断罪中のようですが、失礼しますね
王都の春は、例年よりも早く訪れた。
けれど、どれほど花が咲き誇ろうと、今日という日はきっと、記憶の底に冷たい色で残るだろう。
今日という日を、私は二度と忘れない。
鏡の前で、エルナが最後の髪飾りを整えてくれる。
不思議と心は穏やかだった。
「お嬢様、本当にやるのですね」
──あの情報が確かなら、今夜しかない。
「ええ。……ここで終わらせなければ、未来が始まらないから」
これまでの自分に、そして“誰かのための令嬢”であり続けた日々に、別れを告げる日。
私自身の意志で、この立場を手放す。
誰に命じられたわけでもなく──私が、自分で決めた。
会場に向かう途中、耳に入るのは笑い声と祝福の音色。
けれどそのすべてが、私にはどこか遠い世界のもののようだった。
──今日の主役は、もう私ではない。
けれど、この舞台の幕を引くのは、私の役目。
♢♢♢
王立学園の卒業パーティは、例年になく豪奢な装いだった。
真紅の絨毯が敷き詰められた大広間には、煌びやかな装飾が隅々まで施され、白金細工のシャンデリアが七基も吊り下げられている。
華やかなドレスと礼装に身を包んだ貴族子弟たちが笑いさざめき、祝杯の音があちこちで鳴っていた。
その中心に立つのは、王国第一王子──エリオット・アーヴィン・フラクシス。
銀糸の織られた礼服をまとい、金色の髪を整えたその姿は、まさに“未来の王”にふさわしい。
だが、その表情はどこか硬く、口元には緊張の影があった。
「皆、耳を貸してほしい」
その声が響いた瞬間、場の喧騒が止んだ。
「本日、この場を借りて──アクヤ・カルディス公爵令嬢に、重大な処分を下すことを宣言する」
ざわめきが奔る。
「彼女は、男爵令嬢リリィ・フラメルに対する度重なる嫌がらせと侮辱行為、婚約者としての不適切な振る舞い、そして王家の名を貶めるような行為を幾度となく繰り返してきた」
リリィが王子の腕にしがみつき、今にも泣き出しそうな顔で俯く。
細く震える肩が同情を誘い、周囲の視線が一斉にアクヤへと注がれた。
──しかし。
その視線を受け止めるアクヤ・カルディスの姿は、ただ静かだった。
高い位置で結い上げられた黒髪、品格ある濃紺のドレス。
琥珀の瞳は王太子を見据え、眉一つ動かさない。
「……皆様の前で、そのようなご発言をなさるとは。王太子殿下」
その声音は、雪のように冷たく──そして、剣のように鋭かった。
空気が一変したのは、そこからだった。
「断罪の場を用意されたのであれば、それなりの準備はございます」
アクヤは小さな銀の箱を開け、中から一束の書類を取り出した。
「こちらは、学園内におけるリリィ・フラメル嬢の行動に関する報告書です。
筆跡鑑定により偽造が判明した手紙、学内の監視記録、水面下での金銭授受、複数の異性との交際の証言──すべて、日付と証言者名を明記したうえで、学園記録に基づいて正規の手続きを経て収集したものです」
静寂。
誰もがその場で凍りついた。
騒いでいたのは、最初の数分だけだった。
「本件の記録には、王立騎士団団長の長男レオニス・グランヴェル様と、宰相閣下の御子息シリル・エルクレスト様の名もございますが……ご本人方の名誉を守るため、ここでは詳細を控えます。
あくまで、事実の開示のみといたしましょう」
ざわめきは、もはや驚愕と恐れに変わっていた。
♢♢♢
アクヤは、もう一度だけ視線を巡らせた。
誰もが口をつぐみ、息を呑む中、彼女は落ち着いた声音で言葉を紡ぐ。
「私は、この婚約を本日をもって破棄いたします。
王太子殿下との未来を共に歩む意思は、もはやございません」
エリオットの顔色が変わる。
「だが……アクヤ、それは……」
「誤解なきよう申し上げます。
これは私個人の感情によるものではなく、公爵家と王家の間に結ばれていた盟約関係の解消としての処置です」
淡々と、それでいて一切の容赦なく。
「王太子妃としての役務に備え、これまでに費やされた時間、教育、外交的労力。
加えて、本件により公爵家が被った社会的損失──それらに関する正式な補償を、後日書面にて請求させていただきます」
震えだしたのは、リリィだった。
「う、うそよ、そんな……! 私は、ただエリオット様の……っ!」
「それについても、本件を通じてあなたがどれほど“王家の名を貶めたか”は、いずれ宮廷内で精査されるでしょう」
もはや言葉にならない嗚咽を漏らすリリィ。
一方のエリオットは、アクヤの鋭いまなざしを前にして、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
まるで、自分が“裁かれる側”であると、初めて自覚させられたかのように。
その時、会場のあちこちから、かすかな声が漏れ始めた。
「……あの令嬢が、あそこまで……?」
「証拠も揃えて、完全に……」
視線は次第にリリィとエリオットに向けられ、彼らを断罪するような空気が会場を包んでいく。
誰もが見ていた。
誰もが知った。
この“断罪劇”は、初めから仕組まれていた偽りの舞台だったということを。
そして、それを壊したのは──
アクヤ・カルディス、その人だった。
騒めきと沈黙が交錯する中、アクヤはくるりと踵を返す。
広間の出口へと歩き出し、扉の前でふと立ち止まった。
その背中越しに、未だ断罪され続ける者たちの声が響いている。
「……違う……ッ!」
「……誤解なの!」
そして彼女は振り向かず、ただ一言だけ、静かに言い残した。
「……断罪中のようですが、失礼しますね」
その声音は冷たくも優雅で、まるで幕引きの鐘の音のようだった。
扉が音もなく閉じられ、広間には、もう彼女の姿はなかった。
♢♢♢
数日後。
王都を離れた小さな駅馬車亭にて、アクヤは荷物の最終確認をしていた。
周囲はのどかな郊外、春の風が旅支度の裾を揺らす。
隣には、当然のようにエルナが立っている。
いつもの穏やかな笑みを浮かべながら、栗色の髪を風に揺らしつつ、鞄の紐を調整していた。
「それで、お嬢様。次はどこへ? 南? 北? それとも、噂の国外?」
「決めていませんわ。ただ……しばらくは、誰のためでもない時間を過ごしたいのです」
アクヤは空を見上げる。
柔らかな陽光が、頬に温かく降り注いだ。
「私は、あの場で“役目”を終えました。
王太子妃としての義務も、令嬢としての手本という立場も」
そして、小さく微笑む。
「これからは、少しだけ自由に生きてみたいと思いますの」
エルナがくすりと笑う。
「では、お嬢様。次は“あなた自身”の旅ということで」
「ええ。ようやく、そういう旅ができる気がします」
♢♢♢
馬車はゆっくりと丘を越え、王都の灯が遠ざかっていく。
窓の外に見えるのは、柔らかな野の花と、どこまでも続く空。
私がずっと知らなかった景色。ずっと遠くに感じていた自由。
これから先、何があるのかはわからない。
けれどもう、誰かの期待に応えるだけの生き方ではなく──
私は、私の物語を生きていく。
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