二日目
「ぐ……ぅ、」
苦しそうな呻き声が聞こえる。
「――ちゃん!」
私はその声の元へと走って、そして床に蹲るように倒れている彼の側に膝をついた。
脂汗を流し、ひゅうひゅうと酷く呼吸を荒げる彼を抱き起こす。私はゆっくりと顔を上げた彼を見て、その土気色の顔色と、浮かび上がっている焼けただれたような痣を見て息を呑んだ。
「酷い……今治すからね」
「いい」
「でも!」
「治したら、あいつら、折角の“訓練”が台無しだってっ、怒るだけだ。……別に、ほっとけばそのうち、どうにか、な」
がく、と持ち上げていた頭が落ちる。そのまま意識を失った彼はどんどん顔色を失って、体温を失って……いつ死んでも、いやもう死んでいるのかもしれないとすら思った。
「! ……待ってて!」
彼が“訓練”で苦しむのはよくあることだ。その度に治そうとするけどいつも断られる。だけどここまで体調が悪化しているのを見るのは初めてだった。
あの人達を呼ぶべきか。いやそんな時間はない。一秒だって遅れたらきっと彼は死んでしまう。私はすぐさま部屋を飛び出して自分の寝床に戻ると、いつかこんな日が来るかもしれないと思いこっそり職員から盗んでいたカッターナイフを取り出して来た道を戻った。
早く、早く。焦りばかりが頭を支配する。転げるように彼の側にしゃがみ込むと、私はカッターの刃を己の左手首に当てた。
その時、薄らと目を開けた彼の藍色と目が合った。
「今、助けるから」
そう言って、私は一気に右手に力を籠めた。
ーーーーーーーーーー
「……何、今の夢」
ぼんやりと天井を眺めたまま、私は今し方まで見ていた夢を思い出していた。
何処か知らない場所で、“彼”を助ける為に自分の手首を切る夢。言葉にしてみると異常でしかないそれを思い出しながら、私は左腕を持ち上げて自分の手首を眺めた。勿論そこには、何の跡も残っていない。
当たり前だ。もし今の夢がただの空想でも、覚えていない今世の自分の記憶だったとしても同じこと。昨日黒音ちゃんから聞いた衝撃的な発言が頭をぐるぐると回った。
「藍、あんたが此処に通っているのはとんでもない再生能力があるからよ」
この学園に通っているのなら私も普通の人間ではないのかもしれない。そう思って寮を案内してくれる黒音ちゃんに尋ねてみると、当然のようにそう教えられた。
私の体は、どんな怪我をしてもすぐに再生してしまうらしい。手首を切っても階段から落ちても、この体には何の傷も残らない。そしてそれだけではなく、私は自分以外の他者にもその再生能力を分け与えられるというのだ。
その方法は簡単だ、私の血を飲めばいい。だからこそ夢の中の私は、あの藍色の目をした彼に血を飲ませようと手首を切ったのだろう。
「設定がファンタジー過ぎて訳分かんない……」
何で前世ただのケーキ狂いだった私がこんなとんでもない体になってしまっているんだ。考えても仕方が無いがどうしてもそう思ってしまう。
ため息を吐いてむくりと体を起こす。此処は学園の寮で、基本的に生徒は皆この場所で生活しているという。朝は黒音ちゃんが迎えに来てくれるというので、とりあえず着替えを済ませなければ。
ベッドから出て顔を洗おうと洗面所に行く。そこで自分の姿を改めて見て、まだあまりにも見慣れない白髪と赤い目を見てまたもやため息を吐いた。髪色や目以外は前世と全く同じなので更に違和感がすごい。
「……そういえば、昨日も」
そうだ、今思い出したが昨日も何やら夢を見た。先程夢に出てきた彼と話す夢だ。
確か……『外に出られたら何がしたいか』そう話をしていた。そんな話をするということは、私と彼はあの場所に閉じ込められていたのだろうか。明らかにやばそうな“訓練”を受けていたらしい彼の様子から見て、どう考えてもまともな場所ではないのだろう。
そして私がなんと答えようとしたのかというと……夢の中の自分のことでもすぐに分かる。
「ケーキが食べたい」
それしかない。記憶無くたって何にも変わらないな自分。
「藍ー、そろそろ行くよー」
と、そんなことを考えているうちに黒音ちゃんが来たようだ。私は扉越しに彼女に返事を急いで身支度を整えると部屋を出る。
「おはよう黒音ちゃん」
「……おはよ」
「どうしたの?」
「いや、相変わらずあんたの変わり様が慣れないだけ」
昨日も言っていたがそんなに変わったんだろうか。夢の中で見た自分は大して変わっているようには思えなかったが。
「朝ご飯食べに行くんだよね?」
「そうよ。昨日夕飯食べた所と同じだから」
