その日にたどり着くまで(前)
出口など無い牢獄のような研究所。いつからこの場所にいるのかは覚えていない。
物心付いた頃から俺は実験体ってやつで、他のやつらが言う“外”というものがどんな場所かは全く知らなかったし、興味も無かった。
所詮俺達はこの研究所で飼われているだけの存在で、どこにも逃げ場も行く当てもないのだから。
「ねえねえ聞いた? 何か新しい子が来るんだって!」
いつも通りの訓練と称される実験。体内に少しずつ毒を注入しそれに順応していく為のそれが終わり、重たい体を壁に預けて休んでいる時だった。
耳障りな程明るい声と共にAと呼ばれる金髪の少女が駆け寄ってきた。
「……知らねえしどうでもいい」
「またそんなこと言って! 私達の兄弟が増えるんだよ、少しは興味持ってよ」
「兄弟ね。……ただ犠牲者が増えるだけだろ」
この施設は何処からか子供を攫って来て特殊な訓練を受けさせている。それぞれの子供によって受ける訓練は様々で、元々特別な能力を保有するやつらはその力の研究を、俺みたいな何の能力も無い子供には新たに力を与える為の実験を行う。俺は数々の実験の所為で皮膚や体液に毒素を持つ体質になってしまった。何でもこの先は使う毒の種類をコントロールできるようになれという。無茶苦茶言いやがって。
此処に連れて来られる前に一般家庭で育ち外を知っているやつらからの情報がなければ、俺は何の疑いを持つことなく訓練を当たり前として受けていたんだと思う。
此処は異常だ。だからこそ新しく連れて来られたやつが居てもそれを喜ぶなんておかしな事だと思う。
「まあそう言うなよC」
「……B」
「俺達がどうしようとその子が此処に来ることには変わりないんだ。だったらせめて少しでも俺達で居心地の良い場所にしてやるべきだろう?」
俺がそう言おうとした時、むくれるAの背後からひょっこりと長身の少年であるBが現れた。こいつらはしょっちゅう一緒に居て、こんなクソみたいな場所でも明るく振る舞ういかれたやつらだ。
「そうそう、だからCちゃんも協力してね!」
「……勝手に言ってろ」
「もー、素直じゃないんだから」
「大丈夫だよA、そう言ってこれまでも何だかんだEもFも面倒見てただろ? こいつ良いやつだからな」
「そうだよね、Cちゃんは良いやつ!」
「……」
俺は煩い二人組から距離を取りたくてだるい体を引き摺り歩き出した。
この研究所に連れて来られた子供は全員識別番号が振られる。俺の番号は015ーC。前半の数字はそれぞれ異なるが、末尾のアルファベットは研究所に来た順番で割り振られている。そこに年齢は関係なく、AやBは俺より年上だが、中にはGのような三歳児まで居たりする。
最後に来た子供はH。だから次に来るやつの名前は決まっている。
「Iちゃんね、初めまして!」
「……」
研究員によって連れて来られたやつは真っ白な髪をした女だった。俺より少し年下だろうか。Bが「目は赤いし白兎みたいだな」と感想を口にしたが、生憎兎とやらをこの目で見たことがなかったので理解出来なかった。
そいつは黙ったまま俯いたままで、それはそうだろうと思った。こんな場所に連れて来られて平然としている方がおかしい。何も言わないIを見てAは優しく微笑みIの隣に立った。
「私はAだよ、よろしくね。それでこっちがBで……この子がCちゃん!」
「えいと、びいと……しいちゃん」
「……その呼び方まで真似しなくていい。あと絶対に俺に触るなよ。いいな?」
ようやく顔を上げたIの表情は希薄で、しかし俺の言葉を聞くと少し怯えるようにAの服を掴んだ。
「大丈夫だよ、別にIが嫌いでそう言ってる訳じゃないから。Cの手とかに直接触ったら毒が回るから駄目だけど、こいつ自身は面倒見いいし悪いやつじゃないんだ」
「……そう、なんだ」
Bが安心させるようにそう言うと、Iは少し緊張を解いて俺をじっと見つめた。
「私は、大丈夫だよ」
「は?」
「私は……死なないから」
