040,教師という人間
周囲に視線を走らせると、先輩の影はやや離れたところで刀を手に佇んでいた。
「大丈夫か、スミレ」
「は、はい。ありがとうございます」
ほとんど見えないと思うが、おれは先輩に頭を下げた。
「悪い……。あいつが言うとおり、おれはおまえのことを臆病だと思っていた」
それは事実で、仕方のないことだと思う。だれだって、昨日話したときのように、いきなりビビッて泣き出すようなやつは臆病だと思うだろう。
「そんなおまえが……、スミレだって頑張っているのに、おれは何をやってるんだって……」
先輩は刀を手にしていないほうの手で自らの顔面を覆い、前髪をくしゃりと握り締めた。手首の皮膚が裂けて血が滲んでおり、痛々しい見た目となっていた。
先輩の言葉に胸が熱くなる。けどそうじゃない。おれが持つ勇気みたいなものは、借り物で、おれ自身が生み出したものじゃない。
「ふふ、臆病者同士が仲良く傷の慰めあいか?」
イセ先輩そのものの顔をイビツに歪め、黒い影は嘲る。
「もう、口を開くな!」
イセ先輩は影に斬りかかる。だが、やはりその刃は届かない。数度切り結んでは突き飛ばされ、転ばされていた。イセ先輩は何度も立ち上がるが、もはや戦いを挑んでいるというよりも、ただ闇雲に突っかかっているだけに見える。
「消えろ! おまえなんか見たくもない! 消えろ!」
先輩は必死の形相で叫んでいた。対して、もやを纏った先輩の影は、そんな言葉が浴びせられるほどにニヤついたような表情を収め、感情の見出せない能面のような表情に変わっていった。
「もういい」
そんな平坦な言葉とともに、イセ先輩が蹴り飛ばされ、フェンスに追い詰められる。
「死ね」
刃がまっすぐに突き出される。
血の詰まった肉袋を貫いた証に、その刀身を赤い血が伝う。
「せん、せい……?」
貫かれる直前に突き飛ばされた先輩が見上げていたのは、影の持つ刃に貫かれた五味先生だった。
「はは、なんて、顔してるんだ伊瀬。これは夢だろ? にしてはちょっと、いや、だいぶ痛すぎるけどな」
先生は必死に笑顔を作ろうとしているようだが、痛みのためか顔は引きつっており、とてもうまく言っているとは言いがたい。
「なんで、おれなんか……」
「伊瀬。自分を卑下するのはもう止そう」
先生の言葉に、一度顔を俯かせた先輩は再度、先生を見上げた。
「夢の中とはいえ、生徒に乱暴した私に何を言う資格があるとも思わないが……、いいじゃないか、学校が楽しくて卒業したくないって。何が悪いんだ? それに、運命を共に出来るほどの親友が欲しいって、そんなのだれだって思うさ。ちっともおかしなことじゃない」
「でもおれは、おれのわがままで皆を巻き込んで、こんな……」
「そうだな……、でも、起きてしまったことはもうどうしようもない。大事なのはこれからどうするかじゃないか?」
先生に刀を突き立てている先輩の影は、なぜかそのまま身動きせずに佇んでいる。倒れた先輩と同様に、先生の言葉に耳を傾けてでもいるかのように。
「伊瀬、人間だれしも完璧などではあり得ない。どんな聖人君子であれ、その人が人間である限り、目を背けたくなるような自分が胸の内には潜んでいるものだ。重要なのは、その醜い自分と向き合うことだ。それをせずに、理想の自分に近づくことは、きっとできないんだ」
先生はまるで、自分自身に言い聞かせるみたいに滔々と語る。
「醜い自分も認めて、その上で、それを律して生きることこそ尊さだ。始めから汚いところのないことになんて、さしたる価値はないさ」
咳きこんだ先生の口の端に血が伝う。
「だからな、伊瀬。そんなに自分を卑下しなくていいんだ。大丈夫だ。おまえはちゃんと自分と向き合えるし、それを乗り越えていけるよ。助けてくれる友人だって、いるじゃないか」
そう言って、先生は手にした銃を先輩に向かって差し出した。先輩はそれに手を伸ばしたが、銃は受け渡されることなく先生の手を滑り落ちた。
自重を支えきれなくなったのか、先生が崩れ落ちるようにしてフェンスにもたれる恰好で座り込んだ。そのまま横に倒れそうになるのを、這い寄ったイセ先輩が支えた。
「いいじゃないか、伊瀬。学校が楽しい、終わらせたくない、なんて……、ちょっとくらい現実逃避でも、そんなふうに思ってもらえる教師に、おれは……」
虚ろな瞳で独り言のように呟いた後、先生の姿は薄れ、消えた。
なぜか、まるで湖面が凪いで時間が止まったかと錯覚するような、そんな時間が流れた。時間の止まった世界で唯一、身動きの出来る存在であるかのように、イセ先輩がごく自然な動作で立ち上がる。すると、能面のような無表情を貼り付けたもう一人の先輩が、イセ先輩に対して向かい合うように振り向いた。纏った黒いもや、何度となく屋上の床に転がされて傷ついた制服を除いて、二人はまるで鏡に映したような立ち姿だった。
先輩が刀を構えると、もやを纏ったもう一人も刀を構える。