視界に入る黒い翼に気を取られながらも黒音ちゃんについて行く。自室のある寮から教室のある棟への渡り廊下を通って、そして教室よりも少し広いくらいの食堂に辿り着く。昨日も訪れた、椅子と長机がある簡素な食堂だ。
いや、簡素なのは家具だけではない。
「……やっぱり、朝ご飯もこんな感じかぁ」
食堂には調理担当者が居るわけでもなく、ただ最低限の栄養補給が出来る固形の食べ物――前世にもあった四角いあれのようなものと、ウォーターサーバーが置かれているだけである。
「成績が良い子は色々注文付けられるけど、別に食べられるんならなんでも良くない?」
「良くない! だって食事だよ? 美味しいと思いながら食べたいじゃん!」
固形食をもさもさ口に運びながらそう言うと、黒音ちゃんは「そういうものかな」と首を傾げる。
というか、成績で待遇が決まるのかこの学校。
「……成績良ければケーキとかも食べられるの?」
「ケーキ? ああ、お菓子ね。それ美味しいの?」
「美味しいなんてもんじゃ……え、ケーキ食べたことないの?」
「うん」
「いやうんって」
「此処に来るまではずっと研究所で今みたいな食事だったし、まあそれすら無い時もあったから」
「……」
「私、昔何処かから誘拐されたらしくって、それでこの羽を付ける実験体にされてたのよ。痛くて苦しくて……あの時は、毎日死にたくて堪らなかった」
「黒音ちゃん」
「まあ今はそんなやつらのことなんて忘れてこうして学校に通えて、それだけで十分なんだけどね」
へらっと軽く笑った黒音ちゃんを見て、自分が随分軽率なことを言ってしまったのだと理解した。
「……ごめん」
「別に謝ることなんてないのに。私は今幸せだし。……私を助けてくれたのはね、心谷先生なんだ」
「心谷先生って、確か昨日保健室で会った」
「うん。私が研究所から抜け出して彷徨ってた所を先生が拾ってくれてこの学園に入れてくれたんだ」
「私、先生には本当に感謝してるんだ」とはにかんだ彼女の表情は今まで飄々として見えたそれとは違い、本当に幸せそうなものだった。
そっか……こんなめちゃくちゃな学校でも、こうやって救われた子もいるんだ。
これから始まる学校生活に不安しか無かったが、ちょっとだけ安堵することができた。
「話を戻すけど、でも藍なら学園長に頼めばなんでも食べられるんじゃない?」
「学園長? なんで?」
「だってあんた、学園長……因幡先生の養子だもん」
私が此処の学園長の養子?
「あんたを此処に連れて来たのは学園長なんだって。基本的に私達は戸籍とか持ってる人少ないからあんまり名字とか無いんだけど、藍は学園長の養子になったから因幡って名字が付いた訳」
「そうだったんだ……ところで、私が此処に来る前ってどうしてたか知ってる?」
「さあ? 藍は殆ど自分のこと話そうとしなかったから」
「……そっか」
じゃああの夢が本当のことかどうかは分からないのか。それにしても本当に前世を思い出すまでの私、一体何があったんだろう。
「正直なこと言うけどね。私は記憶失う前より今の藍の方が好きだな」
「え?」
「だって今の方がはきはきしてるし、話しやすいし、それに……ううん、何でもない」
「気になるんだけど」
「いいのいいの! さ、そろそろ教室行かないとやばいよ。あのやばい先生にペナルティ食らっちゃうかもしれないし」
そう言うと、黒音ちゃんは私の手を引いてさっさと食堂を後にした。何を言おうとしたのか気になるが仕方が無い。だって昨日あのガスマスク男が何をしたのかはっきりと思い出したのだから。
黒音ちゃん曰く、あの男――社先生は執行人だ。生徒を監視して悪いことをしている生徒には制裁を与える存在。昨日の男の子のように暴れたりすれば罰が与えられ、そして在学中に三回罰を与えられると、退学になるのだという。
……昨日いとも簡単に机を溶かした姿を見れば、その退学が恐らくただの言葉通りではないのは何となく察した。
教室に辿り着くと、そこは昨日の騒動がまるで夢だったかのように普通の教室だった。
割れた窓ガラスも、へこんだ壁も、そしてぐちゃぐちゃになっていた机や椅子も元通りになっている。
そんな教室に気を取られていると、不意に目の前に影が掛かった。
「おはようございます」
「え? ああ、おはよう。えっと……」
「出雲忍です。よろしくお願いしますね」
にこ、と愛想良く微笑んで挨拶して来たのは昨日私を庇ってくれた男の子――青い目をした転入生だった。
彼は私に自己紹介すると、何とも嬉しそうに目を細めて離れていった。