Iは元々別の研究所に居て、そこで“作られた”のだと言った。そんなIはいくら怪我をしてもすぐに再生してしまう体質を持つらしい。おまけにその血を飲めば他人を癒やすことすら可能で、触れただけで人を殺せる俺とは対極の存在だった。
Iが来てからも変わらない日々が続いた。俺は訓練で毒を飲み、他のやつらも各々研究員の玩具にされている。新しく来たIだって例外ではない。ただ前の研究所は崩壊しており殆ど情報が残っていなかったらしく、当初は貴重な実験体が壊れないようにと随分慎重に扱われていたようだった。それだけあいつの能力は重要だったんだろう。
変わったことと言えばそれこそIだ。此処に来た当初はあれだけ大人しそうなやつだったのに、Aに感化されたのか随分と明るく……煩くなった。まだ小さいGの面倒を見たり、同い年くらいのFと怒られない程度にはしゃいだり、Bと外のことについて話していたり。あいつは研究所生まれな癖に何故だか妙に外のことに詳しかった。前の研究所では俺の想像よりも自由に過ごせていたのかもしれない。
変わらない。そんな日々がずっと続くとは思っていなかった。だが、実際にそれが崩れ去る日がこんなに早く来るとも思っていなかったのだ。
きっかけはそうだ、あいつが……Aが死んでからだった。
どうにも研究成果が芳しくなく、予算が減らされているという話はBが小耳に挟んだと言って聞いていた。その話を聞いた頃からどんどん訓練がきついものに変化して行き、俺も訓練後はろくに動けなく日が続いた。Iが治そうかと聞いてきたが、下手に治して体の毒が抜けたらそれこそあいつらにとっては堪ったものではないだろう。そうなったらIが何をされるか分からないと断った。
俺は寝込むことが多くなって他のやつらとの接触が減った。だからこそそれを聞いたのは何もかも手遅れになってからだった。
どんどんエスカレートしていく訓練の中でAが命を落とした。それを知ったBが研究員に食ってかかり、それからBの姿は一切見なくなったのだという。
常に俺達の中心に居たのは最古参のAとBだった。やつら二人が居なくなってから、いっそ笑えるくらい俺達はばらばらになって荒れた。
Gが何も食べなくなって衰弱死した。EとFが対立の末殺し合った。他のやつらだって何処にいるのかも分からないやつや、気絶したまま研究員に引き摺られていく姿だって見た。
今誰が生き残っているのかすら把握できなくなった頃、不意にIが俺の前に顔を出した。
ああ、そういえば……こいつは死なないんだったなと思い出した。
「ねえ……もし外に出られたとしたら、何がしたい?」
隣に座ったIは、随分と明るい声でそう言った。
「はあ? 此処から出られる訳ないだろ。なに夢見てるんだよ」
「いいじゃん、言うだけならタダだよ。もしかしたら隙をついて逃げられるかもしれないし、外から助けが来るかも」
「来る訳ねえだろ」
「考えるだけならいいでしょ!」
「……知らねえよ。お前と違って外がどんな所かも分からないのにそんなこと答えられる訳ない」
こんなに喋るIは久しぶりだった。まるでA達が居た頃のような、今思えば随分と平和な日々を思い出す。
……やつらの脳天気な笑顔を思い出して、つい俺も返すように口を開いた。
「……で?」
「で?」
「Iはどうなんだよ。お前は外に出たら何をするんだ」
「そんなの決まってる!! 勿論最初は――ケーキが食べたい!」
「……ケーキねえ」
実際にどんなものかは知らない。だがこいつがそれを如何に好きかということは散々聞かされた。ぺらぺらとそのケーキとやらについて喋り始めるIを見ながら、ただの現実逃避だと理解しながらもその話に耳を傾けた。
多分そうやって喋っていなければIはきっと己を保てなかった。もうとっくにこいつは限界だったのだろう。
ーーーーーーーーーー
日常が崩れたのと同じ、終わりだってそれは唐突に訪れた。
「大丈夫だよ、しいちゃん」
瀕死の俺の血を飲ませたIが研究員に無理矢理連れて行かれる。扉が閉まる最後まで俺に笑って見せたあいつの顔が目の奥に焼き付いて離れない。
