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背の高い王子様な先輩と、背の低い女顔の僕

作者: ひるねこ

「っ……。うぅ……」


 見慣れない部屋で、女性が涙を流している。

 涙は滑らかな頬を伝い、シャープな顎を伝って彼女の顎に落ちた。

 しかし和泉朝陽いずみあさひにはその原因が分からない。

 強いて挙げるのならば、先程目の前の女性の頭を撫でたからだろうか。

 よくよく考えると、ほぼ初対面の人が頭に触れるのは駄目だったのかもしれない。


「あ、あの、勝手に触れてすみません」

「君のせい、じゃないの。でも、ごめんなさい……」

「はぁ……」


 どうやら朝陽のせいではないらしいが、いよいよ原因が分からなくなった。

 深く問い詰める事も出来ず、かといって帰るのも後味が悪すぎる。

 途方に暮れていると、彼女が濡れた瞳を朝陽に向けた。


「……君さえ良ければ、もう一度触れて欲しいの。だめ、かな?」


 琥珀色の瞳は期待に潤んでおり、美しい顔立ちは不安に染まっている。

 そんな態度を取られて、断るという選択肢など取れはしない。


「別にいいですけど……。それじゃあいきますね」

「うん」


 からすの濡れ羽色である、美しい黒髪に触れる。

 ゆっくりと、労うように撫でれば、彼女の顔が綻んだ。

 

「いつもお疲れ様です。お互いに、大変ですよね」

「そう、なの……! うぅ……!」


 朝陽の行為で喜んでくれたのが嬉しく、つい泣かせてしまう前と同じ言葉を口にした。

 すると再び感情がぶり返したのか、涙の勢いが強まる。

 彼女の悩みは他人事とは思えないし、彼女もそう思ってくれているのだろう。

 とはいえ、こうなる事など全く予想していなかった。


(変な事になったなぁ……)


 特段、特別な事をした覚えはない。

 そして数時間前まで、朝陽が一方的に知るだけの関係だったのだ。

 しかし今は彼女の家に上がり、頭を撫でている。

 あまりの急展開に思考が追い付かず、今日の出来事を振り返りながらも手を動かす朝陽だった。





 高校に入学してから半年も経てば、クラスメイトとの仲も深まり、順風満帆じゅんぷうまんぱんな学校生活を送れるようになる。

 そんな十月の半ば頃。朝陽がいつものように登校すると、これまたいつものように正門付近に人だかりが出来ていた。

 人だかりは全て女子で、その中心に居るのも女子。

 ただ、その中心に居る女子は男顔負けの整った顔立ちだ。


小鳥遊たかなし先輩、おはようございます!」

「ああ、おはよう」

「あ、あの、今日も素敵ですね!」

「そんな事はないけど、褒めてくれてありがとう」

「きゃあ! 小鳥遊先輩が微笑んでくれた!」


 朝陽と同じ一年生からの褒め言葉に、涼やかな微笑を浮かべる姿も似合っている。

 そんな笑顔を向けられて女子達が黄色い声を上げた。

 反対に朝陽の近くを歩く男子達が、呆れと僅かな嫉妬を込めた言葉を零す。


「はぁ……。相変わらず小鳥遊は凄いな」

「流石『王子様』ってやつだな。あれで女子なんだから男の立場が無いぜ」

「小鳥遊からすれば最高の状況だろうけどな」

「だろうなぁ。羨ましいもんだ」


 やっかみを多分に含んだ会話だが、彼女の容姿では無理もない。

 それほどまでに彼女――小鳥遊(あおい)の容姿や仕草は格好良いのだ。

 改めて葵を眺め、彼女の容姿の整いっぷりに溜息を零す。


「『王子様』って呼ばれるのも納得だよ」


 ショートカットの黒髪ではあるが、手入れはしっかりしているようで艶がかっている。

 身長は女性の平均からしても高く、聞いた話によると175センチだそうだ。

 スタイルはスレンダーで、手足が非常に長く細い。

 それでいて骨ばってはおらず、しっかりと女性らしい柔らかさも備わっているように見えるのだから、最早芸術品といっても過言ではない。

 しかし葵が王子様と呼ばれて女子に囲まれているのは、彼女の振る舞いが凛々(りり)しいからだ。

 切れ目の瞳に可愛いではなく綺麗と断言出来る顔立ち。そんな人が凛とした態度を取れば、男よりも格好良く見えるのは分かる。

 あるいは、少し低めのハスキーな声をしているからかもしれない。

 本人は王子様と呼ばれると苦笑を浮かべるらしいので、あくまで朝陽は納得しているだけだが。

 

