トメイトウ
トメイトウ、トメイトウ。
どことなく奇妙なイントネーションを以て弟の口から放たれたその単語に、私は読んでいた本から顔を上げた。なに? トマトが食べたいの? とダイニングテーブルに肘をついて尋ねれば、弟は首を振る。違うよ、トマトじゃないよ、トメイトウ。そう主張しながら、弟は私の周りを、エサをねだる仔犬よろしくうろちょろとする。
トメイトウ、トメイトウ。弟は最近公文に通い始めた。勉強している科目は英語と算数だ。トメイトウは、そこで覚えてきたのだろう。
分かったよ、トメイトウね、トメイトウ。私はため息をつくと本に押し花の栞を挟み、まさに敵の妖怪と戦いを始めようとしていた同じ十二歳の女の子に一時停止してもらった。続きはトメイトウを切った後だ。
正直私は、トメイトウを切るのが好きでない。我が家の最高に切れ味の悪い包丁で、あのぷっくりとした赤い身体を裂くと、少しぐずぐずになった肉塊から溢れ出た体液は私の手に猛烈な痒みを引き起こす。アトピー持ちの脆い肌には、ビタミンAたっぷりな液体は毒なのだ。それでも私は、洗面所で手を洗い、野菜室を開ける。レタスやきゅうりやピーマンなどが押し込められた中で、真っ赤なトメイトウはぷっくりとお尻を張っていた。取り出して流しですすぎ洗いをすれば、張りのある赤い皮膚が水を弾く。
私の肌がトメイトウの体液に弱いのを知ったのは、一昨年の夏のことだった。トメイトウ待ちでテーブルについている弟にとっての兄――私のもう一人の弟は、地元の小学生のサッカークラブに入っている。一昨年の夏、母はクラブの合宿にお手伝いとしてついていかなければならなかった。当時まだ幼稚園児だった末っ子の弟は、母と何日も離れるなんて絶対に嫌だと泣きわめき、結局、母と私と二人の弟の四人が合宿に行くことになった。末の弟を連れていくのはいいが、母はクラブメンバーの悪ガキどもの面倒を見なくてはならないから、息子に構っていられない、私をお守として連れていこう、ということになったのだ。
合宿先の宿とグラウンドはどちらも山の中にあり、そのうえ宿とグラウンドの間は随分離れていた。合宿の間、真夏の山道を、私は末の弟を連れて幾度も幾度も往復しなければならなかった。宿の部屋に二人でいれば弟は、母に会いたい、グラウンドに行くと主張して立ち上がる。そこで私と弟は坂を登って、砂ぼこりとアブが飛び交い、母がテントの下で小学生のサッカーバカ達にアクエリアスを飲ませたり汗を拭くタオルを配ってやったり忙しく働いているグラウンドへと向かうのだが、着いてから少し経つと弟は、暑さに耐えかねてか、ひまだからか、宿に帰りたいと言いだす。私は弟の手を引いて宿への山道を下る。だがやっとこさ宿にたどり着いてゲームを始めて数十分も経つと、弟は母のところに行きたいと駄々をこねる。それの繰り返しだった。
その宿屋で、クラブのメンバーもコーチ陣もお母さん方も、もちろん私と末の弟も、皆で一緒に食堂で食事をしたのだが、ある日の朝食の席に、コーチの一人がトメイトウのぎっしりと詰まった段ボール箱を抱えて現れた。スーパーに並んでいるような、整った真っ赤なものではなく、歪なかたちのものもあれば、半分近くが青いままのもあった。コーチはトメイトウを全員に一個ずつ与えて、切る必要なんかねーよ、丸齧りしろと笑った。明らかに戸惑っている者もいたが、私は特に躊躇いもなくところどころに青みのかかったトメイトウに齧りついた。じゅわりと溢れ出た体液が、唇から零れ、トメイトウを握った手に滴った。その瞬間、私の手が猛烈な痒みを訴え出した。
トメイトウ、トメイトウ。案の定、手が痒い。まな板の上で八等分にしたトメイトウを皿に移すと、私はそれをテーブルに運んだ。とろりとした体液をにじませた肉片を前にして、弟はお礼もなく、箸とはちみつもちょうだい、と右手を突き出す。
トメイトウ、トメイトウ。私は二十歳になる今日も、弟にトメイトウを切っている。