「……藍、あいつに何かしたの?」
「昨日庇ってもらっただけだと思うけど……」
何なんだろう。側に黒音ちゃんもいるのに私にだけ話しかけて来たり、妙に嬉しそうな顔をしたり。何か理由があるんだろうか。
ーーーーーーーーーー
昨日は始業式だったので授業は今日からだ。一体どんなやばい授業なのだろうと心の中で戦々恐々としていたのだが……私のその予想は大きく覆されることとなった。
「つまり、ここに入る公式は――」
今日の時間割は一限化学、二限英語、三限地理、四限数学。……何というか、普通の学校と全然変わらない授業に私は逆に困惑した。何だこの学校、案外……ただの普通の高校なのか。
ますます此処がどんな場所か分からなくなりながらもまた昼食を黙々と食べ、そして午後になった。
「午後は……え、自習?」
教室の壁に貼られた時間割を見ると、そこに書かれていた昼食以降の授業は全てが自習となっていた。しかもそれは今日だけでなく全ての曜日だ。
「ねえ黒音ちゃん、なんでこんなに自習が多いの?」
「ああ、それは――」
「因幡さん」
時間割から黒音ちゃんに視線を映したその時、すぐ側にあった教室の扉から入ってきた人に突然名前を呼ばれた。
「心谷先生!」
「ああ黒音さん。昨日は因幡さんのことをありがとう」
「そんな、当然のことです」
振り向いた先に居たのは心谷先生だ。真っ先に彼に気付いて駆け寄る黒音ちゃんは嬉しそうに笑顔を見せて、先生を見上げている。
本当に先生のこと慕ってるんだなと一目で分かった。
「実は次の授業のことで因幡さんを呼びに来たんだ」
「私ですか?」
「ああ。君は記憶を失っているから何をしていいか分からないだろうし、カウンセラーとして色々話を聞いておきたいからね」
「分かりました。じゃあ黒音ちゃん、後でね」
「……うん」
あっ、怒ってはないけど確実に気落ちしてる。私が悪い訳じゃないけどちょっと申し訳ないような気になってくる。
保健室で話をしようというので、私も頷いて教室を出た。昨日教室に来た道を逆に辿るとすぐに保健室に着き、私は先生と対面するように丸椅子に座った。
「さて……昨日の今日だけど因幡さん、何か思い出したことはあるかな」
「いえ、何も」
正確に言うと前世の記憶は色々と思い出したが勿論そんなことは口にしない。私がそう言うと、心谷先生は残念そうな顔をして頷いた。
「そうか。早く思い出すといいんだが……怪我はすぐに治っても流石に記憶は対象外か」
「そういえば黒音ちゃんに聞いたんですけど、私ってやっぱり、怪我がすぐに治るんですよね?」
「その通り。ああ、じゃあこのまま自習について話そうか。この学校における自習の時間は、各自それぞれの能力を訓練する時間になる。君で言うとその再生能力のことだね」
「成程……それで自習って」
「とはいえ三年生にもなると皆自分の力の限界も分かって殆ど自由時間のようなものだ。君に至っては自らコントロールするような力でも無いし、特別にやることもない。だからしばらくの間、自習はカウンセリングの時間にしようと思っている。記憶を失って君も分からないことだらけだろう?」
「まあ確かに、分かんないことばっかりですね」
もう昨日から驚いたり混乱したりそんなばかりである。
「聞きたいんですけど……そもそも、この学校って何なんですか」
「まあそこからだろうね。黒音さんから少しは聞いたかもしれないが、この学校は特殊な力や環境の所為で学校に通えない子供達を集めているんだ。そういう不幸な境遇の子達が少しでも安心できる場所になるようにね」
「私も、そうやってこの学校に来たんですか?」
「君のことは学園長が連れて来たんだ。私も詳しいことは聞かされていないが、少なくとも劣悪な環境に居たのは間違いない。記憶が戻る前の君はまるで抜け殻のような存在だったからね」
「抜け殻……マジですか」
これは黒音ちゃんの言う通り、何も思い出さない方が幸せなのでは。
「君のことは学園長に聞くといい。……まああの人は他の研究も忙しくてあんまり此処に居ることは多くないんだが」
「そうなんですか……あ! あと他にも聞きたいことが! この学園って成績が良いと待遇が良くなるって聞いたんですけど本当ですか? 食事とか……」
「ああ……そうだね。一応頑張った子にはそれ相応のご褒美を約束しているよ。食事は勿論部屋の家具を増やしたり、最たるものは飛び級だ」
「飛び級?」
「つまり早く卒業できるってことだ。早く自立出来て、外で好きなように生きることができる。この学園は君たちを保護しているが、安全面からどうしても外に出ることは許可できないから窮屈に感じてしまうだろうしね」
