一日目
「ねえ……もし外に出られたとしたら、何がしたい?」
静まりかえった部屋の中、私は隣に居る誰かにそう問いかけた。
「はあ? 此処から出られる訳ないだろ。なに夢見てるんだよ」
「いいじゃん、言うだけならタダだよ。もしかしたら隙をついて逃げられるかもしれないし、外から助けが来るかも」
「来る訳ねえだろ」
「考えるだけならいいでしょ!」
「……知らねえよ。お前と違って外がどんな所かも分からないのにそんなこと答えられる訳ない」
誰かは淡々と感情の籠もらない声でそう言って、そして少し沈黙した後こちらを振り返った。
「……で?」
「で?」
「あいはどうなんだよ。お前は外に出たら何をするんだ」
「そんなの決まってる!!」
私は立ち上がると両手に力を籠めて握りしめ、そして高らかに叫んだ。
「勿論最初は――」
ーーーーーー
「け、」
何かを口にしかけたその時、ぱっちりと目が開いた。
「……」
何処だここ。起きて早々目に飛び込んできた光景に、私は簡潔にそれだけ思った。
視界に広がっているのは一面の白。天井と周囲を取り囲むカーテンのその色を見て、間違いなく此処が自分の部屋ではないと確信する。
起き上がってみれば余計に明白だ。見知らぬベッドから這い出てカーテンを開けてみると、そこは学校の保健室のようだった。
教員が使うような机と椅子、その側にもう一つ丸椅子が置かれ、薬瓶の様なものが並ぶ棚と人間ひとりがまるまる映るような大きな姿見が。
「え……は!? 何これ!」
なんとはなしにふらふらとその鏡の前まで足を運んだその時、そこに映ったもの――鏡なんだから当然自分であるはずのそれを見て私は思わず叫んだ。
起きて真っ先に目に飛び込んできたそれと同じ、真っ白。そしてそれとは対照的にその白に映える小さな赤。……見慣れた黒髪黒目だったはずの私の髪と目が、まるで苺のショートケーキのような配色に変貌していたのだ。
バン、と思わず食いつくように鏡に両手を付いて“自分”を凝視する。もしかしてこれ鏡ではなかったのでは? とまで思ったが実際に手に取って直接確認した髪は間違いなく白だ。じゃあなんだ、私は寝ているうちに誰かに勝手に髪を染められカラコンを入れられたとでも言うのだろうか。
「ええええ……寝てたのにコンタクト入れてんの……?」
突っ込むべき所はそこじゃないと分かっているのだが、前に友達がそれをやらかして目に貼り付いただの失明するかもだの騒いでいたのを思い出したのだ。髪の毛は染め直せばいいが失明したらもう元に戻せない。
しかもよりにもよってカラコンだ。一体誰がこんな悪戯をと考えていたところで、不意に保健室の扉が予告なしに開かれた。
「!」
「あ……因幡さん! 目が覚めたんだね、よかった」
因幡さんとは。
部屋の中にいる私を見て途端にほっとした顔をしながらそう話しかけて来たのは、優しそうな顔立ちの中年男性だった。黒髪黒目、やや細めの体型の本当に何処にでもいそうなおじさんだ。
「え……あの」
「君のことだから大丈夫だと思っていたが、すぐに目を覚まさないのが逆に心配になってね……。何か体に異常はあるかな? 頭痛がするとか耳鳴りがするだとか」
私が訳も分からずただその男性を見ていると、そんな様子を見て不審に思ったらしい彼はぎゅっと眉を顰めてこちらへ近付いてきた。
「因幡さん?」
「あの、因幡さんとは誰のことでしょうか……?」
「……は?」
「もしかしなくても私のこと言ってます? というかどちら様ですか」
男性の目が大きく見開かれた。絶句して私を凝視した彼は数秒ほど固まった後「まさか」と小さく口を動かす。
「頭を打った衝撃で記憶が……」
「頭を、打った? 覚えてないですけど、私そんなことがあったんですか?」
「ああ、階段から落ちて……やはり、ちっとも覚えていないようだ。自分の名前すら忘れてしまったとは」
「名前……」
いや名前ぐらい言える。……と、そう言い返そうとしたのに何故かそこから口が動かなかった。因幡なんて名前じゃなかったのは確かなのに、じゃあなんだったんだと思い出そうとするとまったく思いつかない。
え、なんで? なんで自分の名前ぐらい言えないの?