「はぁ……。僕もあれくらい格好良くなれたらなぁ……」


 女子からモテたいという願望からうらやんでいるのではない。

 男にも関わらず身長は160センチにも満たず、肩は丸みを帯びており、私服では女子と間違えられるくらいの女顔。

 一人称も昔「俺」に変えた事があるが、周囲から似合わないと猛反対されるくらい男らしくないのが和泉朝陽だ。

 なので女性ではあるものの、葵のように格好良い人には憧れを抱く。

 しかし現実は非情で、頑張っても朝陽の身長が伸びる兆候はない。

 諦めの境地で肩を落とし、昇降口へ向かうのだった。





 男らしくない朝陽とはいえ、ただそれを受け入れている訳ではない。

 学校が終わってランニングで体力を付け、筋トレをするのが朝陽の日課だ。

 今日も普段と同じくランニングしていると、ぽつぽつと水滴が朝陽の顔に当たった。


「あちゃぁ……。降る前に帰りたかったんだけどなぁ……」


 夕方から夜に掛けて雨だと天気予報で出ていたし、午後から空は鈍色の雲に覆われていた。

 とはいえ家に帰っても雨は降っておらず、それなら後数十分くらい大丈夫だろうと楽観的に考えてランニングに出たのだ。

 しかし朝陽の甘い考えは打ち破られ、どんどん雨音が強くなっていく。

 着ているのはスポーツウェアなので濡れても構わないのだが、十月に入って気温が下がっている。

 下手な事をして風邪を引きたくないので、近くのマンションのエントランスに逃げ込んで雨宿りをする事にした。


「うわ、結構濡れちゃったなぁ」


 長い時間雨に濡れてはいなかったのだが、それでもウェアに雨がしみ込んでしまっている。

 別に大した問題ではないものの、つい悪態をついて雨の勢いをうかがう。

 雨音は先程よりも激しく、土砂降りと言っても良い程になっていた。

 いつ止むのかとぼんやりしながら雨によって靄がかった景色を眺めていると、朝陽と同じように雨に襲われたのか、高校生くらいの男子生徒が走ってくる。


「はぁ、最悪だぜ。……ん?」


 どうやら傘を持ってきていなかったようで、彼の制服はずぶ濡れだ。

 朝陽と同じ制服ではあるものの、学年は分からないし名前も知らない。

 彼は思いきり顔をしかめていたが、雨宿りする朝陽の姿を見て同情するような顔になった。


「ここで雨宿りしてるのか?」

「ですね。走って帰ってもいいんですけど、ずぶ濡れになるのは嫌ですから」

「そりゃあそうだよな。下手をすると服が透けるし」

「はぁ……。別にその程度構わないんですけどね」


 男の服が透けて誰の得になるのだろうか。少なくとも、朝陽の服が透けて喜ぶ人はいないだろう。

 いまいち彼の言葉が理解出来ず、苦笑気味に答えた。

 すると、彼は眉を寄せて朝陽に詰め寄る。


「駄目だよ。君みたいな可愛い子の服が濡れたら危ないって」

「あー。そういう事ですか……」


 彼の女子に話すような柔らかな声と、心配しているようで品定めをする視線に、勘違いされているのが分かった。

 よくある事ではあるものの、相変わらず男として見られない自らの容姿に溜息をつく。

 とっくに傷付く段階は通り過ぎており、心を冷やして彼に視線を合わせた。


「すみませんが、僕は――」

「取り敢えず立ち話も何だし、俺の家に来ない? このマンションだからさ」

「いえ、あの――」

「いいからいいから、遠慮しないでよ」


 誰が好き好んで初対面の同性の家に上がるのだろうか。

 ましてや朝陽の言葉を聞かず、下心丸出しの視線を向ける男子の家など吐き気がする。

 残念ながら朝陽にそんな趣味はない。

 少々強引な事をしてもいいと思ったのか、彼が手を伸ばし、朝陽の腕を掴んだ。


「何してるんですか! 止めてください!」

「そんなに嫌がらないでよ。キミが心配なだけだって」

「ちょ、こ、の……!」


 残念ながら朝陽は筋肉が付きにくい体質らしく、どれだけトレーニングをしても並以下だ。

 今も男子としての平均よりも少し背の高い男子高校生に腕を掴まれただけで、何も抵抗出来ないでいる。

 どうしてこんなに情けないのかと沸き上がる感情を、ぐっと奥歯を噛んでこらえた。

 そんな朝陽が彼にどう見えたのか、にやついた笑みを浮かべて朝陽との距離を詰める。