「いやあああああああ!! あぁあっ!! あ、やだ……きゃああああああああっ!!!」
悲鳴が止めどなく響き渡る。複数の重たい扉を挟んでもはっきりと聞こえるIの悲鳴。言葉にするのも憚れるほど悍ましい目に遭っているのだと理解して吐きそうになった。
「放せ!!」
「おい暴れるな」
「うるせえ! 放せ、放しやがれ!!」
俺を押さえつける男を無理矢理振り解こうとするが、まだ回復しきっていない体は満足に力が入らない。Iが、俺の所為であいつが。
「おい、騒がしいぞ」
「すみませんすぐに連れて行きますので!」
その時、Iが連れて行かれた扉から男が出て来た。さっきあいつを連れて行ったやつだとすぐに分かるその男を見上げ――俺は絶句した。
「全く、これからこれの分析で忙しいんだ。さっさと静かにさせろよ」
男は大きなガラスケースを持っていた。所々赤く染まってはいるが中身が見えないほどではない。だからこそはっきりそれが何なのか分かってしまった。
そこに入っていたのは一本ずつの腕と足、それから水の入ったビーカーに二つの赤色の眼球。他にも赤黒い臓器のような物がいくつも――。
「ぎ、ぎゃあああっ!」
その瞬間、俺を押さえつけていた男が悲鳴を上げてのたうち回った。俺に直接触れないように使っていたゴム手袋は溶け、その奥にあった手がぼろぼろに崩れている。難なく拘束から抜け出した俺は、いつの間にかどす黒く変色していた己の手を床に倒れる男の顔面に叩き付けた。
短い声と共に男の顔面が溶ける。
「お前、訓練ではそれほどの毒性など」
「……」
Iの一部を持つ研究員が驚きの声を上げるが、俺はそれに言葉を返す余裕なんてなかった。怒りで喋ることすらろくに出来ない。ただただ、この男を殺すことしか考えられない。
殺して、ぐちゃぐちゃにして、こいつもIと同じ目に。
「!?」
しかしそれを実行しようとした矢先、突如足下が大きく揺れた。立っていられないほどの衝撃、それどころか天井にひびが入りあっという間に崩れ落ちる。
体を打ち付ける瓦礫にやられて倒れると、続けて柱が崩れてこちらに向かって倒れてくる。しかし寸前で他の瓦礫に引っ掛かったのかぎりぎりの空間を残して俺は潰されずに済んだ。
「何だ、何が起きて……!」
殺し損ねた男が酷く困惑してきょろきょろと辺りを見回している。そして天井が無くなった上を見上げたところで、不自然に呼吸を詰まらせたのが分かった。
釣られて俺もそちらを見て――そこに巨大な“白”を見た。
「っ、」
なんだあれは。
真っ白な体に装飾のように赤い目をいくつも散らばらせた謎の巨大生物。見たことも聞いたこともないそれを見て唖然としていると、突如その白が上下半分に割れ、その黒い境界線を男に向かって広げた。
それが口だったと気付いた時には、既に男は丸ごと飲み込まれていた。
ガラスケースごと男をばくりと口に含んだその怪物は、バキバキぐちゃぐちゃと汚い音を立てながら咀嚼するように体を小刻みに動かす。それはあまりにも醜悪で、異常な光景だった。思わず声が漏れそうになって慌てて両手で自分の口を塞ぐ。
気付くな。俺に気付かず何処かへ行け。心の底からの願いが届いたのか、白い怪物は完全に食べ終えるとあっという間にその姿を消した。何処かへ逃げたのではない、突然その場から存在が掻き消えたのだ。
しん、と辺りが静まりかえる。それを確認して、ようやく俺は口から手を離して呼吸をした。
一体何が起こったのか全く理解出来なかった。……だが、それよりも優先すべきことがある。
「あい……!」
瓦礫の隙間から何とか外に這い出ると、俺は一目散に壊れた扉の先へと走り出した。Iは、あいつは大丈夫か。あの化け物に食べられてはいないだろうか。
そんな大きな不安を胸に妙に見通しの良くなった施設の中を探せばすぐにそいつは見つかった。
「見つけた!」
「……しい、ちゃん」
