3章6話『分かれ道』
「『血塗られた舌』…………か」
《ブエノスディアス》本部のギルドマスター室。そこでは1人の男性が耳に電子機器を当てて喋っていた。
同時に、それによく似た光景が《アスタ・ラ・ビスタ》のギルドマスター室でも行われていた。
「えぇ。《グラシアス》の本拠地を訪れた際、私共のメンバーが対峙したそうです」
今更言うまでもないが、電子職業手帳には電話機能がついている。アオイとアルマドゥラはそれを使って電話をしている最中だ。
「やっていることは通り魔や愉快犯と大差ありません。『EVOカプセル』のような特殊な道具を持ち合わせているわけでもありませんし、対策を練るほどの相手ではありません」
ニグラスで犯罪を犯した場合、警察ではなくマスターズギルドの役員に逮捕される。
ちなみに法律は現実とさほど違いはないが、ニグラスだけの法律として、『放置することで更に甚大な被害を生み出すと判断された人間を殺害した場合、内容によっては罪に問われない』という法律がある。
転生者の中には前世で大罪を犯した者もいる。何らかの理由でその者が悪人の心を取り戻すことはそう少ない事例ではない。
ただでさえモンスターの対処にも追われているのにそれらをいちいち逮捕していったらキリがない。そのため、こういう法律が作られた。
グレン達が人殺しを行っても逮捕されないのはこういった理由があるためだ。
「ですが……私達は『血塗られた舌』を何としてでも止めなくてはなりません」
アオイはいつもより低い声でそう言った。
「…………奴と関係があるというわけか」
アルマドゥラがそう返すと、「その通りです」とアオイが更に返す。
「彼らの目的…………それは、『ナイアーラトテップを援護すること』。彼らは彼らの信仰する邪神が世界を支配することを望み、それを実現するために世界を混沌に陥れようとしています」
そのために罪のない人を殺したり、発狂させたりしている他、ナイアーラトテップの降臨を早めようとしているとの情報も得た。
「物好きもいるものだ。あんな奴に世界を任せたいと思うとはな」
「私も同意します。ですが…………私達は似たような団体を知っているではありませんか」
アオイのその言葉を聞いてアルマドゥラが思い出したのは、《エンセスター》と『アンティゴ研究会』の2つだった。
どちらの長も危険な思想を持っていたにも関わらず彼らの下には多くの信者がいた。自分には理解できないが、当人達は理解できるのだろう。
だが、アオイが提示してきたのはアルマドゥラにも理解することができる名前だった。
「私達は何度も助けられていますよね?彼らに…………《グラシアス》に」
ハッとした。
確かに《グラシアス》は『血塗られた舌』と同じ一面を持つ。どちらも旧支配者を信仰している団体だ。
《グラシアス》が信仰しているクトゥルフも、ナイアーラトテップと同じ邪な存在。しかし、《グラシアス》は『血塗られた舌』とは違い、人々を困らせるどころか喜ばせている。
「信仰とは難しいものです。同じ邪神を信じる者でありながら分かれ道は大きく裂けている…………。正しい道、誤った道はあっても、誤った道を進んだ者が自分の道を疑うことはまずありません。彼らはその道を正しい道と確信した上で選んだのですから」
「『血塗られた舌』はあくまで正しいことをしていると思い込んでいる、というわけか。なかなかに厄介だな」
アオイは電話の向こう側で頷いた。
「いずれにせよ、私達から見れば誤った道であることに変わりはありません。今から引き返して正しい道を歩むか…………それが出来ないなら、消えてもらうしかありませんね」
アオイは表情ひとつ変えずにそう言った。
彼女の中には、心優しく人情に溢れるアオイと冷たく残酷に任務を遂行するアオイが背中合わせで存在している。
正義が必ずしも慈悲に溢れているものとは限らない。
「承知している。ナイアーラトテップ如きに世界を支配されてはたまったもんじゃないからな」
「言うまでもありませんが、警戒を怠らないようにお願いします」
アオイはそう言って電話を切った。アルマドゥラは机に電子職業手帳を置き、仕事に戻った。
山積みになった書類を迅速かつ丁寧に処理していくその様は美しさすら覚える。手慣れた作業なので少し退屈だが、そんなことを気にしてはいられない。
だが、手慣れた作業だからこそ彼の頭の大半は『血塗られた舌』の事を考えるのに使用されていた。
ナイアーラトテップの降臨はもはや避けられない。だが、だからといってナイアーラトテップの降臨を早めて許される訳が無い。
得られるのがたった数日の安息のみだったとしても、そこに市民の幸せがあるのなら自分はいくつでも命を投げ出せる。
これはアルマドゥラだけでなく、彼に魅入られた《ブエノスディアス》にも当てはまる理念だった。
それにしても不可解な点が多い。
そもそも奴らは、どうやってナイアーラトテップの降臨を早めるつもりなのだ?
