3章7話『絵師』
カスコが自分の下を離れたのを確認し、アルマドゥラはふうーっと長いため息をついた。
アルマドゥラは辺りに無数に散るナイアーラトテップの絵を踏み潰し、グリグリと捻った。そこには彼の胸の内側に眠る強い憎悪が込められていた。
押し殺すことも容易ではないその感情を絵にぶつけて発散させる。行き場のない憎しみを蒸発させるにはそれが最適だった。
アルマドゥラは気が済むまでその絵を踏みにじった後、活気のない繁華街を孤独に歩いていった。
周囲は発狂した街の人の悲鳴や笑い声で埋め尽くされている。彼がコンクリートの地面を踏みしめる音など最初からなかったかのようにいとも簡単に消されてしまった。
アルマドゥラは周りを注意深く見回しながら、目に入った路地を片っ端から探っていく。迷路のように入り組んだアーカムの地を足跡で塗りつぶすように。
「ナイアーラトテップの絵を描けるのはナイアーラトテップを知っている者だけ…………それを特定しなければ、被害は増える一方だ」
アルマドゥラは自分に再確認させるようにそう言った。
本当なら彼1人だけではなく他のメンバーも捜索に協力させたいところだが、《ブエノスディアス》のメンバーに限らず、ニグラスに住む人達は転生者だろうと現地人だろうと、普通は旧支配者の姿を知らない。
これだけナイアーラトテップの絵が散らばっている道を捜索させるのは危険なんてもんじゃない。
アルマドゥラ1人で探すしかなかった。
「…………?」
アルマドゥラはとある広場にたどり着いた。中央に噴水のある、よくある公園だ。相変わらずここも絵で埋め尽くされている。一体何枚の絵がばら撒かれたのだろうか。
しかしそんなくだらない事に脳細胞を割く訳にはいかない。
そのベンチに一人座って、膝の上に置かれた紙に筆を走らせている男の姿が見えたからだ。
「まさか…………」
アルマドゥラはその男に近づく。男は一切気に留めず、一心不乱に腕を動かしていた。
「おい…………貴様ここで何をしている」
ついに目の前に立ったアルマドゥラは低い声でそう言った。だが、圧をかけるように放ったその言葉を男は無視しさらに筆を走らせる。
「答えろ、ここで何をしているのかと聞いている」
男はさらにスピードを上げ、紙の上で劇を行うかのように墨の粒をあちらこちらに飛ばした。
痺れを切らしたアルマドゥラは大きく息を吸い、
「貴様ッ!私の質問に答え――――――」
アルマドゥラがそう言いかけたところで、男は紙をアルマドゥラの目の前に突きつけた。
そこに描かれていたのは、口から無数の触手を生やし、全身から手のようなものがうねうねと伸びている黒い魔物だった。
男は自信満々でその絵をアルマドゥラの前に突きつける。そしてそれを見て目を白黒させるアルマドゥラを見てニヤリと楽しそうに笑った。
しかし、
ビリッ!
その絵に、1つの穴が空いた。
「こういう手口を使ってたわけか」
アルマドゥラは腰に納めていた剣をいつの間にか突き出し、魔物の絵を貫通させて男に刃を向けた。
目の前に唐突に現れた剣を前に、男は冷や汗をかいた。あと少しでこの先端が自分の皮膚を裂いていたかも知れないと思うと、鳥肌が立つ。
「貴様がこの集団発狂事件の犯人か?」
ずいっと更に剣を近づけて問うアルマドゥラ。鉄の冷たさが男の体にじんわりと伝わる。
しかし、ここで予想外のことが起きる。
ガキィン!
アルマドゥラは大きく後ろに仰け反った。
地面を見たまま数歩よろけ、咄嗟にさっきまで自分がいた場所を見てみるとそこには剣を上に振り上げた男の姿があった。
「このピントル様の絵を傷つけるとはいい度胸してんじゃねぇかぁ!」
ピントルと名乗った男は怒りをあらわにしてアルマドゥラを怒鳴りつけた。
対するアルマドゥラはそれに対して一切の感情の変化を見せず、落ち着いた様子でピントルの表情を伺った。
「…………いや、それよりも!」
ピントルは時間差でとあることに気が付き、少しだけ焦りを見せた。
「お前、なぜあの絵を見たのに正気を保てる!?」
ピントルが見せた絵は旧支配者・ナイアーラトテップを描いた絵。そもそもアルマドゥラは地面に散らばるそれらの絵を目撃しているにも関わらず全くSANを削っていない。
普通は、たとえ絵だとしてもナイアーラトテップの姿を見たら数秒後には発狂してしまう。それなのになぜアルマドゥラは平気なのか?
その答えは、彼が自ら提示した。
「もうとっくに慣れている。今更見せられたところでなんてことはない」
アルマドゥラは300年前にナイアーラトテップを目撃している。
初めて見た時はもちろん彼も発狂したし、精神分析を行って正気に戻すのにも1週間近くかかってしまった。
だが、1つの狂気を経験すると同じ狂気で減るSANは少なくなる。そしてそれは見れば見るほど効果が大きくなるものだ。
インフルエンザ等の感染症の予防接種、あれは体内に弱めのウイルスを注射してウイルスに対する抗体を作り、いざ本当にウイルスが侵入してきた時に対応できるようにするためのもの。
例えるなら、アルマドゥラは昔ナイアーラトテップに対する予防接種を行ったため今その絵を見てもなんともないというわけだ。
「貴様も『血塗られた舌』のメンバーか?」
「その名前まで知られてるか…………なら仕方ねぇ」
ピントルは剣を横向きに構え、アルマドゥラに一気に詰め寄った。
その速さ、脅威の1.3秒。ピントルは30mはあったその距離をその速さで駆け抜けた。
そしてアルマドゥラに向かって畳み掛けるように剣を振り回す。
ギンッ!ガンッ!キィン!鉄と鉄とがぶつかり合う音が彼らの耳を通り抜けた。
アルマドゥラはピントルの剣を的確に防御しながらも、内心はすこぶる焦っていた。
彼の剣が自分と同じ、もしくはそれ以上に速いからだ。
アルマドゥラは《ブエノスディアス》のギルドマスター。故に戦闘能力も極めて高く、ギルド最強の男と言われても反論するものは出ないだろう。
タルデの剣さばきはもちろん、敵の情報を得た時のラピセロにも大きく勝っている。
なんならゼロのガン=カタが着弾するよりも早く彼女の撃った銃弾を切り裂くことができるだろう。
その極めに極めたスピードに、目の前の男はいとも簡単についてきている。
いや、スピードだけではない。パワーやテクニック、精密さなどもアルマドゥラに匹敵する。
「これは…………なかなか強い相手だな」
アルマドゥラは目にぐっと力を込め、男を睨んだ。そのまま交差する刃と刃の隙を突き、アルマドゥラはピントルの視界から消えた。
「何ッ?」
ピントルは自分とすれ違うように歩くアルマドゥラに気づき、脊髄反射レベルの速さで剣を振るった。だが、既に遅かった。
「はあっ!」
アルマドゥラは剣を振り上げ、ピントルの体を真っ二つに割ろうとした。
「ぐはぁっ!!!」
ピントルは体に大きな傷跡をもらい、出血する。
傷を抑えた手を見てピントルは目を見開き、切り替えるようにすぐ目の前のアルマドゥラを睨んだ。
「テメェ…………!許さねぇ!許さねぇぞぉ!」
ピントルは剣を強く握る。腕をプルプルとさせながら震えるその様は頼りなくも恐ろしかった。
アルマドゥラは警戒心を強めながら、左手を後ろに持って行って右手で剣を構えた。




