3章22話『1人の殺人鬼』
食堂の中は、至って普通だった。
いくつかの大きなテーブルとイス、カウンター越しに小さめな厨房が見える。ちょうど朝食の時間が終わった頃だったからか、中に人はいない。さっきの女性がいただけだった。
女性は俺の姿に気づくと優しく声をかけてきてくれた。
「どうなさったの?何か飲む?」
「あぁ、それじゃコーヒーを1杯お願いします」
女性はそう言って教祖用と俺用のコーヒーカップを合わせて2つ用意する。
女性は俺に背を向け、奥のコンロでやかんを使って湯を沸かし始めた。その背を見て少し葛藤したが、『血塗られた舌』が今までやってきたことを考えるとやむを得ない決断だと割り切り、行動へ移した。
俺は物音を立てないように女性の真後ろに立ち、せっせとコーヒーを淹れている様子を注意深く観察していた。
緊張で荒くなる息を整えながら、女性がコーヒーを完成させるのを待った。こういう時気配を消すことは得意だ。
女性は丁寧にカップにコーヒーを注ぎ始める。香ばしい香りが厨房に流れ込んだ。
コーヒーが注がれる音がだんだんと弱くなり、途切れた瞬間。
俺は女性の頭に右手を置いた。
「フレイム」
ボンッ!女性は苦しむ余裕すらもなく死んでいった。どうやら彼女は現地人だったらしく遺体はそのままそこに残った。
俺は女性の白い制服を剥ぎ、彼女の遺体を厨房の奥の冷蔵庫に押し込んだ。今死体が見つかるのは厄介だからな。
女性はありがたいことに悲鳴の一つも上げなかった。おかげで食堂で起きた出来事に気付く者はいなかった。
俺は念には念を入れてテーブルの影に隠れて女性の着ていた制服を上から着た。
だがここで重大な問題が見つかる。
女性の頭の血が白い制服に付着してしまっていたのだ。
落ち着け、まだ大丈夫だ。女性を殺してからまだ1分も経っていない。この血も乾ききっていない。対処の方法はいくらでもある。
とはいえ、この厨房には血のシミを抜けるような道具があるとは思えない。一応俺は棚をいくつか漁って何か使えそうなものはないかと模索してみるが、これといっためぼしい物は見つからなかった。
途方に暮れていたその時、俺はそれを見た。
俺の視線の先にあったコーヒーからは湯気が立っている。白いカップが鋼色の台所の中で異質な空気を放っている。
「そうだ、これを使おう」
俺は一度制服を脱ぎ、適当な布を拾ってきてその先端にコーヒーを染み込ませた。
そしてコーヒーの染み込んだ布をそっと、制服の血のついた部分に触れさせた。
上手くいくか不安だったが、血の跡は見事にコーヒーに隠れて目立たなくなった。
コーヒーのシミなら最悪運ぶ時に飛び跳ねたとでも言っておけば不自然ではないだろう。
俺は一安心し、白い制服を着て次の工程に取り掛かった。
俺はコーヒー入りのカップを左手で持ち上げ、それに右手をかざす。そのままグッと力を込め、それでいて必要以上に力を加えず。微妙な力の調整を何度も繰り返した。
俺の手のひらからは青色の波が薄く出ている。波はコーヒーの中に吸い込まれていき、言われても気づかないほどごくごく少量だけコーヒーの量が増えた。俺はその調子でどんどんコーヒーを増やしていく。
この行動にどんな意味があるのか、それは後に分かる。
だいたい3分程その工程を行ったところで、俺はカップを乗せたトレイを持って食堂を出た。そのまま教祖室へ向かう。
来た道を戻るだけなのにコーヒーを持っているというだけでとても緊張した。
教祖室の前まで辿り着いた俺は片手でトレイを持ち、空いた右手でドアノブを開いた。
教祖室の中の空気が一瞬ふわっと俺に覆いかぶさった。
中は大量の資料や本、部屋の真ん中には机があり、奥には大きなナイアーラトテップの絵が飾ってあった。
