008,故に我あり、されど何処や
視界の端に、自分を見つめるおれの姿を認めたのか、男の人がこちらを振り返った。
呆然としていたおれは、不自然さを隠すことも忘れて、弾かれたように早足でその場から歩き去った。
しばらく歩いて、ファミレスからかなり離れたところでそっと背後を振り返ってみた。遠くに見える店先に男の人の姿はすでになく、数人の通行人こそいたものの、おれに注目している人などだれもいなかった。
おれは近場の電柱に身を寄せて、携帯端末を操作する振りをしながら、できるだけさりげなく、荒くなっていた呼吸を整えた。
店内のことばかり気にしていたせいで不意打ちをくらってしまった。突然の化け物のドアップと大音量でとにかくビビらせようとしてくるホラー系のドラマを見ているときのようにビクついてしまった。とはいえ、その手の番組を見ているときのように、数を数えながら道を歩くわけにもいかないので、過ぎてしまったことは仕方がないと諦めることにする。ちなみに数を数えるというのはもともと雷が怖い人向けの対処法として知ったものだ。なんでも、数えることで心構えができるということらしいのだが、正直、効果はあまり実感できていない。ビビるものはビビる。それでもないよりはマシな気がして、なにかビックリポイントがありそうだぞ、と思ったときには数字を数えることにしているのだ。
早く落ち着きたかったので、それからは寄り道もせずに一目散に帰宅した。
気持ち的にそれどころではなかったので、食事はあるもので適当に済ませた。いくらか多目に用意したものはラップをかけて冷蔵庫に入れておく。父の夜食か明日の朝食になるはずだ。
軽くシャワーだけで入浴も済ませ、部屋に入りベッドに腰掛ける。ため息をひとつつくと、ようやくひと心地つけたようにリラックスできた。
ふと見上げると、机に置かれた、とあるキャラクターの、お世辞にも精巧とは言えないキーホルダーが目に付いた。
それは昨夜出会ったアキラさんも端末の壁紙に設定していた一般の認知度も高い人気マンガの主要人物のひとり。以前コンビニで何かの買い物をした際にオマケでもらったものだった。「よろしければどうぞ」と店員さんが差し出してくれた箱の中はスカスカで、おそらく最初はほかのキャラクターも含めてたくさんのキーホルダーが入っていたのだろうその箱の中には、おれがもらったキャラクターのものを含め、俗に不人気とされるキャラクターたちのものだけが取り残されていた。おれは少し悲しい気持ちになりながら、迷うことなくこのキャラクターのキーホルダーを手に取ったのだった。
しばし、いかにも勇敢そうなポーズを決めた彼の姿を眺め、おれは勇気を分けてもらった。
逃げてもいい。臆病でもいい。そう思ってはいるが、それを理由に何かを諦めるのは、やっぱり悔しいことだと思ってはいるのだ。
落ち着いたところで、状況について考えてみる。
夢の世界で見かけた人と、同じ容姿の男の人がいた、ということ。
おれはもともとあの男の人に見覚えはなかったが、生息圏がちかいのであれば、どこかで見かけていた可能性を完全に否定することはできないかもしれない。だが、見覚えのなかった景色や建築物の合致に続いて、記憶になかった人が現実にも現れたのだ。
もともと自分が知っていたものが夢に現れたり、逆に夢の中で見たものが、実際に確認してみたら全然ちがっていたというのなら、やはり夢とは自分の頭の中の記憶で構成されているらしいなと思える。だがこうして、知らなかったはずのものを先に夢で知り、現実で確認してみて同じものだったのなら、あの夢の世界はおれの頭の外にある何かで出来ているということになるのではないか。それこそ、現実と同じように。
そんなものは聞いた事がなかった。
おれは一刻も早く新たな情報を仕入れたくて、このまま眠ってしまいたくなったが、さすがにまだ、眠るには早すぎる。
そこでひとまず、夢について端末でネットを検索してみることにした。すると、明晰夢というものを見つけた。これは夢の中で、自分が夢を見ているのだと気づき、夢の内容も含めて自由に行動できる、というようなものだった。これは以前にもどこかで聞いたことがあったような気がした。
そしてもうひとつ見つけたものが体外離脱、というものだった。
一見して夢と関係なさそうな字面なのだが、どうも幽体離脱のように、体から抜け出る状態をイメージしているらしい。
はじめのうち、自分の体験はこれなのでないかと思い、知らず端末の画面にかなり近づいて覗きこむような姿勢になってしまったりもしたが、結果から言えばこれもまた、昨夜か、もしくは一昨日から続く自分の経験とは違うもののように思われた。
