表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

「将来を忘れた男」前編

作者: 竹村直久
掲載日:2025/03/11

若い頃思っていた自分の将来と、人生の終盤を迎えて振り返ってみる自分の人生。

「思い通りの素晴らしい人生だった」といえる人がどれだけいるでしょうか。

人生の悔いとか、人生これでよかったのか? みたいな問いかけを転生ファンタジー仕立ての物語にしてみようと思いました。



 (前編)


   1



一九八九年六月三日

 満席の観客が俺を見つめている。俺の書いた台本に引き込まれ、俺の演技に感動し、エンディングになって芝居を見ていたことに気付き、カーテンコールで役者たちと俺が現れると、割れんばかりの拍手と喝采を浴びせてくる。

 賞賛のシャワーを浴びる俺の目には、遙かな海が広がっている。俺はこれから大海原へ漕ぎ出すのだ。

 東京新宿にある中堅劇場〝靖国シアター〟にて、俺が台本を書き、演出、主演した舞台「当たりクジを手にした男!」四日間公演の三日目である。

「人間たちよ、欲にまみれたお前等の行動には、何の意味もない! 生きてることを実感したければ、人の生きるとは何たるかをよく考えろ!」


 俺が観客に見せたものは、新しい、面白い、胸を突き抜ける感動がある。それに俺が主演であることから醸し出す、演劇の面白さを極めた作品だ。

 俺には全てが分かっている。観客がなぜ感動するのか、人の心を動かす台本の技術、観客を魅了する演技とは何か。俺は二十九歳にして全てを見切っている。

 いよいよ明日は千秋楽、成功が胸に納まりきらない。全観客の、全世界からの期待が俺の身体を舞い上がらせてしまいそうだ。これから俺の繰り出す作品を、皆が観たいと思っている作品を、世界に示すのだ。今こそ俺の冒険が始まるのだ。


 その翌朝、眼が覚めるとゴザの上に寝ている。身体が痛い。なんだここは? ゴザに何か吐いたような赤黒いシミがある。気持ち悪い。

 キャンプで使うドーム型のテントの中にいるみたいだ。起き上がると咽せて咳き込んでしまう。なんだか息がし難い。這い出してみるとテントの上に更に工事現場の様な青いシートが重ねて被されており、空の光を透かしている。


 地面には段ボール紙が敷き詰められている。引き出しがついた衣装ケースみたいなのがある。他に段ボール箱。服とかタオルが入ったカゴ。本棚みたいなのとか。物置きみたいなところなのか。ユニットの棚にカップラーメンとかパン、缶ビールもある。クーラーボックスとカセットコンロもある。

 ここは何処なんだ? 昨夜も劇団の役者たちと新宿で軽く飲んで。そんなに遅くなかったはずだ。着ている服も昨日と違う。ヘンなジャージだか作業着だか分からない灰色のシャツと、紺色のズボン、汚い。誰かが俺を着換えさせてここへ運んだのか。怖い。

 三角に張られたブルーシートの一角がペラペラとぶら下がって外へ出られるようになっている。その脇にスニーカーやサンダルがある。汚くて履きたくないけれど、履いている靴下も穴が空いてボロボロだ。

 マシな靴を選んで外へ出てみる。周りは草むらが生い茂って山の中みたいだ。立ち上がろうとするとよろける。歩こうとすると足がついてこない。二日酔いなのか。腰が痛いのはゴザに寝ていたからか。

 風が吹いて草むらがなびく。草むらを出ると開けてきた。すぐそこに大きな川がある。川の向こう岸を見ると、街の遠くに灰色の高い塔が建っている。


 振り返ると土手の上を高架線の高速道路が遠くまで続いていて、車の音が響いている。ここは荒川とか江戸川とか、その辺りじゃないだろうか。ホームレスのブルーシートのテントで寝ていたんだ。何故こんなことになったのか。

 いや、それどころじゃない、今日は「当たりクジを手にした男!」最終日だ。今何時なのか?

 していたはずの腕時計はなくなっている。周りに時計なんかある訳がない。テントの中に戻って探してみると、小さな本棚みたいな物の上に小さなデジタル時計があった。12時48分! この時計は合ってるのか? 冗談ではない、マチネの開演が14時からで、既に小屋入りの時間を過ぎてるじゃないか!

 ここは何処なのか? タクシーがつかまえられるところへ行かなければ。ズボンのポケットには財布も入ってない。ここは誰の住み家なのか、誰もいないので分からない。テントの中を見回して、寝ていたドームテントの中を見ると、ゴザの上に透明なビニールポーチがあり、中にお札が入っている。

 一万円札が1枚と千円札が3枚、それに小銭が少し。なんだかお札の柄がヘンな気がする、気のせいか。誰のお金なのか分からないけれど、今は借りるしかない。

 金を全部ポケットに入れ、テントから出て、動き難い足を無理に交互に出して走り、低い土手に駆け上る。息が切れて咳がでる。いつの間にこんなに体力が落ちたのか、ゲホゲホと出るに任せて咳をしながら登っていく。

 土手に沿って続く高速道路の反対側も川になっていて、ここは中州らしい。

 タクシーをつかまえるために高速道路に上ることは出来ない。この川を渡る橋はないのか。ずっと向こうに橋がある。行ってみようと走り出すが、これは夢なのか思う様に走れない。近づいてくると高速道路の高架の下から橋が交差している。一般道かもしれない。

 ようやく辿り着いて橋へ上ると。川沿いを走る高速の入り口と、川を渡る橋の一般道が交差している。

 

 新宿がどっちなのか分からない、とにかくタクシーに乗らなければ。両方向からタクシーが来ないかと見る。

 こんなにビュンビュン走っている大通りには空車は来ないと思い、川とは反対の方へヨタヨタと歩いていく。

 暫く行くと道路の上に表示板があり、この先が千葉の〝船橋〟と書いてあるので、新宿は反対方向だから、こっち側でタクシーを拾えば方向は合っていると思う。

 やっとタクシーらしき車が近づいてきた。空車であって欲しいと願いながら両手を振り回す。飛び跳ねたいけど足腰が重い。

 ウィンカーを出して停車してくれた。黒いワンボックスで珍しい感じのタクシーだ。スライド式のドアが開く、もたつく足で乗り込む。


 運転手が振返り、俺の身なりが汚いせいかちょっと警戒する間がある。

「す、すいません……」

 といったのだが口が喋りにくい、声が掠れている。

 スライド式のドアが自動で閉まっていく。

「新宿の、靖国通り沿いの、厚生年金会館の、向かいにある劇場へ、行って欲しいんですけど」

 運転手は前を向いて答える。

「厚生年金会館ってもうないですけど、元あった場所でいいですか?」

「えっ……あの、靖国通りの」

「はい、靖国通りにありましたけど、今変っちゃってますよ」

「そうですか、でも、いいです、そこに行って下さい」

「はい。ここからだと大分かかりますけどいいですか?」

「お願いします」

 タクシーは走り出す。急いでいることを察してくれてるのか、運転手はグングンとスピードを出していく。

「この辺って、どのあたり、ですか?」

「はい?」

「駅でいうと、近いのって、何駅ですか?」

「ここだと新小岩だと思いますけど」

「新小岩……」

 中央線の駅だったろうか、聞いたことはあるけれど、行ったことはないと思う。

 俺はなんでこんなところにいたんだ? 何をやってたんだ? 誰かの悪戯か? 何かドッキリの番組とかで、何処からか望遠レンズで撮影しているんじゃないだろうか? このタクシーの運転手も仕込みだったりして?

「高速に乗った方が早いですけど、料金掛かってもいいですか?」

「はい、早い方で、お願いします」

 ここから幾らかかるのか、お金が足りなくなったとしても、劇場に着いたらスタッフか役者に借りればいい。午後二時からの本番に間に合わなければ大変なことになる。

 車はそのままさっきの橋へきて、交差する川沿いの高速道路の入り口へと曲がっていく。

「すいません、料金、どのくらいになりますかね」

「う~ん正確には分かりませんけど、一万くらいかな」

「そうですか」

 それならきっと大丈夫だ。とにかく開演に間に合わせなければ。運転席のダッシュボードのデジタル表示は十三時二五分。あと五分で場内への客入れが始まってしまう。

「す、すいません。僕、演劇をやってまして、これから、大事な本番がありまして、ちょっと、うるさいかもしれませんけど、声出しを、したいんですけど」

「いいですよ、どうぞお気になさらず」

「すいません。はっ、はっ、はぁぁぁぁぁぁぁ~ゲホッゲホッ……」

 まずい、これじゃ長いセリフが言えないじゃないか。ゆっくり深呼吸して、低い音から段々大きな音にしていく。

「は~ぁぁぁぁぁぁ~」

 大分出る様になったけど、ハスキーな感じに掠れてしまう。コレが俺の声なのか? 芝居のセリフを練習してみる。

「百億円の宝クジが当たって、その分け前に、ありつこうだなんて、そんな美味しい話がそう易々と……ゲホッゲホッ」

 もう一度繰り返し練習してみる。


 高速道路は川沿いの道を走ると、遠くに見えていた灰色の塔が左側に過っていく。それからまた川を跨ぐ橋を渡り、折り返すように川沿いを走り始める。左手に見えていた鉄の塔が今度は右側に見えて、近くに迫ってくると凄く巨大だ。

「あのすごい塔みたいなのって、最近出来たんですか?」

「いや、もう十年くらいになると思いますけど」

「そうですか……」

 タクシーはビル群の間を縫う様に走り、そこだけ森みたいになっている皇居の脇を抜けて、新宿に近くなってくる。

 時計は十三時三九分。客入れの時間を九分過ぎた。

 車は神宮外苑から一般道へ降りて、四ッ谷方向へと走り始める。急げ急げ、赤信号で止まるのももどかしい、足が貧乏揺すりしている。

 四ッ谷三丁目~四丁目を折れて新宿通りを左に、やっと来た! 目印になる歩道橋の脇に止めてもらい、料金九千六百円を慌ただしく払う。

 時計は十三時五二分。開演まであと八分、衣装は楽屋に置いてあるから、急いで着換えれば大丈夫だ、間に合うと思う!

 開いたスライドドアから出ると足が絡んで転んでしまう。痛がってるヒマは無い。立ち上がるのももどかしく転がる様に入り口へ走っていく。


 劇場へ入場する為に並んでいるお客さんたちの脇を、謝りながら、もたつく足で階段を下りる。廊下には観客に代金と引き換えにチケットを渡す受付けがいる。今日は沙由美が来て手伝ってくれているはずなのに、何故か知らない女性がやっている。そんなことより、早く楽屋で衣装に着替えなければ。

 通路を抜けて奥の楽屋へ駆け込む。

「ごめん、大変だったんだ」

 衣装が入っているロッカーが無い。見回すと中の様子が大分変っている。なにより役者がいない、知らない人たちがメイクしたり準備したりしている。

「なんですか?」

 と知らない男がいう。

「貴方、誰ですか?」と俺は問う。

「貴方こそ誰ですか?」

 ヘンなヤツが入ってきたというリアクションだ。

「俺は、高町直介ですけど」

「なんか関係者の方ですか?」

「え?」

 これも何か仕込まれていることなのか?

「今日は東京リバーシブルスの〝当たりクジを手にした男〟の本番じゃないですか?」

「いえ、僕たち〝烈風同盟〟の公演中ですけど?」

「……」

「どういったご用件でしょうか?」

「……」

「すみません、開演時間なんで退出してもらっていいですか」

「……」

 役者どころか知ってる人が誰もいない。呆然としたまま通路へ戻る。さっきの知らない女性がまだ観客にチケットと現金の引き換えをしている。何故沙由美は来ていないんだ?

 受付けの後ろの壁には「烈風同盟公演〝マドワックス2〟」のチラシやポスターが貼られている。

「当たりクジを手にした男!」のチラシはどこにも貼られていない。

 ふとオシッコがしたいと思い、楽屋の方へ戻って脇にあるトイレに入る。個室と小便器がひとつだけのいつものトイレ。

 小便器に立ち、ズボンの開け口に手を入れて探る。ムスコがシワシワでなんだか頼りなくなっている。チョロチョロと、小便の勢いもない感じだ。


 トイレを出ると客入れが終わったのか、受付けの人がお金の集計をしている。俺を見て「あの、お客さんですか?」と問うので「違います」と答えて通り過ぎる。

 通路を歩いて出口へ向かう。公演が始まったらしく場内から役者の言う台詞が小さく聞こえてくる。それは「当たりクジを手にした男!」の台詞ではない。


 階段を上がって外に出る。入り口の脇に立っているイーゼルには「烈風同盟」の公演ポスタ-が掛けられている。

 おかしい……入り口の上を見ると看板に「ブラッドホール」と表記されている。どうしてここは「靖国シアター」じゃないんだ?

 見ると、タクシーの運転手がいっていたとおり、車道の向こうにあったはずの厚生年金会館は無く、大きなピンピカのビルになっている。

 ……何処へきてしまっているのか。



   2



 誰かに電話してみようか、覚えている電話番号は自分の家と沙由美の家くらいだ。電話ボックスを探そう。確か向こうの方にあった様な……と新宿駅の方へ歩く。

 ここには紳士服の背広とか売ってる大きな店があって……お店はあるけれど、やはり何か違っている気がする。感じが新しくなっているというか。

 通行人に外国人が多い。それもアメリカ人とか中国、韓国っぽい人ばかりではなく、褐色のインドとか、アラブとか? 中東の国の様な人や、何処の国かも分からない話し声が飛び交っている。


 信号を渡って進んでいくと、このビルの壁面にへばりついた大きなカニが……カニ道楽のビルと一階の映画館、テアトル新宿の看板は新しくなっている。中学の頃からここでどれだけ名画を見たことか。

 でも電話ボックスはない。もっと先へいくと、松竹のピカデリーが、なんだ? 凄いピッカピカのビルに変っている! ピッカデリーだ。

 そんなことより、電話ボックスはないのか。あった、あれはきっと電話ボックスだ。もどかしく交互に足を引き摺るように歩く。息が途切れて咽せる。立ち止まってはゲホゲホと咳き込んでしまう。

 辿りついて、ガラスの扉を開いて入る。ポーチから小銭を出して、受話器を取り、十円玉を入れる。覚えている沙由美の家の番号を押す。

 呼び出し音もせずに「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません……」と電子音声が流れる。

 受話器を戻すとカチャンと十円玉が釣り銭口に落ちてくる。

 もう一度受話器を上げ、十円玉を入れ直し、今度は自分の家の電話番号を押す。

「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません……」

 どうして? 留守電にもならないなんておかしい。

 気が付くと電話機の後ろのガラスに自分の顔がうっすら写っている。なんだかやつれた感じで髪もボサボサだ。コレは俺なのか? 