しかし、Iを見た俺は息を詰まらせた。ぺたりと座り込んでいたIは、元々白かったその服と髪を余すところなく真っ赤に染めている。それだけではない、俺を見たその赤い目は完全に濁りきって死んでいた。表情もなく、とても生きている人間とは思えない顔をしていたのだ。
俺に助けようとした所為で、こいつは。
「ごめん」
そんな言葉じゃ到底許されないことだった。けれどIはその言葉の意味を理解出来ないとばかりに首を傾げていて、口の中に苦い物が広がるのを感じる。俺を恨めよ。俺の所為だって責めろよ。もうそんなことを考える余裕もないほどにやつらに壊されてしまったのか。
自責と後悔ばかりが押し寄せる中、不意に遠くから小さな話し声が聞こえて来るのが分かった。俺のようにたまたま生き残ったやつがいたらしい。
もうこれ以上Iを酷い目に遭わせるものかと、俺は急ぎ座り込むIを立たせてその背中を押した。
「逃げろ」
「しいちゃんは」
「此処で足止めする。お前はこのまま“外”に行け」
「……」
「お前ずっと外に行きたがってたろうが。今しかない、行け」
「でも……そうしたらしいちゃんが」
「そう簡単には死なねえ……って、説得力もねえか。だが、俺もいつか外に出て絶対にお前を見つけ出す。それまではなんとしてでも生き延びる。待ってろ」
「……」
「早くしろ!」
未だにぼんやりしているIの目を覚まさせる為に大きな声を出して彼女を急かす。そうするとようやくIは走り出して、瓦礫の隙間を縫うようにしてすぐに姿が見えなくなった。
「……必ず」
あいつに償うまでは絶対に死ねない。
話し声が随分と近くまでやって来る。どうやら声からして男と女、二人組のようだ。それがどんどんこちらへ近付いて来て、そしてすぐにその姿を現した。
「お、ようやく生存者確認」
そこに居たのは白衣の男女。女の方は見覚えがなく、男の方はそもそも分からない。何故ならそいつが顔にガスマスクを装着していたからだ。以前俺が吐いた息が毒ガスになるかと調査されたことがあったので、こいつもそれを警戒しているのかもしれない。
だが、そんなマスクなど無意味だ。
「死ね」
「教授!?」
俺は一気に男に向かって飛びかかった。赤黒い手をガスマスクに叩き付けるとあっという間に嫌な匂いを立てて溶け始め、それを見た女が悲鳴を上げた。
このまま全身溶かして殺してやる、と手に力を籠める。
「素晴らしい!」
「……は?」
しかしその時、男の手が俺の腕を思い切り掴んだ。
「君は自ら毒を生成出来るのか? そもそも単純な毒だけじゃないな? 体内で複数の毒を組み合わせて新しい毒を作成している……ちなみに他の種類も出せるのか? そもそも体に精製機関を埋め込まれている可能性も」
「な、なんだよあんた」
「とりあえず全部採取しようか。面白い、君本当に面白いな!」
マスクが崩れて落ちようと、手袋が溶けて自分の手が焼けようとまったく動揺することなくむしろ興奮してその様子を見つめて来る男に、思わずこちらが手を引いてしまった。
露わになった素顔はごく普通のおっさんだったがその爛々とした目にたじろいでしまう。そこに怯えなど一切ない。どんどん焼け爛れていくのに依然として手を放さないどころか更に強く握ってくる。
「教授何を馬鹿なことしてるんですか! 死にますよ!?」
「死んでも本望、いや全部調べてからでないと死んでも死に切れ」
「まず死ぬな!」
見かねた女がようやく男を引き剥がす。それでも無事な方の手を顎に当てて俺を観察する男に寒気がした。今まで接したことのない類の人間だ。他の研究員は皆、ただ実験の成果を得る為だけに淡々と動いていて、当然自分に危害が加わらないようにしていたのに。
「ふむ、腕を放す直前に溶解液の濃度が下がった。意図的に行うとすればそのプロセスは――」
「あんたはちょっと黙ってて下さい! あの子どん引きしてますよ!」
「しかし」
「しかしじゃない黙れ! ……えっと、ごめんなさいね。君、この研究所で捕まってた子よね? 私達は警察みたいなもので」
