9月--シン。スポーツの秋と深層筋(後編)
シン視点
仕事の帰り道で出会ったオリガさんから、インナーマッスルについて教えて貰った、あの後。
俺は自室の本棚を漁り、まずは深層筋を鍛える為の手段として、ヨガとピラティスの2つを選定。
どちらを採用するか、本の図解を見せながら相談した所、アイリスからは以下の質問が返ってきた。
「というか、そもそもの疑問なんだけど、この2つって何が違うの?」
どちらもマットの上で、同じようなポーズをしているように見えるんだけど、と。
2冊の本を見比べながら、不思議そうに小首を傾げている、アイリス。
(ああ。たしかに、動きのない本だけを見れば、どちらも同じに見えちゃうよな…………)
他にも、ポーズごとの図解や説明が載っている、本の中盤以降から見せたのも原因だろうな…………。
そんな苦笑を内心でしつつも、俺はペラペラとページを捲り、本の最序盤。
ヨガとピラティス、それぞれの成り立ちや目的が記されたページを、アイリスに指し示す。
「そうだね。簡単に言えば、しばらく同じポーズで静止しているのがヨガで、ゆっくりでも動き続けているのがピラティスかな」
より具体的に言えば、ヨガは僧侶の修行の一環として生まれたもので、肉体よりも精神的な鍛練を重視。
ピラティスはリハビリの一環として生まれたものだから、ヨガよりも運動量が多いかな、と。
ヨガに続いてピラティスの説明をした所で、アイリスが突然、グイッと身を乗り出して来た。
「そ、そういう事なら、わたしはピラティスの方が良いかな!」
「…………そ、そう? なら、ピラティスにしよっか」
俺としては、最初は体にかかる負担の少ない、ヨガから取り入れたかったのだけど…………。
なんて感想を抱きつつも、俺はアイリスの熱意に押しきられる形で、ピラティスの方を採用。
翌日には売れ残り依頼が無かったので、昨日の今日で早速だが、新たな修行を実践する事となった。
(とはいえ、今までの修行だって、蔑ろには出来ないんだけどな…………)
なので、まずは魔法の練習や座学といった、いつものメニューから始め--その全てを終えた、夕刻時。
俺達は、1日の締めとしてピラティスを始めるべく、一緒に空き部屋へと向かっていた。
「--よいしょ、よいしょ!」
と、かけ声を上げながらも、俺と並んで廊下を進んで行く、アイリス。
そんなアイリスの両腕には、ピラティスで使うマットが丸めて抱えられているのだが--うーむ。
どうにも、アイリスがマットを運ぶのに、苦心しているように見えるな…………。
(安全性を重視して、1番厚い12ミリのマットを選んだ分、重みが増しちゃってるからなぁ…………)
アイリスにお手本を示す為にと、俺の手にも同じ12ミリのマットが握られている。
その重さは、体感で約1キロ。横になった状態でも使えるよう、マットのサイズは身長と同じ位。
男の俺ならともかく、女の子であるアイリスが持ち運ぶには、なかなかに厳しい重さと大きさだろう。
(厚さが1ミリや2ミリといった最も薄いタイプなら、軽くて持ち運びも楽だったとは思うけどなぁ…………)
とはいえ、ヨガにしろピラティスにしろ、姿勢によっては膝や背中に負担のかかるエクササイズだ。
ポーズによっては転倒の可能性があり、その際にはクッション代わりにもなる。
安全性を第一に考えれば、やはり厚いに越した事はないだろう。
(まぁ、使った後は部屋に置いたままにすれば、持ち運ぶのは今回だけで済むしな!)
