039,人の影
空中から刀を構えたイセ先輩が落下するのと、リンドウ先輩がアガサ先輩に向かって飛び込んだのとはほとんど同時だった。
「……あんたにのしかかられるとか、サイアク」
「わ、わるかったな……」
悪態をついたリンドウ先輩は、四つんばいするように膝を立て、手を床に突っ張って上体を起こし、体の下に仰向けで横たわっているアガサ先輩を見つめていた。
リンドウ先輩とアガサ先輩のあいだには空間が空いているが、その隙間には、リンドウ先輩の腹から突き出た刀が渡っていた。その切っ先は、アガサ先輩の胸に埋もれて見えない。赤い血が刀身を伝う。アガサ先輩の制服は、リンドウ先輩のものか、アガサ先輩自身のものか、わからないほど赤く汚れていた。
「アガサ! リンドウ!」
刀を支えに立ち上がりながら、イセ先輩が叫ぶ。二人の傍らに立っていた黒い先輩が振り返り、叫んだ先輩をみやりながら刀の柄に手をかけ一息に抜き去った。そしてついでとばかりに、うずくまるリンドウ先輩の背中を切りつけた。
「ぐうっ!」
真っ赤に染まっていく制服を足蹴にする。リンドウ先輩はうめきながらも肘を立て完全には潰れない。
「おまええええ!」
駆け寄ってきたイセ先輩の横薙ぎの一撃を鏡写しの影は易々と受ける。受けたそばから絡めとるように刀身を回転させ、体勢を崩させると、握ったままの刀に引き摺られる形で晒したイセ先輩の横っ腹に、もやを纏った蹴りが叩き込まれた。
黒い影は、屋上を転がっていくイセ先輩を見送ると、再度、傍らのリンドウ先輩を見下ろした。
刀を逆手に持ち替える。
「よせ!」
屋上にたおれたまま、顔だけを上げてイセ先輩が叫ぶなか、影の振り上げた刀が突き下ろされた。
「わ、わり……」
叫んだイセ先輩に視線を向けながら言う。、リンドウ先輩の体は次第に薄れていき、やがて宙に溶けるように消えた。先輩は消える最後の瞬間まで、肘や膝を立て、完全にアガサ先輩に覆い被さることはなかった。
「ほんと……げほっ。律儀ってかなんてーか……」
リンドウ先輩の姿が溶け消えていくその下で、アガサ先輩は首元で銃を構えていた。傍らに立つ黒い影の姿が視認できるかどうか、その刹那の瞬間にアガサ先輩は引き金を引いた。心臓を狙ったであろうその弾丸は、目を見開いた黒い影の肩を撃ち貫いた。黒い液体とともに、身に纏っていたもやが宙に散っていく。
「はは……、当たった。ざまあ……」
アガサ先輩はか細い声でつぶやくと、その姿は薄れゆき、やがて握り締めていた銃がごとりと床に落ちた。
「ふん……」
黒い影は屋上に落ちた銃を一瞥したあと、イセ先輩へと向き直り、近づいていく。
「さて、この女はどうする?」
黒い影が虚空に刀を振るう。闇の中で視認しづらいものの、空間に真っ黒な切れ目が開き、本来その向こう側に光って見えるはずの灯りが遮られる。その切れ目が広がっていくと、その中からぬっとタガメ先輩が姿を現した。
切れ目から滑り落ちるように出てきた先輩は目を閉じていて、意識を失っているようだった。黒い影はそんな先輩の身を、刀を手にしていないほうの腕でもって受け止めた。それは例えば、恋人を受け止めるみたいな優しさなどは一切含まない、ただ人形を扱うがごとき所作だ。
「タガメ!」
先輩はお腹を押さえながらも立ち上がった。
「はは……、おれを相手にあまり白々しい真似は止せよ。ただのヒロイン候補のひとりじゃないか」
「やめろ!」
「あの二人だってそうだ。親友じゃない。ただの候補だ。伊瀬鷹明の親友に相応しい人間かどうか、迷っていただろう? この程度の人間が運命をともにするような存在足り得るのかどうか……」
「黙れ!」
イセ先輩は刀を手に、激情に顔を歪めて走った。黒い影はただ悠然と佇み、振るわれた刃をまたしても容易く受け止めてみせる。
「ぐっ!」
「ふふ、ほら、それが本音だ。おれを本気で殺す気などないんだろう? だから軽い。そんなことをすれば、楽しい楽しい学校生活が夢の中でさえ終わってしまうものなあ?」
「違う!」
まるで泣くみたいな悲痛な声で先輩が叫ぶ。
「何が違う? 学校生活よりも仲間の選定のほうが重大事だったか?」
「そんなんじゃない! おれは……!」
「他人がいるから、見栄を張って本音が言えないのか。そんなに他人に嫌われるのが怖いか? 臆病者が」
「おれは……、おれは……」
先輩の言葉には力がない。鍔迫り合っていた刀を握る手も、明らかに緩んでいた。
「安心しろ、おれがおまえの望みを叶えてやる。なに、生徒などまだいくらでもいる。何度でもやり直せばいい。そのほうが長く楽しめるだろうしな?」
影が少し刀を押し込むと、先輩はさしたる抵抗もなくよろけて後ずさった。
「ははは、傷心の主人公ごっこは楽しいか? そら、ショータイムだぞ」
タガメ先輩を抱きかかえている腕から、黒いもやが先輩の体に移り、纏わりついていく。やがて先輩の体は影の腕から離れ、十字架に貼り付けにされた受刑者のように、宙に両手を広げた恰好で動きが止まった。先輩はずっと瞳を閉じたままで、意識はないようだ。