 しょうがないので家に帰ろうと思う。電話ボックスを出て、行き交う人々の中、マイシティの方へ抜け、新宿駅へ向かう。スタジオアルタの大きなモニターがある。見るとその隣のビルにも大きなモニターが出来ていて、巨大なネコが立体映像になって飛び出してくる。なんだコレは! こんなのがあっただろうか、凄い技術だ。

 交差点を渡り、地下街への入り口から階段を降り、人でごった返している中を小田急線の切符売り場の方へいく。見ると突き抜けた巨大な通路ができていて、JRの改札を通らずに西口へいける様になっている。キョロキョロしながらいくと、西口の地下広場に出る。小田急線の方は凄く様子が変っていて、乗り場が何処にあるのか分からなくなってしまう。京王線の脇を行くと小田急線の駅に出るはずなのに。所々に掲示されている〝小田急線〟の矢印の方に進んで行くと、やっと切符売り場へ出る。

 金額を見ると経堂までが二百円に値上げされている。切符を買って改札までくると、駅員はおらず、通行ゲートの機械が並んでおり、通る人は何かピッと音が鳴る物を機械にあてて入っていく。切符で乗る俺はどうすればいいのかと見ていると、機械の差し込み口に切符を入れるとゲートが開き、通過しながら向こうに出てくる切符を取っていく仕組みみたいだ。真似して通過する。


 ホームにはドアを開いて電車が停車している。各駅停車なので乗る。車内にはドアの上にテレビがあって、何かCMを流している。

 空いている席に座る。そんなに混んでないので気のせいなのかもしれないけれど、俺の両隣に誰も座らないのは、身なりが汚いからなのかと思う。立って、なるべく人のいないところにいることにする。

 見ると席に座っている人は皆、小さな黒い手鏡の様な物をチョコチョコと弄りながら見ている。何か流行っている物なのか。

 ドアが閉まって電車が走り始める。地上へ出ると風景が流れ始める。いつもと同じ風景だな……と思って眺めていると、また地下に入っていく。何処か違う処に行く電車に乗ってしまったのかと不安に駆られていたら、なんと下北沢が地下の駅になっている。

 ……ここまでくると、もう誰かのイタズラとか、ドッキリとか、そうした次元ではない。でもこれくらいリアルな夢は何度も見たことがある。

 走ろうとして足がついてこないのも夢らしいじゃないか。何か違う世界にきた? パラレルワールド? 俺は今までいろんな空想をして、映画や舞台を企画して、フィクションの面白さを追求してきたから、これまでに鍛えられてきた想像力が創り出した幻想なのか。


 電車はまた梅ヶ丘駅から地上へ出た。豪徳寺駅も新ピカになっている。そして経堂駅はホームが雲の上みたいな高架になっている。線路も一路線増えたみたいに広く、巨大な駅になっている。

 階段を降りて改札を出ると、農大通りのアーケードが無い。俺のバイトの給料が振り込まれる〝太陽神戸三井銀行〟が、赤い看板だったのが緑色になって〝三井住友銀行〟と書かれている。

 駅が高架になったことで開かずの踏切がなくなり、すっきりしている。俺がバイトしているタロウレストランはあるだろうか。と思って駅の反対側へ高架をくぐってみると、駅前にあった駐車場はロータリーになっていて、駅名が表示されていなければここが経堂だとは分からないくらいピカピカになっている。タロウレストランのあった小さなビルも消え去っている。

 この夢はどういうコンセプトなのか、タイムスリップだとしたら中途半端だ。大きく変っているところと、変っていない部分が規則性もなく入り交じっている。まぁそもそも夢とは脈絡のないものだとは思うけど。

 

 とにかく家まで行ってみよう。また駅の元いた側へ戻って農大通り商店街を歩く。前もあったような無かった様な店が並んでいる。同じビルは幾つもあるけれど、入っているテナントの店は違っているみたいだ。

 牛丼の松屋はそのままあるけれど、会員証を持っているビデオのレンタルショップも、バイト仲間とよくいくカラオケ店もなくなっている。

 農大通りを過ぎて、車道を渡り、住宅街の中へ、家への道を進んでいく。もし家が無かったらどうしようと思う。よく酔っ払ってフラフラしながら帰ってくる道。半分目を閉じながらでも歩ける道。家のある路地へ曲がる角に電気屋の〝ハママツ電気〟がある。建物は新しくピカピカになっているけれど、ハママツ電気があるのだから、俺の家もあるだろう……と期待を込めて曲がっていく。

 白い二階建ての家は……黒い家になっている。三階建てになって。玄関の前に自転車が三台ある。表札を見ると〝矢城〟とある〝高町〟じゃない。玄関ドアにあるインターホンを押してみる。

「はい」

 とスピーカーから子供の様な声がする。

「すみません。あのぅ、高町という者ですが。この場所に住んでたんですけど、知らないですか?」

「……」

 沈黙したかと思うと、中から小さく声が聞こえてくる。

「……お母さん、前に住んでた人なんだって」

 そして母親らしい人が返答する。

「あの、どちら様でしょうか」

「すいません。以前にここに住んでた、高町と申します。つかぬことをお伺いしますけど、いつ頃から、ここに住まわれる様になりましたでしょうか」

「さぁ、十年くらいになりますけど」

「ここは、陽光生命の社宅だったと、思うんですけど、今もそれは変らないでしょうか」

「いえ、ここは購入しております、どういったご用件ですか」

「いや、いえ、いいです、突然すみませんでした」

 ……もうここは、俺の家じゃない。親父の会社の社宅でさえもなくなっている。


 仕方なく角のハママツ電気のところに戻る。この店はいかにも町中の電気屋さんといった感じで、ご主人と奥さんがせっせと経営している。おばさんにはよく通り掛かりの時とかに挨拶したことがある。中に入ってみる。

「ごめんください」と言いながら入っていくと、カウンターに座っていたおばさんが「いらっしゃいませ」と返事をする。

 俺を見たおばさんの顔にはやはり、なんか汚い人が入ってきた、という表情が見て取れる。おばさんの顔は急激にお婆さんになってしまったようで、何十年かの時の流れを感じる。でもこの世界にきて初めて知っている人に会えたのだから、恐る恐る訊いてみる。 

「あのすみません。以前、この隣の家に、住んでたんですけど」

「はい」

「前は、白い家が建ってたと思うんですけど、今の家はいつ頃建て替えられたとか、ご存じでしょうか」

「はい、知ってますけど、前の家を建て替えて十年くらいになりますけど、覚えてますよ、前に住んでましたよね」

「俺のこと、知ってますか?」

「一度何か凄い物音がして、ウチの娘が怖がって、やめて下さいって頼みにいったことありましたよね。何かトレーニングか何かしてドスンドスン音がして」

 あ……この前、空手の練習をしてた時だ。家に俺の他に誰もいなかった時に、二階の納戸は板敷きなので、空手の打ち込みの練習をしていたら。このおばさんが中学生くらいの娘さんを連れてきて、勉強してるのでうるさいからやめて下さいっていわれた。半年くらい前のことじゃなかっただろうか。

 と思いながら店の中を見ると、電化製品が展示してある中に、薄型なのに恐ろしく大きいテレビがあって、さっきからその黒い画面にチラチラと変なジイサンが映っているなと思っていたら、それはスイッチが入っていない画面に映っている俺らしかった。誰だコレは?

「あの、すみません」

「はい」

「あの、小さくてもいいんで、何か鏡ってないですかね?」

「鏡ですか」

「はい、すいません。できたら、ちょっと今だけ貸してほしいんですけど」

「いいですけど」

 と立ってカウンターの後ろの出入り口から中へ入っていき、手鏡を持ってくる。

「どうぞ」

「すいません」

 と受け取って見る。……ジイサンだ。なんだこの彫りの深さは? シワだらけで肌はザラザラしてぶつぶつだ。髪の毛は半分白髪で荒れ放題。汚らしく髭も生えてる。誰なんだ? でもよく見ると、俺が何十年か経ったらこの顔になるのかもしれないと思う。

「あの、今って何年ですか?」

「令和六年ですけど」

「令和……今日は、何日ですか?」

「六月四日ですよ」

 日付は合ってる、でも曜日はズレて火曜日になっている。壁に吊されたカレンダーには二〇二四年とある。

 二〇二四年……俺は一九六〇年生まれで、今二九歳だから、今は一九八九年のはずだ。二〇二四から一九八九を引くと三五。ということは、俺は三五年後の未来にいるという設定の夢なんだ。だから俺もここでは三五年分の歳を取っているということか、この姿は二九に三五を足して、六四歳になった身体なんだ。どうりで動きにくいし、声も掠れてる訳だ。

 おばさんは俺のいうことの変さに驚いて見ている。

「あの、もしかしてですけど、前に住んでた俺の家族って、何処に引っ越したとか、聞いてませんでしょうか」

「さぁ、いつの間にか引っ越してた感じでしたから」

「ですよね」

 おばさんに鏡を返し、変なことを聞いてしまったことを謝って店を出る。


 家も無かった……どうしようか、後はどうすればいいのか……夢なら早く覚めてくれと思う。

 三五年後の設定だということは、親父とお袋と兄貴はどうしてるのか。兄貴は二歳上だからこの世界では六六歳。親父は幾つなんだろう、俺が生まれた時親父はまだ二十代だったといってたから~二九歳で俺が生まれたとしても、そこに俺の実年齢二九を足して、そこから更に三五年経っているとすれば、九三歳。お袋は親父の二歳下だから九一歳。この世界の何処かで生きているんだろうか。

 兄貴はきっと生きてるだろう。週刊誌の編集社で働いてた。たしか氷河社という会社だ。今もあるだろうか、でも兄貴は六六歳だから定年しているか。会社がまだあれば居場所を知ってる人がいるかもしれない。

 電話番号は分からないので、公衆電話から一〇四の番号案内で聞ければと思う。また公衆電話を探しながら農大通りを駅の方へ戻っていく。

 洋服屋とか、コンビニとか、時々ガラス張りのショーウィンドウに俺の歩いている姿が映る。薄汚いジイサンのホームレスだ。

 そうだ、区役所へ行けば、住民登録があるから、家族が何処にいるのか調べて貰うことが出来るかもしれない。世田谷の区役所は何処だろう? 前に行ったことがある気もするけれど、確か電車で行ったような……と思いながら経堂の駅までくる。ピカピカになった交番があるので、聞いてみようと思う。

 入っていくと座っていた警察官が、不審者かな、という目で俺を見る。

「すみません。ここの管轄の区役所へ行きたいんですけど」と訪ねる。

「ここだと世田谷区役所ですね」

 と言って警察官は棚から地図を探してくれる。警察官の制服を見ると、三五年後の未来としては簡素化されているくらいであまり未来感がない。というか、良くいえば威圧感がなくなったともいえるけど、なんかアッサリしてる感じだ。もっとデザインを派手にするとか、三五年も経ってるのならロボコップとかいてもいいくらいなのに……などと考えが広がってしまう。こんな時でもそんなことを空想してしまうのは作家のサガというものなのかと思う。前に沙由美にいわれたことを思い出す。

 ……直介ってさぁ、付き合ってても何処か上の空っていうか、他人事というか、いつも自分のこと客観的に見てて、冷静というか、そこから何か空想してるでしょう。だから私と恋愛してる気持ちとかも何かホントじゃない様な気がするんだよね……。


 警察官が選んだ地図をカウンターに広げて見せてくれる。

「ここからだと歩くとちょっと遠いかな。豪徳寺へ行って、世田谷線で松陰神社前から五分くらいですね。でも区役所五時で閉まっちゃうから、今からだとちょっと急いだ方がいいかもですね」

 と警察官は親切に地図をコピーしてくれる。

「あ、ありがとうございます。あ、あとこの辺に公衆電話ってありますかね」

「そこの改札の手前のコンビニのところにありますよ」

「ありがとうございます」

 警察官のくれた地図のコピーを手に改札の方へ向かう。緑の公衆電話がある。一〇四の番号案内は今もあるのか……と思いながら十円玉を入れて番号を押す。すぐに繋がってお姉さんの声がする。兄貴が働いていた会社、氷河社の番号を知りたいというと、代表番号を教えてくれる。

 番号をメモする物がないので、一生懸命頭の中で繰り返し、すぐにかける。ちゃんと氷河社に繋がった。

 編集部にいた高町浩一という名前をいっても、現在そういう者は在籍していないという。「六年前までは勤めていたはずなんですが」といっても、分からないという。仕方なく電話を切る。


 電車に乗る前に沙由美が住んでいる公団のアパートに行ってみようと思う。よく夜中に送っていった。駅から住宅街を抜けて行くと大きな公園があって、公園の脇を回り込む様に歩いていくと……外装が白く綺麗になった団地が並んでいる。沙由美の住んでいた号棟は分かる。自宅だったので入り口までしか行ったことはないけれど。……沙由美が家族と住んでいたその部屋は、表札の名前が違っている〝杉元〟ではない。

 仕方なく諦めて駅の方へ戻る。もうくよくよしていてもしょうがないのだ。


 経堂駅に戻り、豪徳寺まで一駅の切符を買って小田急線に乗る。豪徳寺で降りて、小田急線の高架下を交差している路面電車の山下駅へいく。

 駅の様子はほぼ変ってないけれど、ゴトンゴトンと入ってきた車両はあのレトロな感じだったのが、ピカピカでちょっと未来的な車両になっている。料金の支払い方は変ってないようだ。車両の入り口の脇にある支払機にお金を入れて中に入る。四つ目の松陰神社前駅で降りて、警官がくれたコピーを見ながら街中を歩いて行く。

 辿り着いた区役所の建物は古く、三五年前から変っていない設定なのだろうと思う。ずっと前に何かの証明書をもらいに来たことがあると思うけど、よく覚えていない。

 一般客向けの入り口を入って、並んでいるカウンターの何処へいったらいいか分からないので、近場のカウンターの人に、住民登録の係は何処ですかと訊く。その番号の窓口に行き、座っている女の人に訪ねてみる。

「すみません。経堂に住んでた高町と申しますが、家族の転居先を調べて欲しいんですけど」

「はい? ご家族の転居先ですか?」

「はい、ちょっと事情があって、分からなくなってしまってるもんですから」

「何かご身分を証明出来る物お持ちですか? 免許証とか保険証とか」

「いえ、何もないんですけど」

「お名前フルネームでお伺いしてもよろしいですか」

「はい、タカマチナオスケと申します」

 というと、係の人は両手でキーボードをカチャカチャと打って、ハママツ電気にあったような薄っぺらい、でも小型の画面を見つめる。

「お名前で検索をかけてもヒットしませんね。少なくとも令和元年より五年前には転居されているのではないかと思いますけど」

「はぁ、それはもう、探す方法は無いでしょうか」

「そうですね、令和元年以降は住民票の保存期間が一五〇年になったんですが、令和元年より以前は五年だったんです。元年以降でしたら残ってたと思うんですけど」

「年号は昭和から平成になって、また変ったんですか」

「はい、そうですけど」

「そうですか」

 一度窓口を離れようとしてまた振返る。

「あの、すみません親の本籍が阿佐ヶ谷にあると思うんですけど、戸籍が残ってれば、家族が今住んでる処も分かりますかね」

「いえ、戸籍には生まれた場所とか、ご本人の誕生日は記載されてますけど、現住所は記載されてないと思いますよ」

「そうですか、今生きてるかどうかも分からないですかね?」

「もし亡くなってる場合には、死亡届けが提出されていればその旨の記載があると思います。でも戸籍謄本は何かご家族であることが証明できるものがなければ発行して貰えないと思いますけど。やっぱり免許証とか、保険証とか」

「……そうですか、ありがとうございます」

 ……免許証も保険証も、持っていたはずだけど、今は何処にあるのか分からない。

「何かお困りの状況でしたら他の相談窓口をご紹介しましょうか」

「いえ、いいです」といってその場を離れる。

 区役所を出る。どうしたものか、取りあえず松陰神社前駅に戻るしかないか。


 歩いているとこの辺りは沙由美と飲んだ帰りに夜な夜な歩いた覚えがある……沙由美はどうしているんだろう。電話も繋がらなかったし、団地にもいなくなってた。俺より六歳下だから、この世界での俺が六四歳として、沙由美は五八歳……とっくに結婚して、孫とかもいるのかもしれない。それでもいいから会いたいと思う。沙由美なら話せば今俺が置かれている状況を分かってくれると思う。どうにか探し出す方法は無いのか。

 どうしよう……本当に夢じゃないのか? 本当にタイムスリップとかパラレルワールドにきているのだとしたら、元に戻る方法はないのか。

 あの荒川だか江戸川だかの、あのテントに何か手掛かりがあるんだろうか。あのテントの持ち主は誰なのか、俺があそこにいた理由が分かれば、何かヒントがあるかもしれない。

 俺は今二九歳なんだ。これから演劇界で成功して、テレビドラマや映画の脚本も書き、俳優として出演もして、国内だけじゃない、ハリウッドにも招かれて、普通にアカデミー賞を取って、歴史を変えるくらいの活躍をするはずなのに。この三五年後の設定は何なんだ! 俺が将来こんなホームレスのジイサンになってる訳がないじゃないか。


 松陰神社前駅へ戻り、世田谷線に乗る。座席に座っている人たちは相変わらず黒い手鏡みたいなのをいじっている。山下駅までくると豪徳寺駅の切符売り場へきて路線図を探す。テントのあったあの場所は、タクシーの運転手が新小岩駅の近くだといっていた。ここから新小岩へはどう行ったらいいのか、路線図には小田急線の範囲しか掲示されていないので、改札の脇にある事務所へ行き、駅員の人に聞いてみる。

 新宿から中央線で御茶ノ水。そこから総武線の千葉行きに乗り換えればいい。と教えてくれる。新宿までの切符を買って改札を入り、高架のホームへと上がる。

 家も、バイトしてる店も無くなってたし、家族も彼女も見つけられない。誰にも連絡がつかない、帰る場所もない。金はあと二七六六円しかない。ふと、また経堂へ行ってあの親切な警察官に事情を話せば何か協力してくれるだろうか、と思う。でもどう話していいのか分からないし、そういうのは最終手段だろう。

 本当にコレは夢ではないのか、こうしてるうちに普通に家で目が覚めて、今日の公演に間に合う時間であれば、よくあるリアルな夢を見たというだけのことになる。このタイミングで何故こんな夢に翻弄されなければならないのか。何かの罰なのか? 神様が俺に何かを学ばせようとしているのか?