とりあえず、いつまでも物思いに耽ってないで、アイリスの分のマットも運んであげるか、と。
そう考えた俺は、自分のマットを左脇の下に抱え、空いた右手でアイリスのマットを上から抜き取る。
先に声をかけても、心優しいアイリスは遠慮するだろうから、ここは事後承諾だ。
「気を遣えなくてゴメンね、アイリス。重たいだろうから、部屋までは俺が運ぶよ」
「…………え? でも、お父さんだって自分の分を運んでるし…………」
「この程度の重さなら片手でも持てるから、1つ増えた所で問題ないさ。力仕事は俺に任せて、アイリスは楽にしててよ。ねっ?」
「そ、そっか…………えへへ! ありがとう、お父さん!」
女の子扱いして貰えた事が嬉しかったのか、照れ臭そうに微笑む、アイリス。
が、まるで気恥ずかしさを誤魔化すように、アイリスは唐突に話題を変える。
「そ、それよりも、お父さん! ヨガにしろピラティスにしろ、女性がするイメージがあるんだけど、よく男のお父さんが思い付いたよね!」
「たしかに、その通りだね。実際、俺も知識としては知っていたけど、自力では思い付かなかったし」
「あれ、そうなんだ? なら、どういうキッカケで思い付いたの?」
「実は昨日の帰り際に、たまたま後輩の女の子2人に会ってね」
その内の1人である、格闘家の子から教えて貰ったんだ、と。
俺が答えた、その瞬間。アイリスの表情から、スウッと微笑みが消える。
「…………ふーん…………」
「え、えーと…………アイリス、もしかして怒ってる?」
「ふぇ!? 別に、怒ってないけど…………どうして?」
「いや、どうしてって言われても…………なんとなく?」
強いて言えば、いつも弾むように話すアイリスの声から、一瞬だけ抑揚が消えた気がしたのだが…………。
アイリスに自覚は無いようで、不思議そうに首を傾げているし、俺の気のせいだろうか?
と、俺が疑問に思っている間にも、アイリスの話は続く。
「それよりも、お父さん! お父さんの後輩さんって事は、その女の子って若い人なんだよね?」
「ああ、そうだね。2人共、成人したばかりって言ってたから、アイリスより2歳上の、15歳だね」
「…………わたしより少し歳上の、若い女性2人組の冒険者さん…………」
もしかして、お父さんの誕生日にギルドで話してた、獣人とエルフのお姉さん?
と、数少ないヒントから、アイリスがズバリと推理を的中させたからだろうか。
何も悪い事はしていないのに、俺は何故だか、図星を衝かれた気持ちに陥っていた。
「あ、ああ。そうだけど…………」
「…………ふーん…………」
思わず言葉に詰まってしまう俺に、再び声から感情を消して応じる、アイリス。
と、丁度そのタイミングで、視線の先に目的の空き部屋が見えてきた。
「そ、そんな事よりも、アイリス! 申し訳ないんだけど、扉を開けてくれないかな?」
「はーい!」
いつもなら、レディファーストとして俺が開くのだが、今は両手が塞がっているからな。
気まずさを誤魔化すのも兼ねて頼んだ所、アイリスは含みの無い笑顔を浮かべ、快く扉を開いてくれた。
(? またアイリスが怒っているように見えたんだけど、さっきと同じで自覚は無さそうだし、俺の気のせいだったのかな?)
きっと図星を衝かれたように感じた事で、不機嫌なように見えてしまったんだろうな、と。
そう判断した俺は、アイリスに感謝の言葉を伝えながらも、空き部屋の中へと入室。
一拍遅れて、アイリスも入って来たので、俺はスッパリと気持ちを切り替える事にする。
「それじゃあ、アイリス。マットを敷くの、手伝ってくれる?」
「はーい!」
と、元気いっぱいに頷くアイリスと協力して、俺達は丸めていたマットを開く作業を開始。
布団を敷く時の要領で、バサッと広げた青色のマットに乗る、俺。
そんな俺と向かい合う形で、アイリスは自分が広げた、ピンク色のマットの上に立つ。
「それで、お父さん。まずは、何から始めるの?」
「そうだね…………ピラティスを始める前に、アイリスの今のインナーマッスルの具合を知りたいから、体幹力を測るテストから始めようか」
テストは2つあって、それぞれ難易度が違うから、まずは簡単な方の手本から見せるね、と。
そこまで説明した所で、俺は両手で腰の側面を持ち、右足のヒザを90度の高さまで上げる。
「これを片足ずつして、左右どちらも20秒間キープ出来たら、このテストはクリアだね」
「つまり、普通よりもヒザを高く上げた、片足立ちって事だよね? それ位なら、簡単だよ!」
と、アイリスは自信満々に告げると、まずは右足から上げ、その姿勢を20秒間キープ。
続く左足も、まったく体の軸をブラす事なく、20秒間キープしてみせた。
「さっすが、アイリス! 若いだけあって、楽々クリアだね!」
--ナデナデ
「えへへ~!」
感嘆の声をあげながらも、アイリスのキラキラと輝く銀髪を撫でてあげる、俺。
そんな俺からのナデナデを受け、アイリスは堪えきれないといった様子で、口元を綻ばせていた。
(一見すると、いつもの俺の親バカが発動したかのように映るかもだけど、実は違うんだよなぁー)
というのも、日頃から意識して体を動かしていないと、筋力は20代をピークに落ちていくからな。
まっすぐ背筋を伸ばして立てなかったり、そもそもヒザを90度まで上げられなかったり、と。
年を重ねるにつれて、片足で20秒立つ事さえ、難しくなってしまうものなのだ。
(故に、こうしてアイリスを褒めてあげるのは、決して大袈裟では無いのだよ! うんっ!)