「警察? ……“外”から来たってことか」
昔BとIが話していたのを聞いたことがある。警察がこの研究所を上手いこと摘発してくれないだろうか、とかなんとか。
「ええ。違法で非人道的な人体実験を行っていたとして調査をしに来たんだけど、何故か突然建物が破壊されたみたいで」
「……」
「君……此処で何があったか知ってる?」
首を傾げる女に、聞きたいのはこっちだと言いたかった。あの白い化け物は一体何なのか。今思い出すだけで身震いしてくる。
「まあこんないつ崩れてもおかしくない場所で長居するのも何だ。とりあえず君、うちに来るといい」
「……」
信用できない。する訳がない。今まで散々同じ白衣の人間に痛めつけられて来たというのに、初対面で奇怪な言動をするこいつにほいほい着いていく訳がないだろう。
さあ、と伸ばされた手を避けようとして反射的に一歩後ろに後ずさる。
「……は?」
しかしその瞬間俺は仰向けで地面に倒れていた。何故か足が縺れてそのまま倒れ、そして力が入らず起き上がれない。
異常に眠い。
女が何か喚いているが言葉が頭に入って来ない。それどころか声すらどんどん遠くなっていく。
そして数秒掛からず、俺はすぐに意識を手放したのを自覚した。
ーーーーーーーーーー
「あの現場の調査結果が――」
「……おかしいな。あの場に細胞があるはずが――」
覚醒を促すように微かな声が耳に入ってくる。
「なん、だ……此処」
「あ、教授。あの子起きたみたいですよ」
「!」
目を開けると同時に聞こえて来た声に思わず飛び起きる。辺りを見回せば見慣れたものとは異なるが研究所のような場所で、そして倒れる前に居た女とあの頭のおかしい男がこちらを振り返ったところだった。
「よかった、君三日も眠ってたんですよ」
「……三日?」
「まあ余程無茶な実験されてたんだろう。君の体特殊過ぎて点滴一本打つのにも配合に相当苦労したぞ」
やれやれと分かりやすく肩を竦めた男が近付いて来る。それに警戒して右腕を前に突き出すが、案の定そいつは何も気にした様子もなく傍までやって来た。
「来るな、殺すぞ」
「はいはい。それはそうとこれ見たことある?」
「!」
本当に右手を男に叩き付けてやろうと思ったその時、やつが持っていたものを眼前に突きつけられて動きが止まった。
見せられたのは一枚の写真。そこに映し出されていたのはあの悍ましい白い化け物。目の前で人一人を飲み込み咀嚼したあの怪物。恐ろしくて体が震えるのにどうしてもそれから目を離せなかった。
何も言わずとも態度で伝わったらしい。男は「成程成程」としたり顔で何度も頷いた。
「あの研究所の崩壊はやはりXの仕業か」
「X……」
「こいつの名前だよ。どいつもこいつもこれに正式名称を付けて存在を確定させたくないらしくていつまで経っても仮名だが。で、もう一つ聞くがあの研究所にこれと同じ白い外見と赤い目のものは居たかい」
「白と、赤」
「大方こいつの小型版ってところだな。再生能力を持った小さな化け物……まあ君が知らない場所に隔離されていた可能性の方が高――」
じゅわりと、その瞬間俺の傍にあったサイドテーブルが溶けた。怒りで毒をコントロールできない。いやする必要もない。全て、全部壊してしまえばいい。
「――誰が、あれと、同じだと?」
白と赤、それから再生能力。そう聞いて連想するのはただ一人しか居ない。よくしゃべって笑って、俺が原因で酷い目にあったあいつ。
Iがあれと同じ? ふざけるなよ。
「……ああ、そういうことか。つまりそれは人型……その子は人間だったんだね?」
「当たり前だろ!!」
「当たり前じゃないんだよこれが。Xの研究において人型になって生活できる個体なんて確認されていない。……いや一度噂はあったか」
「因幡教授の件ですね?」
「ああ。あの研究所も崩壊していたし、もしかしたらあそこに居た子が流れたのかもしれないな」
「……どういうことだよ」