   3



 ホームに入ってきた各駅停車の新宿行に乗る。梅ヶ丘駅を過ぎると電車は地下に潜り、世田谷代田を過ぎると次は下北沢だとアナウンスされる。

 下北沢にある小劇場〝アクターズ劇場〟では三年前に俺の作・演出の第二作「とても小さな物語」を上演した。まだあの劇場はあるだろうか、新宿の〝靖国シアター〟が〝ブラッドホール〟に変っていたように、違う劇場になってしまっているだろうか。

 もしやと思い、新宿まで買った切符はもったいないけれど、下北沢で降りる。

 近代的な? 地下のピカピカの駅になった構内は、どっちがどっちなのかまるで分からない。取りあえず出てみようと思い、エスカレーターを上って改札口を出る。ここは前にあった駅のどの場所だったのか、高架を走っているのはきっと井の頭線だと思うから、その位置関係から段々分かってくる。よく仲間の芝居を見にきていた〝駅前劇場〟がまだある。さすが老舗というのか、三五年も経って街の様子もまるで違うのに、普通にあるのが凄い。などと思いながら〝アクターズ劇場〟があった場所へ、商店街の路地を抜けていく。

 たしかここに中古レコードの店があって、右に曲がるとこの先には本多劇場があるはずだ〝アクターズ劇場〟とは反対側だけれど、確かめたくなって進んでみる。あった、本多劇場もちゃんとある。アマチュア劇団はここか新宿の紀伊國屋ホールで上演が打てればステータスなのだ。

 元の路地まで戻って〝アクターズ劇場〟があった方へ進んでいく。この先のビルの一階に入り口が、あった! ビルのテナントの看板に〝アクターズ劇場〟とある。

 地下に降りると劇場で、公演が行われているのか入り口に劇団のポスターが貼ってある。

 二階にある事務所を訪ねてみようと思う。劇場名が変っていないということは、経営者も変っておらず、公演の記録とかも残っているんじゃないだろうか。劇団リバーシブルスの公演記録が残っていれば、当時の出演者やスタッフの連絡先が分かるかもしれない。


 階段を上がり、廊下に並ぶ幾つかのドアを見て〝アクターズ劇場〟と表札があるドアをノックする。

「はい」

 と返事があったのでドアを開いて入る。狭い室内のデスクで作業している三〇歳くらいの男がいる。ここでも俺を見て「ん?」というリアクションには慣れてきている。

「あの、すいません。随分前なんですけど、こちらで上演させて頂いた東京リバーシブルスの高町直介と申します」

「はい」

「すいません。突然お邪魔して、変な話で申し訳ないんですけど、出来たらあの、当時の公演の記録とか、残ってませんかね」

「いつ頃ですか?」

「一九八六年です」

「一九八六年!」

 俺にとってはまだ三年前だけれど、この世界では三五を足して、三八年前のことなのだ。

「ちょっと見てみましょうか」

 といって男は立ち上がり、脇にある大きな書庫を開くと分厚いファイルがいっぱい入っている。

「劇団名は何でしたっけ」

「東京リバーシブルスです、劇の題名は〝とても小さな物語〟です」

 男は書棚から分厚いファイルを二冊出してきて、ペラペラと捲って調べてくれる。

「一九八六年の何月ですか?」

「えっと、一一月だと思いますけど」

「あ、ありますね〝とても小さな物語〟東京リバーシブルス」

「あ、ありがとうございます。見せて頂けますか」

 といって近づくと、ファイルを俺に向けながら少し離れる。やはり俺は臭いのだ。

「凄いですね、こんな古い記録も残ってるなんて」

 というと男はちょっと親近感を覚えてくれたのか、気さくに答えてくれる。

「僕はまだここ三年くらいですけど、劇場が出来てからの記録は全部あるみたいですよ」

 ファイルの「とても小さな物語」の欄を見ると、作・演出の俺の名前と、主要な出演者の名前が記載されている。電話番号は代表の俺の番号だけ。

「すいません。実はあの、俺、記憶喪失なんですけど」咄嗟に言葉が出た。あながち間違った状況ではないし、むしろ上手い説明だと思う。

「はい?」

「以前のこと、全然覚えてなくて、自分でその、自分の過去のこと調べてるんです」

「それは、いつ頃から覚えてないんですか?」

「俺がそのお芝居をした三年後の、二九歳の時なんです、三五年前からです」

 男は俺の顔を見つめてくる。突飛な話だけれど、あり得ない話ではないだろう。この男も演劇に携わる仕事をしてるくらいだから、それくらいの想像力はあるのではないか。

 男は席に戻る。デスクの上には区役所の人が使ってたのと同じ薄っぺらいモニター画面とキーボードがある。

「お名前フルネームでお願いできますか」

 区役所と同じことを聞かれる。

「タカマチナオスケです」

 男はカチャカチャとキーボードを打つと、モニターの画面が切り替わっていく。

「あ、ありますね、これじゃないですか」

 とモニター画面をこちらへ向けてくれる。そこには俺の写真が、この老いぼれた姿ではなく、元の二九歳とまではいかないまでも、今よりずっと若いと思われる顔が映されている。

「なんでこんな、コレはなんなんですか?」

「劇団のホームページだと思いますけど」

「ホームページ?」

「はい、覚えてないんでしたら、きっと記憶を無くされた後に作ったんじゃないですかね」

「作ったって、誰がですか?」

「さぁ、自分でとか?」

 男がデスクの上で半円形の玉みたいなのを滑らせると画面が切り替わる。

 見ると劇団東京リバーシブルスのこれまでの公演記録がリストになっている。初めての作・演出作だった一九八五年の「ロサンゼルス・プロフェッサー殺人事件」そして一九八六年の第二作「とても小さな物語」一九八七年の第三作「クリエイターズ・ゲーム」一九八八年の「同窓会で交霊会」そして一九八九年の「当たりクジを手にした男!」と続き、更に一九九〇年に「5人のイカロス」という作品が掲示されている。

「5人のイカロス」そんな作品は俺は知らない。きっとこの世界にきてしまった後に? 元の世界の俺が書いて演出したのか? 記載された上演記録はその作品で終わっている。

「あのう、この最後の作品の後、俺がなにしてたか分かりませんか」

「そうですね」

 と男はモニター画面を自分の方へ戻し、小さな玉みたいなのを激しく滑らせたり、指でカチャカチャ押したりする。

「その他は……あ、小説も書いてるみたいですよ」

「えっ? 小説ですか?」

「はい、投稿サイトにアップしてますね」

「見せて下さい」

 というとまたモニターを俺の方へ向けてくれる。見ると幾つかの小説の題名と、著者名に〝高町直介〟と俺の名前が記されている。

 俺が……小説もこんなに書いたのか。

「あの、それは、出版されてるんですか」

「いや、コレはアマチュアの投稿サイトなので、出版社から出版されてるというわけじゃないと思いますけど」

「アマチュアの……それはでも、一般の人は読めないんですか」

「いや、コレは誰でも読めると思いますよ、こうすれば」

 とまた機械を操作すると「生霊との戦い」というタイトルの下に横書きの文章が表示され、男が操作すると画面が下にず~っと流れて小説の文章が続いている。

 ……これを、俺が書いたのか「生霊との戦い」って、どんな内容なんだろう……。

「コレ、ホントに俺が書いたんですかね?」

「そうだと思いますけど、作者のプロフィールにも、元〝劇団リバーシブルス〟を主宰してたって書いてありますし」

 元……ってことは劇団リバーシブルスを辞めて、小説家に転じたということなのか。

「コレは、この小説を読みたい人はこの機械の画面で読むということなんですか」

「いえ、スマホでも読めると思いますけど」

「スマホ?」

「はい」

「それはどんな?」

「コレですけど」

 と男がポケットから出したのは、電車の中で皆がコチョコチョと触っているアレだ。

「そんな小さなので見れるんですか」

 男はコチョコチョと操作して画面を見せてくれる。モニターに映ってたのと同じ文章が小さな画面に表示される。

 俺の書いた小説……俺は一体どんな小説を書いたというのか。でも東京リバーシブルスはどうしたのか「当たりクジを手にした男!」の後「5人のイカロス」という作品を上演して、その後は? 劇団はどうなってしまったのか。

「あの、東京リバーシブルスがその後どうなったのかは分からないですかね?」

「そうですね、解散したとかそういうことは書いてないですけど、分かりませんね」

「そうですか、ありがとうございます」


 俺が書いたという小説を読んでみたい。学生の頃は8ミリ映画を作って巨匠だといわれてた。大学二年の時に俳優の養成所に入って、そこで知り合った仲間たちと劇団東京リバーシブルスを作って、舞台作品を五本上演して。俳優としても将来を渇望されていた。この世界の俺の過去は、実際の俺の未来とは違うと思うけど。この世界での二九歳の俺がその後どうなっていたのかを知りたい。

「あの、その他にはもう、情報ないですかね」

「そうですね、今見たところだとそんな感じですね、あ、高町さんの戯曲〝ロサンゼルス・プロフェッサー殺人事件〟が学芸大学で上演されるみたいですよ」

「えっ!」

 とまたモニターを覗き込む。

 そこにはたしかに〝ロサンゼルス・プロフェッサー殺人事件〟のタイトルと俺の名前が、上演する劇団は〝劇団カリカチュア〟という知らない名前だ。

「本当だ、でも、なんで?」

「コレは多分ですけど、戯曲の掲載サイトにアップしてたんじゃないですかね?」

「掲載サイト?」

「はい、一番有名なのは〝ライオンの翼〟というところですけど……あ、ここですね、やっぱり高町さんの作品掲載されてますよ」

 見ると、画面には「ロサンゼルス・プロフェッサー殺人事件」を上演した時のチラシが映っていて、画面を変えると台本の本文が表示される。ちょっと読んでみると、それは確かに俺が四年前に上演した台本の文章だ。

 劇団を作って初めて作・演出した作品だった。台本には絶対的な自信を持っていたけれど、学生の頃の自主映画と違って、チケット代金二〇〇〇円という、人様からお金を貰うということにプレッシャーがあって、ドキドキしていた。でも始まってみたら、俺が作った物語に人が笑ったり、固唾を飲んだり、泣いたりするのを見て、絶大な喜びを感じた。自分の才能を確認することが出来た。それから演劇というものの勘もつかめて先へ進むことができたのだ。

 そうか、あの作品を他の劇団が上演するのか、俺が二五歳の時だから、この世界の今からすると三九年も前の作品なんだ。それなのに今も上演されているなんて、やっぱり俺の作品はそれだけ人を惹き付ける魅力があるということなんだ。

 男が教えてくれた台本掲載サイト〝ライオンの翼〟の俺の項目には、他にも「同窓会で交霊会」と「当たりクジを手にした男!」と「5人のイカロス」の台本が掲載されている。「5人のイカロス」は記憶を無くした後の作品らしいから知らないけれど、その他の三本は紛れもなく俺の作品だ。

「このサイトで戯曲を読んだ劇団の人が、高町さんに連絡して上演の許可を取ったんじゃないですかね」

 記憶を無くす前の俺が許可をしていたということか。

「あの、その公演はいつからやるんですか?」

「え~っと、明日からみたいですね、日曜日まで」

「えっ、劇場は何処ですか」

「学芸大学の百本桜劇場ですね」

 百本桜劇場……それは一昨年に俺の第三作〝クリエイターズ・ゲーム〟を上演したところだ。よく知っている。あの劇場もまだこの世界に残っているんだ。

「そうですか、どうも、ありがとうございました」といって立ち上がり頭を下げ、出入り口のドアに向かう。

「あのう」

 と男が声を掛けてくる。

「あの、こういう言い方が適切なのか分かりませんけど、お大事になさって下さい」

「あ、はい、ありがとうございます」

 といってもう一度頭を下げ、出入り口のドアを出る。



   4



 あの男がデスクで操作していたあの機械があれば、他にも演劇仲間とか、家族のことも調べられるのかもしれない。貸して欲しいけどそこまで頼むことはできないだろう。せめてあの小さい方の黒いのがあれば、電車の中で皆が持ってたから、それほど高いものではないのかもしれない。けれど今の俺には買えないだろう。 

 外へ出ると陽が傾いて、少し暗くなってきた。風が冷たく感じる。下北沢を行き交う人たちの雰囲気は変ってないみたいだ。というか前よりも自由度が進んでいるというか、人の着ている服も、バラエティに富んでるというか。だから汚い格好の俺でもそれ程浮かずにすんでいる。

 どうしようか、知らない劇団が明日からやるという「ロサンゼルス・プロフェッサー殺人事件」を見てみたいと思う。主人公は売れない小説家で、その男と離れられない腐れ縁の女。そしてその女に惚れている編集者の男。その三角関係で進む展開。それに主人公が書いてる殺人事件の物語が劇中劇としてリンクしていく……主人公の登は過去の失恋の悲しみを小説に込めていたことが明らかになってくる。そのせいで作品は暗い結末となり、編集社から出版して貰えなかったのだ。

 登は作品に込めた切実な思いの為に死んでも信念を貫くのか。それとも信念を失ってでも、人としてささやかな倖せをつかむべきなのか……観客はスリリングで面白い展開に引き込まれながら、そんなことを考えさせられる作品だ。

 上演を見たいと思うけど、もう持っている金は二七六六円しかない。作者だといえば只で見せてくれるのかもしれないけれど。もし今新小岩のテントに戻って、テントの持ち主が帰ってきてしまったら、取りあえず残った金は返さなければならないし、もう電車に乗ってこちらへ来ることは出来ないかもしれない。 

 ピンピカになった下北沢駅へ戻ってくる。考えてみれば、明日から本番だということは、今日は場当たりやゲネをやってるはずだ。それを見ることが出来れば、殆ど本番と変らないはずだから。今から行って見せて貰うことは出来ないだろうか。


 学芸大学へは井の頭線で渋谷から東横線で四つ目だ。ここからそれ程かからない。今何時なのだろう。まだ明るいし、六時くらいだろうか。行ってみようと思う。

 小田急線の入り口と平行する様に井の頭線の入り口がある。切符を買って自動式の改札を入っていく。エスカレーターを上がって高架のホームに出る。ここは学生の頃経堂から日野市にある大学へ通うのに、乗り換えてた時と同じ雰囲気だ。

