしは自分から連絡を取る必要性を感じていなかったのだ。
初めての電話だから、さぞ歓迎されることだろうと思っていたのだけど、電話に出た水石さんは、「保美ですけど」と名乗るあたしに、「ああ」とどうでもよさそうな声を出した。
「今、大丈夫?」
「……んー」
「え、今、忙しい?」
最初は水石さんが、何か手が離せないのかと思ったのだけれど、追及するとそういう訳ではなさそうだった。それにも関わらず水石さんは心ここにあらずで、何を言っても反応がつれなかった。あたしは諦めて電話を切ると、水石さんは自分の気が乗った時しかあたしを受け入れてくれないんだなと気付いた。こっちはどんなに忙しくても、水石さんから電話がかかってくれば機嫌よく応対しているというのに、何て自分勝手な奴だろう。
頭にきたあたしは、こうなったら浮気をしてやろうと思った。水石さんと付き合い始めてから関係を切っていた湯泉さんと寝ることを決意し、それを芽衣子に電話で告げた。
今思えば、あたしは浮気など考えず水石さんと別れるべきだった。けれどその時のあたしは、まだ水石さんと別れたくなかった。水石さんとは付き合い始めて一週間しか経っていなかったし、あたしは水石さんと寝てみたかった。だから浮気による良心の呵責によって、あたしは勝手な水石さんを許そうとした。
芽衣子には
「そんなこと、やめなよ」
と止められたけれど、あたしは頑として浮気すると言い張った。
芽衣子との電話を切ると、あたしは久し振りに湯泉さんに電話をし
「明日、会社終わったら湯泉さんち行っていい?」
と尋ねた。湯泉さんは快諾してくれた。
そういえば、湯泉さんと会うのは久し振りだなあと思うと、あたしは湯泉さんと会うのがすっかり楽しみになって、眠剤を飲んでさっさと眠りについた。元々は自分を湯泉さんから引き離してくれるカレシが欲しくて、そして水石さんと付き合い始めたというのに、あたしはそんな経緯はすっかり忘れ、湯泉さんとの再会を心待ちにした。
翌朝、電話のベルで起こされたあたしは寝ぼけ眼で受話器を取った。電話の向こうからは、「グッドモーニング」という水石さんの声が流れてきた。その声は、何だかとっても弾んでいた。
「どうしたの。こんな時間に」
「俺のお姫様が、ちょっといたずら心を起こしたらしいっていう情報が、入ってきたからさ」
「芽衣子に聞いたの?」
あたしはおせっかいな芽衣子に腹を立てた。浮気というものは、こっそりするからこそ相手への罪の意識が芽生えるというのに、する前から水石さんに情報が流れていては、意味が無い気がした。
けれど今思えば、芽衣子の行為は思いやりに満ちていたと思う。芽衣子はカレシへの不満を、浮気をすることによって誤魔化すのは不適切だと考え、憎まれ役になることを承知で水石さんに知らせてくれたのだ。
しかしその時のあたしはそんな心境になれなかった。あたしは水石さんに対して昨夜の対応を非難し、自分は絶対に浮気するつもりだと宣言した。水石さんは
「昨夜のことは今度ゆっくり謝るからさ。ただ昨夜は確かに俺が悪かったけど、でも俺は、俺のお姫様の火遊びを見過ごす訳にはいかないよ」
とまるで大人が子供を諭すような調子でたしなめてきた。
電話を切ったあたしは、水石さんが鷹揚に構えていたことにイライラした。もっと慌てふためいていれば、こちらも考え直したかも知れないのに、あの余裕は一体何なのだろうと思った。
そのため結局あたしは芽衣子の好意を無にして、湯泉さんの部屋を訪問した。もう水石さんと別れることになっても構うもんかと思った。あたしから話を聞いた湯泉さんは
「気持ちは分かるけど、仲直りした方がいいんじゃねえのか」
と言いつつあたしと寝た。
あたしは湯泉さんに水石さんの愚痴を散々こぼした挙句、体も充足したので、すっかり満たされて平穏な気持ちになった。すると何だか水石さんと仲直りがしたくなった。湯泉さんにそう告げると、彼は
