四日目
「――!」
私を呼ぶ声が聞こえる。
目の前にあるのは沢山の瓦礫。建物の大部分が崩壊したその場所に私はぼんやりと座り込んでいた。周囲には白衣を来た人間が頭や体から血を流して倒れており、それらはぴくりととも動かない。
そして同じように、私の服も元の色が全く分からなくなるほど赤く染められていた。
「見つけた!」
「……しい、ちゃん」
駆け寄って来た彼が私の姿を見て絶句する。くしゃりとその顔を大きく歪めたしいちゃんは私の前に膝をつくと「ごめん」と一言、小さな声で呟いた。
どうして彼が謝るんだろう。不思議に思って首を傾げると、しいちゃんはますます苦しげな表情を浮かべた。
「! 誰か来る!」
と、不意にしいちゃんが弾かれたように顔を上げた。耳を澄ませば物音と共に小さな話し声が聞こえ、彼はすぐさま私を立たせると背中を押す。
「逃げろ」
「しいちゃんは」
「此処で足止めする。お前はこのまま“外”に行け」
「……」
「お前ずっと外に行きたがってたろうが。今しかない、行け」
「でも……そうしたらしいちゃんが」
「そう簡単には死なねえ……って、説得力もねえか。だが、俺もいつか外に出て絶対にお前を見つけ出す。それまではなんとしてでも生き延びる。待ってろ」
「……」
「早くしろ!」
鋭い声に私は無我夢中で走り出した。私は戦えない、此処に居てもしいちゃんの邪魔になるだけだ。
外へ。ずっと閉ざされていた重い扉は建物の崩壊の影響で歪んでしまっている。その隙間を抜けて、とにかく遠くへ。
背後で微かに聞こえた声に耳を塞いで、私は息が切れても足が縺れても必死に走り続けた。
ーーーーーーーーーー
どんなことが起きても、どんなに苦しくても……生きていれば、朝は来てしまう。
「……」
いつもよりも遅い時間に目を覚ました私は、じっと時計を見た後入り口の扉を振り返った。
一昨日と昨日、この時間になると扉がノックされて「藍、早く行くわよ」と声を掛けて来る女の子が居た。
私は黙って身支度を整えるとすぐに部屋から出て廊下をきょろきょろと見回してしまう。……勿論、そこに彼女の姿は無かった。
黒音ちゃん。さっぱりした性格で、記憶のない私の世話を焼いてくれて……けれど、その腹の底に私に対する憎悪を隠していた女の子。彼女の豹変だって十分驚いたし何度も何度も傷付けられて怖くて堪らなかった。しかしそれ以上に、あの子が死んでしまったという事実の方が衝撃的だった。
彼女だけではない。心谷先生も死んだ。たった一日で知り合いが二人も亡くなったのだ。それが善人ではなかったとしても、酷いことをされたとしてもずんと心の底が重たくなるのを感じた。
一人で食事をして一人で教室に向かう。重たい足を引き摺って席に着くと、時間ぎりぎりだったからかすぐに前方の扉が乱暴に開かれて社先生が入ってきた。
「朝礼始めっぞ。……ああそうだ、黒音が退学になった。あとは特に連絡事項はねえな」
昨日人一人殺したというのにまったく変わった所の見えない先生は酷く暢気な声でそう言って出欠を取り始める。周りをちらっと窺っても、他のクラスメイトだって動揺している子は誰も居なかった。……きっと皆慣れてしまったんだろう。彼らにとって、この状況は別に特別でもなんでもないんだ。
ただ唯一、出雲君だけは私のことを心配そうな目で見ていた。
「……藍さん」
「あ……」
ぼんやりと頭の中に靄が掛かった気分でふらふらと廊下を歩いていると、背後から出雲君に声を掛けられた。
振り返ると海のように深い青色と目が合う。彼は私の隣に並ぶと、「大丈夫ですか」と遠慮がちに尋ねて来る。
「いえ、大丈夫ではないですよね」
「……うん」
嘘でも平気だと言うことが出来ず、小さく頷いた。そのまま俯きながら、私はふと昨日のことを思い出して彼の右腕に視線をやった。
「出雲君……その右腕は」
「ああ、そのことですか。これのことも含めて藍さんと話したいことがあるんです。今日の午後少し時間をもらえますか?」
「……」
出雲君は一体何なんだろう。初対面から私を庇ってくれて、こうして話しかけてくれて……何が目的なんだろうか。
彼と同じように人当たりの良かった心谷先生や友達だと思っていた黒音ちゃん。彼らと同様出雲君にも何か裏があるのではないか。
そう思うとそれ以上会話をする気にもなれず、私は返事を濁して無言で次の授業がある理科室へと足を進めた。
「……え?」
開けっ放しになっていた扉をくぐって理科室へ入った所で私は立ち止まった。昨日も同じ授業があって訪れたこの教室に、昨日とは異なる所がある。
壁一面にある棚には多くの器具や瓶などが置かれている。ビーカー、顕微鏡、ホルマリン漬けになった謎の物体。……その中にラベルが貼られた瓶が二つ、分かりやすく目立つように入り口近くに陳列されている。
ラベルに記されていたのは“心谷”“黒音”という文字。そして瓶の中に入っていたのは……それぞれ二つの、眼球だった。
「っ、」
「藍さん!」
口を押さえて座り込む。今にも吐きそうなのに、どうしてかその瓶から目が離せない。瓶の中の眼球と目が合って、くらりと頭が揺れた。
そのまま背後に倒れそうになった私を慌てた様子で出雲君が支えてくれる。力が入らずそのまま彼に寄りかかると、彼は私の視線の先を見て眉を顰めた。