 入ってきた電車に乗る。夕方になって大分混んできた。車内に入ると、薄汚い俺に気付いた人は避けていく。


 渋谷駅のホームは変っていない。改札を出ると、東横線への通路はピカピカになって別の場所みたいだ。と思って人混みの中を歩いて行く。すると何故か銀座線のホームの入り口になってしまい、東横線のホームが見つからない。

 キョロキョロと表示がないかと見ながら歩いて、ようやく東横線への矢印を見つける。そこから所々に表示されている矢印を辿っていくと、違う方へ誘導されている様で混乱してしまう。でもそう書いてあるのだから行くしかないと思って歩いていく。

 東横線の駅は地下になっていた。そりゃ下北沢だって地下になっていたのだから、この世界ではこういうこともあるのだろうと思うけど、度肝を抜かれた。

 学芸大学までの切符を買って改札を入る。あの広大だったホームがこんな地下のせせこましいところに押し込まれてしまったのか、それに渋谷は終点ではなく、そのまま線路が反対方向の地下鉄に続いているみたいだ。

 乗る電車の方向を何度も確かめて、横浜方面への各駅停車に乗る。通勤客たちが帰る時間なのか凄い混雑で、俺の服が汚いので周囲の人に悪いと思いながら、なるべく小さくなっている。



   5



 学芸大学駅に着いた。高架のホームから人混みと一緒に階段を降りる。駅を出ると右の道に入って、幾つ目かのビルの3階だったはずだ。

 あった、雑居ビルの壁面につけられた看板の中に〝百本桜劇場〟と表示されている。

 階段を3階まで上ると、壁際にある受付用らしいテーブルに〝劇団カリカチュア Vol,4「ロサンゼルス・プロフェッサー殺人事件」〟のチラシが置かれている。見るとちゃんと〝作・高町直介〟と印刷されている。

 場内への入り口のドアは開いているけれど黒い幕が張られている。

 明日から本番で、今の時間はゲネとか場当たりの真っ最中だと思うけど、どうしても覗いてみたい。中から人の声が聞こえるので耳を澄ませていると、台詞の遣り取りをしている様子だ。台詞を言っている女の声が聞こえてくる。

「……人が人を好きになるエネルギーには、それぞれに一定量が定められている。僕はそのエネルギーをひとりの女性に使い果たしてしまった様だ。その人の名は、キョーコ……」

 俺の書いた台詞だ。小説家志望の登と同棲しているけれど、生活力のない登に利用されているだけの可哀想なヒロイン、美由ちゃんの台詞だ。これは美由ちゃんに横恋慕している編集社の大野に、登が何故こんな小説を書いたのかを説明している場面だ。顔は見えない女優さんの台詞が続く。

「……登さんにとってキョーコは絶対的な神みたいな存在なの、だってもう何処でどうしているかも分からないのよ、誰かと結婚しちゃってるかもしれないのよ、それでも忘れられずに登さんは自分の意識とか精神とかを支配されているんだわ」

 次は大野のセリフだ。

「でもさ、それがこの小説の中に出てくるキョーコのモデルになっているんだとしたら、どうしてこういう結末にならなきゃいけないんだい?」

「つまりね、キョーコさんは登さんにとって憧れの女性なんだけど、それでいて不幸でなければならないの、登さんの気持ちを裏切った人だから」

 ……四年前に上演した台本のセリフが、一語一句そのまま語られている。

「あの、何か」

 と後ろから声を掛けられてあっと振返ると、階段を上がってきたらしい小柄な二〇歳くらいの女の子がいる。きっとこの劇団の関係者だろう。

「あ、すみません大変なところ、あの俺この台本の作者の高町です」というと表情を和らげる。

「あ、そうですか、今日はなにか」

「実は、明日からちょっと用があって、本番見られないもんですから、ちょっとゲネだけでも見せて貰うことは出来ないかと思いまして」咄嗟に出たけれど上手い言い訳だと思う。

「邪魔にならない様に隅の方で見てますんで、入れて貰うことは出来ないですかね」

「はい、ちょっと待って下さい」

 といって入り口の幕を捲って入っていく。こんなタイミングで戯曲の作者に来られるのはやっぱり迷惑かな、と思って待っていると、中から聞こえていた台詞の遣り取りが途絶え、女性が戻ってくる。

「あ、どうぞ、ちょっと狭いですけど」

「すいません。ありがとうございます」

 といって幕を捲って入る。暗いけど場内の間取りはよく知っている。

 照明に照らされた舞台の上には、上手に人物が出入りするドアがあり、下手にはテーブル兼劇中劇のパートでベッドになる平たい台がある。主人公の登が暮らすアパートのパートと、登が書いている小説の物語を展開する劇中劇のパートとで、転換がし易い様に簡素に設定したのだ。 

 入れてくれた女性は客席のひな壇の脇に折り椅子を用意してくれる。

「ここでいいでしょうか」

「ありがとうございます」といって座る。

 ライトに照らされた舞台には美由と大野の役を演じる役者さんがいる。東京リバーシブルスでやった時とは大分違う感じだ。

 暗い客席のひな壇には何人かの人たちがばらけて座っている。きっと他の役を演じる役者さんたちなのだろう。

 ひな壇の中央に折り椅子を置いて座っている男がいる。俺を見て軽く会釈する。きっと演出してる人なのだろう。

「ケイコさんどうですか?」とその男が後ろを振返っていうと、照明ブースの中にいる女性が答える。

「うん、お二人とももう半歩ずつツラに出てみてくれますか」

 いわれた美由と大野を演じる役者が立ち位置を半歩ずつ舞台の前方に寄る。

「はい、そのくらいがいいですね」

 二人が「はい」と答える。照明の光が当る位置を調整しているのだろう。

「それじゃクリップ・マーロンの出からいきます」と演出がいうと、ひな壇に座っていた役者たちが舞台に上がっていく。着ている衣装や風貌で誰が何の役なのか大体見当がつく。

 こんな風に俺の書いた台本が知らない劇団で演じられるのを見るのは初めてだ。これまでの、俺がこの世界にくる前の二九歳からの三五年間で、他にもあったのだろうか。

 役者たちのスタンバイが整うと、演出家が「はいじゃいきます、よーいハイッ」と言って手を叩く。

「私立探偵のクリップ・マーロンです」

 といってクリップ・マーロン役の男が上手のドアから入ってくる。下手の座卓では登が小説の原稿を書いている。ここは登の脳内にいる妄想のクリップ・マーロンと、現実の登とが初めて相対する場面だ。

 照明の色が変る。これまでの登のいた現実から、劇中劇の世界に変ることを照明を変えることで表現しているのだろう。

 クリップの登場に驚いた登が振返る。

「出たな……」

「私が何をいいに来たかは分かってるだろう」

「さぁて、分からんね」

「とぼけるなよ」

「とぼけてなんかいないさ」

「私はお前が創り出したクリップ・マーロンなんだぞ。いわばお前の潜在意識が作り出した分身だ。だから私はお前がお前についてお前が気付いていないことも分かっているんだ」

「どういうことだ?」

「どうした? 何を恐がっているんだ? 俺はお前の分身だと言ったろう、自分が恐いか?」

「恐い訳なんかないだろう」

「それでは結論から言おう。アンタは犯人を間違えた」

「馬鹿な、コレは俺が書いた小説だぞ、間違えるとかそういう問題ではないだろう」

「小説の世界には小説の世界における真実というものがあるんだ。アンタはそこから目を背けている。そんな嘘っぱち小説だから出版しろという方が無理なんだ」

「お前は俺が書いた小説の人物のくせに、俺に楯突くつもりなのか」

「それじゃ今それを証明してやろう。皆さん入って下さい」

 というとエリザ夫人を始めとして、殺されたダン・アレックスの長男ジムと、その恋人スカーレット、それに次男のノーマンと養女のキョーコが入ってくる。

 見ているとゾワゾワと鳥肌が立ってきた。

「どうですか?」と照明ブースにいる、さっきケイコと呼ばれた女性が演出家に声をかける。

「うん、良い感じですね、色が変っていくタイミングもいいんですけど、もう少しゆっくり変化してった方がいいかな」

「はい、やってみます」といって照明を元のアパートの色に戻し、そこから少し青みがかった色に変えていく。

「どうです?」

「はい、いいと思います。マーロンの後でさらにエリザたちが入ってくると、より色が濃くなってく感じで」

「了解です~」

「はい、じゃもう一回戻ってマーロンの出から返します」

 役者たちがもう一度登を残して上手のドアから出ていく。

 マーロンが入ってきて、それに続いてエリザ夫人たちが入ってくるのと同調しながら照明が変り、芝居はさっきのところから続いて、マーロンが真犯人であるエリザを追求するシーンになっていく。

「……エリザ夫人、貴方が私に屋敷内の全ての部屋の合鍵を渡したのは、キョーコの部屋で私に証拠を見つけさせ、キョーコに罪をなすりつける為だったんですね」

「何をいっているのよ、私が最愛の夫アレックスを殺す訳がないじゃありませんか」

 そこでマーロンは以前から顔なじみだった長男のジムに尋ねる。

「なあジム、この事件が起きた時、最初に俺を呼ぼうと言い出したのは誰だ」

「それは……」

「エリザ夫人だろう?」

「ああ、だけどもうキョーコは自分が犯人だって自白してるじゃないか」

 ……俺が上演した時とは役のイメージが大分違うけど、役者さんたちは中々上手い。ほんの少しの場面を見ただけなのに、嬉しくて胸が熱くなり、涙が溢れてくる。

 次はヒロインのキョーコが自棄になって、自分がやってもいない殺人の罪を被ろうとマーロンに喰ってかかるセリフだ。

「私が犯人よ! もう事件は解決したわ」

「何故そんなことをいう? 君は自分で自分を不幸にしたがっている」

「大きなお世話だわ!」

 マーロンがキョーコの頬を引っぱたき、マーロンは止めに入ってきた皆を振り払って、この劇中劇の作者である登につかみ掛かっていく。

「全てはお前のせいだ! キョーコはお前の恋のシンボルじゃないのか! こんなことをして何が面白いんだ!」

「そんな台詞は、俺の小説にはでてこない!」

 ……そうだ。キョーコは俺にとって永遠の恋のシンボルなんだ。手の届かない人、絶望的に美しくて、優しくて、でも決して俺のことを好きになってはくれない。現実のキョーコの名前は木下京子。大学の映画研究部で三年上の先輩だった。俺の作った映画「わすれえぬ情景」の主役だった。

 俺は現実に絶望的な片思いをしていた京子さんをモデルにしてこの台本を書いた。俺の切ない恋心をこの作品に込めた。

 ……現実の京子さんはこの世界にいるんだろうか、いるとしたら俺の三コ上だから六七歳か。元気でいるんだろうか。


「わざわざお越し頂いてありがとうございます」

 場当たりが一段落ついたのか、演出の男がこちらへくる。Gパンにくたびれたシャツを着て、黒縁眼鏡をして、まだ大学生くらいにも見える。

「いえ、すいません大変なところを、お邪魔してしまいまして」

「いえいえ、この度は台本の使用許可を頂いてありがとうございました」

「いえこちらこそ、あの、つかぬことをお聞きしますけど、この台本のことは何処でお知りになりましたでしょうか」

「はい〝ライオンの翼〟っていうサイトで読ませて頂きました、でメールさせて頂きましたけど」

 やはりそうなのか……。

「あの、ホントに変なことお聞きしますけど、その時の僕からの上演許可っていうのはどういう形できましたでしょうか」

「上演許可のメールを頂きまして、上演料ももうお振り込みしてると思いますけど」

「上演料? それって幾らでした?」

 男は不思議そうな顔をする。

「あ、すいません。実はちょっと私今痴呆症になってまして」

 また嘘をついた。けどこのくらいのジイサンの容姿ならリアリティもあるだろう。この世界へきてからポンポンと嘘がつける様になっている。

「良かったら、その時私からきたメールって、見せてもらうこと出来ますかね」

「はい、頂いたメールは……」

 と男はポケットから例のスマホというものを抜き出してチョコチョコと弄る。

「これですね」

 といって見せてくれた画面には「このメールをもって上演許可とします。上演料のお振り込み先は……」と続き、銀行口座の番号が記されている。これが俺が送ったメールらしい。日付は二〇二三年の一〇月とある。今から八ヶ月くらい前だ。上演料は五千円になっている。


 演出家によると今日は照明と音響を合わせる場当たりをやって、明日の本番は夜なので、その前に午後からゲネプロをやるのだという。 音響と照明のタイミングを確認しながら進む各場面に感動しながら見ていると、劇場の退出時間である九時になった。

 自分の書いた台本を他の劇団で上演されることがこんなにも嬉しいことだとは、今までの俺は知らなかった。

 〝ライオンの翼〟というところには他にも沢山の作品がある中で、何故俺の「ロサンゼルス・プロフェッサー殺人事件」を選んでくれたのか、もっと話を聞きたかったけれど、明日から本番で大変な時なので、突然お邪魔させて貰ったお礼をいって、最終日まで頑張って下さいといって劇場を出る。



   6



 外はすっかり夜になっている。なんだか腹が減ってきた。昼間あのテントで起きてから何も食べていない。リアルに腹が減るということは、これが夢ではなくて現実だということなのか。駅の周りにラーメン屋とか、牛丼屋とかあるけれど、所持金はあと二四四六円しかない。無くなってしまうと身動きが出来なくなってしまう。

 やはり新小岩のあのテントに戻るしかないと思う。もしかしたらテントの持ち主が帰ってきていて、お金を盗んだことを怒られるかもしれないけれど、何故俺が昨日あのテントで寝ていたのかを知っているかもしれない。

 それにあそこへ行けばガスコンロとかカップ麺があったから、お湯を沸かして喰うことが出来るかもしれない。それにもっと現金が隠してあるかもしれないし。もし野宿するしかないのなら、汚くてもあのテントで寝た方がましかもしれない。


 東横線で渋谷まで戻り、山手線で新宿へ、そこから中央線でお茶の水~総武線で新小岩まで行くことにする。

 考えてみたら、テントから出た時は慌てふためいてたから、テントがある場所とかは全く意識しなかった。もう暗いし、あの広い河原でテントのある場所が分かるだろうか。

 電車に揺られながら考える。新小岩駅の手前で大きな川を渡るはずだから、窓から見て大体あのテントがどの辺にあるのか、線路との位置関係で見当をつけておこう。

 件の鉄橋へ差し掛かると、ゴトンゴトンと音を響かせて渡り始める。でも大きな川は流れも淵も真っ暗で何も見えない。あれよという間に新小岩駅に着いてしまう。


 新小岩駅で降りるのは初めてだ。駅の前は広場になっていて、周りに飲食店が沢山ある。とにかく川の方へ行こうと思う。電車が橋を渡った方向から考えると、こっちへ行けば川だろうと見当をつけて歩いていく。

 まだ川は見えないのでよく分からないけれど、きっとここが昼間タクシーを拾った大通りだと思う。この先へ行けばきっとあの川を渡る車道の橋なのだろう。

 大通りを行き交う車やバイクを見ていると、また本当に三五年も経った未来なのかと思う。空飛ぶ車とか宙を浮くスケボーとかあってもよさそうなのに、殆ど変っていない。ただ時々ろくに漕いでもいないのに凄いスピードで走っていく黒いチャリンコはどういう仕掛けなのだろうと思う。