「いやぁ、ホント可愛いね。雨で濡れて最悪だったけど、良い――」

「そこまでだ」


 突然、朝陽を掴む男の手首を、細くしなやかな腕が掴んだ。

 どこかで聞いた事のある、低くて聞き取りやすいハスキーな声。

 まさかと思って声がしたを方を向けば、そこには切れ目の瞳をより鋭くしている『王子様』がいた。


「その子が嫌がってるだろう。止めるんだ」

「な、何でお前がここにいるんだよ」

「たまたま雨宿りしている近くで悲鳴が聞こえたから近寄っただけだよ」


 葵の服はかなり濡れており、土砂降りの中を走って朝陽を助けようとしてくれたらしい。

 衣替えで冬服となっているので、下着が透けていないのが救いだ。

 そして葵はというと、美しいというよりは格好良い顔を不快そうに歪める。


「それで、離せと言ってるんだが?」

「……チッ、分かったよ! 男女おとこおんなが良い気になりやがって!」


 自分よりも身長の高い葵に勝てないと踏んだのか、あるいは二対一は分が悪いと判断したのか、男子高校生が悪態をつきながら朝陽から離れた。

 突然暴言を吐かれた事で、葵の顔が一瞬だけ歪む。

 しかしすぐに鋭い目つきで彼を睨むと、怯んだようにマンションの中へ逃げていった。

 彼が去ったのを確認し、葵が朝陽へと爽やかな微笑を向ける。


「大丈夫だったかい?」

「は、はい、ありがとうございます。あの、小鳥遊先輩は大丈夫ですか?」

「私? 大丈夫に決まってるだろう?」


 何を言っているのか分からない、という風に葵が目を細めた。

 先程傷付いたような顔をしたのを取りつくろいたいのか、あるいは葵自身が忘れたいのか。

 何にせよ、今の朝陽に出来るのはお礼を言う事だけだ。


「なら良かったです。本当に、ありがとうございました」

「いやいや、困っている子を放ってはおけないよ。というか、私の事を知ってるのかい?」

「はい。同じ高校に通ってますから」

「そうだったのか。……全然知らなかったな」


 記憶を探るように顎に手を当てて考える姿は凛々しくて、一枚の絵画のようだ。

 とはい普段女子に囲まれている葵が、一年かつ男子である朝陽を知っているはずがない。


「学年が違いますし、無理もないですよ」

「まあ、確かに。でも改めて自己紹介させて欲しいな。小鳥遊葵、よろしく」

「和泉朝陽です」

「朝陽、か。良い名前だね」


 男顔負けの輝くような笑みが眩しくて、当たり前のように名前を褒める姿が格好良くて。

 こんな風に接されれば、女子が色めき立つのも仕方ないなと思う。

 しかし中性的な名前を褒められてどう反応すればいいか分からず、誤魔化すように苦笑を向ける。


「そう、ですかね。あんまり好きじゃないんですけど、ありがとうございます」

「自分の名前を卑下するのは良くないな」


 葵が朝陽を励ますような柔らかい笑みを浮かべるが、どこかぎこちない気がした。

 不思議に思ってジッと見つめると、葵がすっと視線を逸らして肩をすくめる。


「にしても災難だったね。雨宿りしている途中であんな奴に迫られるなんて」

「今日はいつもより強引でしたけど、よくある事ですから」


 私服では女子と見られ、高校入学当初は男子の制服を着ていたら奇異の目で見られたのだ。男に迫られた事もそれなりにある。

 何も自慢出来る事ではないと渋面を作れば、葵が気遣わし気な顔になった。


「……そうか。大変だったね」

「ええ、本当に大変です」


 自ら望んでこんな容姿になった訳ではない。それでも、朝陽はこの見た目と一生付き合っていく事になる。

 ままならないものだと溜息をつけば、耳に届く雨音が小さくなってきた。

 すぐに音が聞こえなくなったので、マンションのエントランスから外に出る。


「にわか雨でよかったね。でも、すぐに降りそうだ」

「はい。どうしようかなぁ……」


 今から全速力で帰る事は出来るが、ぬかるんだ道は滑って危ない。

 しかし先程の事があったので、どこかで雨宿りする気も起きなかった。

 途方に暮れたような声を出して暗い空を見上げる。

 すると葵は良い事を思いついたというように、美しい微笑を浮かべた。


「もし君さえ良ければ、私の家でしばらく休むかい?」

「え? いや、流石にそれはちょっと……」


 先程は初対面の男子だったし、視線が異性を見る目だったので断った。

