004,TS
「は?」
「え?」
予想外の言葉に頭が働かない。いや、むしろ何をどうするべきか、何を言うべきかがあれこれと脳内を巡って答えが出せず、結果的に行動に結びつかない。見上げた彼も当惑しているのが表情にありありと浮かんでいる。
「お、おれなんかおかしなこと言った?」
「はい、だっておれ、男ですよ……」
「え?」
彼はバルコニーの隅までさっと後ずさり、顔ごと動かしておれの全身を視線でなめまわした。
言われてみれば、小学校の低学年くらいまでは女の子と間違われることもあった。中学生時分にそういったことがなかったのは制服のおかげかもしれない。いまでも華奢ではあるし、到底、男らしさとは無縁の容姿だと思うけど、それでも高校生になった現在、さすがに性別を間違われるほどではない、はずだ。
「まじかー、女にしか見えないんだけど。あれか? これがマジもんのオトコノコってやつか?」
「娘って書いて、コと読むかムスメと読むかってやつですか?」
「おー、それそれ」
「そんなに言うほどですかね……」
丈のあまりがちなTシャツ越しの腕は細くて情けない。中学時代のジャージを履いた足も同じようなものだ。こんな飾り気のない格好で女子に間違われるって相当なんじゃ……とも思うが、まぁ世間一般の女子学生たちも寝るときはそんなものかもしれない。いや、もっとまともな寝巻き姿だったりするだろうか。知り合いのいないおれにわかるはずもない疑問だった。
「あー……もしかして」
彼が腕組みをしながらうなっていた。
「なぁ、こっち来てから鏡って見てみたことある?」
「いえ、ないです」
「んじゃさ、いっぺん見てきてみなよ」
「はぁ……」
言われたとおり、鏡を見るために洗面所へ向かう。さっき会ったばかりの人の言いなりだけど、悪い人じゃなさそうだし、これといって何をすればいいのかもわからないし、鏡を見るくらい構わないだろう。まさか鏡の中に殺人鬼を忍ばせているということもあるまい。
「は?」
果たして洗面所にたどり着き、鏡の中に見たものは、見知らぬ美少女の姿だった。
自分以外にだれも存在しないはずのこの洗面所の鏡に、なぜ見知らぬだれかの姿が映りこむというのだろう。やっぱりこれはホラー的な夢なのだろうか。それにしては鏡の中の少女におどろおどろしいところは見当たらない。むしろ美少女然とした顔つきとダボついたTシャツ姿がなんとなくちぐはぐで、表面上は完璧超人なヒロインが素の姿ではとてつもなくだらしない、みたいな作品を想起した。
そうだ。鏡の中の少女が身につけているのは紛れもなく自分が着ている服だったし、ベタな感じにあれこれとジェスチャーをしてみれば、鏡の中の少女も同じ格好をしてみせた。さすがに変顔したりまではしなかったけど。
なんとも言えない気持ちを抱えてリビングにもどった。
「お、どうだった?」
バルコニーの端に寄りかかりながら待っていたらしい彼が、姿を認めるなり話しかけてきた。
「えっと、女になってました……」
「マジか! はー、そういうのもあんのか!」
「ほかにも何かあるんですか?」
「ん? ああ、なんかちょっと顔がちがうとか、背の高さがちがうとかいうのがちょこちょこあったんだよ。だから君が、自分は男だーって言うのも、もしかしたらって思ってさ」
「そう、なんですね」
ふと、自分の夢の中の登場人物に敬語を使う必要があるのだろうか、という考えが頭をよぎったが、べつに言葉遣いなんてどうでもいいかと思いなおす。なんといっても現実の人間にしか見えないのだ。むしろ、夢だからと意識して言葉遣いを崩すほうが面倒だと感じた。
「ところで、さ……」
急に声をひそめて、顔を寄せてくる。
「あれ、やったの? お約束的な……」
なんとなく、無意識に半歩あとずさってしまった。
「あれって、なんですか?」
「ほら、TSで自分の性別をたしかめるシーンって言ったら、ある種のサービスシーンだったりするわけじゃん?」
「TSってトランスセクシュアルの略でしたっけ? って、あー、自分の裸を見たり、触ったり、みたいなくだりですか……」
我が意を得たり、と彼は満面の笑みをうかべて「それそれ!」と盛り上がっている。
「いや、それはやってないです」
「なんでさ!?」
一転して絶望的な表情をして詰め寄ってくる。
「い、いや、でも顔がちがうし、髪もちょっと長いみたいだし……それに、正直どっちでもいいかなって……」
なんだかんだ言って、所詮は夢の中のことに過ぎない。そう思っていた。
しかしおれの言葉を聞いた彼はわりと真面目そうな表情になってうなっていた。
「うーん……でもこの世界で女の人は大変そうな雰囲気あるぞ?」
「はぁ……」
