アイリス。「…………痛いの痛いの飛んでけー…………」
アイリス視点
シンさんが、自分で自分の掌に刃を突き立てるという、わたしにとって、とてもショッキングな出来事から数十秒がたったーー
「…………はあ、はあ…………。ーーよし! 無事に森に入れた!」
よほど集中していたのだろう。
先程まで、一言も発っさずに走り続けていたシンさんだったが、無事に開けた場所を抜け、『エルフの森』へ入った瞬間、そう安堵の声を漏らした。
わたし自身も、大分混乱から立ち直ったんだと思う。シンさんから、事前に聞いていた作戦を思い出す余裕も出来た。
『グリフォンと闘うのは、ある程度木々が生い茂っている場所が良い。だから、しばらくは奥へと向かって進んでいくね』
その作戦通り、シンさんはまだ走るのを止めようとしない。木々を避けるためにスピードを多少緩めたものの、森の奥へと向かって進んで行く。
「ーーっ! シンさん!」
まだまだ作戦は序盤だけど、とりあえずは『エルフの森』に入った事で、一息ついたと判断したわたしは、そのタイミングでシンさんに声をかける。
「…………はあ、はあ…………。なに、アイリス?」
「『なに?』じゃないですよ! その左手の刺し傷、早く治してくださいよ!」
そう。シンさんは未だ、左の掌の刺し傷を治していないのだ。
かなり深く刺したのだろう。ここまで来る間に、かなりの量出血してしまっている。
だから、わたしは心配になって、そう提案したのだけれどーー
「…………はあ、はあ…………。ああ、これ? まあ、今はそんな余裕ないからさ。治すのはグリフォンを倒した後かな」
シンさんからは、そんな返事が返ってきた。
「心配してくれてありがとね、アイリス。だけど、俺は大丈夫だからーー」
「大丈夫な訳ないじゃないですか!」
シンさんの言葉を途中で遮って、わたしは悲痛な叫び声を上げる。
「シンさん、さっきから息が荒いじゃないですか!? それに、顔色も悪いですし、脂汗も滲んでますよ。わたしが気付いてないと思ってるんですか!?」
「……………………」
図星を突かれたのか、黙りこくってしまう、シンさん。
「…………お願いします…………早く治してください…………シンさんに何かあったらと思うと、わたし…………」
「…………アイリス。もしかして、泣いてる?」
「…………うぅ…………シンさんがバカな事するからじゃないですかぁ…………どうして、自分の手を刺したんですかぁ…………!」
シンさんの指摘通り、わたしの瞳には、いつの間にか涙が滲んでいた。
怖かった。今も後ろから迫って来ているグリフォンが、じゃない。
お母さんや村の皆のように、シンさんも死んでしまうかもしれない。そんな想像をするだけで、わたしは怖くて怖くてたまらなくなる。
「ごめんね、アイリス」
「…………うぅ…………。謝るなら、早く治してください…………」
「…………ごめんね、アイリス」
2回謝罪の言葉を繰り返す、シンさん。
1回目の謝罪は、自分で自分の掌を刺した事だろう。
そして、2回目の謝罪はーー
「…………どうしても、その傷を治す余裕がありませんか…………?」
「ああ。回復魔法を使うためには集中しないといけないからさ。立ち止まらないまでも、スピードは大分落とさないと無理なんだよ」
「だけど、後ろからグリフォンが迫って来ている今の状況では、スピードを落とす訳にはいかないと、そういう事ですか?」
「ああ」
シンさんのその言葉を聞いて、いよいよわたしの瞳から涙が決壊しそうになった、その瞬間ーー
『よしよし。痛いの痛いの飛んでけー。『癒し』!』
わたしの頭の中に、そんな言葉が浮かんできた。
(…………今の、お母さんの声だ…………)
そうだ。思い出した。最近は無くなったけれど、幼い頃のわたしは、よく転んでケガをしていた。
そうして泣きじゃくるわたしに、お母さんはそんなおまじないを言いながら、『癒し』の魔法をかけてくれた。
(ーーって、今はそんな事思い出している場合じゃないよ!)
ハッと我に返って、わたしは首をブンブンと振る。
だけど、何故だろう? まるで何かに導かれるように、わたしの頭の中に幼い頃の記憶が甦ってくる。
『ーーあっ! すごーい、ケガが治った! ありがとう、お母さん!』
『ふふふっ。どういたしまして。…………それにしても、アイリスはよく転ぶわねぇ。ーーそうだ! ねえ、アイリス。『癒し』の魔法を覚えてみない?』
ーーあれ?