混乱して百面相しているであろう私を見て、目の前の男は随分驚いたように目を瞠った。
「……君の名前は因幡藍さんだ。字はこう書く」
「因幡、藍」
男が胸ポケットから小さな手帳を取り出してそこに文字を書いて見せてくる。……全然馴染みのない文字列だ。しっくりこない。
「あの、今更ですけどあなたは」
「あ、ああすまない。そうか、私のことも覚えていないか。私は心谷光、この学校の教員だ」
「先生……ですか」
「ああ。カウンセラーなんかもやってるから君とも話す機会が多くて……と、もうこんな時間か」
「?」
「すまない、今から始業式なんだ。私は行かなければならないが、君は此処でしばらく安静にしているといい。後で迎えを寄越すから、体調が良さそうなら教室に来るといいよ」
心谷と名乗った先生は「何か困ったことがあったらそこの電話を使うといい、職員室に掛かるから」と言って、再度心配そうな目で私を見てから保健室を出て行った。
「……はあ」
再び扉が閉められて閉ざされた保健室の中で、私は肩を落として近くにあった椅子に腰掛けた。何もかも意味が分からない。本当に、どういう状況なのこれ。
改めて見てみたら見覚えのない制服を着ていることにも気付く。私が通っていた高校はブレザーだったのに、今身につけているのは紺色のセーラー服だ。
とりあえず、冷静になろう。私は側にあった丸椅子に腰掛けて、心を落ち着かせるように深呼吸をして目を閉じた。
ケーキのことでも考えよう。これが一番心を穏やかにしてくれる。ショートケーキ食べたい。ガトーショコラも。ああそうだ、そういえばこの前有名パティシエの限定タルトが販売されて、それで朝の三時から並んで何とか買えたんだっけ。
……あれ。
「あ……あ、ああああああああっ!!! タルト! あのタルト!!」
思い出した……はっきり思い出した!!
突然だが、私はケーキが好きだ。スタンダードなショートケーキも、濃厚なチーズケーキも、さくさくしたタルトも、ふわふわしたスフレも……言い出したらキリが無いからこれ以上は割愛するが、とにかく大好きだった。
あまりに好きすぎて友達にはケーキ狂いと呼ばれたし、ケーキを食べる時に罪悪感が湧かないように運動も必死に頑張って太らないように気を付けた。やっぱり大好きなものを食べるんだから最高の気分で食べたいのである。
あの日もそうだった。ずっと楽しみにしていた大好きなパティシエの数量限定タルトの最後の一個を手に入れた私は、大喜びで家に帰ろうとした。
だけど……私はそのタルトを一口も食べることができなかった。
何せ自宅までの帰り道に、私は背後から刺されたんだから。
今思えば、あれは私の後ろに並んでいたおばさんだった。突然訪れた激痛に理解が追いつかないまま、私は何度も何度も体を刺され、意識が朦朧とする中でタルトの入った箱を持ち逃げされたのが微かに見えた。
「あんのババア!! 私のタルトを!!」
苺を中心とした瑞々しいフルーツが綺麗に敷き詰められたシンプルながら絶対に美味しいと確信できるあの美しすぎるタルトを……絶対に許さない。死んでも許さない。
……死んでも?
そこまで考えて今更過ぎるが我に返った。そうだ私、包丁か何かで刺されたんだ。それも何度も何度も体中を滅多刺しに。あれ、どう考えても私死んでないか……?
思わず自分の体を見下ろす。背中は見えないがちらっと服を捲ってみても何処にも刺された傷跡は残っていないし、痛みも一切感じられない。
「……」
一瞬だけ考えた。死んだはずなのに健康体で、何故か変わっている髪と目。見覚えのない場所と人と、そして自分の名前らしいもの。そこから導き出される解はというと――一度死んで、生まれ変わったということではないのか。
荒唐無稽な結論だが、そうとしか考えられない。あの時刺された痛みが錯覚であるはずがないし、あれだけの傷で生きているとは到底思えないのだから。
「それで名前、なんだっけ……藍、そうだ因幡藍だ」
それが今の私の名前で、どうやら階段から落ちて頭を打ったとのことだ。多分その衝撃で前世のことを思い出し、ついでに今の記憶を外に押し出してしまったということだろうか。
……難しいことを考えるのは苦手だ。頭がパンクする。あー、ケーキ食べたいな。糖分が足りない。
「タルト……ああもう、思い出したら余計に食べたくなって来ちゃったじゃん……」
死んだっていうのに暢気だなと自分で思いながらも、中身はまんま自分のままで少し安心した。
ーーーーーー
「藍? 起きてる?」
悶々と様々な種類のケーキを頭の中に思い描いて現実逃避をすること数十分。不意に聞こえてきた声に意識が引っ張られた。
顔を上げると同時に扉が開かれる。釣られてそちらを振り返ると、そこには長い黒髪の女の子がこちらを覗き込むようにして廊下から顔を出していた。
「頭打って記憶が飛んだって心谷先生に聞いた大丈夫?」
「……え」
女の子がそのまま保健室の中へと入ってくる。心配そうな顔をしてこちらを見る少女を見て――正確に言うと彼女の背後を見た私は、思わずぎょっとして自分の目を疑った。
なにあれ。
「藍?」
「な、なにその……羽」
「? 何の話?」
「いやだからその……黒い、翼は」
女の子の背中。そこには何故か大きなカラスの様な真っ黒な翼があった。は? 何?