「……悪趣味な」
嫌悪するように低い声で呟いた彼が私を抱き上げる。そして近くにいたクラスメイトに私を保健室に連れて行くと言い残して理科室を出た。
「出雲君」
「顔真っ青ですよ。このまま休みましょう」
「……」
間近で見た彼はただただ私を心配しているだけのようだった。その青い目を見て夢の中の彼を思い出し、私は抵抗せずに大人しく運ばれた。
……この色を疑いたくないと、そう思ってしまった。
ーーーーーーーーーー
そのまま運ばれた保健室は昨日の惨劇など無かったかのように綺麗になっていた。……昨日ここで一人の人間が死んだのに、まるで夢だったのかとすら思えてくる。
「すみません。昨日の今日で此処には居たくないかもしれないですけど」
「……ううん、ありがとう」
出雲君は血だまりが広がっていたはずの床を歩いてベッドまで私を連れて行く。そして私をベッドに下ろした所で、ちょうど頭上のスピーカーからチャイムの音が鳴り響いた。
……しまった。私はともかく出雲君までサボらせてしまった。
「出雲君ごめん、遅いけど今から戻った方が……」
「いえ、いいんですよ。今の藍さんを一人にしておけません」
「でも社先生が何をするか……」
そこまで言ったところで私の脳裏に昨日の先生の姿が過ぎった。黒音ちゃんを躊躇いなく殺した、あの姿を。
「……黒音ちゃんは、本当に死んじゃったんだよね」
「そうですね……。他の生徒に聞いたんですが、あの先生は全身に毒を持つ体質で皮膚や体液に触れると毒が回って死んでしまうそうです。黒音さんも恐らくそれで……」
「……」
「藍さんも気を付けて下さい。あの先生はとんでもなく危険です」
「うん。……そうだ出雲君。今更だけど、昨日は助けてくれてありがとう」
そう言えば伝えていなかったと思い出して、ベッドに座ったまま軽く頭を下げる。始業式の日もだが、昨日は本当に助けられた。もし出雲君があの場に居なかったら……死にはしなかっただろうが、延々と殺され続けて発狂していたかもしれない。
「いいんですよ。それが僕の望みですから」
「望み?」
頭を上げて彼を見ると、優しく微笑んで私を見つめていた。
「それってどういう……」
「さっき話したいことがあるって言いましたよね。今、その話をしてもいいですか」
「……うん、いいよ」
「では何から……そうだ、じゃあこの腕の話からにしましょう」
「腕……確か昨日」
黒音ちゃんに刺され、そして私を庇って骨を折った。しかしそれはすぐに治り、今も平然と動かしている。……それは、言うまでもなく私の体質と似ている。
「僕の右腕はあなたの再生能力と殆ど変わりません。ナイフで刺されようと骨を折られようと引き千切られようと……いや流石にそれはどうなるか分かりませんが、とにかくすぐに再生する。違う部分は、僕の血を飲んでも他者が回復する訳ではない所ですね」
「出雲君は、どうして私の体質について知ってるの? それも誰かから聞いたの?」
「いえ、聞くまでもありません。元々全て知っていましたから」
「え?」
「藍さんは階段から落ちて記憶を失ったんでしたね。だから忘れてしまっているかもしれませんが――僕達は以前、同じ場所に居たんです」
「同じ、場所」
「僕がこの学園に来たのは、あなたを此処から外へ連れ出す為です。必ず救い出すと、そう決めて来たんですよ」
あまりにも唐突に告げられた言葉にぽかんと口を開いて呆けた。私と出雲君は元々知り合いで、それで私を助ける為に此処まで来たのだと。
……そんな都合の良い話なんてあるの?
「本当に……?」
「突然こんなことを言っても信じてもらえないのは仕方ありません。今はそれでも構わない。それでも僕は、あなたをこの学園から必ず外へ連れ出してみせます」
「……出雲君」
昨日、友達だと思っていた子に裏切られたばかりだ。記憶の無い今、彼の言っていることが事実なのかはこれっぽっちも分からない。でも……この希望に縋ってはいけないんだろうか。
迷うように視線を彷徨わせていると、彼が私の手を握ってにこりと笑った。
「できれば、そんな堅苦しい呼び方は止めて下さい」
「え? じゃあ」
「しいちゃん」
「!」
「しいちゃんと、そう呼んでくれませんか?」
なんで。
はくはくと口を開くが驚きのあまり言葉が出てこない。
何で彼がその呼び名を知っているんだ。心谷先生に夢の話をした時も、その名前は口にしなかったのに。
目の前の彼を凝視する。そうして深い青色の目と視線を合わせた。青い目、そうだ、しいちゃんもこんな風に青い目をしていた。
夢の中の彼は、私を外へ逃がそうとしてくれた。それだけじゃない『絶対にお前を見つけ出す』と、そう言ってくれた。
「藍、さん? どうして泣いて」
「あ……」
出雲君にそう言われて、私はいつの間にか自分がぼろぼろと涙を流していることに気が付いた。拭っても拭っても止まらなくて、止めどなく溢れてくる。
だって、本当にしいちゃんは私を見つけてくれたんだ。守って、助けに来てくれたんだ。
「しいちゃん」
「はい」
「……しいちゃん」
何度呼んでも足りない。
私がそうやって呼ぶ度に、彼は本当に本当に幸せそうに笑った。