要領を得ないため、曖昧な返事となってしまうのは仕方ないだろう。
というか、いい加減『この世界』とか言って、夢の主である自分にわからない設定を持ち出されるのに、少しずつ不満が募ってきた。
自分自身ひどい人間だと思うが、喉もと過ぎればなんとやらで、オバケを追い払って? もらった恩を忘れそうになっている。
「そうだなぁ……いろいろ話したいことはあるんだけど、ちょっと待ち合わせしてるからさ、そこまで着いてきてもらってもいいかな?」
「はい……って言ったら、『警戒しろって言ったろ?』って言われちゃう感じですか?」
「いやいやいや、これはマジなやつだから! でもたしかに、そういうことになるのか。おれも男だしな……一応」
どうするべきか、と腕組みをして考え出した彼。そういえばまだ名前も聞いていなかった。夢の登場人物とはいえ、名前ぐらい知っておいてもいいだろう。
「あの、お名前……」
「そうだ!」
おおげさに、胸の前で上に向けた手のひらに、ゆるく握ったもう片方のこぶしを落として目を見開く彼。いかにも名案を思いつきました、というジェスチャーだ。
「ファミレスに行こう!」
「なんかふつうですね」
「灯台下暗しって感じ? いやこんな状況でふつうの発想ってなかなかできないもんよ?」
「よくわかんないですけど……」
「でもファミレスに連れて行くのはいいとしても……いいよね?」
うなずいてやる。
「良いとして、向こうで待たせるあいだ一人にしたんじゃ意味ないからなあ。ちょっとここで待っててくれる?」
うなずいてやる。
「おっし、んじゃちょっくら行ってくるわ!」
言うが早いか、彼はバルコニーの手すりにさっと飛び乗り、そのまま宙に向かって飛び出した。
思わず呆然と見送ってしまったが、慌てて彼の姿を視線で追いかけようと手すりに身を乗り出した。
見下ろした先で彼は平然と走っていて、姿はあっという間に建物の陰に隠れて見えなくなってしまう。それなりの高層階からためらいなく飛び下りていったこともそうだが、手すりに一息で飛び乗ったことも異常だ。おれの身長が低いとはいえ、いま身を預けている手すりは胸のあたりまで高さがある。正確なところは知らないが、おそらく軽く140cmくらはあるんじゃないだろうか。
あれこれと戸惑うことが続いて意識しなかったけど、考えてみれば、そもそもこの場所に現れたこと事態が異常だったのだ。だがいまならその、『どうやって?』の疑問の答えがすでに出ている。あんなふうに、ふつうに跳んできたのだろう。まるで映画なんかで見るワイヤーアクションやCGみたいな出来事だったが、肉眼で吊り下げられたりもなにもしてない人間がメートル単位で跳躍している光景はなかなかに衝撃的だった。いや、夢だから肉眼ではないのかもしれないけど。
とりあえず彼が去り、やることもできることもないので、大人しくリビングにもどり窓を閉めた。当然のことながら、しっかりと施錠も確認する。コップに水道水をついで、ソファーに腰掛けた。
父の様子を見に行ってみようかとも思ったが、またおかしな様子だったらちょっと嫌だなあと躊躇する。でも考え直してみれば、もしかして昨日ここで父と遭遇したときも、自分は女の子になっていたのではないだろうか。母親の容姿は知らないが、まぁ親子なのだから似ていてもおかしくはないだろう。悲しいことに、現実でもあまり父親似とは言えない自分なのだから、もともと母親に似ている可能性は高いだろう。それが実際に女になったとなれば、暗がりで見間違ってもおかしくはないのでは。
とはいえ、間違えたからと言って、あんなふうに抱き締めてくるなんてやっぱりあり得そうにないけど。
そんなことをぼんやり考えていたが、彼はなかなかもどってこず、だんだんと暇になってくる。ふだんなら何もない時間も嫌いではないのだが、状況が特異なせいか、手持ち無沙汰な感覚と、なにかしたほうがいいのではという焦燥感がいっしょくたになって押し寄せてくるみたいだ。
そこでふと、彼の言葉を思い出す。
「あれ、か……」
TSもののお約束。
とりあえず自分の体に視線を落としてみる。サイズの大きなTシャツを着ているので目立たないが、あらためて見てみれば、たしかに胸はすこし膨らんでいる。意識してみると、なにかTシャツの下に身につけている感覚があり、余裕のある襟を引っ張って覗いてみれば、そこには見覚えのないねずみ色をしたタンクトップのようなものがあった。
はっきり確認してみようと、服の裾を持って捲りあげた。そのとき、カタッというような音がバルコニーから聞こえてきた。そこには今しがたやってきたという感じでまだ名前も聞いていない彼が立っていた。