「おう、そうしろ」
と笑った。
湯泉さんにしてみれば、自分にカノジョがいるので、あたしにもカレシ持ちという対等な立場でいて欲しいようだった。
「このまま会いに行っても平気だと思う? 匂いとかでばれないかなあ」
「シャワーなんか浴びたら、石鹸の匂いでかえってばれるぞ。それより早く会いに行かねえとそっちの方が危険だ」
あたしは湯泉さんのアドバイス通り、早速、水石さんに電話をかけ
「浮気、できなかった」
と悲しそうにつぶやいた。
水石さんはすぐに、カリーナを飛ばして会いに来てくれた。あたしは車内で水石さんに抱きしめられながら
「体験人数が百五十人とか聞いたから、そんなに目が肥えてる人が、あたしのことなんかを本気で好きになってくれるはずないとか、色々思っちゃったの」
と訴えた。
「ホントに、危なっかしいお姫様だ」
と言って、水石さんは先ほど湯泉さんの舌が差し込まれたあたしの唇に唇を重ね、舌であたしの口内を愛撫した。
あたしは頭の中が、柔らかいものでいっぱいになったような気分になりながら、やっぱり水石さんのことが好きだと思った。湯泉さんとのセックスにも、めくるめく歓喜があるけれど、湯泉さんはあたしに劣情は抱いても恋情を抱いていない。だからご飯が欲しいのにおやつばかりを与えられているような、虫歯のようなうずきと痛みがあった。
でも水石さんはあたしに、恋愛感情と独占欲を示してくれた。あたしは心から欲しているご馳走がここにあるように思った。抱きしめられ口付けられたまま、髪を撫でられ耳の輪郭をなぞられ、あたしは身も心もとろけそうになった。内股に感じるぬめりが、湯泉さんとの行為による名残なのか、それとも今、水石さんのだらしない指先によって生まれたものなのか分からないまま、あたしは心地好さに酔っていた。
あたしは湯泉さんと寝ておきながら、やっぱり寝ることができなかったと水石さんに告げた。今にして思えば、水石さんがそれを信じたために罪悪感を覚え、それにより水石さんを許せたのだと思う。
当然のことながら、そんな仲直りの仕方は正しくなかった。だから翌日あたしが水石さんに電話をかけるとまた同じことが繰り返された。いやもっとひどかったといってもいい。水石さんはとにかくひたすら、機嫌が悪かったのだ。
あたしは電話を切ると、水石さんとの別れを決意した。最初に電話をかけた時点で別れるべきだったんだと思った。浮気をしその罪悪感から水石さんと仲直りをしても、何の解決にもならない。自分の気が向いた時しかあたしを受け入れようとしない男となんて、付き合い続けられる訳が無いじゃないか。だから先生も、三ヶ月程で別れると言ったんだと思った。
どうせ三ヵ月後に別れるのなら、早い方がいいと思った。このままずるずると付き合い続けていたら、余計な情が湧く可能性があるからだ。そうなったら別れが辛くなってしまう。
あたしは再び水石さんに電話をかけた。電話は留守電につながった。あたしは留守電に「別れたいの」と吹き込むと、ベッドに潜り込んだ。初めて出会えた自分の感性を刺激してくれる男との交際が、たった十日で終わってしまった事実にあたしは憔悴し、悶々とした夜を過ごした。
翌朝、水石さんからの電話を取ると、水石さんは性懲りもなく「グッドモーニング」と挨拶した。
あたしが浮気をするかも知れないという情報を知っても、別れたいとメッセージを残しても、巡り来る朝は、この人にとってよい朝なのかと思ったあたしは脱力し
「今日、会社が終わったら会って話し合おう」
という提案を承諾してしまった。
その日の夕方、カリーナの助手席に乗り込み、ハンドルを握る水石さんの隣でうつむいていると、水石さんはラブホテルに進路を向けた。あたしは驚いて「そんなつもりじゃない」と叫んだ。カレシのいる身で湯泉さんに抱かれることはできたのに、別れる予定の水石さんとセックスすることは抵抗があった。