しかもそれはゆらゆらと自然な動きで動いており、明らかにただの張りぼてではないことがすぐに分かる。
彼女は一度ちらりと振り返ってその翼を見ると不思議そうな顔をして首を傾げてみせた。
「これがどうかした?」
「は……生えてるの? 本当に?」
「今更何を……って、もしかしてそこまで記憶無いの? ちょっと前後の記憶が無くなったとかじゃなくて」
「申し訳ないんですけど、その、あなたのことも全く分からないと言いますか……」
普通に名前を呼ばれたし知り合いなんだろうとは思う。が、それ以前になんだその羽は。もしかして……新しく生まれ直したこの世界って、大分ファンタジーな世界だったりするの?
「……そうなんだ。まさかあんたが階段から落ちただけでそんな風になるなんて」
驚いたように私をまじまじと見ていた彼女が、ぽつりと呟いた。
「私の名前は黒音。藍のトモダチよ」
「黒音ちゃんね? よろしく」
「……ホントに記憶無いんだ。まあとりあえず、時間も無いから教室行かないと。話は歩きながらでも出来るし」
黒音と名乗った女の子はそう言ってさっさと廊下に出て私に付いてくるように促した。私は彼女の後ろに付いて保健室を出て、そして一度辺りをぐるりと見回してみる。……うん、特に変わった所のない普通の学校の廊下に見えた。すれ違う人達もぱっと見ごく普通の人間と変わらない。
「……羽があるのって黒音ちゃんだけなの?」
「この学園では私だけだと思うけど。他に同じ実験体は居なかったし」
「じ、実験体……?」
なんだかとんでもなく不穏な単語が出て来たのに、当の本人は酷く平然としている。
「何か人間と鳥のキメラ作りたかったんだって。趣味悪いよねー」
「……」
いや趣味とかそんな話じゃない。何も言えなくなって絶句していると、静かになった私を振り返った黒音ちゃんが少しきょとんとした表情を浮かべた。
「そんな反応新鮮だわ。この学園私よりやばいやつなんてごろごろ居るからこんなんで驚いてたらキリがないって」
「でも、見る限り普通の人しかいないように見えるけど」
「見た目はね。あんたは忘れてるみたいだけど、この学園はとにかく普通じゃないやつらが集められてんの。私みたいな異形だったり、超能力者だったり、異常に記憶力がよかったり……此処はそういうやつばっかりよ」
「……なに、それ」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。思わずもう一度周囲の人間を見回してしまう。……此処、ひょっとしてファンタジーな世界とかじゃなくってもっと生々しく殺伐としたところなのか――?
「……藍、本当に何にも覚えてないんだね。覚えてないっていうか、最早別人って感じ」
その言葉に一瞬ドキッとした。確かに今の私は前世の人格に乗っ取られているようなもので実質別人のようなものだ。
「ねえ、その、記憶失う前の私ってどういう子だったの?」
「殆ど喋らないしいつもぼーっとしてたわよ」
「ええ……?」
「表情も殆ど変わらないから何考えてるのか全然分かんなかったし」
私そんな子だったのか……。まったく覚えていない。
ぼーっとして何考えているのか分からなくて、それでもって……私もこの学園の生徒だってことはつまり。
「ね、ねえ! もしかして私も何か普通じゃ――」
その瞬間、私の声を掻き消すように大きな音が響き渡った。
「!?」
ガラスが割れたような音だ。しかしそんな大きな音がしたというのに、周囲を歩く生徒達はみんな何の反応もしない。黒音ちゃんもその一人で、彼女はそのまま何事も無かったかのように立ち止まった私を振り返って「どうしたの」と首を傾げた。
「今の音は……?」
「ああ、気にしなくていいよ。どっかの馬鹿がやらかしただけ」
小走りで彼女に追いつくと、黒音ちゃんは呆れた顔でそう言ってとある教室の扉を開いた。
「って、うちの教室か」
覗き込んだ教室の中は、まるで台風でも過ぎ去ったかのように大荒れだった。机や椅子はあちこちに倒れ、窓ガラスは割れ、中に居る生徒は怪我をしている人も居る。
「もう何もかも馬鹿らしいんだよ!!」