 暗い中、やっと広い川原に辿り着いた。真っ暗な中、遠くの空でピカピカとライトが明滅している、あれが昼間みた灰色の塔なんだ。

 橋の途中から中州へ降りていくと、草むらの脇が舗装された小道になっている。光っている塔の位置からして、大体どの辺りだったか目星をつけながら歩いていく。もう夜の一〇時くらいなのに散歩している人や、ヘルメットを被った人が競輪用みたいなチャリンコで疾走していく。

 テントは川が流れている近くの、生い茂った雑草の中にあったから、草むらの中に入らないと見つからないかもしれない。

 光が明滅する塔の位置から見当をつけて草むらに入って行く。ガサゴソとかき分けていくけれど、それらしい物は見つからない。履いているボロの靴が、草と土を踏んでグジャグジャになってくる。また別の方向へ草むらを進んでみても見つからない。

 一度舗装された小道へ戻り、暫く進んでからまた草むらへ入っていく。ガサゴソとやみくもに進んでいく、暗い中で俺は一体何をしているんだろうと思う。

 歩いても歩いても草むらから出ることも出来ず、同じ場所を歩いている様な気がする。ブルーシートのテントは何処にあるのか? 見つかる気もしなくなってくる。

 風が冷たくなってきた。高速道路を走る車の音がビュンビュンと続いている。もっと川の側だったろうか、遠くの塔はピカピカと明滅を繰り返している。あそこに高速道路があって、俺は昼間あっちから走ってあの橋まで行って……この辺りだったんじゃないかと思うのだけれど。

 もしかしたら、テントの持ち主が戻ってきて、撤去して何処かへ移ってしまったのか、等とも思えてくる。するとあのテントに住んでたのはこの世界の俺ではなかったのだろうか? いや、それはもう無い気がしている。俺はこの世界で、六四歳まで生きていたんだ。あのテントで。

 俺はきっと、劇団東京リバーシブルス第四回公演「当たりクジを手にした男!」の後「5人のイカロス」という公演をやって、その後小説を書いたり、自分の上演台本を他の劇団に提供したりして、その後更に何があったのかは分からないけれど……でも最終的にブルーシートのテントで暮らすことになったのではないだろうか。

 何故だ! 有り余る才能によって成功し、ハリウッドにも進出して、世界のクロサワを凌ぐ活躍をして、皆の尊敬を受け、歴史を変える人物になっていたはずなのに。

 この世界の俺は一体何をしていたというのか。落ちこぼれて、テント暮らしのホームレスだなんて。人生ゲームの〝億万長者になるか、貧乏農場に行くか〟の敗者そのままじゃないか。 

 まだ長いリアルな夢を見ているのかと思う。もしかして本当に何かの切っ掛けでタイムスリップかパラレルワールドに来たのだとしたら。また元に戻る可能性もあるのかもしれない。元の時間に戻る方法があるのだとしたら、それを探さなければならない。ヒントになりそうなのはあのテントだけなのだ。何としても見つけなければ……。

 あのテントはキャンプ用のドーム型のテントの上を覆うようにブルーシートが被せられ、それが三角テントみたいな形になって、入り口が開くようになっていた。

 ガサゴソといくら突き進んでも、川の流れ沿いに出たり、テントではない掘っ立て小屋みたいなのを見つけたり。また草むらを出たと思ったら広い公園の様になっていたり……。

 テントは青くて目立つはずなのに、暗いから見えにくいのか、ならこのまま夜が明けるのを待った方がいいのかもしれない。でも今まだ一一時くらいだから、朝まではかなり時間があると思う。腹が減って、あそこに転がってたカップ麺を、コンロでお湯を沸かして食べたい。

 ただでさえポンコツな足腰がガクガクになってくる。靴ももう脱げそうだ。草の臭いに包まれて、時々顔に当たってくる虫を避けながらガサゴソと行く。

 ……草が生い茂る中に、テントの屋根みたいなのが見えた。近付いてみると、記憶にあったより小さくて、地べたにへばり付いている様だ。暗いのであまり青く見えないけれど、近付いて見ると確かに青だ。似てるけどもしかしたら違うのかもしれない。中に人がいたらマズいと思い、声を掛けてみる。

「あのう……すみません、誰かいらっしゃいますか?」

 返事がない。恐る恐る入り口に垂れたテントの端を捲ってみる。中は真っ暗で見えない。確か入り口の脇に靴が何足かあった……手探りで触ってみると、記憶どおり何足か靴がある様だ。今履いているグチャグチャな靴と取り替えたい。

「誰かいませんかー」

 大きな声でいっても反応がないので、誰もいないのだと思う。入り口の端を出来るだけ捲り上げて中を見る。

 暗さに目が慣れてくると、昼間見た積まれている本とか、ユニット家具とか、段ボール箱、それにカセットコンロも見えてきた。

 ここで間違いないと思い、中に入ってまずはカセットコンロを持って出る。カチッと点火してみると、ちゃんと火が点く。カップ麺は醤油ラーメンときつねうどんがある。ヤカンは見当たらないけれど手鍋がある。水は川の水を汲むんだろうか、と思ってテントの脇を見ると、水の入ったペットボトルが何本も置かれている。

 テントの側でガスコンロを点けるのは危ないから、少し離れた方がいいと思い、歩いてみると川の方へ草が刈られた様に開けた道がある。コンロを持っていくとせせらぎの音が大きくなって、流れの脇に草の生えていない平坦なところがあるのでコンロを置く。

 置いてあったペットボトルの水は飲めるんだろうか、と思いながらも手鍋にジョボジョボと入れ、コンロの火を点ける。小さくて心許ない炎だけれど、沸騰するまでもってくれと思う。

 川岸の木の根元にボロボロの座椅子が置いてある。俺はいつもコレに座って川のせせらぎを眺めていたんだろうか。なんか良さげだと思う。

 きつねうどんのビニールを破いて、ゴミ箱もないのでまるめてポケットに入れる。フタを半分開けてスープの粉末を入れる。カップ麺の作り方は三五年経っても変ってないんだな、と思う。ようやく鍋の水に泡が立ち始めて沸騰した。水にバイ菌がいるといけないので長めに沸騰させようと思うけど、残りのガスの量も心配なので止める。

 手鍋からカップ麺の容器にお湯を注ぐ。時間を計る時計はテントの中にデジタルのがあったけど、持ってくるのも面倒なので本当は五分だけれど俺は固めの麺が好きなので、心の中で一、二、三……と大体四分として二四〇まで数えればいいと思う。

 そういえば箸が無いと思い、心の中で秒数を数えながらテントに戻り、ユニット家具のカップ麺のあった辺りを探すと、割り箸が幾つか転がっている。

 川岸のボロボロの座椅子に座ってカップうどんのフタの紙を剥がす。夜風の音と、せせらぎと、普通にキャンプだったら楽しいのになと思う。

 ふ~と吹きながら麺を啜る。食べてみると歯の噛み合わせに違和感がある。何本か歯が減っているみたいだ。

 食べ終わり、スープも飲み干してみると、人心地着いた。酒が飲みたくなって、ユニット家具の棚にあったのを取りに戻る。棚にはビールと缶チューハイがあって、横にあるクーラーボックスを開けてみると中にも沢山酒らしき物が入っている。勿論全く冷えてはいない。

 ビールと缶チューハイ持ってくる。ビールの飲み口の周りの埃を払ってプシュッと開ける。生ぬるいけど胃にアルコールが染み入っていく。生きている実感だ。

 それにしても……これは一体何だというのか? 俺の人生に何が起きているというのか? コレが本当に夢じゃないというのか?

 なんだか分からないけれど、今日は酔っ払って寝るしかないと思う。草むらよりはテントの中で、汚いけれど毛布もあるし。

 もう一本の缶チューハイも飲んで、うどんの容器もビールの空き缶もそこらに放り出して、酔いが回って左右に転げながらテントまできて、這いずって中に入る。ブルーシートのそのまた中の、ドーム型テントに入る。ゴザに横になる。汚い毛布を腹に乗せる。

 虫の鳴く声と、川のせせらぎ、止めどなく響いている高速道路の音。ギュッと目を瞑る。



   7

 


 翌朝目が覚めてくる。昨日のことは夢だったのか、と思う間もなくテントの中だ。熱い。すっかり明るいので、中がよく分かる。毛布は自分で払い除けたのか、足元に固まっている。ゴザの脇に黒いシミがある。隅には衣類やタオルが散乱している。

 ドーム型のテントから出ると、ブルーシートの中だ。段ボール紙が敷き詰められた床の上に積まれた雑誌や本がある。文庫本が多い。ポケットティッシュが沢山入った袋もある。他にプラスチックの衣装ケースとか、重ねられた段ボール箱、小さな本棚みたいなのとか、昨日のままだ。本棚の上にデジタル時計。今は午前一〇時三二分。この時計はきっと合っていると思う。

 とりあえず小便がしたいので這いずってブルーシートの外へ出る。立ち上がろうとしたら咳き込んでまた四つん這いになってしまう。

 日差しが眩しいけれど、河原を流れる風と、なびく草原……といいたいところだが生い茂る雑草の空気が気持ちいい。周りには誰もいない。遠く土手の手前の舗装された道をジョギングしたり歩いてる人がポツポツといる。凄いスピードで走っていく自転車。高架の高速道路からは相変わらず車の音がゴーと響いている。

 左足の腿と背中が痒い。背中は届かないけれど、左足の腿をボリボリと掻く。よろけながら草むらを川岸までくる。ズボンからショボくれたムスコを出して、川面に放尿する。ジョボジョボと音がするのも細やかな生命の確認だ。

 何よりも金だ。生きてる以上また何か喰いたくなるに決まっている。あるのはカップラーメンがあとひとつと、他にユニット家具の棚にあった袋の中に入った割れ煎餅とソーセージパン。賞味期限は二〇二四年五月三〇日と書いてある。全然大丈夫だと思う。取りあえず朝めし、というかもう昼めしだけれども、ソーセージパンを喰うことにする。飲み物はテントの脇に並べてあるペットボトルの水がある。どれも一度栓を開けた形跡があるから、きっと何処かの水道から汲んできたのかもしれない。昨日この水でカップうどんを作ったし、飲んでも大丈夫だろうと思う。

 テントの側には釣り竿も置いてある。川で魚を釣ってたんだろうか。園芸用の植木鉢やスコップもある。テントの入り口とは反対側に沢山の空き缶が入ったポリ袋がある。コレはよくドキュメンタリーでやっている、空き缶を集めて売るというやつだろうか。

 近くに生えている二本の木の枝に渡して細いロープが括りつけてあるのは、きっと洗濯物を干す為だろうと思う。

 もう一度ブルーシートの中に戻って、ある物をよく見てみる。昨日借りた? 金が入っていたビニールのケースはドーム型テントの中にそのまま落ちている。枕元に置かれた平たい引き出しのついたプラスチックのボックスは、何か大切な物が入っている雰囲気だ。引き出しを見るとビニールのポーチに入った預金通帳とハンコがあった。通帳の名義は〝高町直介〟とある。俺のなのか、やはりここは俺の家で、昨日借りた金も借りたんじゃなくて、そもそも俺の金なんだろうか。

 預金通帳の残金は六五〇円。金の出入りを遡ってみると二ヶ月置きに十二万六〇〇〇円が「コウセイネンキン」という名義人から振り込まれている。俺は年金で生活してたのか。でも二ヶ月で十二万六千円ということは、一ヶ月に六三〇〇〇円だから、食べ物とか酒を買うだけで精一杯ということか。

 前回は四月十五日に振り込まれてる。でも一度に全額を引き出さないで、六三〇〇〇円だけ引き出している。で次の月の十五日にまた六三〇〇〇円を引き出している。コレはきっと、一度に全額引き出してしまうと全部使ってしまうので、半分を一ヶ月分として引き出す様にしてるんだ。俺の性格らしいじゃないか。

 今日は六月五日だから、次の振り込み日の直前なので一番カツカツの時なんだ。あと十日間生き延びれば、次の十二万六〇〇〇円が振り込まれるということだ。ありがたいと思う。

 他に通帳の記入には、毎月〝ツウシンリヨウリョウ〟という名目で五〇〇〇円とか、六〇〇〇円くらいが引き落とされている。これは電話代とかだろうか。

 また年金の他に何ヶ月かに一回〝ゲキダンマゴメ五〇〇〇円〟とか〝ミキダイエンゲキブ五〇〇〇円〟などの名義で入金されている。何年か前には〝ヤマドメプロ三〇〇〇〇円〟というちょっと大きな金額もある。一番最近では四月に〝ゲキダンカリカチュア五〇〇〇円〟とあるのはきっと昨日場当たりを見せてもらった劇団からの台本使用料だろう。

 通帳の他にもボロボロだけれど皮の財布がある。中に健康保険証がある。俺の名前が書いてある。まだ有効期限内なのかは分からないけれど、コレはきっと身分証になるから、阿佐ヶ谷の区役所に持って行けば戸籍謄本が取れるかもしれない。

 何かの回数券があって〝正心湯〟と書かれている。銭湯かなと思う。使いかけであと四枚残っている。時々ここに行ってるのか、何処にあるんだろうか。

 他に医者に掛かって処方された薬が入っていたのだろう薬局の袋がある。中は空だが何かの薬を飲んでいたのだろう。病院の診察券もある〝榊原内科〟と書かれている。やはり俺は何か身体が悪くて、診察を受けているんだろうか。

 運転免許もある。有効期限は二〇二三年と書いてあるから、コレはもう使えないだろう。

 ブルーシート地帯にある白いプラスチックの四角いカゴには、電源のコンセントとか、接続ケーブルみたいな物、懐中電灯とラジオが合体したみたいなのとか、よく分からない電機部品とか、下敷きくらいの大きさの画面? コレは世田谷の区役所の人や〝アクターズ劇場〟の人が見ていたのと同じ画面が映るやつだろうか。その他に釣り竿の糸を巻き取るリールみたいにハンドルがついた物もある。

 大きめの脱衣カゴみたいなのが三つ重ねてあり、衣類が畳んで入れられている。一番上のカゴには作業着みたいなズボンが二つと何枚かのシャツ。中段には下着が、誰かから貰ったのか袋に入った新品もある。一番下のカゴには冬用のダウンまである。みんな綺麗に畳まれてるのはやはり俺の性格なのかなと思う。

 下着やシャツはコインランドリーとかで洗濯してるんだろうか。身体が臭いとまた何処かへ行った時周りに迷惑が掛かってしまう。銭湯には回数券があったところに時々行ってるんだろうと思う。

 小さな本立てみたいな物入れには透明なホルダーとか、書類を挟むバインダーみたいなのがぎっしり詰まっている。

 ここにある物は、全部俺の物なんだ。この身体が六四歳になった俺だとは思いたくないけれど……俺は本当に記憶喪失になってるんじゃないだろうか、でも何故か二九歳までの記憶だけはあるから、まるで二九歳から六四歳へタイムスリップしたみたいに感じてるんだ。そんなことってあるんだろうか、理不尽というか、酷いというか、嫌だ! 二九歳の俺に戻して欲しい。

 俺はここでどんな暮らしをしていたのか。積まれている文庫本は横溝正史とか、アガサ・クリスティとか、確かに俺が読みそうなのが多い。この作家たちはこんな未来の世界でも認知されているのだと思うと、やっぱり凄いと思う。文庫本の他は漫画雑誌とか、エロ系のグラビアもある。オカズにしてたのか? まだそんな元気があるんだろうか。 

 バインダーにはレポート用紙が沢山挟まっている。見るとボールペンでいっぱい書いてある。登場人物の名前とか、その人物の生い立ちとか、状況の設定とか、企画のアイデアだろうか。一番上の紙には夫と妻と、息子と娘がいる家族の物語みたいなプロットが書いてある。俺の字だ。作品の題名は「僕がいる世界で起きた奇跡(仮)」だって、まだ考えがまとまっていない段階だな、と思う。確かにコレは俺の創作のやり方に違いない。