けれどカリーナはラブホの駐車場へ滑り込んで行った。水石さんは
「何もしない。ただ二人でゆっくり話したいだけ」
と言った。あたしは逆らえなかった。昨夜、水石さんに電話をし留守電につながった時の気持ちがあたしの中でくすぶっていた。水石さんと話したいと思いコールし、満たされなかった思いがまだ、あたしの中でくすぶっていた。
ラブホに入りソファーに腰を落ち着けると、水石さんは
「俺は、君のことが重荷だった」
と言った。
二人で出かけた公園で、水石さんがあたしへの好意をほのめかした時、あたしが「付き合って」というセリフを強要した瞬間、あたしのことが重荷になったのだと言った。
付き合い始めたその瞬間から、あたしの存在が重荷だったと言う水石さんに、あたしは驚愕した。ではこの十日間の付き合いは一体何だったのか。二人で出かけた美術館、食事、交わした電話のやり取り、「好きだよ」という言葉。水石さんのお姫様だったはずのあたし。あたしがお姫様なら家来だったはずの水石さん。水石さんはお姫様が重荷だったけれど、家来という立場上それを口にできなかったというのか。
あたしが呆然としていると、水石さんは
「だからさ俺、やめてたクスリまた始めちゃったんだよね」
と追い討ちをかけてきた。あたしはその時、あたしが電話をかけた際に、水石さんが心ここにあらずだった原因を悟った。水石さんはその時クスリをやっていたのだ。
後で聞いたところによると、水石さんがイブの晩に、酒も飲まずにあんなにご機嫌だったのは、クスリをキメていたからということだから、水石さんは最初からクスリをやめていなかったのだと思う。
けれどあたしは水石さんの言葉を信じ、自分が水石さんに、クスリに再度、手を伸ばさせてしまったのだと思い込み涙を流した。すると水石さんはあたしの涙をうっとうしそうに眺めると、ポケットからマリファナを取り出し火を点けようとした。
「何やってるの。やめて」
「うるさいな。君に止める権利無いでしょう」
今にして思えば、あの時のあたしに止める権利が無かったとは思えない。目の前の人間が法を犯そうとしていたら、誰にでも止める権利はあるからだ。けれど水石さんの怒鳴り声を聞いて、あたしはもう水石さんのカノジョではないんだと確信した。もうカノジョではないのだから、水石さんのやることに口を出す権利が無いのだと思った。
初めて水石さんに、怒鳴りつけられた怖さと絶望感であたしが黙り込むと、水石さんは突然、あたしをベッドに押し倒し
「それとも、俺とヤる?」
と耳元でささやいた。それは本当に切ない脅迫だった。
水石さんにせめて体だけでも受け入れられたいという思いと、水石さんに今だけでも、クスリをやめさせたいという思いが、あたしを無抵抗にした。水石さんはあたしの洋服を脱がせながら
「泣いていいよ。何を言ってもいい。受け入れるから」
と穏やかに言った。
さっきまであたしのことを重荷だったとか、あたしのせいで、またクスリを始める羽目になったとか、あたしにはクスリを止める権利が無いと言っていた水石さんが、急に優しくなったので、あたしはその言葉を受けて
「こんなの、やだあー」
と叫んだ。
すると水石さんは
「あのさ、そのセリフは俺が強姦してると思われちゃうからやめて」
と冷静に言った。あたしはそのまま口を閉ざし水石さんに抱かれた。どうせ抱かれるのならせめて、別れ話が出る前に抱かれたかったと思いながら。「好きだよ」とささやかれながら抱かれたかったと思いながら。
水石さんの左手にはめられたリングの冷たい感触を、素肌に感じた時、あたしは自分が一糸まとわぬ姿になっているのに、水石さんの着衣が全く乱れていないことに気付き、どうしようもない恥ずかしさに襲われた。多分インサートの時も水石さんは、服は脱いでも、そのだらしない指にはめたリングを外さないのだろうなと思った。
その日ベッドの上では、あたしだけが全てを晒し、あたしだけが涙をこぼし、あたしだけが声を漏らしていた。