《グラシアス》が崇めているクトゥルフはニグラスのどこかに眠る旧支配者。故に滝や海を通じて交信をとることが出来る。
しかしナイアーラトテップはかつてニグラスを追われた者。宇宙から飛来する旧支配者。
交信を取ることは困難ではないか?
やはり、裏になにかある。アルマドゥラはそう睨んだ。
だが、それが何かを推理する前に扉は叩かれた。
「失礼します」
現れたのはアルマドゥラの秘書・カスコだ。彼女は全くの無表情でアルマドゥラを見つめ、手の甲を重ねた。
「アーカムの郊外で、市民が一斉に発狂し始めたそうです」
「…………発狂し始めた?」
「はい。今は《ブエノスディアス》の医務班が発狂した人達を隔離して精神分析を行っていますがその数があまりにも多いので、応援を送る必要があるかと思います。精神分析を行える者を総動員する許可を下さい」
「…………分かった。許可しよう」
アルマドゥラは目の前の資料を片付け、机の端に追いやった。
「了解しました」
カスコが部屋を出ようとすると、アルマドゥラはそれを引き止めた。
「待った。私も向かおう」
「…………アルマドゥラ様も?」
カスコは首を傾げる。なぜならアルマドゥラに精神分析の技術は備わっていないからだ。
「その発狂の原因、分かっているのか?」
「いえ。ですので精神分析が完了し次第、発狂していた人達に聞き込みを行う方向です」
アルマドゥラは静かに首を振った。
「その必要はない。私が直々に調査する」
「……アルマドゥラ様の出る幕ではありません」
「いや、私が行かなくてはならない。世界が混沌に堕ちる前にな」
アルマドゥラはカスコの後に続いて本拠地を出て、馬車で目的地まで移動した。
その出来事が起きたのは、アーカムの北西の繁華街。料理店が多く並ぶ場所だった。
その場所が近付くにつれ、発狂した人達の言葉にならない叫び声が耳をつんざく。ストレスにもなりうるその声を聞いたアルマドゥラは顔をしかめた。
ついに目的地に到着したアルマドゥラは街の様子を改めて観察する。狂人達は摩訶不思議な踊りを繰り返していて、見ているこっちが発狂しそうだった。
同時に、アルマドゥラは地面に何枚も散らばる白黒写真を見た。
最初は写真だと思っていたが、どうやらこれはよく出来た絵だ。現にそこに描かれていたのはまだこの世に存在しないものだった。
「…………!」
描かれていたのはナイアーラトテップだった。
何者かがナイアーラトテップの絵をばら撒き、それを見た市民が発狂してしまったのだろう。
ナイアーラトテップの名は禁忌として語り継がれているとは聞いたが、大量の発狂者を出すほど広まっていたとは、アルマドゥラは予想していなかった。
そしてその何者かが『血塗られた舌』であることはほぼ間違いないだろう。
アルマドゥラは絵をグシャッと握りつぶし、投げ捨てた。
「カスコ、街の人達は任せる」
「……アルマドゥラ様はどうなさるのですか?」
「私は…………やらなければいけないことがあるからな」
アルマドゥラはそう言って走り出した。