 他のバインダーも開いてみると、どれも新しい企画の構想、設定とか、アイデアの走り書き、プロットが書き連ねてある。戯曲なのか映画なのか分からないけれど、下北沢の〝アクターズ劇場〟の人が俺は小説も書いてるみたいだっていってたから、小説のアイデアもあるのかもしれない。

 俺はこんな生活に落ちぶれても、やっぱり創作はやめられなかったんだ。やっぱり作家なんだ。

 

 重ねて置いてある段ボール箱を開けてみると、なんだかパンパンに膨らんでいる紙袋が沢山押し込んであり、その中にまた小分けにされた封筒が詰まっている。ひとつを引っ張り出してみると、古い写真が入っている。出してみると詰め込みすぎで写真がくっついて湾曲している。見たことの無い写真が沢山ある。今よりは若いけれど、二九歳からすると大分オッサンになっている俺と、親父とお袋が写っているのがある。何処かの観光地みたいだ。温泉旅館の前で撮っている。旅行でもしたんだろうか、親父もお袋も随分歳を取ってる感じだ。二九歳までの俺は親のことなんてほとんど考えていなかったのに、その後少しは親孝行したんだろうか。

 また別の封筒には、学生の頃の文化祭や合宿の写真。俺にはついこの前のことなのだが、写真は三五年経って良い感じにセピア色になっている。映画「わすれえぬ情景」のロケの時の写真もある。京子さんが写っている。三年前に結婚してしまった。この世界にいるのなら、何処かで倖せに暮らしていてほしいと思う。

 どうやら封筒ごとに写真の種類というか、分類されてるみたいだ。バイトしてたタロウレストランのもある。お店はなくなってしまったけど、一緒に働いてた連中はどうしてるんだろう。

 それにしても、こんなに自分の私物というか、大事にしてる物をきちんと整理してあるのに、どうして俺はホームレスになんかなってしまったのか。何か仕事はしてなかったのか、でも厚生年金が貰えているということは、六〇歳まではある程度まともに働いてなきゃ貰えないんじゃないだろうか。

 きっとまだこの中に、俺の過ごした二九歳以降の手掛かりになる写真があると思う。ひとつずつ封筒の写真を出してみようと思う。時間だけはいくらでもある。

 また別の封筒に入った写真には、何処か運送会社みたいな場所で、トラックが何台も並んでいる前で、作業着姿の従業員が並んでいる。よく見ると、どうやら俺らしき男が写っている。他の従業員と同じ作業着を着ている。なんだこれは? 俺はトラックの運転手みたいな仕事をしてたんだろうか。芝居はどうした? 演劇の世界で成功して、ドラマや映画の世界に進出しているはずなのに、何をやってたんだ俺は? この会社で働いて、金を貯めて芝居をしてたってことなのか?〝アクターズ劇場〟の人が調べてくれた記録では、劇団リバーシブルスは俺の記憶に無い第六回公演「5人のイカロス」を最後に公演を打っていないみたいだから、その後はどうなっていたのか分からない。 

 日記を書いてはいないだろうか、日記があれば一番早いのだが。中学~高校生くらいまでは割としっかり書いていた。大学の時もちょくちょく書いていたはずだ。大学を出てからは、何か特別なことがあった時だけ書くようになって、段々書く頻度は落ちていったけれど、あるのなら俺の性格だから取ってあるに違いない。

 探してもこの箱の中にはないみたいだ。重ねてあるもうひとつの段ボール箱を開いてみる。やはり中は紙袋ごとに整理されていて、その中に紐で括られた冊子が入った袋がある。開けてみると見覚えのある大学ノートの束が出てきた。一番上のノートにはマジックで表紙に〝日記NO1〟と書かれている。中学で書き始めた、番号が振られたノートがNO1から順に揃えて括られている。やっぱりとってあったのだ、こんな恥ずかしいものを。

 紐を解いてみる。中学~高校と片思いとか好きな映画のこと、世の中に対して思ったこととか、青臭くて顔が発火しそうな文面がしつこく綴られている。

 記憶を無くした二十九歳以降の日記はないのか。見覚えのある一番最近のノートを捲ってみる。知りたいのは二九歳の時「当たりクジを手にした男!」を上演した後のことだ。ペラペラと捲っていくと一九八九年六月の公演「当たりクジを手にした男!」の成功で大きく未来が開けた喜びが書いてある〝大海原が見えてきた、きっと黒澤明を超える映画を作ってみせる〟などと書いてある。コレは俺が一昨日、劇の初日が開けた夜に書いたものだ。

 その先を見ると、何日か、時には何週間か何ヶ月か空けて、時々書いてある日がある。一九九〇年三月に俺が上演したらしい「5人のイカロス」はあの小劇場の老舗である北島屋ノースシアターで上演したらしい。あそこはキャパが五〇〇くらいあったんじゃないだろうか「当たりクジを手にした男!」をやった靖国シアターは詰め込んでも二〇〇人くらいだったから、倍以上だ。

 公演が終わった後の日記を読み進めていくと「5人のイカロス」について俺は〝こんなハズじゃなかった〟などと書いている。思った様な反響にならなかったということか? 見終わった観客に書いてもらっているアンケートには「がっかりした」とか「これまでの様な感動がなかった」等と書いてあったらしい。全四ステージの座席は埋まらず、何より評判がよくなくて、口コミによる観客増員にもならなかったみたいだ。

 何故だ? 俺の作る作品なのだから、見た観客全員とまではいかなくても、殆どの人は無上の感動を得て、涙を流して絶賛する様に作っているはずなのに。さらに〝今回は公演を終えても虚しさが残り、自信をなくした〟なんて書いてある。

 俺が書いたとは思えない文章だ。どうしたというのか? そんなに失敗だったのか? どんな台本だったのか〝アクターズ劇場〟の人が教えてくれた〝ライオンの翼〟という画面で見れば、台本が読めるのだが。  

 日記はそこから二ヶ月くらい飛んで、日付が五月一五日になり、その日にはただ一文〝沙由美と別れた〟とだけ書いてある! 何で? 俺は沙由美と別れたのか? 何故? 沙由美は何処にいるのか、こんな時こそ助けて欲しいのに。

 公演に失敗して、沙由美にも捨てられて? それじゃ踏んだり蹴ったりじゃないか。日記帳はそれが最後のページで、その次の日記帳は無い。これ以降俺は日記を書かなくなってしまったのか。

 他に何か俺のしたことを記録した資料は無いのか、置いてある物をどけてみたり、注意深く見てみる、本立てやダンボール箱の他は衣装ケース、脱衣カゴ、ユニット家具、その他は隅に転がっているバケツとか、ホースとか、草刈り用の鎌とか、生活用品ばかりだ。

 本立ての後ろとブルーシートの地面の境目に写真立てが落ちている。拾って見ると、中の写真には京子さんが写っている。胸に赤ちゃんを抱いて、もう片方の手には3歳くらいの男の子を連れている。

 何で京子さんの、きっと誰かと結婚してできたのであろう子供を連れた写真なんか持っているんだ。それも写真立てに入れてまで? そこまで俺には未練があったということなのか? 京子さんが結婚したと聞いた後、バイト先の沙由美と付き合い初めて。忘れようとしたはずなのに。

 不意にピーピーピーと電子音が鳴り響く。なんだろう、デジタル時計のアラームではないらしい。何処で鳴っているのか、衣類のカゴかユニットの棚の中なのか、漁っても無い。本や雑誌の下にも無い、と思っていると鳴り止んだ。

 何の音だったのか、ドーム型テントの中のゴザを捲ると、あった。あの〝アクターズ劇場〟の人や〝劇団カリカチュア〟の人が持ってたのと同じ、電車の中で乗客たちがコチョコチョと弄っていた〝スマホ〟というやつだ。コレは俺のなのか?

 拾ってみると画面が明るく点灯して〝不在着信〟と書いてある。電話が掛かってきたということなのか。電話してきた相手の名前が〝キョウスケ〟と表示されている。

 コレを使っている人が皆やってた様にコチョコチョと指で突いてみると、電卓みたいな数字の列が表示される。暗証番号を押すということらしい。分からないのでよくある自分の生年月日を指で押してみる。ダメだ。ではと生年月日を逆から押してみる。画面が変った。年月が経っても俺の思考傾向は変らないのだ。

 やり方が分からないのでいろいろ弄ってみる。画面の下にある丸いボタンを押すと小さなマークが並ぶ画面になり、その小さなマークのそれぞれを押すとまた違う画面になり……なんとなくルールというか、やり方が分かってくる。そもそも自分の物だったのなら、指が習慣的に覚えていることもあるのかもしれない。

 そのうちに何やら〝検索〟という画面が出て来た、ここで下に表示される〝アイウエオ〟が並んだ中から文字列を打ち出して、検索ボタンを指で突くといろんな選択肢が表示され、またその中から選んでいくのだ〝アクターズ劇場〟や〝カリカチュア〟の人が見せてくれたのと同じだ。

 検索ワードに〝高町直介〟と記入して検索ボタンを押す。すると〝劇団東京リバーシブルス〟や俺が投稿したらしい小説が載っているらしいところが並んで表示される。

 一番上にある〝高町直介のページです〟と表示されているところを指で押す。すると何かパラパラ漫画みたいな、きっと俺が自分で描いたであろう俺らしい男がエンドレスで自転車を漕いでいるアニメが表示される。その下に〝演劇〟や〝8ミリ映画〟〝小説〟等のカテゴリに分かれ、それぞれを指で押すとその先の情報が表示されていく仕組みになっている。

 まさかの高校時代に撮った稚拙な8ミリ映画までが観られるようになっている! 大学時代の映画も三本が見られる様になっており、その中に「わすれえぬ情景」も入っている。再生ボタンを押すと小さな画面で映画の冒頭が始まり、音楽が流れて映像も綺麗に映っている。なんということだ、凄い! コレには本当に三五年後の未来にきたのだという気がしてくる。

 コレはきっと、このスマホという物を持ってる人なら誰でも見ることができるんだ。学生の作った自主映画なんて、上映会で見てくれる人はせいぜい百人くらいなのに、この機械によって何百人もの人に見て貰うことができるんだ。

 弄っていると画面が暗くなって、なにやら電池の形をしたマークが赤く表示されている。きっと充電切れということみたいだ。このままだと電池切れで消えてしまうのかもしれない。でも充電するといっても、どうすればいいのか、何か線をつないでコンセントに差し込むのか。スマホの裏や縁をよくみてみると、小さな差し込み口の様なものがある。こんな小さな穴に差し込むプラグなんてあるんだろうか。そこから電源に繋いで充電するのか? というかそもそもこのテントにコンセントなんてある訳がない。

 今までの俺はどうしていたんだろう。さっきの電機部品みたいなのが入ったカゴを漁ってみると、細い電気のコードみたいなのは幾つかある。その先についたプラグの中で、スマホの差し込みに合うかを試してみると、どうやらひとつピッタリ刺さるのがあった。

 でもその先の電源はどうすればいいのか。漁っていると、釣り竿のリールみたいに糸を巻き取るハンドルのついた物に、コンセントの差し込み口が付いている。ここにコンセントを刺して、リールのハンドルをグルグル回すと、電気が起きる仕掛けだろうか。自転車のライトみたいなものか。やり方が分かったのが嬉しくて調子こいてグルグルと回し続ける。すると何パーセント充電したという数値が表示される。八〇パーセントくらいで手首がガクガクになってくる。

 充電ができて、またスマホを弄りまくる。画面の何処を押すかによっていろんな画面に切り替わっていく。

 そのうちに〝フェイスブック〟というコーナーを見つけた。スマホを持っている人たちが各々に写真やイラストを載せたり、近況を日記みたいに書き込んで、それに他の友達がコメントしたり、文章で会話したりする、掲示板みたいな仕組みだ。

 ここに俺も自分の顔写真を載せていて、きっとあの釣り竿で釣ったのであろう魚の写真とか、夜になると光を放っている鉄塔の写真とかも載せている。

 俺もここで人と文章をやり取りしていたんだ。俺がやり取りをしている相手の写真を見ても、知ってる人はいない。というか写真もなく、ニックネームで呼び合っていて名前が分からない人もいる。中には知っていたのに三五年経ってる俺には見分けが付かなくなってる人もいるかもしれない。また当然ながら二九歳の時以降に知り合った人のことは分からない。そもそもこのスマホという物が普及したのは、俺がタイムスリップした大分後なのではないかと思う。

 俺とやり取りしている人の中で、最近の俺のことを知っている人と話すことが出来れば、俺の二九歳以降の手掛かりがあるかもしれない。と見ていくと、自分が経営している居酒屋やレストランとかを紹介している人が結構いて、その中に新宿ゴールデン街で飲み屋をしている西野優美という名前を見つけた。

 西野優美というのは昨日行った〝アクターズ劇場〟でやった東京リバーシブルスの第二作「とても小さな物語」に出演した女優の名前だ。この人は綺麗どころからコメディリリーフまで、どんな役でも振られれば上手くこなしてくれる上手い女優さんだった。

 見ると投稿に顔は写っていないけれど、彼女の投稿にコメントしてる人の中に、演劇や業界関係者らしい人がいる。きっと本人ではないかと思う。

 新宿のゴールデン街で〝子犬小屋〟という飲み屋を開いているらしい。お店の地図も見られる様になっていて、場所が表示されている。何という便利なものなのか。この店に行って会うことが出来れば、俺の人生のことを教えて貰えるかもしれない。ゴールデン街に行ってみようと思う。



   8

 


 金はあと一九五六円しかない。年金の支給まであと一〇日もあるけれど、とにかく早く西野優美に会いたいと思う。

 ご飯は昼前頃にソーセージパンを喰ったきりだけど、身体がヒョロヒョロになっているせいかあまり腹も減らない感じだ。なるべく身なりを整えて行きたいと思う。脱衣カゴに入っているズボンやシャツは一応洗濯されている様だけれど、それ程汚れていないというだけであまり代わり映えしない。なるべくマシに見える様に着換えてみる。所々ほつれている薄青いシャツにすり切れたジーパン。黒いベルトもある。靴は茶色い革靴。ジーパンに革靴ってのは合わないかもしれないけど、色合いは良いと思う。

 着換えてはみたけれど、ゴールデン街の飲み屋ってのは何時くらいからやってるんだろうか。夜の七時くらいを目安にしようかと思うけど、まだ午後の三時だ。もう酒が飲みたくなっている。俺はそんなに飲んべえではなかったはずなのに。コレもきっとタイムスリップした後に酒好きになったのかもしれない。何か今の俺はアル中の様な気がする。だから飲み過ぎで身体を悪くしているのではないだろうか。

 テントの裏側に置いてあるゴミ袋に入った酒の空き缶は、どこかから集めてきたのではなく、全部俺が飲んだのではないかと思う。捨てにいくのが面倒臭くて溜めてるだけなんじゃないだろうか、それで溜まったら何処かに売りに行くとかするのかもしれない。何かすごくそれが正解な気がする。 

 釣りでもして時間を潰そうかと思い、釣り竿を触ってみる。釣り糸と、巻き取りリールもジージーと回せるみたいだ。ただ針に付けるエサはどうしてたんだろう。その辺のミミズとか捕まえてたのか、草むらを漁ってみるけどミミズなんて見つからない。ハエとかもいるけれど、とても捕まらない。

 エサが無くちゃ魚が掛かる訳ないな、と思いつつヒュンと竿を振ってエサ無しの針を川に垂らし、暫し釣り気分を楽しんでみる。

 そうしていても釣れる訳もないので飽きて、テントの中にある文庫本のコレクションを見る。アガサ・クリスティの「復讐の女神」というのがある。出版年を見ると一九七一年とあるから大分晩年の作品ではないかと思う。読んでみようと思う。