 ならば初対面の女性の家はというと、それは一人の男として遠慮したい。

 それに、葵の為にも断った方がいいはずだ。

 頬を引き攣らせると、葵の顔が痛みを堪えるかのような苦笑になった。


「まあ、そうだよね。キミが嫌だと言うなら無理強いはしないよ」


 葵からすれば、完全な善意で提案してくれたのだろう。

 琥珀色の瞳には、よこしまな思いなど込められていない。

 だからこそ、断った朝陽の方が悪者になっている気がする。

 罪悪感がちくちくと胸を刺し、このまま帰ると言い出せなくなった。

 しかし葵の態度にとある可能性が頭を掠め、これだけは伝えなければと口を開く。


「嫌ではないんですけど、僕は男ですよ?」

「……………………え?」


 葵が琥珀色の瞳を大きく見せ、呆けたような声を出して固まった。

 朝陽が男子に迫られていたから仕方ないとはいえ、やはり勘違いしていたらしい。

 とはいえ、あの状況では勘違いされるのも仕方ない。

 別にだましたつもりはないとはいえ、そんな態度を取られると申し訳なくなる。


「それに、小鳥遊先輩は男が嫌いって聞いてます。……助けてもらった後で言うのは卑怯ひきょうでしたね。すみません」


 葵は女子から非常に人気だが、同時に男子からはあまり人気が無い。

 それは男子が葵の容姿や態度に嫉妬しているからというのもあるが、同時に葵の男子への態度が素っ気ないからだ。

 理由は分からないものの、そのせいで葵は男嫌いと言われている。

 今朝の葵をやっかんだ男子達は、それを知っているからこそ「小鳥遊にとっては最高の状況」と言ったのだろう。

 そして朝陽への態度が柔らかかったのも、勘違いしていたからだ。

 ここで別れるなら黙っていたが、家に誘われれば男だと伝えるしかない。理由も言わずに断るのは、誘ってくれた人に失礼なのだから。

 朝陽の謝罪に、葵が焦ったように首を振る。


「そ、そんな。君が謝る必要は――」

「いえ、騙したようなものですから。でもやっぱり、男に見えませんよね……」


 分かっていた事だが、口にすると胸にズシリと鉛のようなものが圧し掛かった。

 しかし朝陽の感情は今は置いておき、取り敢えず葵の前から去った方が良い。

 なので背を向けようとしたのだが、先に葵が勢いよく頭を下げた。


「ほ、本当にすまない!」

「え? ど、どうして小鳥遊先輩が謝るんですか?」


 葵は朝陽を助けてくれただけでなく、念の為にと家に来るか提案してくれただけだ。何も悪くない。

 性別の勘違いも、全ては朝陽の容姿のせいだ。

 訳が分からず目を白黒させる朝陽の肩を、顔を上げた葵が掴んだ。


「だって、勘違いしたじゃないか!」

「男子に迫られてる人を女性だと思うのは仕方ないですよ」

「そんな事はない! だって、朝ひ――和泉くんは男に迫られるのが嫌なんだろう!?」


 決して許されない間違いをしてしまった、という風な表情の葵の顔が間近にある。

 普通ならばどきりとする所だろうが、圧があり過ぎて頬が引きってしまう。


「そりゃあ男は恋愛対象外ですからね」


 朝陽は同性愛者ではないので、男に迫られても怖気おぞけが走るだけだ。

 溜息をつきつつ答えれば、葵が瞳に焦りを浮かべながら恐る恐る口を開く。


「なら、もしかして、女に間違われるのも嫌なんじゃないかい?」

「……こんな見た目ですし、しょうがないですよ」


 助けてくれた葵の前で勘違いされるのが嫌だと言う度胸など、朝陽は持っていない。

 とはいえ受け入れる事も出来ないので、曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。

 これで話を終わりにしようと思ったのだが、葵の顔が絶望に彩られ、琥珀色の瞳が潤む。

 朝陽の肩を掴んでいる細くしなやかな腕から力が抜け、だらりと垂れ下がった。


「あ、あぁ……。あぁぁぁぁ……」

「た、小鳥遊先輩、大丈夫ですか?」

「わたし、わたし……。他人を外見だけで判断しちゃった……」


 声がひび割れているだけでも異常なのに、かたかたと葵の体が震え始める。

 このままでは危険だと判断し、申し訳ないと思いつつ葵の手を掴んだ。

 女性らしい、細く柔らかい手をそっと握る。

 