『えー!? わたしに出来るかなぁ?』
『時間はかかるでしょうけど、覚えておくと便利よ。自分だけじゃなくて、大切な人にも使えるもの』
『大切な人って、お母さんのこと?』
『ふふふっ。そう言ってくれるのは嬉しいわね。だけど、アイリスが大きくなれば、大切な人はもっともっと増えいくわよ。その人達のためにも、回復魔法を覚えてみない?』
『……………………うん、わかった! 教えて、お母さん!』
ーーあれ? あれ?
(…………そうだ。6歳位の時だったかな? わたしはお母さんとそんな会話をして、それから時間がある時に、少しずつ『癒し』を教えてもらったんだ…………)
そんな事を考えている間に、再び記憶が甦る。
だけど、次に甦ってきたのは、数年前の事でも無かったし、お母さんのセリフでも無かった。
『一応、『癒し』なら使えますよ。お母さんに教えてもらいました』
それは、つい今朝方、わたし自身が言ったセリフだった。
(ーーっ! そうだよ! わたし、『癒し』が使えるじゃない!)
なぜ、忘れていたのだろう。なぜ、すぐに思い至れなかったのだろう。そんな後悔が浮かんでくる。
だけどーー
(今わたしがしないといけないのは、そんな事じゃない!)
そうやって、自分に叱責したわたしは、シンさんの首に回していた左腕を離して、シンさんの左の掌に向けて手を伸ばす。
だけどーー
(…………うぅ…………届かない…………)
わたしの腕の長さでは、シンさんの肘までしか届かなかった。
「? ちょっと、アイリス! 何やってるの!?」
突然のわたしの行動に、困惑の声を上げる、シンさん。
「シンさん、わたし『癒し』の魔法が使えます! わたしが治しますから、ちょっとだけ掌を上に持ってきてくれませんか!」
「…………ああ、そっか。そういえば、『癒し』が使えるって言ってたね。俺が教えた魔法じゃないから忘れてたよ。…………でも…………」
何故かシンさんはそこで、躊躇した様子を見せる。
「でも、なんですか!? わたしが使うのなら、問題はないでしょう!?」
「……………………いや。俺の手を取ると、アイリスの手が血で汚れちゃうよ」
「…………は…………?」
え? そんな理由なの?
「……………………シンさん。わたしをバカにしてるんですか…………?」
「い、いや。別にそんなつもりは…………」
「いいから! 早く掌を上に向けてください!」
「は、はい!」
わたしの声には、よほど怒気が籠っていたのだろう。
シンさんは慌てて頷くと、素直に肘を曲げて、掌を上に向けてくれた。
「『癒し』!」
わたしは、シンさんの左手を握って、魔法名を唱える。
(……………………そういえば、お母さんに教えてもらった『癒し』の魔法、結局覚えたきりで何年も使ってない。大丈夫かな? ちゃんと使えるかな?)
そんな不安が頭を過ったけど、『癒し』の魔法は無事に発動してくれた。
「…………痛いの痛いの飛んでけー…………」
気付けば、お母さんがしていたおまじないの言葉を、わたしも無意識に口にしていた。
(お母さん、わたしに『癒し』を教えてくれて、ありがとう。お母さんの言う通り、大切な人のために使うことが出来たよ)
心の中で、お母さんに感謝の言葉を伝える。
『まったく。ホント、世話の焼ける子ね』
と、唐突に、お母さんの声が聞こえた気がした。
もちろん、幻聴だと思う。それか、さっきみたいに、過去にお母さんから言われた言葉が甦ってきたのか。
(ーーそういえば、わたしが『癒し』の魔法を使える事を思い出したのも、お母さんのおまじないの言葉が頭に浮かんだのがキッカケだった)
もちろん、ただの偶然だろう。
だけど、まるで何かに導かれるように、昔の記憶が甦ってきたのは事実で。
(…………もしかして、お母さんが天国から手助けしてくれたのかな? だったら、2つの意味でありがとうだね、お母さん)
空を見上げ、お母さんに感謝の言葉を伝える。
と、同時に、シンさんのキズも無事塞がってくれたーー