 テントの中で寝転がって読む。本当の俺はつい最近読んだばかりなのかもしれないから、読めば何か記憶にリンクするものがあるかもしれない。と読み始めるが、字が小さくて読みにくい。何となく読んだことがある様な無い様な……と思っていると眠たくなってくる。

 一眠りして、目が覚めると、まだ四時半だ。テントの回りの草むしりでもしようかと思うけど、面倒臭いと思う。二九歳の俺は向上心があって、毎日筋トレしたり、部屋だっていつも綺麗に片付けてたのに、気持ちが六四歳に変化していく様だ。嫌だけど、でも何か受け入れざるを得ない様な気もする。

 やっと夕方になり、まだ全然明るいけれど、六時になったので新小岩の駅へ向かい、切符を買って総武線に乗る。新宿に着くとまだ明るい。

 七時までにまだ時間があるので東口を歩いてみる。〝カメラのさくらや〟があったところは〝ビックカメラ〟になっている。〝ワシントン靴店〟だったところは名前が変って〝ABCマート〟と書いてある。紀伊國屋書店はそのままだ。よくこのエスカレーターの下で人と待ち合わせした。最上階にある紀伊國屋ホールもそのままだ。第三舞台やつかこうへいの公演を見た。下北沢の本多劇場も健在だった。今もこの舞台に立つことがアマチュア劇団の夢なんだろうか。

 今日も外国人が多い。そのうちにポケットに入れてきたスマホの表示が七時五分になったのでゴールデン街に向かう。


 ゴールデン街へは学生の頃通っていた俳優養成所の先生に連れて行って貰ったことがある。狭い路地にものすごい数の看板が乱立していて、そのひとつひとつがまるで人形の住む部屋みたいな、カウンターだけの狭いお店になっている。

 昨日も通った、ピカピカになった松竹ピッカデリー劇場の前の信号を渡り、ゴールデン街に続く石畳の小道に入っていく。

 途中から脇へ幾つかの路地に分かれていて、昔来た時と同じ様に、灯りのついた看板がところ狭しとひしめいている。当時としても懐かしい感じがあったのに、更に三五年も経っているのに全く変っていないのが凄い。ここでもやたらとカメラを持った外国人が多い。

 まだこの場所のことをよく知らなかった高校生の頃に、ひとつの路地の突き当たりにあった〝スペースデン〟という芝居小屋で「七人の侍」が上映されてたのを見に来て、終わって出て来たら夜になっていて、煌びやかで猥雑な風景に驚いて一目散に走り抜けてきたのを思い出す。

 キョロキョロしながらスマホに表示された地図を頼りに〝子犬小屋〟という店名を探す。スマホの地図に店の場所がマークで表示されているのだけれど、狭いところに無数の店が密集しているので殆ど役に立たない。

 そうこうするうちに並んでいる扉のひとつに〝子犬小屋開いてます〟というプレートが下がっているのを見つけた。ここに違いない。

 扉を開くと直に木造の階段になっている。狭くて、急な角度を手すりにつかまりながらギシギシと登っていく。

 2階の暖簾を除けて入ると、狭いカウンターの席に男性と女性の、ご一緒ではないらしい二人の客がいて、カウンターの中に和服を着たママがいる。

 俺の記憶にある西野優美から三五年経っているはずだけれど、ひと目で分かった。確かに西野優美だ。和服を着て、女将の貫禄がついた感じだ。

 おもむろに入ってきた俺を見て、あれ? と驚いた顔をして「どしたの突然。ビックリしたぁ」と言う。三五年経った俺のことがすぐに分かったのだろうか、こんなジイサンになっちまって、悲しい限りだ。

 咄嗟に「ごめん、いきなりお邪魔して」といいながら先客の二人に会釈して、カウンターの隅の椅子に座る。

「俺のこと分かる?」と訊いてみる。

「そりゃ分かるわよ」と優美。

 ……この時点で既にそんなに歓迎されてない感じがする。

「ヘンなこと訊くけどさ、俺ってここ来るの初めてかな?」

「初めてだよ」

「お店やり出してから何年くらいなの?」

「もう十年以上だよ」

「そうなんだ、懐かしいねぇ」

 というが優美ちゃんはそんなに懐かしそうでもない。こんな商売をしていると長年会っていなかった人がひょっこり来るなんていうことは珍しいことでもないのだろう。

「急にくるからビックリするじゃない」

「いや、フェイスブックでお店のこと見たからさ、ゴールデン街で店やってるとか凄いじゃん」

「いろいろあったのよ」

「ふぅん。まぁ知り合いとかいないとなかなか来ないところだからねぇ」

 そして「実は俺、記憶喪失になったんだ」と切り出してみる。

「ふぅ~ん。そうなんだ」と特に驚いた様子もない。これも長年の女将としての経験から客あしらいを極めているのかと思う。

「全然昔のこと覚えてないの?」

「いや、全然じゃないんだけど」

「だよね、だって私のことは覚えてたんでしょ。私も昔のことは大体のことしか覚えてないけど」

 というと他の二人の男女の客からも薄ら笑いが漏れる。

「二九歳までの記憶はあるんだけど、そこから今の六四歳までの記憶が無いんだよね、だから二九歳からいきなり今になっちゃってるワケよ」

「いいじゃんそんなの、良かった頃のことしか覚えてないんじゃん?」

「まぁねぇ」

「そんで、今は何やってんの」

「荒川でホームレスだよ」

「そっか」とコレにも素っ気ない。

「俺二九歳の時〝当たりクジを手にした男!〟の四日間公演の三日目の夜さ、家に帰って寝て、次の日起きたら六四歳になって荒川のブルーシートの中にいたんだよね」

 優美ちゃんは「そうなんだ~」とちょっと考える様子をしていう「それじゃ〝当たりクジを手にした男!〟の後のことが覚えてないんだ?」

「うん」

「その公演の後ねぇ、タカちゃんまた次の公演してたわよ」

「うん〝5人のイカロス〟だろ、それは覚えてないんだけど、自分でコレで見て分かったんだ」とスマホを見せる。

「でも調べた限りこの公演は失敗だったみたいなんだけどさ、これってそんなに評判悪かったの?」

「ごめん、私見てないけど、出た役者さんの噂だと……」

「うん」

「私が言ったって言わないでよ、それに誰が言ったかは言わないけど」

「うん」

「タカちゃんの演出が凄く強引というか、全然役者の意見聞いてくれなくて、ちょっと傲慢だって思ってたみたい」

「傲慢?」

「うん、私が出た時もそうだったけどさ、タカちゃんて凄く自信あってさ、台本とか演出に全く迷いが無かったでしょ」

「ああ、それはまぁ」

「だからさ、役者から見ると、俺のいう通りにしていればいいみたいな感じでさ、だったら役者は誰でもいいじゃないかみたいな」

「なるほど」

 きっと優美ちゃんも俺の作品に出た時そう思ってたのだろう……。

「それで役者の気持ちが離れちゃったというか、舞台が失敗だったのかは知らないけど、失敗だっていうならそゆのも原因だったんじゃないかと思うよ。分かんないけど」

「ふぅん……」

「他の出演した人たちとかと連絡つかないの?」

「うん、スマホの連絡先にも全然無いんだよね、ここには昔の役者仲間とか来たりしないの?」

「うん、全然だね、あ、役者じゃないけど長井君がたまにくるよ」

「長井?」

「うん、公演の時カメラで撮影とか手伝ってたでしょ? タカちゃんの後輩で」

「ああ……」

 長井は役者ではなく、大学の映画研究部の後輩で、五学年下なので在学期間は被っていないのだが、卒業して何年目かに開催した映画研究部の創立二〇周年パーティーの時に、声を掛けてきて知り合ったヤツだ。俺が作った映画「わすれえぬ情景」にいたく感動して「監督した高町さんに会ってみたかったんスよ」といって話しかけてきた。

 そうだ、それがきっかけで劇団リバーシブルスの第四作「同窓会で交霊会」からは本番のビデオを撮って貰っていた。でもピンボケばかりで、狙いも下手でどうしょうもなかった。やる気というか、映画に対する情熱はあるのだけれど、ちょっとマヌケで困ったヤツだ。俺に是非また映画を作って欲しいといっていて、その時は自分に助監督をやらせてほしいといっていた。

「でもなんで長井がくんの? 優美ちゃんとそんなに繋がりあったっけ?」

「いや、たまたま全然違う人たちと来てたんだけど、ホラ、あの人も業界人でしょ」

「業界って? アイツ何やってんの?」

「映画の助監督じゃない? 確か最初タカちゃんが監督する映画を作るって話があって、その時に助監督にして貰ったっていってたよ」

「俺が? 映画の監督? それって何て作品だか分かる?」

「いや~分かんないけど、でもその話がポシャったか何かして、でも長井君だけは他の作品の助監督にして貰ったとかじゃなかったかな」

「ふぅ~ん……」

 俺が映画を監督して長井が助監督、そんな話があったのか、それは是非とも長井に会ってみなければならないと思う。

「長井はここよく来るの?」

「ううん、たま~に映画関係の人と一緒に来るくらいだね」

「そっか、もし来たら俺に連絡して貰えないかな」

「ええ~」

「頼むよ、そしたら絶対また俺来るからさ」

「来るったってホームレスじゃそんなに来れないんじゃないの?」

「来るって~年金が出るんだから」

「ホント? しょうがないね、分かった、いいよ」

 とあまり嬉しそうじゃない優美に俺のスマホの電話番号を伝え、ビール1本しか飲めずに申し訳ないと謝って店を出る。

 ……ああもっと飲みたい。ビールの小瓶1本分だけの酔いが回って、猥雑な路地を抜け、靖国通りを渡る為に信号を待つ。少し暑いけど、時折風が吹いて心地よい感じだ。

 沢山の人がいて、煌びやかで、そんな中で自分だけが異世界から来た違和感を感じている。ここは確かに俺が生きてきた世界から三五年後の未来なんだと思う。三五年が経った優美ちゃんの姿を見たことで、一層喪失感が増したのかもしれない。

  


   9



 また暗い中、荒川に戻ってきた。二回目なのでそれほど迷うこともなく、雑草に囲まれたブルーシートに辿り着く。食事は最後のカップ麺を食べようと思う。もっと酒が飲みたいけど、もう金が六六六円しか残っていない。


6月6日(木)曇り。


 テントの中で三日目の朝を迎えた。実際の俺はどれくらい前からここで暮らしてるのか。

 起きるとまた咳き込んでくる。ゲホゲホと咳が出る、出るに任せて続けていると、ゲボッとなって、口を拭うと真っ赤な血がついていて驚く。ゴザについている赤黒いシミの痕は、俺が前に吐いた血なのかもしれない。こんなに大きなシミになるにはどれだけの血を吐いたのかと思う。

 咳が弱まったので這い出してまた川岸へ行って小便をしようと思う。昨日は1本だけどビールを飲んだので、少し勢いがいいみたいだ。

 少し便意もあるみたいだと思う。ちょっと先に公園があってトイレもあるみたいだけれど、遠いので面倒臭い。どうせそんなに出ないと思うからその辺の草むらでいいかと思うけど、後から臭かったり自分で踏んだりするのは嫌だなと思う。

 テントにあったポケットティッシュとスコップを持って、なるべくテントから離れた草むらに入り、草をむしって地面を掘る。このくらいでいいかなと思えるくらいの穴を掘ると、ズボンとパンツを降ろしてその上にしゃがみ込む。難しいけれど狙いを定め、上手く穴に落ちる様に肛門の位置を調整する。

 ブリブリとしていると小さな虫が飛んでいる。ああ、こんなところにも自然の命が生きているんだなぁと思う。俺のウンコも虫とかミミズのエサになったり、雑草の養分とかになっていくのだろうと思う。

 自分から出た貴重な養分を見てみると、半分下痢だけど、赤黒い感じがする。血が混じっているのかもしれない。さっきの咳で血が出たことといい、この身体はきっと大分いかれているのではないだろうか。プラスチックのボックスの引き出しには薬局の袋と病院の診察券もあったし。

 回数券のあった〝正心湯〟という銭湯の場所をスマホで検索してみると、新小岩駅の近くだ。コインランドリーも検索してみると幾つかあるみたいだ。今日は回数券を使って銭湯に行って、コインランドリーの場所も確認しておこう。

 銭湯に行くのに必要な物を探していると、ふとブルーシートの入り口の脇に、見知らぬ手提げの紙袋が置かれている。中を見ると缶詰とかレトルト食品、パックのご飯、トマトとバナナも入っている。昨夜俺がいない間に誰かが置いていったのか? 何か福祉とかボランティアの人だろうか。食べ物はありがたいけど、何か毒でも入っていたら……という考えも起きてしまい、そのまま置いておこうと思う。

 重ねられた脱衣カゴから手頃なタオルと、着換えの下着を選ぶ。洗面器もちゃんとあって、石けんとシャンプーもある。

 天気も悪くないので他の脱衣カゴに入っている服を出して、二本の木に張ったロープに吊して、陽に当てよう。

 テントの周りは草むしりをして、少しでも生活環境を整えておこうと思う。これからの生活の為に。

 こうしてテントで暮らしていれば家賃は只だし、水道と電気とガスの光熱費もない。年金の月六万円で食費と酒代と、銭湯とコインランドリーで洗濯することが出来れば暮らしていけるのだ。スマホの電話料は引き落とされてるみたいだけれど、たまに俺の台本の上演料が振り込まれることがあるみたいだし。


 テントの入り口を簡単に紐で括り、入浴グッズを入れた洗面器を持って草むらを歩いていく。前を見ると土手の上から見知らぬ男が歩いてくる。どうも方向からして俺のテントへ向かってくるのではないかと思う。警戒してテントに引き返す。男は尚も近付いてくる。三〇歳くらいの男だ。俺に何か言いがかりでも付けてくるんだろうか。と思う間もなくみるみる近くへ来て、普通に声をかけてくる。

「親父、昨日何処行ってたんだよ」

 随分馴れ馴れしく話しかけてくるな、この辺の区役所の職員とかだろうか、河原を不法占拠しているから取り締まりに来たのか。それとも地元のヤクザとかかもしれない。

「どうしたんだよ親父」

「え? 知らないよ、分らん。誰だお前」こっちも負けない様に勢いをつけて言う。

「誰ってアンタの息子だよ」

「は?」

「どしたよ、いよいよ息子のことも分からなくなったのかよ」

「息子ってお前、何言ってんだよ、俺に息子なんかいるか。そもそもアンタ俺より年上じゃないんですか」

「……まぁた訳の分からんことをいう」

 その男は至極当然の様にテントに近付き、入り口の紐を解くと捲って脇から例の紙袋を取って見せる。

「ホラ、これ昨日置いといてやったんだよ、見た?」

 さっきの食べ物が入ってるやつだ。俺のいない間にこの男が置いていったというのか。

「なんですかそれは」

「だから食い物だよ、缶詰とかパックのご飯とか」

 中を見なくても何が入っているか知っているということは、この男が置いていった物に間違いない。

「……そんなら、アンタは俺が誰なのか知ってるんですか」と聞いてみる。

「残念ながら知ってます、貴方は俺の父親です」

「なんで?」

「なんでっていわれても。何か今日はボケ方違うね、やけに喋りがハキハキしちゃって。珍しくアルコールが抜けてるのか?」

「すいませんけど、もうこれ以上は、何もご迷惑かけませんので、ほっといて貰えますか」

「すげぇ、なんで普通に喋れる様になってんの?」

「今までは普通に喋れてなかったっていうんですか?」

「ああ、もう頭がいかれてて、普通に会話なんか出来なかっただろ」

「何でですか?」

「さぁ~アル中で脳細胞が麻痺したとかじゃないの?」

「……アンタは誰なんですか?」

「だからアンタの息子だよ」

「俺の息子?」

「だからそうだよ、娘もいるだろ」

 ……どういうことだ? コイツは何をいってるのか、俺は大学を出て就職せずに劇団を始めた時点で、普通に結婚したり子供を育てたりという普通の倖せには背を向けていこうと決めたはずだ。そうだ、俺に子供なんている訳がない、それもこんなもう半分オッサンみたいなヤツが息子だなんて。

「アンタ何歳ですか?」

「三二歳だよ」

「俺の名前を知ってますか」

「高町直介」

「……じゃアンタの母親は誰ですか?」

「高町京子」

「え?」

「だから高町京子!」

「京子さん? お母さんが京子さん?」

「そうだよ」

「……お母さんの旧姓は?」

「木下」

「!」

 ……さすがにそれは無いだろう。京子さんは三年前に結婚したはずだ。なのにこの世界では俺と京子さんが結婚していたというのか? そしてこの息子と、その他に娘もいるというのか? 