机に座る男……おそらく教祖は延々と何か文章を書いている。しかし何を書いているのかは分からない。というのも、支離滅裂すぎてそれを文章として読むことができないのだ。
何かの暗号だろうかと勝手に憶測して、その事は流すことにした。
「コーヒーをお持ちしました」
「ん?君、さっきのメンバーとは違うね」
「彼女は…………誰かに呼ばれたと言ってどこかに行ってしまいました。なので代役として私が参りました」
「誰かに呼ばれた、か…………」
自分へのコーヒーを後回しにしてまで応答しなければいけなかった人物とは誰だ?と首をかしげるが、それ以上は考えることも問い詰めることもなかった。
「まぁいい。今は喉が乾いて仕方がない」
教祖はトレイからコーヒーを取って口に運び始めた。
教祖の喉が動き、教祖の口に密着するカップの角度が60度を超えた。
今だ。
俺は右手に力を込め、教祖の喉に注目した。
「…………ん……!…………んんっ!!」
教祖の喉がだんだんと膨張していく。俺はそれを見て更に力を加速させる。その頃には教祖の顔は青白く染まり始めていた。
「…………かはっ……がっ…………ぎぎっ……」
教祖は声にならない断末魔を上げながら窒息死した。
その死に顔はとても醜かったが、そこに慈悲の付け入る隙はない。むしろこの表情を何百回もさせてやらなくちゃいけないところを1回だけで済ませてやっていることに感謝して欲しい。
これが俺の作戦だ。
あらかじめコーヒーに水幻素を注いでおき、教祖がコーヒーを飲んだタイミングでアクアを発動。アクアは工夫すれば氷を発生させられる魔法だ。その氷で教祖の気道を塞ぎ窒息死させる作戦だ。
この方法で教祖を殺害することはできる。だが、それはあくまで経過点にすぎない。
さて、最後の仕上げだ。
俺は白い制服を脱いで本棚と壁の隙間にねじ込み、教祖室を出た。
俺はそのまま数歩歩き、ある場所から全力疾走で出口に向かって走った。
だがまだ脱出はしない。俺は近くのメンバーに話しかけた。
「たっ…………助けてくれ!」
「どうした?そんなに慌てて」
「教祖様が…………教祖様が殺されたのを見てしまったんだ!」
「なんだって!?」
周囲にいたメンバー達が一斉に俺に注目する。そして一気に集合し始め、俺の話に耳を傾けてくれた。
「殺されたって…………誰に!?」
「…………ナイアーラトテップ様だよ」
「なっ…………!」
メンバー達の表情が変わった。
「ナイアーラトテップ様が教祖様を殺したんだ!」
辺りは一気にザワつく。口を抑えるメンバーもいれば、冷静を保つために狂ったように笑う者もいた。
「『血塗られた舌』に入ればナイアーラトテップ様は我々を攻撃しない…………。そんなことなかったんだ!ナイアーラトテップ様達にとって我々は捨て駒でしかない!ナイアーラトテップ様が降臨してしまえば、我々だって殺されてしまうんだ!」
俺はそのまま叫んで、真後ろに走り出した。
真後ろにあるのは出口だ。俺は半狂乱のまま出口に猛ダッシュして脱出した。
その30分後の事だ。
『救済組』は武器を持って『信仰組』への攻撃を開始した。『救済組』は騙されたという考えが強かったのと、救済に頼れなくなった彼らはナイアーラトテップに抵抗するしかなくなったためだ。
対して『信仰組』は、ナイアーラトテップがそんなことするわけがない、何かの間違いだと主張。もちろんそんな声が『救済組』に届く訳がない。
やむを得ず『信仰組』も武器をとり、『救済組』と血を交わす羽目となった。
その日から3日間。『血塗られた舌』の間で『アティエンタス』と呼ばれる『救済組』と『信仰組』の全面戦争が勃発。
その過程で『血塗られた舌』の80%が死亡した。
それが全て1人の殺人鬼によって仕掛けられた罠とも知らずに。