本当ならその日を境に、水石さんとの関係を断ち切るべきだったのに、あたしはそれから頻繁に水石さんに連絡を取った。別れを決めていたはずなのに、なぜそんなことをしたのかよく分からない。百五十人切りの水石さんは確かにセックスは上手かったけれど、それが理由だったのかどうかは定かじゃない。ただただあたしの心は水石さんに執着した。
水石さんは「会いたい」というあたしの要請には
「それよりさあ、君、俺が貸した本、読んでるの?」
とまるで取り合ってくれなかったものの、電話での会話には応じてくれた。
その頃あたしは水石さんに、村上龍の『KYOKO』を貸し出されていた。結局返さずじまいだったその小説は、村上龍初心者にとって適切な作品であると同時に、素晴らしい内容だと思う。けれど当時のあたしは水石さんのことで頭がいっぱいで、ほとんど読み進めていなかった。
水石さんは
「本も読まないような女は、嫌いだ」
と言いながらも、少しずつ自分のことを話してくれた。
高校生の頃、看護師と同棲していたこと。あたしたちをナンパした時あたしたちが純情っぽかったので、普段のような自堕落なやり方を取らなかったこと。水石さんは居心地のいいベッドを持っている女に弱いこと。あたしに本気になれなかったのは、あたしが男子禁制のマンションに住んでいたせいだったこと。あたしと付き合っている間も、東京に住む前カノと連絡を取っていたこと。前カノとやり直すことになったこと。
「三ヶ月程度で別れるんだから、それだけの人です」
という先生の言葉を思い浮かべながら、あたしは水石さんの話を、ぼんやりと聞いていた。
初めて付き合ったカレシは、東京の女と浮気をしていたし、あたしも東京に住んでいた求と一年半付き合っていたし、横川もあたしと別れた後、東京の前カノとヨリを戻したし、先生も仕事のため東京へ行った。そして水石さんも東京の前カノと元の鞘に戻ると言う。どうして皆、東京へ行くんだろうと思った。「隣町くらいがベストだよね」と言った水石さんまでも。あたしは水石さんの隣町に住んでいながら東京の前カノに負けたのだ。
また水石さんはこんな酷いことも言った。貝瀬さんに
「ヤッてから捨てるなんて、ひどい」
と言われたことを引き合いに出し
「『ヤッてから捨てた訳じゃない。捨ててからヤッたんだ』と答えた」
と。
あたしはその言葉を、胸を痛めながら聞いた。どんな辛いセリフでもいいから水石さんの声を聞きたかった。あたしは完全に水石さんに溺れていた。
ところがその数日後、電話口の向こうの水石さんはいつになく優しかった。水石さんは
「君は本当はいい子だから絶対幸せになれるよ。俺、君にはたくさん嘘をついたけどでもこれだけはホントだから。君は絶対に幸せになれるから」
と慰めるような口調で言った。あたしはその日を境に、水石さんと連絡を取ることを止めた。
その三年後、水石さんが自己破産をしたことを芽衣子から聞かされた。
「俺は今の仕事で成功して金稼ぐから。俺には才能あるから」
と言った水石さんの言葉を、あたしはぼんやりと思い出した。
温泉の駐車場は、金曜の夜ということもあり混んでいた。あたしはヘイちゃんと二人で靴脱ぎ場で靴を脱ぐと、靴を持って下足置き場へと向かった。先にロッカーにスニーカーを入れたヘイちゃんが、あたしのフラットシューズを受け取ると、あたしの誕生日の数字の付いたロッカーにそれを入れた。
ヘイちゃんはいつも優しい。たとえ機嫌が悪くてもいつも優しい。何かに取り付かれているのではないかと訝らせるほど気分屋だった水石さんとは、まるで違う。あたしはヘイちゃんに申し訳なさを感じながら、ロッカーに鍵をかけるヘイちゃんの指先を眺めた。労働者であることを表す骨ばった指先。華奢な水石さんの指先とは全然違う。あたしは現実世界でこの指先を選んだ。それなのにあんな夢に惑わされるのはなぜだ?
