1 淡い夢物語
死を迎え、転生する——そんなよくある物語が、まさか自分の身に起こるとは、私は夢にも思っていなかった。
それも、たったひとつの手鏡が原因なんて……。
「これは新居に持っていこう。こっちは処分かな……」
葬儀が終わり、私は静まり返った自宅へ戻ると、おばあさまの自室へと足を踏み入れた。
明日から私は一人暮らしを始めることになっている。
今通っている中学も転校し、遠い親戚に形式上の保護者として名前だけを借りる手続きも済んでいた。
後は簡単な遺品整理を終えたら、自分の荷物をまとめてこの家を出ていくだけだ。
「あれ、これって……」
おばあさまが大切にしていた鏡台の引き出しをそっと開けたとき、目に飛び込んできたのは一つの手鏡だった。
『みんなは夢でも見たのだろうって言うけど、私はそうは思わないの。あの素敵な紳士さまとの出会いを、私は一生忘れることができないから……』
ただの古びた手鏡がこんなにも魅力的に見えるのは、いつの日にか小春おばあさまが話してくれた素敵な物語を思い出したからだろうか。
私は、しばし鏡に映った自分を見つめた。
小春おばあさまと揃いのピンクがかった茶髪。
昔、写真で見せてもらった小春おばあさまが少女だった頃と、よく似た自分の容姿を……。
大好きだった、私のたった一人の家族。
これから私はどうすればいいのかな?
どうして私を一人にしたの。会いたいよ、おばあさま……。
心の中でそう呟き、こぼれ落ちそうな涙を必死に堪えていた、その時だった。
「な、なに……!」
突如、目の前に青白い閃光が私の身体を包んだ。
あまりに眩しい光に、私は両瞼を強く閉じる。
そして、次に目を覚ました時、そこには見慣れない世界が広がっていた。
暖かな気温と、花が乱れる世界。
気味悪いほど異質に感じ取る輝かしさ。
「コハル? コハルなのかい……?」
驚いたように目を見開いて、小春おばあさまの名前を呼んだ男の人。
煌めく銀髪に、淡い水色の瞳。
私は一目で、彼がおばあさまの言っていた『ルドヴィクさま』なのだと分かった。
そして、この恐ろしいまでに美しいこの世界は、私が今まで生きてきた世界とはまるで違う、異世界なのだと。
そう、私は小春おばあさまが昔に話してくれた、異世界へと飛ばされてしまったのだ。
ただひとつの手鏡によって。
そして、私はそんな異世界生活にもすっかりと慣れてしまっていた。
だって、私がこの世界にやってきてから既に数年の月日が経過していたから。
「ああ、ソフィア様は知りませんでしたわよね? よろしければ、わたくしが教えて差し上げますわよ」
「アナスタシア様は本当にお優しいですね。異世界からやってきたなどと訳の分からないお方にまで親切にされるなんて」
「当然のことですわ、ペリドット嬢。わたくしは、いつだってガーデンルチア公爵家の味方ですから」
令嬢たちの嫌味ったらしい言い回しに、思わず苦笑が浮かぶ。
今日は社交界の友人(仮)である、アナスタシアが開いたお茶会に参加していた。
そうして、今日も今日とて彼女たちからの嫌味を受け止めていた。
私が社交界で馴染めないことは至極当然のことだった。
彼女たちとは生まれも育ちも価値観も、すべてが違ったのだから。
もちろん、嫌われる一番の理由となっているのは、彼女たちの憧れの存在である『ヴィクトル』の婚約者になってしまったことだろう。
この世界に飛ばされてから、一番初めに出会った小春おばあさまの想い人。
ルドヴィク・ガーデンルチア公爵様は初め、この世界に身寄りのない私を養子にしようとした。
小春おばあさまの少女時代と瓜二つの私を放ってはおけなかったのだろう。
直接口にはされなかったが、彼がおばあさまを想う気持ちは、会話の節々に現れていた。
当然、訳の分からない異世界人をガーデンルチア公爵家の養子にするという話を聞いた親戚や家臣たちは猛反対した。
たった一人の息子であるヴィクトルが不慮の死を迎えた時に、私がその全てを奪っていくことを警戒していたのだろう。
もしかすると、まだたった13歳の私が、自らヴィクトルを手にかけると本気で考えたのかもしれない。
しかし、ルドヴィク公爵様はそこで引き下がらなかった。
養子を認められないのならと、一人息子のヴィクトルの婚約者として私を公爵家に迎え、花嫁修業の名目で屋敷に置くという強硬手段に出たのだった。
この世界にも、元の世界にも、身寄りが無かった私にとって公爵様の選択は感謝してもしきれないほど。
ただ、それが周囲にとってどれほどの迷惑だったかは理解しているつもりだ。
特にヴィクトルには心の底から申し訳なく思っている。
父親の初恋の記憶なんかのせいで、よく分からない異世界人が婚約者になってしまったのだから。
「さっきから口を閉ざしたままですが、わたくしの話を聞いておりますの? ソフィア・ハーデンベルギアさん?」
「え……? ああ、もちろん聞いてますよ。アナスタシア嬢」
昔の記憶に浸っていると、つい彼女の話を無視してしまったようだ。
私は扇子を片手に不機嫌そうに顔をしかめるアナスタシアに向かって、急いで笑みを向けた。
ソフィア・ハーデンベルギア。
この名前は、ルドヴィク公爵様がこの世界に来てから私に与えてくださったものだ。
過去に、鏡の向こうの世界で私が呼ばれていた名前とは似ても似つかない華やかな名前。
今では、ソフィアという洋風な名前で呼ばれることにもすっかり慣れてしまった。
「本当にマナーがなっておりませんね。食器の使い方も不慣れですし、よろしければわたくしが幼い頃に使っていた子供用食器の職人を紹介いたしましょうか?」
だけど、この意地悪な令嬢たちには全く慣れそうにない。
どうしてこんなにも鬱陶しいんだろう?