「もし良ければ、小鳥遊先輩の家で天気が落ち着くまで様子を見ていいですか?」


 本当ならば、先程初めて話した女性の家に行くのは駄目だ。

 けれど、今の葵を放っておく事も出来ない。

 弱みに付け込んでいるような気もするが、仕方がないと割り切った。

 最初に躊躇ためらった朝陽が意見を変えたからか、葵が目を白黒させる。


「え、あ、でも……」

「先輩が嫌だと言うなら止めますが」

「嫌、ではないの。でも、勘違いした私でいいの……?」


 葵が顔を不安に彩らせて、形の良い眉を歪めた。

 学校でよく見る姿とは違ったしおらしい態度に、王子様のイメージが崩れていく。

 態度以外にも何か引っ掛かるが、上手く言葉に出来なかったので考える事を止め、出来る限りの柔らかい笑顔を浮かべる。


「そんなの気にしないでくださいよ。改めて、助けていただいてありがとうございました」

「……私の方こそ、ありがとう」


 顔を俯ける葵の隣に並び、ゆっくりと歩く。

 タイミングを逃して繋いだままの手が、二人の間で揺れていた。 





「いやもう、訳が分かんないって」


 かすかに聞こえてくるシャワーの音に、朝陽は心臓の鼓動を早めつつも頭を抱える。

 一切会話をする事なく葵に連れられて歩く事二十分。朝陽は至って普通の一軒家に到着した。

 まずは葵を落ち着かせるべきだと思ったのだが、彼女の服はかなり濡れていたので、このまま話をする訳にもいかない。

 当然ながらそれは朝陽を助けたせいなので、まずは着替えて欲しいと懇願こんがんしたのだ。

 すると、なぜか朝陽は葵の自室に放り込まれ、当の葵はシャワーを浴びに向かってしまった。


「両親が旅行中だって話だけど、にしたって無防備過ぎだよ」


 この家には葵と朝陽の二人しかおらず、葵の両親に朝陽の事を突っ込まれずに済んだのは有難い。

 しかし、葵にとってはほぼ初対面の男を自室に残しているのだ。

 もちろん変な事はしないが、覗かれたり部屋を漁られる不安はないのだろうか。

 朝陽の方が心配してしまうが、もしかすると葵はそんな考えをする余裕がない程に取り乱しているのかもしれない。

 

「うぅ……。こんな風に女性の部屋に上がるなんて思わなかったなぁ……」


 朝陽とて男なので、女性の部屋は緊張する。ただ、今はどちらかというと困惑が強い。

 上手く言葉に出来ない甘い匂いに、意外にもぬいぐるみの多い部屋。

 カーテンにはレースがついており、しかも全体的に暖色系の色なので、いかにもな女性の部屋といった感じだ。

 正直なところ、とても普段の葵からは考えられない程の。


「ホント、何考えてるんだろう」


 葵が部屋から去るまで、彼女はずっと憂いを帯びた表情をしていた。

 なので、どうして葵の態度が急変したのか、朝陽を部屋に残したのか、さっぱり分からない。

 視線をさ迷わせるのは申し訳ない気がして、顔を俯けて葵が帰ってくるのをジッと待つ。

 暫くすると、コンコンと軽く扉を叩く音が耳に届いた。


「……入っていい?」

「ど、どうぞどうぞ!」


 普通は逆な気がするが、朝陽が許可すると葵が恐る恐る部屋に入ってきた。

 おそらく部屋着だろう長袖のシャツとズボンは葵らしいラフさだが、彼女には似合っている。

 美しい黒髪は完全に乾ききっていないのか、しっとりと濡れていた。

 頬が上気しているのと合わせて、今の葵は格好良さがありつつも、とても女性らしい。

 ただ、その一番の原因は葵のとある一部分だ。


(……あんなに大きかったっけ?)