いやまだ過ぎ去ってはいない。何より目を引くのはその台風の目というべき教室の中央で叫ぶ大柄な男子生徒だ。頭を掻きむしり俯く彼の周りには椅子や机が宙に浮いており、私は思わず身を乗り出してその光景をまじまじと見つめてしまった。
「ちょ、超能力……?」
「こんな生活して何になるっていうんだ!? あああああ!!」
「あ、」
宙に漂っていた物たちが不意に動き出した。周囲を壊すように放射状にそれらは飛んでいき、一つは壁に激突し一つは割れた窓から外に飛び出し、そしてまた一つは――私の眼前にもう迫っていた。
「藍!」
黒音ちゃんの声が何処か遠くに聞こえた。
避けるなんて考える間もない。咄嗟に体も動かない。ただただ、机が顔面に激突するのを見ていることしかできなかった。
刹那重い物がぶつかる音が聞こえたと同時に私の目の前が黒に染まる。――しかし、不思議なことに衝撃や痛みは一切無かった。
「大丈夫ですか」
「……え」
黒に塗りつぶされていた視界が開ける。私はそこでその黒が学ランだったことにようやく気が付いた。私の目の前に立ちはだかったのは制服を着た男の子で、背を向けていた彼はこちらを振り返ると気遣わしげに私を見て小さく微笑んだ。
勿論見覚えはない。……だけど、頭の何処かでその目が……深い青色の瞳が、引っかかった。
「……あなたは」
「ヒヒッ、あっはははは!! 随分と派手にやったじゃねえかよぉ」
「!」
その瞬間、突如近くから割り込んできた声に目の前の男から意識がずれた。
私の隣をすり抜けるようにして一人の人間が教室に入って行く。思わず私はその人を見上げ、目で追ってしまう。いや私だけじゃない。黒音ちゃんも、教室の中に居た生徒も、中心で未だに叫んでいる男の子以外は皆同じようにその人を見ていた。
何せその人、とんでもなく異常だった。
身に纏っているのは白衣、両手には黒い手袋。そこはまだいい、問題はそれより上だ。首からその先、そこにあるのは顔一面を覆うゴツいガスマスクが付けられているのである。
暴れる男子に負けないくらい狂ったように声を上げた――声からして男だろうその人は、大げさな身振りで教室の中を闊歩して中央の男子に近付いた。
相変わらず机は浮いているし、自分に近付く人間に気付いた男子は顔を上げて手を振り上げた。その手に反応するように机が飛び、ガスマスクの男に襲いかかる。
「ペナルティだ、橘」
その時何が起こったのか私は見ていても理解できなかった。気が付いた時には宙に浮いていた机たちは壁に突き刺さり、男子生徒は床に叩き付けられガスマスクの男に踏み潰されていた。
「クク……二回目、だったよなぁお前。あと一回、精々楽しみに待っててやるぞぉ?」
ガスマスクの中で男が笑う。しんと静まりかえった教室ではその声と、踏み潰される度に聞こえる呻き声だけが嫌でも耳に入ってくる。
「さぁて、お前ら机もねえからその辺に立っとけ。朝礼やるかぁ」
「……最悪。よりにもよって今年はこいつが担任とか」
黒音ちゃんが嫌悪を混ぜた声でぼそりと呟いた。
この人が担任、というか先生……!? この、暴れてたとはいえ生徒を足蹴にして高笑いするガスマスク男が、先生。
……嘘でしょ? 誰か嘘だと言って。
「俺がお前らの今年の担任、まぁ知ってるだろうが社燐だ。……で、喜べ。今年は転入生がいる。出雲ぉ、さっさと来い」
「……はい」
返事をしたのは、私を庇ってくれた青い目の男の子だった。先程私を気に掛けてくれたのとは真逆の固い声で頷いた彼は床に散乱する障害物を避けて社先生の隣に並ぶ。
「出雲忍です。よろしくお願いします」
「ククク……まぁよろしくしてぇやつは勝手にすればいい。さて、卒業まであと一年のてめぇらには言うまでも無いことだが……くだらねぇ問題起こす実験体希望者は、理科室のホルマリン漬けに加わるか――」
先生が徐に右手の手袋を外すと、踏み潰したままの男の子のすぐ側にあった机に触れる。その瞬間、机は原型を失って溶け、まるで液体が蒸発するかのように跡形もなく消え失せた。
物が腐ったような、嫌な匂いがする。
「もしくは、こうだ」
楽しげな声に、ガスマスク越しなのににやりと笑ったのが分かったような気がした。
記憶が戻る前の私、本当に……とんでもない所に居たみたいだ。