「外に……」
不意に、昨日見た夢の中の会話が過ぎった。
外に出られたら自由になれる。そうしたら夢の中で彼に言った通りケーキを食べたり、それだけじゃなくて前世のように普通に生きることができるかもしれない。
……あの彼は、今どうしているんだろう。夢の中の私は、彼を助けることが出来たんだろうか。
ーーーーーーーーーー
その後も色々と学校生活の疑問に答えて貰った後、特に質問も無くなったところでお開きになった。まだ授業時間内だが、別に寮に戻ってもいいし好きにしていいそうだ。
「……」
一度教室に戻って教科書を取りに行こうと廊下を歩く。一人になって改めて校内を眺めて見れば、窓はあるもののそこに鍵はなくはめ込み式で、その向こう……外には今居る二階の高さまである頑丈そうな柵が学校を取り囲んでいた。心谷先生が言うには、私達の貴重な能力を狙う誘拐事件が後を立たず、どんどん学校を守る為に頑強になって行ったのだという。
「でもやっぱり、外出たいな」
「……くくく、あっははは! 随分と夢見がちなこと言ってんなあ因幡」
「っぐ!」
その瞬間、突如として背後から首を掴まれて息が詰まった。そして耳元で聞こえて来たのは心底楽しげに笑う男の声だ。途端に背筋が凍った。
恐る恐る振り向いた先にあったのは、あのゴツいガスマスクだった。
「やしろ、先生」
「そーいやお前記憶喪失なっちまったんだってな? くくっ、可哀想になあ。いきなり何にも分からねえままこんな牧場に放り込まれて」
「牧場って」
「間違いじゃねえだろ。てめえらみたいな表社会じゃ生きられないガキ共をお優しい顔して取り込んで、ある程度育ったら裏社会に出荷するんだからな」
「……え?」
今の言葉が一瞬理解できず、口を開けたままぽかんと社先生を見上げた。
この先生は恐ろしいが、それよりもその言葉を真意を聞きたくてたまらない。
「どういうことですか」
「どうもこうも言葉通りの意味でしかねえが? この学園はお前ら家畜を育てて高く売る為の場所でしかねえ。この学園の卒業生っつーのは裏社会ではそれなりにブランドになっててなぁ、能力の質も高く頭も働く優秀な駒が手に入るって評判なんだよ」
「だって心谷先生はそんなこと」
「心谷ぃ? ははっ! あの変態に何か吹き込まれたのか? どーせあれだろ、何にも知らねえお前を騙して耳障りの良いことでも言ってたんだろな」
「……」
「あれか? この学園で能力者を保護してやってるんだとかその辺か?」
「卒業したら、外で自由になれるって」
「学園の外には出られるな。まあ薄暗い裏社会で飼われて、そんで使い潰されて死んでいくだけだろうがなぁ」
馬鹿にしたように笑いながらそう言う社先生に、私は言葉を返せなかった。心谷先生が言っていたのは正しく無かった? いや社先生がわざと酷く言っているだけなのか?
彼はひとしきり笑った後、「信用する人間は選んだ方がいいぞ。例えば俺とか、な」と告げ、そして首を掴んでいた手を放した。
やっとまともに息が出来る。しかしそう思った瞬間、右腕を強く掴まれたと思えば目の前に注射器が見えた。
「な、なにす……やああっ!」
「騒ぐなよ。ちょっと血抜くだけだろうが」
変な薬でも打ち込まれたのかと思い思わず叫んだが、どうやら逆だったらしい。注射器の中がみるみるうちに赤くなっていき、そしてあっという間に針を引き抜かれる。
痛みは殆どない。それどころか、針を抜いた瞬間にその跡すら完全にかき消えた。
「!」
怪我とすら言えない、注射針による些細な傷。だがそれでも一瞬で消えた跡を見て私はとてつもない衝撃を受けた。私、本当に再生能力なんて持ってるの。
「お前の血は俺の研究に大いに役に立つ。つーわけだから此処から逃げようなんて考えねえことだな。まあ万が一逃げたら……分かるな?」
掴まれていた右腕を引っ張られて社先生の顔がぐっと近付く。言葉が出ずに黙り込んでいるとようやく腕が解放され、社先生は鼻歌を歌いながら去って行った。
「……怖かった」
掴まれていた腕に触れると、がたがたと震えていることに気が付いた。あの人はきっとほんの気まぐれで人を殺せる人間だ。
誰も居ない廊下にしゃがみ込んで壁に背中を預ける。心臓を落ち着けるように何度も深呼吸を繰り返すと、私は今言われた言葉を頭の中で反芻させた。
この学校が本当はどういう理由で運営されているのか。何が正しくて何が間違っているのか。
「……誰が敵で、誰が味方?」