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ヤマダヒフミ自選評論集

西行の月


 岩波文庫の「西行全歌集」を手に入れて読んでいたら、西行の来世観というものがぼんやり浮かんできた。その事について書いておきたい。

 

 西行の来世観は、仏教の西方浄土の世界観である。そこから死は救済であるというような考えも導き出されてくる。このあたりはキリスト教とも被る部分がある。

 

 現代のアートのつまらなさの要因の一つは、死の問題を放逐した事にあるのではないかと思う。バッハは、死は救済だという考えを持っていた。死と来世の組み合わせは、現世に生きる人間の生の輪郭を定める。物事というのは反対物によって始めて明瞭に見えてくる。死が捨てられれば生もまた捨てられる。生の中で救われようとする現代のアーティストが、矮小化された人間像しか作れないのは当然かもしれない。

 

 西行の目に常に見えていたのは、彼自身の心だった。それは現代人のような、自己耽溺するものとは違う。それは捨てられねばならぬものだった。だが同時に捨てきれぬ自分自身をも感じていた。現代人には、自分の心をいたわる気持ちはよくわかるのだろう。しかし、それから「卒業」しなければならぬという気持ちはわかりにくいだろう。この二つの方向性が一つに結晶していたのが西行の歌だった。

 

  世の中の花を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせん

 

 小林秀雄風に言うならば「わが身をさてもいづちかもせん」というのが西行の宿命の主調音だった。彼は常に、我が身、我が心を「いかにせん」と心の中で呟いていた。

 

 こうした事を現代ならばインターネットを通じて、同意と共感のゲームにしてしまう。ある人が悩んでいれば、それに対する共感の印がついて、あたかもその問題が解消されたかのような観を呈する。実際には、何の問題も解決していない。徒党を組めば全ては解決するとでも言うのか。

 

 そもそも、西行は何故出家したのだろうか? 彼は妻子を捨てて、僧になった。角川ソフィア文庫の「西行 魂の旅路」では、和歌の道を究めるため出家の道を選んだと説明してあるが、私は違うように思う。

 

 西行にあったのは、明確な仏教思想だった。仏教思想においては、執着から離れる事が第一義とされる。人間が物事を概念として固定として捉え、そこに種々の問題が生じる。そこから離脱する事が悟りである。最大の執着は当然、生そのものに対する執着であろう。

 

 妻子を捨てて、山に逃れたのは、彼が仏教道を歩く為であったと思う。妻子は、エゴイズムの延長に存在する執着の源だ。西行は執着を断とうとしたのだと思う。

 

 だがここからが問題になる。執着は、離れても離れてもやってくる何ものかである。生と共に、生に対する執着が付随してくる。それを人間という種がいかに克服するか。

 

 これは泥沼にはまった人間が、自分の頭を掴んで自分で引っ張り上げ、救い出そうとするようなものだ。終わりのない闘い、答えのない問いだ。

 

 ※

 

 ここから西行の独特の歌がある。彼は痛烈に歌った。そこに迷いはなかった、と私は見たい。

 

 確かに、西行の歌に迷いが刻印されているようにも見える。次の歌

 

  風になびく富士のけぶりの空に消えて行方も知らぬ我が心かな

  

 では、自らの心が風にたなびく富士山からの煙に例えられている。そこでは自己を見る自己が明確に現れている。自己を対象化して見るという事は、詩人の一つの特徴だろう。アルチュール・ランボーはこのような存在を「見者(ヴォワイヤン)」と呼んだ。西行もまた「見者」の一人だった。迷っている人間はこのような歌は歌わないだろう。自身が迷いの中にいるのを見ているもう一人の自分、詩人としての自己は透徹としている。

 

 世界には「我」を主張する者は無数にいるが、「我」を見る人間はほとんどいない。何故なら、「我」を見るには、見る側の我が、見られる側の我と分離しなければならないからだ。この分離を意識的に体験するのは難しいだろう。彼は分裂する。そこに歌が生まれる。

 

 しかし一方で、西行の歌は自然に対する浸透力に満ちている。彼において花鳥風月は彼の自我意識と独特の相関関係を持っていた。ここに彼が日本的霊性を具現化している特殊な詩人性が現れている。それと共に、「仏教」という世界宗教を経由する事によって、世界レベルの詩人になった道程も重なっている。それらは彼の魂の中でどのように融合されているだろうか? 彼の詩はそれらをどのように統合しているだろうか?

