003,オバケ
現実と区別がつかない夢の中で、おれが経験した現象。その中で現実にあり得ないものと言えば、まずはバルコニーに立っていた見知らぬ人物。そしていかにもな見た目のオバケ。そして父親の言動だ。
ひとまず、リビングに移動してみることにする。夜中なので、いつも以上に慎重に、音を立てないように注意した。
リビングに出て、バルコニー側を見てみる。閉じられたカーテンが月明かりで透けるような青色をしている。その向こうに人影などは見当たらない。カーテンを開いて、室内をざっと見回してみるも、やはりおかしなところはない。
あっというまに最後の手段と思っていた父親の様子を見てみる、という選択肢だけが残された。だが夜中にリビングに出てくることなどそうはないだろうから、こちらから寝室に出向くことになるだろう。そして見た目で判断がつかなければどうする? 起こすのか? あり得ない。万が一、部屋に入ったところで目が覚めて見咎められるだけでも絶対に避けたい。
父親の件から逃避するように、窓を開錠してバルコニーに出た。なんとも言えない香りが鼻をかすめ、これが夢などということがあり得るのか? と問いを投げてくる。時折そよぐ夜風を受けて月を見上げながら、やはり自分のゲームに関する記憶が混濁していたのだろうという気がしてきた。もともと広く浅く色々と遊んでいるから、寝ぼけた頭でなにかと混同したにちがいない。
そんなことを考えていると、たとえこれが夢だとして、だからどうしたのだ、という気持ちになってきた。
「寝るか……」
わざわざつぶやいてバルコニーからリビングにもどろうとしたとき、視界の隅をなにかが動いた。
振り返ってみると、それは先日このバルコニーで見た、いかにもな見た目をしたオバケのようだった。相変わらず、ふよふよと空中を漂うように浮遊していた。
一瞬、気持ちが高まったものの、考えてみれば、だからどうしたという話だ。
嘆息し、リビングに足を踏み入れる。窓を閉めようと振り返ったとき、例のオバケが空中で向きを変えて、それまでのふよふととした漂うような浮遊とはちがう、滑空するような速度でこちらに向かってくるのが見えた。
慌てて窓を閉めると、直後にドンッという音と共に、ちょっとした衝撃があり、おれは窓を見上げる格好でしりもちをついた。
窓の向こうには、オバケが窓全体を覆い隠そうとでもしているかのように布を広げておれを見ていた。穴のような目はそのままに、以前は三日月型だった口らしき模様は、目と思しき模様よりも大きな黒い穴になっていた。自然、おれを食べようとしたのか? という思いを抱く。
オバケはゆらゆらと布をはためかせながらおれを見ている。おれがすこし左右に体を揺らしてみると、顔らしき模様が追従してくる。なぜかはわからないが、窓には触れず、さきほどのドンッという衝撃と音も、直前で止まった際の風などによるものだったようだ。
これはなんなんだ。
夢なのか現実なのか、それさえ定かではない。五感は相変わらず現実であると訴えている。さっきしりもちをついた際の痛みも消え去ってはいない。
だがおそらくは夢なのだ。昨日はこのあと父親に遭遇し、そして目が覚めたのだから、それより前に遭遇したこのオバケも夢の中のものであるはずだ。だから、どうなるのかはわからないが、最悪、このオバケに食べられたとしても問題はない、はず……。
奥行きもよくわからないのに穴としか思われない黒い模様を見つめる。仮に食べられたとしたら、どうなるのだろう。丸呑みされたとして、消化器官などは備わっているのだろうか……。なんにせよ、進んで痛い思いなどしたいはずはない。おれはマゾヒストじゃないんだ。
ゆっくりと立ち上がる。相変わらず、オバケはおれのことを目で追いかけてくる。そろそろと後ずさり、視線だけはオバケから切らさずに台所まで移動した。流しの下の棚を開けて、ちらちらとオバケに視線を送りながら包丁を物色する。
いちばん長さのあった柳刃包丁を選び、そろそろと窓の前までもどる。一連の行動のあいだ、オバケはずっと口を開けたまま、変わらない様子で窓の外にいた。
包丁を手にしてわかったのだが、おれの手は震えていた。両手で持ってぎゅっと握り締めると一時的に震えは収まるが、力を抜くとまたすぐに震えだしてしまう。
とりあえず武器を持ってきてはみたものの、これでいったいどうすればいいと言うのだろうか。窓を開けて包丁で布を切り裂く様を想像してみる。それほど難しいことはないような気がして、うまくいくんじゃないかという楽観的な思いが湧き上がる。だが同時に、そんなにうまくいくわけないだろ、という自分自身の声もまた、大きく心中に響き渡る。