 ない、とは言えないが、シャワーを浴びに行くまでの葵には母性の塊が殆どなかった。

 しかし部屋着になった葵には、しっかりとあるのが確認できる。

 口にする勇気はないので、喉の奥に押し込めて葵が正面に座るのを待った。

 

「「……」」


 何を話せばいいか、何を話していいか分からない。

 しかし朝陽が口をつぐんでいるのとは反対に、葵は口を開いては溜息と共に閉じてを繰り返していた。

 何か言いたいようなので、ゆっくりと葵が話してくれるのを待つ。


「……まずは、勘違いして本当にごめんなさい」


 震える声が紡いだ言葉は謝罪だった。

 もう終わった事だと、朝陽は微笑を浮かべて首を振る。


「もう謝らないでください。気にしてませんから」

「でも、女に間違われるのは嫌なんでしょう?」

「仕方ないって言ったはずですよ。どうしてそんなに気にしてるんですか?」


 嫌なのは確かだが、露骨に肩を落として落ち込んでいる人に追い打ちを掛ける程ではない。

 むしろ、気にしているのは葵の方な気がする。

 疑問をぶつければ、葵が言い辛そうに、けれどゆっくりと口を動かした。


「…………私が、男扱いされるのが嫌だから」

「……………………はい?」


 女子に人気の『王子様』の発言とは思えず、目が点になる。

 呆けたような声を出した朝陽へと、葵が痛みを押し殺したような笑みを向けた。


「自分が嫌がる事を人にしちゃいけない。当たり前の事だよね?」

「まあ、それはそうですが。えっと、詳しく聞いても?」

勿論もちろん。その為に和泉くんを招待したんだから」


 葵が部屋をゆっくりと見渡し、朝陽へと視線を戻す。


「この部屋、どう思ったかな? 遠慮しないで言っていいからね」

「……正直、小鳥遊先輩らしくないなと思いました」

「だよね。でも、これが私なの」


 自嘲するような笑みはあまりにも痛々しく、朝陽の胸が締め付けられた。

 ある程度の予想を立てつつ、葵の言葉の続きを待つ。


「学校での態度は、全部そういう風に振る舞ってるだけ。言葉遣いもそう」

「だから部屋に可愛らしいものが多くて、口調も変わってるんですね」

「そう、なの」


 おそらく小鳥遊葵という人物の内面は、普通の女子と同じなのだろう。

 このぬいぐるみの多さや暖色系の色合いからすると、一般的な女子よりも女の子らしいかもしれない。

 そして何か変だと頭に引っ掛かっていたが、葵の口調がいつからか女性的なものに変わっていた。

 疑問が解消されてすっきりとしたが、同時に朝陽の中で新たな謎が浮かび上がる。


「じゃあ、どうしてあんな事をしてるんですか?」

「……皆に、そう望まれたから」


 血を吐くように、葵がぽつりと呟く。

 その言葉には、悔しさと苦しさがこれでもかと詰め込まれていた。

 感情があふれ出しているのか、葵が泣きそうに顔を歪ませる。


「小学生の頃に背が伸びて、男子を抜かしてしまった。その時に『男女』って馬鹿にされたの」

「小学生って、遠慮ないですからね」


 このご時世、男が女らしく振る舞ったり、女が男らしく振る舞っても良いようになっている。

 しかし、小学生にはそんな事など通じない。背が伸びたという事実だけで、葵をやっかんだ。

 そして先程朝陽を助けた際に、葵は悪口を言われて顔が歪んでいた。

 自分にとって一番言われたくない言葉をぶつけられたのだから、傷付いて当然だろう。

 朝陽には葵の辛さがよく分かる。朝陽も昔は今以上に女子と間違えられ、様々な人から馬鹿にされたのだから。

 今はある程度仕方ないと割り切っているが、それでも嫌なものは嫌だ。


「うん……。そのせいで、男子が怖くなったの。また馬鹿にされるんじゃないかって」

「そりゃあそうなりますって」


 散々馬鹿にされた男子と仲良く接するなど無理な話だ。

 ましてや、今でさえ学校での葵の姿を見て馬鹿にする人だっている。

 勿論、それは葵の態度も原因ではあるが、嫌ならば止めればいいのではないか。


「でも、馬鹿にされたのにあんな風に振る舞うのは変じゃないですか?」

「それだけなら止めればいいんだけどね。女子が私を頼ってきたの」

「同性かつ男子に負けない体を持っているから、ですか」

「うん。私も男子に悪口を言われるのは嫌だよ。だから、困っている彼女達を放っておけなかったの」


 背が高いから男子に言い負かされず、おそらく力でも負けないだろう。

 そうやって期待され、しかも葵は期待に応えてしまった。見て見ぬフリが出来なかった。

 葵は善意で動いていたのに、それが葵を縛り付けてしまったのだ。

 しかも葵は周囲を責めず、今も皮肉気に苦笑している。


「……そうやって女子に頼りにされ、望むまま振る舞っているうちに『王子様』が出来上がってしまった」

「だから『王子様』って言われるのを嫌がってるんですね」

「うん。私は普通の女の子になりたかったの」

「そういう事だったんですね」


 女子にちやほやされていようと、彼女達は『王子様』を頼っているだけだ。

 そんな事をされても、葵は少しも満たされない。葵が本当になりたいのは、頼ってくる女子達のような人なのだから。

 ここまで説明されて、先程の取り乱しぶりに納得出来た。


「お互いに違う性別を――小鳥遊先輩は悪口ですけど――言われるのが嫌だから、自分の勘違いが許せなかったんですよね?」

「……私にも、違う性別を言われる辛さはよく分かるから」


 がっくりと肩を落とし、顔をうつむけて手で覆う葵。

 自分がどうしても受け入れられない事を、勘違いとはいえ朝陽に行ったのだ。

 いくら朝陽が許しても、彼女は自分を許せないのだろう。

 普段の格好良さなどとっくに消え失せており、背を丸めて落ち込む姿は非常に女性らしい。

 褒め言葉になどならないので、口には出せないが。


(もう『王子様』なんて思えないよ)