俺を置いて二人が納得したように頷き合う。何を言っているのか全く分からない。本来なら理解しようとする必要もないしこのまま殺してしまえばいい。
だがIのことだ。何も知らないままで居るわけにも行かなかった。
俺がそう尋ねると、男がにやにやと腹立たしい笑みを作った。
「そうか知りたいか。いいね、知識を得たいという気持ちは大事だ。みちる君、説明を」
「またそうやって全部こっちに投げるんですから……。そうですね、では簡単にXの概要から」
呆れた顔をした女が、そう言って話し始める。
Xとは本当に謎の生命体だという。最初にそれが現れたのがいつかというのは分かっておらず、その生態も殆ど解明されていない。ただ物理法則を無視して突然現れ消える様子から地球の生物ではないだろうと言われている。
半球体の白い体にいくつも赤い目のような器官を備え、大きな口を持つ。現れた場所に唾液等のXの細胞が残されていたのが発見され、そこからXの研究が進められている。その第一人者が因幡教授という人間だという。
「彼女はまずXの細胞からXを複製しようとしたんです。何せいつ何処に現れて消えるか分からない存在で、研究するなら手元に置いておけるのが一番ですから。その研究自体は成功して、彼女の研究は次の段階へと進みました。それは――Xの細胞を使った人造人間の製造」
「! じゃあ、あいつは」
「その子が因幡教授の研究室に居た子だと仮定すれば、恐らくその成功例でしょう。研究が成功したと噂には聞いていたんです。ただ噂でしかありませんでしたし、他の研究者も競ってその研究を行いましたが成功したとは聞かなかった。……その子はどんな子でしたか?」
「……あいつは、Iは、髪が白くて、目が真っ赤で、俺の仲間は白兎みたいだって言ってた。最初は大人しかったけど段々明るくなって、それで……ずっと外に出たがってた」
Iの情報をこいつらに与えるべきではないのかもしれない。だが、
「あいつの血は他人の傷を治す。死にそうになってた俺を助けて……その所為で研究員共を怒らせて、酷い目に遭わされた」
俺のこの罪だけは、決して忘れないように口にしたかった。
「怪我が治るから何だよ、体が千切れたって治るから……だからって目も手足も、臓器も奪われて! あいつが何したって言うんだよ!」
「……酷い」
「あいつの悲鳴がずっと耳に残ってるんだ。俺はIを助けにも行けず、やっと見つけた時にはあの化け物の所為で研究所が滅茶苦茶になってからだった」
「え?」
「瓦礫だらけの中で髪も服も真っ赤になって、心だって壊れて。せめて他のやつらに捕まらないように外へ逃がして――」
「ちょっと待って! 君……今の話本当?」
「嘘だったらどれだけ良かったか! 俺の所為であいつは」
「そうじゃなくて! 研究所が壊れた後に、その子はまだ居たの?」
突然女が驚いた顔をして声を上げる。……一体何の話だ。それの何が問題なんだ。あれだけ建物が滅茶苦茶になったら他のやつらのように瓦礫で死んでいてもおかしくないが、それだってIは死ねないのだ。生きていて何の不思議も無い。
何故か妙に何度も尋ねて来るものだから頷いてみせると、今まで黙って聞いていた男の方が口を開いた。
「不思議だな、てっきりXに捕食されたとばかり」
「は……捕食?」
「Xの習性として最近判明したんだが、あれは自分の細胞を持つものを捕食する性質があるらしい。因幡教授の研究所が破壊されたのを始め、他の研究所もいくつかXによって破壊されクローン体を食べられている。恐らく自分の細胞を取り戻そうとする本能だろう。細胞を持つ全てのものの前に現れる訳ではなく、何らかの法則があるんだろうが――」
ぶつぶつとまだ何かを喋っているが、俺はそれよりあの白い化け物を思い出していた。
あいつは唐突に現れた。暴れて研究所を破壊して、そして研究員を一人飲み込んだ。……その手にあったIの一部が入ったガラスケースごと、だ。
「まあとにかく! その子が食べられなかったんなら良かったわね! でもその子は一体何処に……あ、ああ! 教授! じゃああの血痕は」