何も合図らしきものはない。だが示し合わせたかのように、二人は同時に動き出し、剣戟を交わしていく。上下左右、あらゆる位置で、月明かりに白刃が閃く。それは完成された殺陣のようでいて、互いに命を懸けて存在を奪い合う、まさしく真剣さの滲む果し合いだった。
互いの表情は同じように無表情に見え、それでいてイセ先輩の顔には静かな闘志が湛えれられているように見えた。
繰り返される刃の応酬に、次第に双方ともに体に傷を増やしていく。制服が裂け、血が滲み、飛び散る。それでも動きを緩めることはない。
やがて均衡が崩れだす。かつて先輩が陥った事態。一撃一撃の重さの差によって、次の動作へ移るのが遅れ、そのわずかな差が少しずつ広がり、それはそのまま攻守の固定化として見た目にも明らかなものとなる。
それでも影を切り伏せるには至らず、激しい剣戟のやり取りは続いていく。やがて互いが距離を置いたとき、影が涼しい顔をして佇んでいるのに対し、先輩は忙しなく肩を上下させていた。しかし表情に怯むところはなく、刀を構えて再度、吶喊していく。
ただ足を止めて刀を振り回すのではなく、互いに足を使って動き回りながらの斬り合いで、先輩はじょじょに屋上入り口の壁際に追い詰められていく。
息を切らし、激しく斬りつけられた影の刃に、先輩は壁に背を打ち付けられた。痛みに表情を歪めた先輩に、影は容赦なく刀を鋭く突き込んだ。
先輩はその場で跳躍し、壁を蹴って宙を舞った。幾度となく見せた人間離れした跳躍力で、しかし今回は十数メートルもの高さまで飛びあがるのではなく、影の頭上でひらりと身を翻し、その背後に着地する。
「ああああ!」
振り返った影が手にした刀を、着地の反動も載せた切り上げによって思い切り弾き飛ばした。勢いに押された影はふらつくように後ずさり、先輩が突っ込んでいく。影は背中を壁に打ちつけながら、かつて悪魔の姿をしていた五味先生が放っていた雷雲のごとき黒いもやの塊を先輩に向かって放った。先輩はそれを素手で振り払い、片手で持った刀を突き出した。
刀の切っ先は、先輩の影、その喉に切っ先が触れるところで止められていた。先輩は激しい呼吸を沈めるように大きく深呼吸をすると、刀を下ろし、まっすぐに立った。
血でも払うかのように刀を払うと、それはもやに包まれて先輩の手元から姿を消した。同時に、影が手放し屋上に転がっていたもう一本の刀も消えていく。おれがずっと握り締めていた槍も消えてしまった。
先輩は雷雲を払ったほうの腕を持ち上げ、
「おまえがおれだって言うのなら、あれもおれの力なんだろう?」
そう言って薄く笑った。雷雲を払ったはずの手は焦げ痕ひとつなく、まったくの無傷だった。
「おれはおまえだ」
平坦にそう告げたイセ先輩の影の顔には、嘲りの色なども何もない。
「そうらしい。けど、おれは負けない。おれはおれ自身と戦う」
まっすぐに見つめ返す先輩の言葉を聞き、影はゆっくりと瞳を閉じた。その体が纏っていた黒いもやに覆い尽くされ、ただの黒い塊のように変化する。それは少しずつ小さくなっていき、最後には黒い刀身を持つ刀へと形を変えた。イセ先輩が眼前の黒い刀を手にする。
「ああ、そうだったんだな……」
何事か一人ごちた先輩は、宙に囚われたままのタガメ先輩へと歩み寄った。先輩の手にした刀が一瞬、稲光のようなものを帯びたかと思うと、タガメ先輩を拘束していた黒いもやが広がっていき、やがて先輩の姿をすべて覆い尽くした。それはじょじょに小さくなり、今度は刀になったりはせずに、そのまま何事もなかったかのように消え去った。後には、一人、夜の学校の屋上に佇むイセ先輩の姿だけが残された。
「スミレ、いるんだろ?」
「は、はいっ!」
蚊帳の外といった心持ちで眺めていたところを急に呼ばれたため、随分間抜けな声が出てしまった。おれは透明化を解いて、先輩の傍らに歩み出た。
「迷惑をかけた。すまなかった」
先輩はそう言って頭を下げた。
「あ、いや! おれは、そんな……」
実際、ただついて回ってうろたえていただけだ。状況を見る限り、たしかに先輩の影によって学校に閉じ込められていたらしいが、夢の世界というものに迷いこむようになって間もなかったため、そういうものかと思って対処を考えていた。だからそれほど囚われているという実感はなかったのだ。
「それにしてもこれ、どうなっているんだ?」
先輩は遠く、夜の街並みを眺めていた。
無風状態だった屋上に、春の息吹とも言うべき植物の匂いが風に乗って運ばれてくる。鼻腔を掠め、頬を撫でさすっていくそいつは、まだ冷たいと思わせる温度でもある。
いつの間にか傷めていたらしい体の各所が、急にずきずきと自己主張を始める。
「皆にも、謝らなきゃな……」
先輩のそんなつぶやきも、この場所で感じている五感の全てが、これは現実だと訴えていた。
次話はエピローグ的なもので、2000字強のお話になります。




