005,夢のファミレス
しばし窓越しで見つめ合う。
おれはそろそろと捲り上げた服を元に戻したあと、歩み寄って窓を開いた。
「えーっと、おかえりなさい?」
「お、おう、待たせたな」
うっすら頬を染めて斜め下に顔を逸らしながらの彼の言葉は、どことなくぎこちなかった。直後、気を取り直したのか大きく股を開いて仰け反ったかと思うと、
「こ、これがラッキースケベってやつなのか!」
と大袈裟なリアクションを取った。
「いやべつに、そんな大したものじゃないと思いますけど……」
「なんだよつれないな。君けっこうかわいいと思うけど?」
「自分が女の子になってだれか男の人にかわいいって言われるの、ちょっと想像してみてもらえます?」
さっと顔色を青ざめさせた彼は自分の体を両手で抱きしめるようにしてあとずさった。
「それはちょっと勘弁ねがいたいかな……」
「それで、ファミレスに行くんでしたよね?」
「おう、仲間が先に行って待ってるから、ちゃっちゃと行こう」
そう言うやいなや、彼は出て行ったときと同様、さっと手すりに飛び乗った。
「ちょ、ちょっと、そんなのついていけないですよ!」
「ん、ああ、そうか」
ごめんごめん、そんなふうに気安く謝りながら近づいてくる。
なんだろうと思っていると、次の瞬間、ひょい、という擬音がぴったり当てはまりそうな気軽さで、彼はおれを抱き上げた。
「ひゃあ」
そんな自分自身で恥ずかしくなるような間抜けな声が出て、視界が巡り、彼の顔を見上げるような視点となる。背中と膝下に彼の腕が通された、いわゆるお姫様だっこというやつだった。
「ちょ、ちょっと、いきなりなにするんですか!?」
「え、いやだってついていけないって……」
「ふつうにエレベーター使って下まで降りますから!」
「いいからいいから」
そんなふうにへらへらと、おれを抱き上げているにも関わらず、さっきと同じように何の苦もなく手すりに飛び乗る彼。
「ひっ」
手すりにもたれて見下ろすのと1メートル違うかどうかという、地面までの距離に比べれば大した違いのない高さで、景色はやけにちがって見えた。それは、彼に手を離されたら落ちてしまう、そんな自分の手の届かないところに命運が置かれてしまったことへの恐怖だったのかもしれない。半ば無意識に彼の肩に必死になって掴まった。
「ほいじゃいくぞー」
言葉の意味を理解した次の瞬間には、おれの視界はさらなる上空からのものへと移り変わっていた。
瞬き程度のあいだに地上がどんどん遠ざかったかと思うと、わずかに滞空した後、今度はとんでもない勢いで地面が近づいてくる。着地、というよりは落下の衝撃を予測して身を硬くするが、実際はそれほど大きな衝撃はなく、音もほとんどしていないように思える。ただ風切り音がうるさくて耳が馬鹿になってしまっただけのような気もするが。
彼は建物の屋上を次から次へと渡っていく。
「なんだ、怖いのかー?」
わずかな滞空時間の静寂の中で、彼がそんなことを口にした。おれは思わず彼の顔を見上げて、おそらくは睨み付けそうになったのだが、じきに始まった落下の際の独特の浮遊感に襲われ、また情けない声をあげてしまった。
◇
「よっと」
そんな彼の言葉とともに、おれたちは駐車場に降り立った。
目的地のファミリーレストランにはすぐに到着した。もともと近場の店に移動する予定だったのだから当然と言えば当然。
それにしても、おれの時間感覚はすっかり曖昧なものとなってしまった。
道中の体験が強烈過ぎたせいで、あっという間だったような気もするし、文字通り建物を飛び越えてショートカットしてきたはずなのに、やけに長い時間、逆バンジーを繰り返されたような気もする。
「お、だいじょぶか?」
地面に下ろされたとき、腰が抜けていてフラついたところを支えてもらった。どうでもいいけど、ラッキースケベがどうとかいうわりには、こういうときでも胸とかには触れないようにしてるっぽいのがわかる。
「すいません……」
「いや、おれのほうこそちょっとやりすぎたみたいだ。ごめんな」
目的地がファミレスなので、さっさと中に入って休もうと促された。が、そもそも自分が靴を履いていないことに気づいて立ち尽くす。バルコニーにちょっと出るときようのサンダルをつっかけていただけだったので、どこかで落としてしまったのだろう。おれの様子を見て彼も気がついたようだ。ばつが悪そうにしている。
「あー、悪い。もっかいお姫様抱っこ……も嫌だろうし、おれの靴履くか!?」
「いやいやすぐそこですし、べつにいいですよ」
ちょっとだけ爪先立ちになって歩いてみる。整地されているはずの地面でも、案外砂利は散らばっているようで、足裏がちくちくと痛んだ。
気遣わしげに何度もこちらを振り返る彼に続いて店内に入ったところで、敷いてあるマットに足裏を擦りつけた。マットだって靴に付着した汚れが拭われているものなのだから、むしろ余計に汚れてしまうような気もしたけど、じゃりじゃりするよりはマシだ。