「うむ、まあそうなるだろう」
「血痕? どういうことだ」
「君が眠っている間に研究所周辺はくまなく調べたわ。いくつかXの細胞が混ざった血痕も見つかった。だけどそれが、近くの山道で不自然に途切れていたの。つまり……」
「研究所から逃亡後、その山道で何者かに連れ去られたってところだな」
「!?」
「その特徴を持つ子供が保護されたという情報もない。血塗れの子供を警察や病院にも連絡せずに連れ去ったということは……十中八九、後ろ暗い人間だろう」
Iが連れ去られた。それも恐らくまたIを利用しようとする人間に。
体から力が抜けて膝をつく。頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。
「大丈夫? まだ体調が」
「俺の……また、俺の所為だ。またあいつは、」
Iは外のことに詳しかった。だから外にさえ逃げられれば助かると漠然とそう思っていた。俺は何も知らなすぎたんだ。あいつを助けるつもりで一人逃がして……また地獄へ追い込んだ。
俺は自分の体を見下ろした。こんな毒人間の手当まできっちり施されていて、研究所よりも柔らかいベッドに眠っていて、何よりこいつらは一方的な命令ではなく対話ができる。少なくとも、この場で命の危険は感じられない。
一緒に居てやればよかったんだ。俺が守ってやると言えれば、今頃あいつもこの場所に居られた。
「まあ多少疑問は残ったが血痕の件は解決したな。では次の話に行くとしよう」
「きょ、教授……少しはこの子の気持ち考えて下さい」
「私も忙しいんだ。さっさと話を終わらせて研究に戻りたい。という訳で、君はこれからどうするつもりだ?」
「……」
「選択肢を提示しようか。まず一つ、このまま警察に保護される。一般人として生活するには体質がネックだが、まあその辺りはみちる君が手を回そう。そして二つ目、此処から出て好き勝手に生きる。僕たちは上に怒られるだろうが君は自由だ。その白い子を探しに行くのもいいし、その後悔のまま自殺したって構わない」
「教授! いい加減に」
「そして三つ目、その子の情報が入ってくるのをうちで待つ。うちは警察と色々繋がっててね。みちる君も僕の監視役として科捜研からうちに出向してる。今回のようにあまり表沙汰に出来ない事件の調査を任されていてね。その子の情報も頼めば調べてくれるだろう」
「……」
「どれでも構わないよ。僕としてはおすすめは三つ目だが」
俯いていた顔を上げて男を見上げる。そのへらへらした顔をじっと観察して、俺は眉を顰めた。
「そんな上手い話が何処にある。何が目的だ」
「この研究所は人手不足でね。君には僕の助手として働いてもらいたい」
「たったそれだけ? ……そういえば俺を調べたいと言っていたな。好きにしろよ。手足の一本や二本、勝手に持って行け」
「それは君が寝ている間に粗方終わった。実に興味深かったよ。手足は必要だが僕が欲しいのは勝手に動いて手伝ってくれる手足なのでね」
「……」
「あの、私が言っても信用ならないかもしれないけど、この人……社教授は変人だけど悪い人じゃないの」
女がフォローするように言い募る。その姿が何処か覚えのある誰かに重なった。性別も年齢も違うが、なんとなく。
「……B」
「え?」
「分かった、分かったよ。仕方ねえから此処で働いてやる。その代わり絶対Iのことは調べてもらうからな」
「勿論。という訳で――その子の情報、みちる君頼むよ」
「分かってますよ! 教授は研究以外役立たずですからね!」
女がにこにこ笑いながら力強く頷く。
こいつらのことを信用した訳じゃない。ただ俺一人で闇雲にIを探そうとするのは無謀でしかない。使える物は全て利用しろ、どんな手を使ってでも――Iを取り戻す。
「ああごめん、そういえば名前も聞いてなかったわね。君、なんて言うの?」
「研究所での識別番号は015ーCだ」
「え? ぜろいち……」
「長い。君今日から燐って名前な」
「は?」