自分が体から抜け出ているのではと、離脱という言葉が用いられるほど、あたかも現実のように、あるいは現実以上の五感が伴う、という特徴については一致していると思うのだが、どうも夢の内容は現実に準拠したりはしないようなのだ。体験談らしきものを読み散らしていると、あたかも異世界転移ものの小説のようなものが多く見られた。そして肝心の、自分の知識外の事柄が登場するかについてはほとんど情報を見つけることができなかった。
だが、現実に劣らぬ夢の世界でゲームやマンガのようなこともなんでも自由にできるというのは魅力的に思え、おれは思わず、情報を集めるという当初の目的も忘れて体外離脱についての情報を読み漁っていった。
そしてその中に気になるものを見つけた。それは体外離脱をした先の世界で、さらに離脱をする、というような過程を経るものだ。端的に言うとオカルトっぽい要素が含まれている話なのだが、普遍的無意識や集合的無意識と呼ばれるような、個人を超えて、集団、もとい人類全員が共有している無意識の領域にまで到達しようとする試みだった。集合的無意識自体はスイスの心理学者であるユングが提唱した分析心理学の中心概念だそうだが、それをひとつの世界として定義し、そこに自我を保ったまま能動的に到ろうというのだ。べつに疚しい目的があるものではないらしく、少なくともおれが見て回った限りでは知的探求の一環として行われた形跡がわずかに残されていただけだった。
しかしおれの頭の中で、さいきん眠るたびに訪れることになるあの世界のイメージが、集団で共有する無意識、という言葉に重なったのだ。当然、分析心理学におけるものとは似ても似つかない着想だろうが、あの夢の世界というのは、おれ個人だけでなく、それこそアキラさんやシュウゴさん。いや、そんな規模をはるかに超えて、この街で暮らす人々全員の意識から形作られているのではないか、と。だからこそ、おれの頭に知識として存在しなかったものを、あの世界で知ることができたのではないだろうか。NPCとアキラさんたちが呼称していた人たちは、他人から見たその人の姿なのではないだろうか。そして本来は個人が自我を保つことなどできないんだろう。それがなぜか、おれやアキラさんたちは自我を保ったままあの世界に触れることができている。そういうことではないだろうか。
夢中になって考えているうち、いつのまにかかなり遅い時間になってしまっていた。明日も平日で学校がある。そろそろ眠らなければと、目覚まし機能を確認したあと、携帯端末を待機状態にして枕の横に置いた。
しかし目をつぶって体を横たえても、あれこれと考えこんでしまい、一向に眠気は訪れない。
頭に浮かんでくる内容は主に、体外離脱の体験談のことだった。
体験談では、体外離脱したあとの状態とか、世界に対して習熟するにつれて、様々なことが可能になっていく様子が書かれていた。そこには超人的な力だったり、魔法としか思われないようなものが数多く散見された。そこで思い出されるのが、昨夜のアキラさんの跳躍だ。完全に人間のジャンプ力の枠を逸脱したあの能力は、まさにこの体外離脱の話につながってくるのではないだろうか。だとすれば、自分にもそんなことができるようになる可能性があるはずだ。
そして気になったものがもうひとつ。
それはパートナーなどと呼ばれているものの存在だ。
それは既存のなにかしらのキャラクターの姿をしていたり、見ず知らずの人間の姿をしていたりで容姿はさまざまなようだったが、共通しているのは、呼称の通りに、体外離脱者にとっての相棒になるような存在だということだ。といってもなかにはあまり好意的でなさそうなものもいたり、そもそも存在を確認できなかったりと、はじめに話を広めたものが、自分にそういう存在がいると流布したために、体外離脱するとそういう存在がついてくる、と意識に刷りこまれただけなのでは、という話もあった。
なぜこれが気になったかと言えば、バルコニーでオバケを見た、さらにその前の日の夢の内容を思い出したからだ。
バルコニーに、現実ではあり得ない異物が存在していた、という点では共通している。だが、オバケの前日にいたのは、冷たさを感じるほど綺麗な、白髪の女の子だった。
どうなったかについてはあまり思い出したくはない。なんだかホラーめいていて、恐ろしい印象が拭えないのだ。
もしくは……こちらはあまり好ましくない想像だが、アキラさんやシュウゴさんがパートナーである可能性もあるのだろうか。ネット上の体験談には、自分が実在する人間だと偽るパートナーのような存在は報告されていなかったと思うのだが、可能性はゼロではないだろう。これは彼らが実在するのかどうかを確かめさせてもらえばはっきりすることなのだが、いちばん恐れるべき事態はその先にある。
実在を確認したとして、それがおれの誇大妄想であるという可能性だ。