第30章:防空壕
修学旅行中、生徒たちからこっそり抜け出した「なるか」は、二人の先生(橋本と宮下)を連れて自身の母校の近くへ電車で移動する。彼女が案内したのは、地元で愛される小さな隠れ家風のピザ屋だった。
橋本先生の乾いた合図とともに、浮かれた生徒たちの塊が一斉に四方八方へと散らばっていった。私たちは、そのざわめきがすっかり消え去るまで、わざと少し離れた場所でじっと身を寄せ合って待った。
――よし。
「せんせ、行こっか!」
ここから先は、私のための時間の始まりだった。胸の奥で早鐘を打つような高鳴りが、もうどうしても抑えきれない。
「この辺にいると、絶対他の生徒たちに遭遇しちゃうから。移動するよ、電車で!」
私の唐突な宣言に、二人の先生は目を丸くして顔を見合わせた。
「えっ、電車で移動するのかよ(笑)」
「大丈夫! そんな遠くには行かないから。それに、私の母校のあたりだったら、こんな修学生の観光客なんて絶対来ないし!」
「まあ、ガイドブックに載ってないような、地元の人しか知らない場所を覗くのも面白そうだな」
橋本先生が面白がるように笑う。
「ねえ、母校の近くにすごく美味しいピザ屋さんがあるんだよ! そこに行こ?」
その「美味しい」という響きに、橋本先生が敏感に食いついた。
「おっ、ピザか! 釜焼きのやつ?」
「もちろん!」
「宮下先生、行きましょうよ!」
橋本先生が予想以上のノリノリで隣の男の背中を押す。宮下先生は少しだけ警戒した様子ながらも、やれやれといった風に小さく笑った。
「んー、そうか? じゃあ、そこにいくか」
私たちは駅のホームへと引き返し、ガタンゴトンと揺れる私鉄に乗り込んで、私の記憶が染みついたかつての街へと滑り出した。
ほどなくして、私の母校の最寄駅に到着する。プラットホームを降りた瞬間から鼻腔をくすぐる空気の匂いは懐かしさと気恥ずかしさを同時に運んできたけれど、今の私の隣には、あの人がいる。私たちは、学校の目と鼻の先にある、隠れ家みたいな小さなピザ屋の木の扉をそっと押し開けて、その薄暗い店内に滑り込んだ。
木の扉に取り付けられた真鍮のカウベルが、カランコロンとどこかノスタルジックな音を立てて店内に響き渡る。
「おじさん、ただいまー!」
学校では絶対に誰にも見せないような、くだけた、でもどこか懐かしさの滲む声で私は店の中に飛び込んだ。その唐突すぎるテンションに、後ろに続く二人の先生は明らかに面食らっていた。
「いらっしゃい! おっ、なんだ、なるかちゃんじゃねえか! どうしたんだ、またこっちに戻ってきたのか?!」
カウンターの向こうから飛び出してきたマスターのノブさんの声は、いつだって低く、カラッとしていて心地よかった。
「違うよー。今日からね、学校の修学旅行なの! んで、ここにいるのが私の先生!」
「へえー! わざわざ先生方を連れて来てくれたのかい! 先生方、うちのなるかがいつもお世話になってます」
ノブさんは頭にかぶっていた白いコック帽をぐしゃっと手で掴み、脱帽するようにして深々と会釈した。
「いやいや、なるかさんがどうしてもここのピザを食べてほしいって言うもんですから、我慢できなくて来ちゃいました」
宮下先生は、生徒の前で見せるあの冷めた気怠さを綺麗に脱ぎ捨て、見事なまでに感じのいい大人の笑顔をノブさんに向けてみせた。その切り替えの早さに、私はちょっとだけ胸のなかで誇らしさを覚える。
「いやあ、嬉しいねえ。観光客相手の商売じゃない、地元の一番美味いピザを食わせてやるよ! 先生、ゆっくり食べてってくれ!」
ノブさんの顔は一気に少年のように綻んでいた。それもそのはずだ、この店の近くにある高校の生徒たちは、ノブさんにとって自分の子供や姪っ子のようなものなのだから。
「ねえ、せんせ? ここはね、どのピザも外れなしで美味しいんだけど、私のイチオシは『クワトロフォルマッジ』と『ベーコンとキノコのカルツォーネ』! これだけは絶対に間違い無いから!」
私の熱弁を聞きながら、橋本先生の頭の上にはいくつもの大きな疑問符が浮かんでいるのが手に取るように分かった。
「く……くあろ……ふぉ、?」
見かねた宮下先生が、すかさず呆れたような、でもどこか優しい口調で解説を挟む。
「クワトロフォルマッジと、カルツォーネ。クワトロフォルマッジっていうのは、四種類のチーズをたっぷり使ったピザのことだ。カルツォーネは、ピザ生地で具材を包み込んで中から蒸し焼きみたいにしたやつだな」
「なるほど! なるか、それめっちゃ美味しそうじゃん! それにしよう!」
「よし、決まり! ノブさん、今のやついつもの感じでちょーだい!」
「あいよー! お、なるかちゃん、今日は久しぶりだから飲み物はサービスしてやるよ。冷蔵庫から好きなの勝手に取りな!」
「やった、サンキュー!」
私の軽快なノリに、後ろの二人の先生は慌てて財布を取り出しながら申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや、あの、飲み物代はちゃんとお支払いさせてください……!」
「あー、いいんだよ、そんなの! うちのかわいい娘の面倒をいつも見てもらってるんだからさ!」
「はあ……すみません、ありがとうございます」
宮下先生は少しだけ困ったような、気恥ずかしそうな顔をしながら、小声で小さくそう呟いたのだった。