 この女性のどこが『王子様』だと言うのだろうか。少なくとも、朝陽は違うと断言出来る。

 ほんの少しでも葵を励ましたくて、感情のままに彼女の頭へ触れる。


「小鳥遊先輩は優し過ぎます」

「……和泉、くん?」


 大きく見開かれた潤んだ瞳が朝陽へと向けられた。

 その琥珀色の瞳も魅力的だし、きょとんと無垢な顔で首を傾げるのも可愛らしい。

 ゆっくりと、さらさらの黒髪を撫でる。


「女子の期待に応えて、男子のやっかみを受け続けて、似た立場の僕を気遣う。頑張り過ぎなんですよ」

「そんな、事は――」

「あります。僕には小鳥遊先輩のように振る舞う事は出来ませんでしたから」


 自らの容姿を受け入れ、女子のように振る舞う事が出来たならどれだけ楽だっただろうか。

 残念ながら、朝陽にはそれが出来なかった。

 けれど、葵は納得が出来ずとも『王子様』の立場を受け入れたのだ。

 そんな優しく立派な女性が苦しむのは間違っている。


「小鳥遊先輩の苦労を僕は真に理解出来ません。でも似た立場として、励ます事くらい出来ます」

「いずみ、くん……」

「いつもお疲れ様です。小鳥遊先輩は凄い人ですよ」


 ほんの少しでもいいから、自らの努力を認めて欲しい。

 ささやくように語り掛ければ、琥珀色の瞳が揺れ、まぶたに雫が溜まっていく。

 まずい、と思った瞬間には葵の喉がひくりと震えていた。


「う、うわぁぁぁん!」

「……はい?」


 突然泣き出され、訳が分からなくなる。

 女性を泣かせたという事実に頭が真っ白になってしまった。

 そんな朝陽の事など知るかとばかりに、葵の口から抑えていた本音が溢れ出て来る。


「私だって可愛い服着たいし、もっと髪を伸ばしたいよぉ!」

「そ、そうなんですね」

「でも似合わないって分かってるし、女の子っぽい髪型にしたら馬鹿にされたんだもん! 女子にも短い方が良いって言われたんだもん!」

「僕もそうです。一緒ですね」

「おっぱいは大きくなっちゃって、男子は陰口を叩くのにいやらしい目で見るの! それが嫌で締め付けてたら、もう辞めるタイミングがなくなっちゃったよぉ!」

「それを今、僕に言う必要あるんですかね!?」


 気にはなっていたが、衝撃のカミングアウトをされてどう反応すればいいか分からない。

 朝陽の事を気にする余裕が無いからだろうが、女性の体型の話は男子の理性に悪過ぎる。

 泣きじゃくって子供っぽい口調になっているものの、そんな姿も可愛らしいのだから美人は狡い。

 どうしたものかと途方に暮れながら、取り敢えずは葵の頭を撫でる朝陽だった。




「……もう大丈夫だよ。ありがとう」


 ようやく葵の涙が止まり、もう一度撫でて欲しいと強請ねだられた手を放す。

 後半は前半のように取り乱さなかったが、それでも女性が泣いているという事実だけで朝陽の背中に嫌な汗が流れていた。

 しかし葵が泣き止んだ事で、安堵あんどの溜息を落とす。

 同時に、向かいの葵が大きな溜息をついた。


「色々とごめんなさい」

「僕がやりたかっただけですよ。小鳥遊先輩が嫌でなかったなら、それでいいです」

「……和泉くんは優しいね」


 学校で見る笑みとは違う、肩の力が抜けた柔らかい笑みに、どくりと朝陽の心臓が跳ねた。

 妙に気恥ずかしくなり、葵から視線を逸らしつつ口を開く。


「そ、そんな事ありませんよ。何と言うか、他人の気がしなかったので」


 朝陽の苦労など葵の足元にも及ばない。

 それでも、お互いに容姿によって苦労してきたのは間違いないのだ。

 つい口にしてしまったが、ほぼ初対面の男に言われても嬉しくないはずだと思いなおす。


「すみません、忘れてください」