私のことが嫌いなら、無視していればいいのに。
私のことが心底嫌いなくせに、飽きもせずに何度も招待状を送ってくるものだから困ったものだ。
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「ガーネット侯爵家の令嬢に紅茶をぶっかけたんだって?」
「……はい?」
令嬢たちとの面倒なお茶会から、数日が経った頃のことだった。
朝食を終え、お茶を飲みながら本を読んでいると、向かい側で椅子に寝転がっていたヴィクトルが唐突にそんなことを言い出した。
この男は、一体何を言っているの?
甘いものの食べすぎで、ついに頭がおかしくなってしまったのだろうか。
「ガーネット侯爵家は我が家とも古くから縁のある家だ。いくら腹が立ったとしても、紅茶をかけるのはやりすぎだろ」
面白がるような口調で放たれた言葉に、私は本からヴィクトルへと視線を移した。
紅茶をかけた……私が、アナスタシアに?
侯爵邸を去る直前、アナスタシアに食器のマナーを指摘され、みんなが私を馬鹿にしたように笑っていたのは事実だ。
恥をかかされ、久しぶりに本気で腹が立ったのも確かだった。
でも、私があの面倒な女に紅茶をかけるなんて、そんなことをするはずがないでしょ?
『私はこの辺りで失礼します』
『まあ、まだお茶会は終わっておりませんわよ? まさか紅茶がお口に会いませんでしたか? 配慮が足らず申し訳ございません。今度は庶民の舌を持つソフィアさんにも気に入って頂けるようなものを用意いたしますね』
『そんなことはありません。とっても美味しかったです。だからこそガッカリなんです。せっかく美味しい紅茶もお菓子も、愚かな嫉妬が混ざってしまえば、不味くてたまらないですから』
そう言った私に、アナスタシアはブツブツと言っていたが、面倒だったので全部無視して帰った。
まさか、あれに腹を立てて私に紅茶をかけられたって嘘をついたわけ?
あの場には沢山の令嬢が居たのだから、本来審議ははっきりとしているはずだ。
しかし、一体この世界のどこに私の味方をしてくれる人がいるのだろう?
「向こうから喧嘩を吹っかけてきたのよ。私はただ、それに言い返しただけで……」
「彼女はただ挨拶をしただけだと言っていたが?」
「そんなの嘘に決まってるでしょ。それに、私が紅茶を人に向かってかけるはずないじゃない。もったいない!」
私が目を吊り上げてそう叫ぶと、ヴィクトルはどこか呆れたように眉をひそめた。
「俺だって、ビビりなお前があの蛇みたいな女に紅茶をかけたとは思ってないさ。ただ、適当に形式的な謝罪の手紙でも送っておけって話だ」
「なによそれ……してもないことを謝罪しろっていうの?」
「ああ、そうだ」
「そんなのおかしいわ。私は何もしていないのに」
胸に手を当てて叫んだ私を、ヴィクトルは父親によく似た冷たい水色の瞳でじっと見つめると、大きくため息をついた。
彼は立ち上がると、ゆっくりとした動作で私の目の前まで来て、父親によく似た冷たい水色の瞳で私を見下ろした。
たった二つしか歳が変わらないはずなのに、どうしてこんなにも視線の高さが違うのだろう。
元の世界にいた同年代の男の子たちは、ここまで大きくなかったはずだ。
「お前の言うことにも一理あるが、それがこの世界でのルールなんだよ」
気だるげに頭をかきながらそう言ったヴィクトルは、テーブルに置かれたクッキーへ手を伸ばし、そのまま口に放り込んだ。
「あっ、ちょっと! それは私の分でしょ、自分の分はさっき自分で食べていたじゃない!」
「うるさいな。夫婦は一心同体だって言うだろ? お前のものは俺のもんなんだよ」
「どこの暴君よ! この婚約に誰よりも納得していないくせに、都合の良い時だけ利用しないで!」
傍に置かれたクッションを手に取ると、勢いよく彼に向かって投げつけた。
しかしヴィクトルはそれをひらりと避けると、挑発気に片方の口角を上げて、またソファに寝転がってしまった。
訳も分からない異世界での暮らし。
私はそんな可笑しな日々を、それなりに楽しんでしまっていた。
仕方のないことだったのかもしれない。
おばあさまを亡くし、親戚たちから存在しないもののように扱われていたあの頃の私にとって、心の底から笑うことが出来たのはこの場所だけだったから。
煌びやかで華やかなガーデンルチア公爵邸。
名ばかりの婚約者であるヴィクトルの隣。
「早く新しいものをメイドから貰ってきて!」
「なんで俺がそんなことをしなくちゃならないんだよ? 自分で行ってこい」
「あんたが私のを勝手に食べたからに決まっているじゃない! ほら、早く!」
いつかは小春おばあさまと同じ選択をしないといけないと分かっていても、今、この瞬間がとても楽しかったから。
こんなに強欲になってしまったから、神は私に天罰を下したのだろうか?