 

 ※

 

  願はくは花のもとにて春死なむその二月(きさらぎ)の望月のころ

 

 この歌は通常、桜の花が咲く季節に死にたいという詩人の願望だと受け取られる。しかしその背後には、死んで西方浄土に旅立ちたいという願望が込められていると見るべきだろう。その浄土には、桜が舞っている。ここでは桜の花は、現世と来世を繋ぐものとして現れていた。ここに日本の景物を愛する、また感覚性と抽象性を融合させようとする日本的資質を最も高く昇華させた詩人の姿があるように思われる。

 

 西行の来世への意向は他にも見られる。

 

  来む世には心のうちにあらはさむ飽かでやみぬる月の光を

 

 この世で見飽きる事のなかった月の光をあの世で見たいものだという感慨が述べられている。ここでも、月の光という感覚的な、現世的な存在は来世における景物として独特の捉え方をされている。月の光はこの世とあの世を貫通している。

 

 これは非常に独特な見方に思える。次の名歌

 

  心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ

 

 においても、「鴫立つ沢の秋の夕暮れ」という景物は、絶対他者として、詩人の外側から彼の自意識にやってくる。それはあの世からこの世に光が差し込むようなものだ。あるゆる係累を捨てた詩人の心に、外側から自然の景物は不思議な光線となって射してきた。

 

 一方で、詩人の心にも未だ執着は残っている。

 

  花にそむ心のいかで残りけむ捨てはててきと思ふ我身に

  

 俗世を捨てた詩人の心にも未だに花に執着する心が語られている。ここで執着されている花は現実の花、現世の花であり、心に残っている執着は、現世の花に向けられている。だが花は、あの世にも咲いているだろう。

 

 ※

 

 日本の景物、自然は西行の中で、この世とあの世を共に貫通していた。彼は自然に対して執着を捨てきれない。だが同時に、執着を捨てきった悟りの世界にも春はやってきて、花は咲く。

 

  野辺の色も春のにほひもおしなべて心染めける悟りとぞなる

  

 自然の存在は悟りに直接繋がっていく。そのように知覚されている。こうした自然の風物に対して、彼の自我はどういう場所にあっただろうか。

 

  心から心に物を思はせて身を苦しむる我身なりけり

  

 こうした歌は秀歌とは言えない。しかし、西行という詩人はただ詩人であるだけではなく、求道者であり、強烈な自己意識を持つ存在であった為に、こうした歌が歌われる必要があった。ただ詩を想う所から詩は生まれない。仏道における悟り=来世と、執着を離れられぬ現世・自我との葛藤から歌は生まれてくる。景物はその両者を貫通しており、それらは詩人が捨てなければならぬ執着であると共に、自己の心を捨て去った時に見えてくるはずの不可思議の光景だった。

 

  年たけてまた越ゆべしとおもひきや命なりけりさやの中山

  

 あるいは先の


  風になびく富士のけぶりの空に消えて行方も知らぬ我が心かな


 といった歌は代表作と言っていいのだろう。ここでは自我の存在が自然との対比として現れる。景物は詩人の旅の伴だったが、それは彼には憧れとして彼方にある物でもあった。彼の存在は自然の光に照らし出されて、全体像が見えてくる。自我の存在を可視化するのは「他者」の存在であって、西行は常に己の卑小さを感じていた。だが、彼自身を眺める目は同時に自然を眺め、自然はやがてやってくるべき春=来世に通じていた。

 

 それにしても次のような歌はどんな意味があるのだろう。

 

  道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ


 何故、詩人は立ち止まったのか。それは不思議な調べを奏でているように思われる。

 

 詩人は普通の人間ではない。彼は自己意識を持っている。自我を持った、自分自身と分裂している存在だ。彼は、夏のさなか、柳の陰にしばらく立ち止まる。彼はそこに立ち止まった自分自身を深く感じている。あたかも彼自身が一つの景物であるかのように。

 

 自我を見つめるこの深い眼は、仏教的な来世観がなければ決して見えなかったものだろう。西行は自然を愛し、旅を愛した詩人として日本人に愛好されている。良寛は子供と遊んだ慈悲深い僧侶として愛されている。だが、ただそれだけの人間が歴史に残る詩人となる事はない。感覚的な事物を相対化する絶対的な世界が彼岸にある。その彼岸から振り返って見た時、己の姿が鏡に映るように詩人の眼に映ったのだ。私はそう思う。

 

 ※

 

 現代に足りないのは自己を知覚する視点である。その視座が欠けている。だから、良寛は子供と遊んだ優しいお坊さんで、西行は詩と旅を愛した風流人に過ぎないのだ。これは、現代人が都合よく捉えた詩人像に過ぎない。私はこうした現代人の視点に飽き足らなくなったからこそ、西行や良寛といった人達に思いを馳せる。

 

 良寛の傑作詩の末尾

 