 あ、あの写真……と思い出してテントに入り、写真立てに入った京子さんが赤ちゃんを抱いて、三歳くらいの男の子の手を引いている写真を持ってくる。

「コレは? コレはアンタか?」

 男は手に取って見る。

「うん、この写真知ってるよ、俺と彩子だよ。彩子は生まれたばっかりだな」

 この男が俺の息子で三二歳だとすると、俺は一体何歳で京子さんと結婚したというんだ? 無論この世界での出来事として。

「アンタの名前は?」

「京介」

「お母さんは、京子さんは何処にいるんだ?」

「名古屋の実家だよ」

「なんで?」

「なんでって、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの介護だろ」

「……それでなんで俺はホームレスになったの?」

「ぎゃはははははははは……」

 男は爆笑し始めて、息が出来ないみたいに身を屈めて苦しそうだ。ヒッ、ヒッと息を吸いながら話しかけてくる。

「なんで、なんでホームレスって、こっちが聞きたいよぎゃははははははははははは……」

 呆然と見つめるしかない、京子さんが俺と結婚したって? 大好きだった。でも俺には振り向いてくれなかった。絶望的な片思いだと思ってた。手も握ったこともないのに、子供が二人いるって? 何だそれは? 俺にそんな素晴らしい人生があったというのか? そんな大切な思い出なら俺が忘れる訳がないじゃないか。でも俺は忘れてしまったというのか? いや、それはあくまでこの世界での出来事だから、結婚したのは俺じゃないのかもしれない。

 それに何故? 京子さんは名古屋の実家に帰っていて、俺はホームレスなんだ? 呆然として草の上に腰を降ろし、京介という名の男が笑い止むのを待って話しかける。

「……なぁ、ホントにアンタは俺の子供だっていうのか?」

「そうだよ」

「じゃ、教えてくれないか、俺な、ホントにアンタの父親なのかもしれないけど、記憶喪失になってるんだ」

「記憶喪失?」

「ああ、二九歳の時までのことは分かるんだけど、その後のことが、全く思い出せないんだ」

「……」

 京介という男は俺の顔をまじまじと見る。

「それは、いつから?」

「一昨日だよ、俺は二九歳で結婚もしてなくて、自分の劇団で芝居やってて、明日は千秋楽だっていう次の日、気が付いたらこのテントで寝てたんだ」

「ふぅ~ん。何かとぼけてるんじゃなくて?」

「違うよ」

「その、その時親父がやってたっていう芝居の題名は?」

「当たりクジを手にした男」

「……それは俺が生まれる前だから分かんないけど、題名は知ってるよ」

 京介という男はまだ俺の顔をまじまじと見ている。

「それにしても親父、凄いじゃん、いってることはヘンだけど、喋りが正気に戻ってるよホントに」

「正気に戻ってるって、俺はそんなにヘンだったのか?」

「ヘンなんてもんじゃないよ、会話が成り立たなかったもん。記憶が錯乱してるというか、言ってることに脈絡がなくて、もう何を言ってもダメだなって思ってた」

「ダメだなって? もう見放す感じだったの?」

「うん、まぁ、見放すっていうか、どうにもならないみたいな」

「ふぅん。それで、今の俺は正気に戻ったけど、その代り二九歳からの記憶を無くしてるって訳か」

「それって本当なの? 何かまた自分の中で勝手に考えた設定にはまり込んでんじゃないの?」

「設定って、そうなのかな、やっぱり俺が狂ってるのか?」

「……」

 京介という男の目が俺を疑っているみたいな感じになる。

「それで、アンタは、京介君は俺の息子で、今は何してるの?」

「京介君て……ぎゃははははははは……」

 またツボを押してしまったみたいで、静まるのに時間が掛かる。こうして遠慮無くゲラゲラ笑うところは俺に似た性格なのか。暫くして笑いが収まると、話し始める。

「だから自分の劇団やってるよ、バイトしながらだけど、親父と同じ人生歩んでるよ」

「俺と同じ? 俺はでも失敗したんじゃないの?」

「うん、親父は失敗したけど、俺は失敗しないと思う」

「何で?」

「さぁ、何でかな、俺は親父と違うから失敗しない」

「……俺も失敗なんかしないはずなんだけどな」

「そっか」

 と言ってまたケラケラと笑う。この見知らぬ三二歳だという男が俺と京子さんとの間に生まれた子供なら、もう少し美男子でもいいのではないかと思う。コイツは十人並だ。

「なんで芝居をやろうと思ったの?」

「そんなの親父の影響に決まってんじゃん。小さい頃ホラ、寝る時とかによく絵本読んでくれただろ?」

「そうなの?」

「そん時にさ、もう本格的に登場人物のキャラクターを全部完璧に演じ分けちゃうワケよ」

「へぇ」

「そんだから俺はもう無我夢中になって聴いてるワケよ、そしたら俺も小学校から中学、高校ってず~っと芝居が上手くて有名なヤツになってたワケよ」

「ふぅん」

 そういわれても、そもそもコイツが俺の息子だということが信じられないので全くピンとこない。

「それで、何しにここに来たの?」

「何って差し入れだろ。毎週水曜の夜は来てるだろ」

 といって紙袋に入った缶詰とかレトルト食品とかトマトとバナナを見せる。

「ホラ」

「酒はないの?」

「親父もう本当に死ぬぞ、これ以上酒飲んでたら」

 ……確かにこの身体はもう死んでもいい様な状態かなと思う。

「それで、俺はいつからここでテント生活になったの?」

「ホントに何も覚えてないの? 親父がここで暮らし始めて三年目かな」

 三年……俺はこんなところで三年も暮らしていたのか。

「それで、アンタは何処に住んでんの?」

「俺は杉並のアパートだけど」

「ふぅん……」

 この男が本当に俺の息子なのだとしたら、ホームレスの親父を自分の家に引き取らないのか、と思うけど、芝居をやっているのならきっと安い家賃で狭いアパートに住んで苦労してるんだろう。だから半分狂った親父の面倒なんか診る余裕はないのかもしれない。俺も今自分の親父が俺みたいになってたとしたら、黙って見捨てるかもしれない。

「それで、俺が最初にここに住むようになった切っ掛けというか、原因というか、何があったの?」

「そうね、親父はね、運送会社でトラックの運転手してたんだけど……」

 ……またあのテントの中にあった写真を思い出す。トラックが並んだ前で従業員の制服を着た俺が他の人たちと映ってた。

「それで六〇歳で定年する時に、昔やった自分の舞台を再演したいとかいって」

「舞台の再演? それは何という作品だ?」

「同窓会で交霊会」

 ……〝同窓会で交霊会?〟あれは俺が苦労して初めて書けた、全編一度も場面転換の無いリアルタイムで進行する一場モノの芝居だった。

 高校時代に演劇部の顧問の先生を事故で失った五人の同級生たちが、その中の二人が結婚することになったので十年振りに集まる。そして亡くなった先生にも祝って貰おうと交霊会を開いて霊を降ろしたら、先生は当時事故で死んだのではなく、結婚するその女の子に恋していて、それが叶わず思い詰めて自殺したのだというのだ。それが真実なのか分からないまま、更に先生はここにいる誰かに殺されたのだということが分かり……という密室劇のミステリーだった。

 俺が定年後にあの舞台を再演しようとしていたというのか?

「それで? 再演したの?」

「いや、それは中止になって」

「なんで?」

「詳しい経緯は知らないけど、何かその舞台の制作会社と揉めて、その後演目を変えて〝当たりクジを手にした男〟になったとか、なんか兎に角二転三転して、親父は準備とかに退職金を注ぎ込んでたのに、そのうちコロナになって中止になって、前払いとかしてたお金が回収できなくなって、そんで破産したっていうか、こういうことになっちゃったみたいだよ」

「コロナって?」

「ああ、分かんねぇか、コロナっていうのは、疫病だよ」

「疫病? 疫病って昔のペストみたいなやつか?」

「うん、まぁ似てるのかな、世界中に蔓延してパニックみたくなって、映画の〝復活の日〟みたいな」

「復活の日! あんなことが本当にあったのか!?」

「うん、あそこまでは行かなかったけど、ちょっと近い感じになって、そんでその頃は飲食店とか映画館とか、芝居も何も全部閉鎖になったんだよ」

「ええ~マジでか、そりゃ凄いな、そんなことがあったのか」

「うん、それで、親父は一番タイミングが悪い時に当って、劇場とかスタッフの前金とか、稽古場のスタジオとかに前金払っちゃってたから、それが本番近くになって中止になって回収できなくなって、そんで金が無くなったんだよ」

「ふぅ~ん……」

 その説明だけでは釈然としない物を感じるが、これ以上何をどう聞けばいいのかも分からない。

「で? 京介君は俺がここに来たこと最初から知ってたの?」

「最初は違うよ、元々母さんと俺と同じアパートに住んでたけど、親父が定年した時に母さんはお祖父ちゃんたちの介護するって名古屋の実家に戻って、親父は母さんと半分ずつにした退職金を使って舞台やるっていって、ひとりで百合ヶ丘にアパート借りてたのに、いつの間にか引き払っていなくなってたんだよ」

「俺は行方不明になってたの?」

「そうだよ、舞台もポシャって金も無くなって、自棄になってたんじゃねぇの?」

「ふぅ~ん……それで、君はどうやって俺を見つけたの?」

「そりゃフェイスブックだよ、親父がこの川で釣れた魚とか、スカイツリーの画像とか時々投稿してただろ?」

「スカイツリー? あの鉄塔のことか」

「うん、投稿画像のスカイツリーの位置とか、魚の写真の後ろに移ってる風景の角度とか見て探してたらここにいたんじゃん」

「そうか」

 コレは俺の知らない未来の世界だけれど、よくコイツは俺を探してくれたと思う。さすが俺の息子だというべきなのか。

「それでさ京介君」

「それ気持ち悪いからやめてくれよ、呼び捨てにしてくれていいよ前みたいに」

「……じゃ、京介よ」

「なに」

「金貸してくれ」

「ダメだよ」

「なんで」

「酒買うんじゃないなら貸してもいい」

「違うよ」

「何に使うの?」

「いろいろ、昔の俺を知ってる人を訪ねたりしたいんだ。交通費だよ」

「ふぅん」

「あと一週間で年金入ったら返すからさ」

「しょうがねぇなぁ」

 と言ってポケットから財布を出し、千円札を二枚渡す。

「これっぽっちか!」

「今俺もねぇんだよ、片道千円もありゃ何処だって大体行けるだろ」

 ……この金のなさは俺と同じだ。親子そろって情けないと思う。

 京介は「じゃあな、また来週くるから」といって行こうとする。

「まだ訊きたいことが山ほどあるんだけど」

「また今度ね、今日バイトだから」

 と片手を上げて土手の方へ行ってしまう。

 少なくともこの世界で、俺は孤独ではなかったんだ。俺のことを親父と呼ぶ人間がいる。息子がいるなんて信じられないけれど、生意気で粋がっている感じなのは俺と同じじゃないか。不思議と何か喜びみたいなものが湧き上がってくる気がする。息子だというのなら、多少の我が儘も聞いてくれるんじゃないだろうか。その上俺が京子さんと結婚して、京介の他に娘もいるだなんて、全く信じられないことだ。

「おい待ってくれ」といって追いかける。

「何だよ、ついてくんの?」

「いや、ちょうど銭湯に行こうと思ってたとこだから」と言って洗面器に入ったグッズを見せる。

「綺麗好きなのは、俺らしいと思わない?」

「あんなトコ住んで何いってんだか」

「ホントだな」

 と笑いながら土手を越えて、住宅地の中をテクテクと歩く。

「なぁ、俺と京子さんはいつ結婚したんだ?」

「さぁ、俺が生まれた年じゃないかな、だから三二年前だよ」

「なんで結婚したの?」

「そんなの知らないよ」

「そうか。京子さんは元気にしてるの?」

「京子さんて、随分他人行儀だな、元気にしてると思うけど」

「そうか……」

 新小岩駅まで来ると京介は「貸した金で酒買うんじゃねぇぞ、来週また来るから」といって改札を入っていく。

 俺は反対側のロータリーにある交番で〝正心湯〟という銭湯のある場所と、近くにあるコインランドリーの場所も教えて貰う。経堂駅の交番にいたお巡りさんといい、こんな身なりの汚いオッサンを相手に日本の警察は親切だなぁと思う。

 駅のロータリーの向こうには俺が通帳を持っている三井住友銀行がある。年金はきっとここで下ろせるのだろうと思う。

 〝正心湯〟という銭湯に入る。身なりが汚いので恐縮しながら入っていくと、受付のおじさんが「こんにちは」と愛想良く迎えてくれる。俺はいつもどんな受け答えをしていたのだろうと思いながら「どうも」といって回数券を一枚ちぎって渡し、ロビーへ入る。

 昔ながらの銭湯らしい脱衣カゴとロッカーが並んでいる。浴場に入ると壁には富士山ではなく、ちょっとファンタジックな絵があって、子供にも喜んで貰おうという趣旨なのかなと思う。

 裸になって、石けんとシャンプーの入った洗面器とタオルを持って浴場へ入る。まだ時間が早いせいか空いている。並んでいる洗い場のひとつに木の椅子を置いて座る。

 鏡に写った身体を見ると、妙に下腹だけがぽっこり出ていて、腕も胸も筋肉が落ちてみすぼらしい。二九歳の時は毎日腕立て伏せや腹筋をやって、恥ずかしくない体型だったのに、この身体も鍛え直せばまたマシになるんだろうか。俺は月に何回くらいこの銭湯に来ていたのだろう。とにかく身体が擦り切れるくらい念入りに洗おう。 

 銭湯を出ると、新小岩駅の近くにある安売りしてるっぽいスーパーに入り、賞味期限が近いので割り引きになった九八円の食パンと、カップ麺は割高なので五食組みになった三二八円のインスタントラーメン、それに京介から酒は買うなといわれたけれど、どうしても欲しくて六本束で八七八円の缶チューハイを買う。

 空はまだ明るい。テントに戻ってきて、いつもの座椅子に座って一日一本と決めた缶チューハイをプシュッと開け、グビグビとやる。

 食料はさっき買ったパンとラーメンがあるのと、京介が置いていってくれた缶詰とパックご飯、野菜はトマト、果物はバナナもある。また袋の底にはコンロのガスボンベも入っていた。完璧じゃないか! なんとありがたいことかと思う。お湯を沸かせばいつでもラーメンやご飯も喰えるのだ。


(後編へ続く)


お読みいただいてありがとうございました。

コンクールの落選作品は全く浮かばれる場がなく、怨念だけが残っていく状況のなかで、こんな風に投稿サイトがあるお陰で幾らか作品の供養が出来るようになりました。

まだ自信のあるうちは書いていこうと思っています。

どうぞ今後とも宜しくお願い申し上げます

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