と、内心で自分を正当化しながらも、アイリスの頭を撫でる事、数十秒。
一頻り、アイリスのサラツヤヘアーを堪能した所で、俺は名残惜しくも手を離す。
「それじゃあ、アイリス。次は、難しい方の手本を見せるね」
さっきのは小手調べ。ここからが、いよいよ本番だよー、と。
俺は悪戯に微笑むと、先程の片足立ちから体を前に倒し、同時に足を後ろへと伸ばす。
そして、床に対して体が水平になった所で、俺はピタリと動きを止める。
「これを片足ずつして、どちらも10秒間キープ出来たら、このテストはクリアだね」
「こ、今度のは本当に難しそうだね…………でも、頑張るよ!」
--グッ!
自身を奮い立たせるように拳を握り締めながらも、まずは右足から上げていく、アイリス。
とはいえ、先程の片足立ちとは違い、今回のは本当に難しいからな。
(失敗して倒れる事を前提で、いつでも支えられるよう準備しておかないと!)
厚手のマットなので、倒れてもケガはしないだろうけれど、それでも痛いものは痛いからな…………。
と、身構える俺だったけれど--どうやら、その心配は杞憂だったようだ。
アイリスは、床に付いた左足をプルプルと震わせながらも、水平姿勢を10秒間キープしてみせていた。
(お世辞にもキレイな姿勢とは言えないけれど、特に体を鍛えてる訳でも無いのに、まさかクリアしてみせるとは…………)
きっと、生まれてから12年も山間の村で育った事もあり、普通の子より体が出来てるんだろうな、と。
俺が感心している間にも、続いて左足を上げ始める、アイリス。
が、床に対して体を水平にした、その瞬間だった。
「--きゃっ!」
「おっと、危ない」
バランスの崩れたのか、唐突に体が倒れそうになってしまう、アイリス。
そんなアイリスを助けるべく、俺は全力で体を動かし、その小さな体を胸へと抱き留める。
(…………ふー、危ない。右足が成功したからといって、油断せずに身構えてて良かったよ…………)
というのも、人間の足は片方が利き足、もう片方が軸足に分かれているからな。
同じ足でも、細かい動きを得意とする利き足よりも、体を支える軸足の方が筋力が付いているのだ。
(アイリスの軸足は左で、だから1回目をクリア出来たんじゃないかという予想は、どうやら正解だったようだな)
と、無事にアイリスを助けられた事で、ホッと胸を撫で下ろす、俺。
が、そんな俺の腕の中で、アイリスが不自然に身を硬くしている事に気が付いた。
「…………ほら、やっぱり。お父さんから抱き締められて、あの本みたいに心が落ち着くなんて、あり得る訳ないよぅ…………」
頬を仄かに赤く染めながらも、何事かをポツリと呟く、アイリス。
俺は不思議に思いつつも、まずは転倒の危険性のない、座って行うピラティスから始めるのだった--