リラクゼーションカウンターで、足ツボマッサージを予約すると、あたしはヘイちゃんと別れて女湯へと向かった。「千と千尋の神隠し」の舞台をモチーフに、設計されたというこの温泉は、脱衣場も賑わっていた。あたしは服を脱ぐと温泉用ポーチを持って浴室へと入って行った。
頭の芯にヘイちゃんが存在していた。付き合い始めたばかりのヘイちゃんに
「仕事を、辞めたい」
と泣きつくと
「辞めていいよ。俺が養うから」
と結婚してくれたヘイちゃんが、あたしの中核に存在していた。
ヘイちゃんが自動車のブレーキを製造するお金で、あたしは今、養われている。出会ったのは、先生の言った「二年後」ではなく五年後だったから、本当は運命の相手じゃないのかも知れないけれど、それが何だというのだろう。
あたしの食い扶持を確保してくれている、優しいヘイちゃん。それなのにあんな夢を見たくらいで、水石さんの指先を強烈に思い出してしまうなんて。あたしはあんな夢を見た事実を忘れたくて、サウナにこもって汗を流し水風呂に浸かって自分を清めた。
けれど露天にある樽風呂に浸かりながら星空を眺めたら、もう駄目だった。満天の星空が、あたしに先ほどの夢を思い起こさせた。水石さんにさっきの続きをしてもらいたいと思い、そのためにヘイちゃんの機嫌を取っておこうとヘイちゃんの元に向かったあたし。数回呼びかけただけでヘイちゃんを諦め、再び水石さんの元へ戻ったあたし。夢の中で体験したその感覚があたしを苦しめた。
ここにいたら駄目だと思った。夜空があたしにあの夢を連想させる。あたしは樽風呂から出るとミストサウナへと向かった。ミストサウナなら天井があるから、空を見ないで済む。あの夢を思い出さずにいられる。
風呂はどこも混んでいたというのに、ミストサウナは無人だった。ここは人気が無いのか、滅多に人の姿を見ることが無い。あたしはせせらぎのようなBGMに耳を澄ますと壁に背をもたれ脚を伸ばして座った。あの夢を忘れたいと思った。水石さんを忘れたいと思った。
けれど壁に伝う水滴が、あたしの首筋をなぞり背筋に落下していった時、あたしはあの夢の感覚の再現を見てしまった。
首筋と背中を撫でる水滴は、まるで水石さんのだらしない指先のようだった。水のように流れ形を変えるつかみ所の無い水石さんの指先と心。あたしはそれに疲れ、水石さんとの別れを決意したというのに、今ここで、あの夢ばかりか水石さんと過ごした日々を追憶し心地好さを覚えている。
あたしは夢と記憶に観念し、低きに流れる水滴に身を任せ水石さんの思い出に浸った。とろけたあたしの脳みそは、最早どこからどこまでが水滴で、どこからどこまでがあたしなのか理解しようとしなかった。
どうも水石のモデルばかりを、キャラクターに使っているなあと反省しました。水石はキャラが立ってるから書き易くて。
でもまあぼちぼち、違う実在モデルを使わなきゃなあと思います。