  行人我れを顧みて問ふ なにに由ってそれかくのごときかと

  低頭して応ふる能はず いひ得るもまたいかんぞや

  箇中の意を知らんとほっすれば 元来ただこれこれのみ

 

 この詩では、良寛が子供達と遊んでいる姿を通行人に笑われた思い出が語られている。良寛は笑われ、言い返せない。いい年をした坊さんが何を子供達と遊んでいるのか。それに対して良寛は「箇中の意を知らんとほっすれば 元来ただこれこれのみ」と返す。「私の心の中を知りたければ、この通り、この姿のみ」という意味だ。

 

 ここで良寛は何を言わんとしているのか。西行で言う「心染めける悟り」は、西行においては月の光となって、あるいは野辺の風景となって現れたかもしれないが、良寛にとっては子供と遊んでいる自分の姿に現れた。


 仏道修行は遂に、我々が軽視すべきようなある物によって現されるのか。答えは逆で、我々はどのような深層を、深刻を望んだとしても、この世界においては景物であるとか、身振りであるとか、そういう「軽み」の中にしか生きられない。その自覚だけが、彼らの行為、振る舞い、視線を悟りに変えていく。彼ら自体は我々とは何一つ変わらない同じような人間だ。しかし捉え方が違う。

 

 私は「西行の晩年」という文章で次の歌を特に取り上げた。

 

  にほてるやなぎたる朝に見わたせばこぎゆく跡の波だにもなし

 

 鳰の海(琵琶湖)に日が照っていて、そこには漕ぎゆく舟の波の跡すらもない。全ては静まっている。私は、次のように書いている。

 

 「彼は消えていく様々なものを見送っている。船は去っていき、彼一人が波止場に残っているようだ。ところが消えていくのは彼自身であり、彼にはそれがよくわかっている。」

 

 その頃の私はまだ、西行という人物を自意識のレベルで捉えていた。そこで、最後に西行が立った位置は、彼を見送る彼という分裂した場所であるという結論に達した。

 

 この文章でもそういう言い方をしている。ただこの歌では、彼が彼を見ている視点、彼が立っている場所ーー波止場ーーは”悟り”だったと言い切ってもいいのではないかと今は考えている。死に近づいた彼は、湖水に波の跡すらもない情景が、美しく磨かれた満月のように、悟りの地平に見えた。彼は「悟った」のではない。悟りの位置に立って、世界を眺めたのだ。それはただ自分が一つの視点となる事であるが、自分が自分でなくなるという事でもある。

 

  心から心に物を思はせて身を苦しむる我身なりけり

  

 と歌った彼は、自身の消滅を体感しつつ、己を最後の悟りの位置においた。それは人間の許された境地かどうか、誰が知ろう。西行という一人の詩人は、自己意識という余計物をぶら下げながら、長い道を歩き抜いた。この道に終わりはない。それは彼自身がよく知っていたはずだろう。

 

 人間は死ぬまで、自己意識という肉に刺さった棘に悩まされ続ける。悩まされない人間は、外観上は悟ったような顔をしている。豚の顔に、猫の顔に悟りは見えないだろうか? 彼らが人生の大問題に悩まされないのは、それが現に存在しないからだ。

 

 あるものを背負って、そのものを捨て去る為に長い人生を歩くとはなんと馬鹿げた事だろうか。西行は「我が心」がどこにも行かない事をよく知っていた。だが、空を見上げた時に照る月は、彼の心に射す悟りの光だった。この悟りという空のポイント、語り得ない場所をよく知っていたからこそ、彼は語り得るものである芸術=詩を自己のものにした。

 

  道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ


 柳の陰にふと立ち止まった彼は、そこで安らいだ気持ちになった事だろうが、それは自然と彼の心が一瞬調和された瞬間だったろう。その先にはまだ遥かな道があるが、道はこの世だけには限らない。それでも彼はその先を歩き続ける事を知っていただろう。だが、彼はふと立ち止まる。そこで彼自身の姿がふと浮かぶが、その姿は自然の景物に溶けている。それは彼が思い浮かべる円満な境地のように、世界と和解する瞬間でもある。世界と対立したものにしか、世界と和解する瞬間はやってこない。


 彼は彼が望んでいた春の季節に亡くなったが、穏やかな死であったろう。何故それが穏やかな死だったかと言えば、彼はそれを先取りして生きていたからだ。そうして月からこの世を見るように、現実を見ただろう。この現世においては、それは例えば岸から見る、穏やかな朝の鳰の海に見えたというだけの事なのだろう。

 

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[一言] 日本では現代でも短いスパンで「死を描くのが高級」という大衆カルチャーが発生するように思います。10年ほど前には絵本「地獄」がベストセラーになり、第二弾の「極楽」は単体ではそれほど売れず、セッ…
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