影は刀の切っ先を先輩の腹に突きつける。
「やめろ!」
声を上げたのは、五味先生だった。先生はアガサ先輩が残していった銃を拾い上げ、銃口を向けていた。
「黙っているなら放っておいてやろうと思っていたが、そんなに死の苦しみを欲するか。悪役の選定も考え直すべきかな」
先輩の影は先生をちらりと一瞥すると、何事もなかったかのようにタガメ先輩に突きつけた刀を下から上へと滑らせていく。その動きは、まるで豆腐に包丁を入れるみたいな淀みのなさで、先輩の身につけた衣服は首元のリボンタイを残して、中央から二つに裂かれていった。
「な、なにをしているんですか!?」
銃を構えたままの先生が叫んだ。影が再び先生に目を向けたとき、イセ先輩が無言のままに刀を振りかぶり、影に迫る。
「ふう、もう面倒だろう? 言い訳をくれてやる」
もはや完璧に打ち合わせの済んだ殺陣のごとき気安さで刀を受けた影は、三度、先輩を蹴り飛ばし、次いで黒いもやを飛ばす。それはフェンスに叩きつけられた先輩の腕に絡みつき、拘束していく。
「ぐっ、離せ!」
「はは、まるで作り話の女のようだな。おれはおまえだ。本音の分からない道理はない」
先輩の影はいまだ宙に囚われたままのタガメ先輩に近づくと、腹の辺りの服の切れ目に手を差し入れた。
とたん、バァンと銃声が響いた。先生の銃を構えた両手が細かく震えている。
「……言っておきますが、当てなければ止まりませんよ。先生」
イセ先輩の姿をした影は、自身のこめかみを指差しながら言った。
「い、いまのは警告射撃です。次は……」
「当てなければ止まらない、そう言いました」
影はタガメ先輩の服をぐいっと横に引っ張った。わずかだった隙間が広げられ、先輩のなめらかな肌が曝け出された。屋上の届くわずかな灯りに照らされて、白さが浮き上がって見えるようだ。ブラウスの裾が、片方だけくしゃくしゃになってスカートからはみ出しているのがやけに扇情的に映った。
「せっかくだから槍を使うとするか。ロンギヌスというには、役も役者も不足しているが……」
そう言って影は辺りを見回すが、屋上に槍は見当たらない。なぜなら……、
「ぐっ……」
それはおれが持っているからだ。
「思っていたより度胸があるじゃないか。おれよりよっぽど勇敢だよ。おまえ」
先輩の影は背中越しにそう口にした。おれの手にした槍には、影の体から真っ黒な液体が伝ってくる。それは生暖かく、粘着質だった。おそらくイセ先輩や五味先生からは、突然仰け反った黒い影の背中から黒い液体が漏れ出し、それがじょじょに槍を形作っていくように見えていることだろう。
おれの透明化は、衣服が浮いて見えたりはしない。それはつまり、身につけたものも透明に出来るということ。その範囲がいったいどこにまで及ぶものかについては明確な線引きが難しく、例えばおれが手を触れた壁や床などが透明になったりはしない。だが、直接肌に触れてもいない上着は透明になったりする。おそらくは認識の問題なのだと思う。ゲーム的に考えれば、装備したものは透明にできる、そんな感じだろう。
「これはおれのものだ。返してもらおう」
握っていた槍が引っ張られ、離すまいと握っていたおれは体ごと先輩の影にぶつかった。学生服の感触の表面に纏わりつく黒いもやは、ぞわぞわと鳥肌が立つような微細な感触でおれの手や顔を這い回った。手の中の槍がずるりと一度滑り出すと、黒い液体が潤滑油のように働き、おれがぎゅっと握り締めようとしても、ずるずると手の中を滑っていく。やがて石突の部分までが通過し、おれの手は空をつかんだ。
「そこにいたか」
背中越しではない、至近距離からの声。とたん腹部に衝撃が走り、おれは屋上を転がっていた。
「力もない臆病者と思っていたが……」
黒い液体に縁取られた槍が、少しずつ実像を結んでいく。同時に、穴の開いた影の胸も黒々とした液体が満ちるようにして塞がった。それは布オバケの目のようでもあり、生徒会室前でタガメ先輩を呑みこんだ穴のようでもあった。
「また見失う前に消しておくか」
屋上の床に転がったまま見上げるおれの許へ、先輩の影が歩み寄ってくる。その背後で、タガメ先輩は宙に囚われたままだ。
逃げなければ。震える足に力を込めて、立ち上がれないままに屋上を這いずる。影は進路を変え、おれを追ってくる。
透明化は解除していないはず。そう思い自信の体を眺めれば、そこには黒い液体がそこかしこに付着し、浮き上がったおれの姿があった。
「消えろ」
頭上から降った声に顔を上げてみれば、そこには刀を振り上げた影の姿があった。その腕が動き出したのを認めた瞬間、おれは反射的に目をつぶった。
しかし痛みは訪れない。おそるおそる瞳を開けば、そこには刀を振り上げた姿勢のイセ先輩の姿があった。