「ううん、忘れないよ。私もそう思ったんだから」

「……そう、ですか」


 歓喜をこれでもかと表に出した笑顔が眩しい。

 沸き上がってくる熱を誤魔化そうと頬を掻くが、それ以上話が続かず静寂が部屋を満たす。

 何とかしなければと、壁に掛けられているピンクで縁取られた時計を見れば、葵の家に来てから一時間以上が経過していた。


「もう雨も大丈夫でしょうし、帰りますね」

「え、あ、ちょっと待って!」


 立ち上がった朝陽のシャツの裾が葵に引っ張られた。

 まさか引き留められるとは思わず、驚きに目を見開いて彼女を見下ろす。

 琥珀色の瞳は揺れており、何か言いたそうにもごもごと口を動かしていた。


「どうしましたか?」

「……その、私、男の子に慣れたいの」

「その頑張りは素晴らしいと思いますが、突然どうしたんですか?」


 口には出して確認するつもりはないが、葵はおそらく女性と恋愛する気がない。

 そうでなければ、こんな宣言はしないだろう。

 とはいえ、この場で朝陽に言う必要はないはずだ。

 葵と話してほんの数時間で惚れられたなど、そんな都合の良い展開は有り得ないのだから。

 首を傾げて尋ねれば「う」と詰まったような声が耳に届いた。


「だから、その……」

「はい」

「…………練習、させてくれないかな」

「はい?」


 葵の口から発せられた言葉の意味が分からず、聞き返してしまった。

 単に理由を尋ねたかっただけなのだが、葵は頬を赤らめて焦ったように顔の前で手を振る。


「い、和泉くんを悪く言うつもりはないけど、貴方なら大丈夫だと思ったの! だから、和泉くんさえ良ければ慣れさせてくれないかなって……」


 葵が言葉を紡げば紡ぐ程に彼女の声が小さくなっていき、最後はささやきに近かった。

 叱られた子供のように瞳を潤ませ、上目遣いで朝陽の様子をうかがってくる。


「駄目、かな……?」


 どう見ても女性らしく、庇護欲をそそる姿。

 間違いなくこれが素の姿なのだろうが、学校での凛々しい姿は欠片もなかった。

 そんな姿が可愛らしくて笑みを零すが、同時に頭の冷静な部分が葵の言葉の意味をしっかりと理解してしまう。


(つまり、男に見えない僕で慣れようって事だよね)


 朝陽が女性と間違えられたくないと分かっていながら、それでも葵は朝陽の容姿を当てにしている。

 間違えられる事に関してはある程度諦めており、そして朝陽のせいでもあるので、葵を怒るつもりはない。

 この歳にもなっていちいち間違えた人に突っかかるつもりはないし、そもそも意地でも間違えられたくなければ、髪を刈り上げるなりして間違われない努力をすればいい。

 それをしないのは、今以上に奇異の目で見られないようにと割り切ったからだ。

 体づくりはしているものの、妥協して宙ぶらりんな事をしている時点で、朝陽には努力する葵を責める資格などない。


「良いですよ。僕で良ければ、ですけど」


 何をするかなど分からない。朝陽が都合よく利用されているのは分かっている。

 それでも、こんな朝陽が葵のような素晴らしい人の役に立てるなら、それで良いと思ってしまった。


「ありがとう、和泉くん!」


 輝かんばかりの笑顔を浮かべ、葵が嬉しさを表す。

 ほんの数時間前まで、一方的に知るだけだった関係。

 それが唐突に変わった瞬間だった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 主人公も気付いてるけど小鳥遊さん、なかなか打算的だよなぁ。
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