いっそのこと、このまま放置して寝てしまおうか……。なぜかはわからないが窓を破ったりはしない様子なので、放置しておいても問題はないような気がしてきた。……おそらくは逃避なんだろうけど。
包丁を手にしたまま、そろそろと後ずさり、窓から離れて自室へ向かう。視線で追いかけてきているので意味はないのかもしれないが、刺激したくなくて音を立てないようにふだんよりも慎重に歩いた。そっと戸を開け、そっと中に入り、そっと戸を閉める。
「ふぅ」
胸に手を当てて、大きく息をついた。心臓の鼓動はまだ早いままだった。
勉強机の上に包丁を置いて、ベッドに腰掛けた。なんだか気が抜けて、ぼうっとしてしまう。なにげなく窓に目をやると、そこには黒い穴があいていた。いや、わかっている。あのオバケの顔だということは。
心霊系の番組で大音量で驚かす卑怯な手法に出くわしたときみたいに体が跳ねた。いくらか落ち着きかけた心臓の鼓動も耳にうるさいほどに早くなった。
慌てて机の上の包丁を手にとり、窓の対角線上の隅に移動した。相変わらず、オバケの視線は追いかけてくる。
ただそれだけ。やはり窓を破って侵入しようとしたりはせず、おれを見ているだけ。だけ、なのだが……あんなものに見つめられたままのんきにしていられるほど、おれは肝が太くなかった。
現実では閉めていたはずのカーテンを、こちらでも閉めてしまいたかった。なにか長いものでもないかと室内を見回すも、せいぜい十五センチの定規しか見当たらない。仕方なしに窓に近づくが……無理だ。包丁の柄の端を持って手を伸ばしてもカーテンにとどかない距離で、もうこれ以上進めそうもないと、そう思ってしまった。
自分の意気地なしっぷりに嫌気が差しつつ、そろそろとリビングへもどる。窓を見れば、そこにはやはりオバケが張り付いていた。位置関係的に、両方の窓を確認することは可能だが、視線から逃れたくて自室の戸を閉めてきてしまったので、バルコニーにいるものと、自室の窓に張り付いていたものが同一固体なのかはわからない。でもおそらくは別固体ではないだろうか。いくらなんでもそんなに速く移動はしない気がする。バルコニーからリビングにもどったあの瞬間の滑空するような接近速度でも、回りこむのには速さが足りないと思う。
どうすればいいのだろうか。窓のない部屋などこの家にあっただろうか。
半ば諦めの境地でオバケと見つめ合ったまま佇んでいると、いきなりバルコニーのオバケが頭から縦に裂けた。いや、裂かれた。布がたわんで真っ二つに分かれたかと思うと、避けた面から真っ黒な液体を散らしながら宙に溶けた。その向こう側に、手刀を振り下ろした格好の男の人がいた。
「ふぅ」
額に手を当てて息を吐いたバルコニーの男の人と目が合う。すると彼はコンコンと窓を叩いて、
「ねえ、これちょっと開けてくれる?」
と言った。
おれが呆然としたまま見つめていると、彼は慌てたように手を振りながら
「あ、べつにこのままでも構わないけど……あーっと、その、お話できないかな?」
と二の句を次いだ。
おれは半ば無意識にこくりとうなずいていた。肉体的な危害を加えられたわけじゃなかったが、どう対処したらいいのか困っていたオバケを排除してもらったことで、なんとなく好感を抱いていたのかもしれない。それに彼はごくふつうの十代後半から二十代前半くらいの爽やかな好青年といった雰囲気で、状況も手伝って、もし現実にヒーローがいたらこんな感じかな? と思わせる空気を纏っていた。
おれは鍵を開け、窓を開いた。
「あー、開けちゃったかあ」
彼は重力に負けたウニみたいな頭をかきながらそんなことを口にした。窓越しとちがい、はっきりと耳にとどいた。
「え……いけなかった、ですか?」
「んー、まあやばい連中だったら窓なんかあってないようなもんだし、結果的には
変わんないと思うけど、ちょっと警戒心が足りないかもね」
「やばい連中……ですか?」
「いやほら、軽薄に思われるかもしれないけど、君かわいいしさ、気をつけたほうがいいかなーって」
彼はちょっと言いにくそうに、顔を逸らしながらそんなことを口にした。
同性愛というものについては明るくなかったが、自分みたいなのを対象として見る男の人も世の中にはいるということだろうか。それとも女の人が自分を……? それは同性愛以上にあり得ないような気がする。少なくともこれまでの人生でそういった好意を寄せられた経験はなかった。
「は、はぁ……気をつけます」
あまり踏みこんで聞くのも怖い気がして曖昧な返事をしてしまった。しかし彼はとくに気にした様子はなく、
「おう、女の子なんだから、ちゃんと気をつけないと駄目だぞ」
朗らかな笑顔でそんなことを言った。