店内に目を向けてみる。何度か来店したことのある店で、特段変わった様子は見られない。ただ、夜中にファミレスを訪れた経験はなかったので、そういった意味ではなんだか妙な心地がした。立ち入り禁止の場所に踏みこんでいるような、そんな居たたまれなさ。
店内には何人かお客さんがいて、従業員の人もホールに出ていた。しかし、彼が店内に入っていっても、だれかが対応にやってくることはなかった。
「どうかした?」
店の入り口できょろきょろしているばかりで自分についてこないおれに気がついた彼が引き返してきて尋ねてくれる。
「い、いや、勝手に入っていいのかなって……」
ふだんは案内に店員さんがやってくるものだと思っていたけど、もしかすると深夜のファミレスは勝手に入っていくものなんだろうか。
「ああ、エヌピーシーはこっちから接触しなきゃ関わってこないよ」
彼はそう言ってふたたび店の奥に向かって歩き出した。
エヌピーシー。とは、NPCのことだろうか。真っ先に思い浮かんだのは、ノンプレイヤーキャラクターの略だ。
おれは、昨今、盛んに創作されるようになっているらしいVR――Virtual Reality――タイプのオンラインゲームものの作品を思い浮かべた。もしこの夢がそういった世界観を基礎にしているとしたら、おれや彼はプレイヤーキャラクター。つまりどこかに操作している人間がいるキャラであり、このファミレスの客や店員はノンプレイヤーキャラクター。プログラムに従って行動する、リアルタイムにだれかが操作しているわけではないキャラ、という感じだろうか。ただ見た目が完全に現代の日本なので、VRというよりはAR――Augmented Reality――こと拡張現実というべきなのだろうか。もしくはMR――Mixed Reality――こと複合現実と呼ぶべきか。おれは言葉自体はいちおう聞き覚えがあったものの、分類については明るくないのでどれがもっとも相応しい表現なのかはわからない。
ぺたぺたと彼の背中を追いかける。やがて彼は奥まった席まで歩いていくと、
「うっす」
と言って手を挙げた。
「おう」
席についていた10代後半くらいに見える男性は、手は挙げずに言葉だけを返した。男性は全身モノトーンといった、割合おれと似たような趣味の服装をしており、落ち着いた雰囲気を纏っていた。同じような服を身につけていても、根暗に見えるおれとは違って、すっきりとした印象だ。
「で、こっちがさっき話した子ね」
「あ、はじめまして……」
おずおずと頭を下げると、男性も軽く頭を下げて、「はじめまして」と返事をしてくれた。
「まぁまぁ座って座って」
「おまえの家かよ」
彼が男性の向かい、奥側に腰掛け、おれは促されるままにその隣に座った。
「落ち着く前に飲み物持ってきたら? 水とか出してもらえないぞ」
そう言った男性は、なにやら奇妙な色味の炭酸系のジュースをストローで飲んでいた。
彼とともに立ち上がってドリンクバーに出向いた。そういえばお金とかなにも持ってきていないぞ、と今さらながら悩んでいると、彼はためらいなく店の奥に入っていきコップを手にもどってくる。
「い、いいんですか?」
「だいじょぶだいじょぶ」
彼の行動は間違いなく店員さんの目に留まったはずだが、一向に咎められる様子はない。
そのあいだに彼はドリンクバーで紅茶を用意して奥の席へともどっていった。
おれはジュースの種類をひととおり眺めてから、無難にコーラをついで席にもどった。
あらためて、待ち合わせていた男性の飲んでいるジュースを観察してみる。あれは間違いなく、ふざけていろんな種類のジュースをいろいろ混ぜて持ってくるやつに違いなかった。おれのなかで、ちょっと無愛想に感じられていた男性の印象が軟化し、とたんに親近感が湧いてきた。
「ん、どうした?」
「いえ、なにも……」
思わず見つめてしまったが、男性はとくに気にしたふうもなく彼に話しだした。
「ところで名前ってもう聞いたのか」
「いや、まだ……」
「あ、すみませんおれ、スミレって」
なんとなく機会がなくて名乗らずにいたことに気づき、慌てて自己紹介しようとしたが、その声は男性に遮られた。
「ちょっと待て」
厳しい声音というわけでもないが、すこし萎縮してしまう。
「こいつも名乗っていないはずだ。それには理由がある。だからおまえも名乗らなくていい。といっても、すこし遅かったな。すまない、聞き方が悪かったか」
真面目な表情の男性とうって変わって、隣の彼はのんきな顔をしている。
「スミレちゃんかぁ」
「だからおれは男だって言って」
おれたちのやり取りに、男性はすこし声をあらげて「おい」と声を上げた。
「まぁ話してしまったものは仕方ないが、これから先、だれかに会っても軽々しく本名は名乗らないほうがいい。……男ってことは、スミレってのは苗字なんだよな?」
「はい……」
ずいぶん珍しい苗字なんだな、と驚かれるのは自己紹介に伴う恒例のできごとだ。
「こっちじゃ女みたいだし、女がスミレって名乗っていれば仮に本名だとしても名前のほうだと思うだろう。案外そのまま名乗っても良さそうだな」
文字通りのミックスジュースで喉を潤した男性は、わざわざ居住まいを正すと、おれの目を見た。