3章30話『前夜』
とある日の朝。
俺はいつものように手帳のアラームで目覚めた。カーテンを開けると清々しい朝日が俺の部屋を照らす。雲ひとつない青空が俺に虚しさを植え付ける。
壁掛け時計は午前7時を指している。もう少しで朝食の時間だ。俺は寝間着から普段着に素早く着替え、ゼロを起こしに向かった。
その道中、ティリタとタルデに会った。
「おっ!グレン!おはよう!」
タルデが朝とは思えないほどのテンションで遠くから近付いてきた。
「おう、おはよう」
ティリタもそれに続いて着いてくる。
「ゼロを起こしに行くのかい?」
「あぁ。あいつ自分で起きようとしないからな」
起こしに行かないと昼過ぎくらいまで寝てることもある。
「じゃあ僕達は先に食堂に行くよ。また後で」
「おう、じゃあな」
ティリタとタルデはぎこちない笑顔を浮かべて食堂へ向かった。俺はその曲がり角を直進してゼロの部屋へ向かう。
扉を2回ノックし、ドアノブに手をかけた。もちろん、返事はない。俺はいつもの事ながら遠慮なく扉を開け、ゼロの部屋に入った。
が、ここでいつもの事ではない出来事が起きた。
「おはよ」
ゼロが既に起きていたのだ。
彼女はベッドに座りながらボーッと一点を眺めている。
「おはよう。珍しいな、お前が起きてるなんて」
何気なくそう聞いたが、ゼロはふうっとため息をつき、言った。
「快眠できるわけないわよ」
その一言で現実に戻されたような気がした。出来るだけ非現実から目を背けてはいたが、ゼロの何気ない一言は俺を改めて未来の絶望に対面させた。
「そう、だよな。そりゃそうだ」
俺は何となくゼロの隣に座った。
「俺も、眠れなかった。表向きには絶対に勝つって言ってたけど、心のどこかではやっぱ怖かったんだな」
ゼロは黙って俺の話を聞いてくれた。
彼女にも彼女の恐怖があるはずなのに、それを打ち明けずに沈黙を貫いた。
「明日……来るんだよな。《ナイアーラトテップが》」
ゼロは無言で頷いた。
俺がナイアーラトテップの名前を出した辺りから彼女の表情が曇ったことを見逃していなかったが、ゼロはそれを隠そうとしていた。
「正直、不安なんだ。経験も積んで、皆に支えられて、『セラエノ断章』も手に入れて…………それでもヤツを倒せなかったらと思うと――――」
「心配ないわ」
言い終わる前にゼロが割り込んだ。
彼女は立ち上がり、服の裾をピッと整える。
「あなたには、私がいるもの」
ゼロは自信ありげに笑った。
「あなたは1人じゃ何も出来ない…………。でもあなたは1人じゃない。私も、ティリタやタルデも《アスタ・ラ・ビスタ》の皆も……全員あなたの味方になる」
「ゼロ……」
なんだか、妙に嬉しかった。
1人じゃない。全員あなたの味方になる。
たったそれだけの言葉でこんなにも暖かい気持ちになるとは思わなかった。
「せっかくクトゥグアに選ばれたんだから、あなたは思いっきり暴れなさい。後始末は私がするわ」
ゼロはそう言って部屋を出た。
俺も少し時間を置いて、ゼロを追いかけた。
今日の朝食はうどんだった。
エスクードさんは前世で日本人、そうじゃなくても日本にかなり詳しい人だったのだろう。和食の見た目も味も一級品だ。
一瞬、ほんの一瞬だけ、もし世界が滅んだらこんな美味しい料理も食べられなくなるのか、と思ったが、すぐに振り払った。
『もし世界が滅んだら』なんて、そんな事はありえない。
「なぁ、明日アーカム行って武器買いに行かね?」
「あぁいいぜ…………って、明日の昼間外出禁止令出てるじゃねぇか」
「あー、そうだったわ!なんでよりによって明日なんだよー」
隣の席のメンバー達の会話が聞こえてくる。
明日の午前10時から午後4時まではニグラス全土に外出禁止令が出されている。もちろん、ナイアーラトテップの襲来に備えて、だ。
その時間帯の間にマスターズギルドが結界を張り、ナイアーラトテップの行動を制御する。
その間に、各ギルドから選出された対ナイアーラトテップのメンバーがナイアーラトテップ撃退戦を開始する。
ちなみに結界に囲まれた後なら、結界の外から中の俺達やナイアーラトテップを視認することは出来ないため、発狂者が出ることはないらしい。
「人の苦労も知らないで……って言いたくなるわね」
ゼロは白いうどんを勢いよくすする。
ナイアーラトテップの話は選ばれたメンバーにしかされないし、外に話してもいけない。
俺達も明日は泊まり込みでクエストに行くことになっている。ギルドメンバーから見ればただの出張だ。
「でもまぁ……そのくらいがちょうどいいんじゃねーか?」
と、タルデはコップのお茶を飲む。
確かに彼の言うとおりだ。こうして俺達の苦労も知らないで明日に愚痴をこぼしていられる光景が幸せなのかも知れない。
『無知は罪』という言葉はあるが、『知らぬが仏』という言葉もある。
必ずしも知る事が良い事とは限らない。
「そうだね、緊張するのは僕達だけでいいよ」
ティリタも微笑みながらそう言ったが、その目はどこか悲しそうだった。
彼なりにプレッシャーを感じているのだろう。もし俺達が敗北してナイアーラトテップが君臨したらこの日常は途切れる。
平和が無理やり引き裂かれた先は細い道。気を抜けば落ちていくし、道はどんどん細くなる。
世界が壊れるより先に人が滅びるのではないだろうか。
確かに転生者が死ぬことは無い。だが、それは体の話だ。
最初の1、2回ならまだ生への執着や死への恐怖が残っている。が、それが何十回何百回となると徐々に心が溶け、やがて生きた屍と化す。
その時が転生者の死だ。俺はそう考えている。
「…………おっと、そろそろ時間か」
俺は丼に残った麺を一気にすすり、席を立った。他の3人も俺と同じように席を立ち、食堂を出る。
「おっ、そろそろ行くのか?」
廊下でギルドメンバーが声をかけてきた。
一瞬焦ってしまったが、ギリギリ冷静を保って返せた。
「おう、行ってくる」
「じゃあな!頑張ってこいよ!」
俺はギルドメンバーに手を振って部屋に帰って荷物を取り、エスクードさんの下へ向かった。
寮長室の扉を2回ノックし、「失礼します」と言って中に入った。
中ではエスクードさんが机に腰掛けながら鉄球……展開式鎧をキャッチボールのように上に投げていた。
「おっ……!来たね」
俺達は頷いた。エスクードさんはその様子を見てうんうんと頷き、ひょいっと椅子から降りた。
「よし……それじゃあ行こうか」
集合場所は《ブエノスディアス》の本拠地。そこで作戦の概要を聞いた後、本拠地に泊まって襲来に備えるのだ。
エスクードさんが事前に馬車を手配してくれていた。
普段は馬車の中でよく雑談をしたりするものだが、今日ばかりはそうもいかなかった。
とても談笑するような気分ではない。緊張と不安が入り交じって吐き気を催した。歴戦をくぐり抜けてきたエスクードさんですら、今日は無表情だった。
しばらく馬車に乗っていると、アーカムに差し掛かった。《ブエノスディアス》まであと少しだ。
アーカムはいつも通り賑わっている。明日は久しぶりの静寂となるだろう。
そして夜が明ければまた普段の騒がしさを取り戻す。いつも通りの日常だ。
世界は、止まらない。




