035,現実なんて
「あぶっ!」
衝撃に妙な声を上げながら仰け反ったリンドウ先輩を押しのけ、イセ先輩が刀を構えて屋上への入り口に立った。
直後、屋上の入り口上部からうっすらとした影を残しながら、何かが屋上の中央部にまで跳んだ。
まるで体操選手かなにかのようにあっさりと着地して見せたそれは、学生服を身につけた男子生徒。頭には二本一対のツノ。若々しく変貌した五味先生の姿がそこにあった。
「なんだ、避けたのか?」
ブスブスと黒い塊の残滓が燻る床を一息に踏み越えて、刀を構えたイセ先輩が屋上へ飛び出していく。
「五味ぃいいい!」
先輩は走る勢いのままに斜め下から刀を振るう。もし先生が何の抵抗もなく斬られたとしたら、きっと崩れ落ちる先生を背後に刃を収める、まさにヒーロー然とした光景が繰り広げられただろう。だが実際はそうはならなかった。
およそ剣戟のものとは思われない、雷が弾けたような音が響き、先輩の足が先生の傍らで止まる。至近距離で鍔競り合った二人は、実際には教師と生徒であるわけだが、今は同級生同士にしか見えない。
「そら!」
先生が腕を振り上げると、先輩が自らもその勢いに乗るようにしてその場を飛び退る。振り上げられた先生の手には、時折、微小な稲光の走る黒々とした雷雲が細長く凝縮されたようなものが握られていた。
「むう、感電しても良さそうなものだが。これが雷とも違うものなのか、それともその刀が何か特殊な材質ででもあるのか」
ぶつぶつと呟いている五味先生に構わず、先輩はなおも刀を振り上げて迫る。
バチィッ!
大上段に振り下ろされた刀を、雷雲の塊は易々と受け止める。当然のことながら、もし先生の手にしているものが、見た目通りの電気を溜めこんだ雷雲であるならば、仮にああして操ることができたとしても、刀を受け止めたりなどできるはずもない。
現実のように五感が働き、現実と見紛うばかりの光景が広がる世界だが、やはりそれでも夢なのだ。
イセ先輩は一刀のもとに切り捨てるという動きから、細かく手数を刻む動きに移行した。おれには剣術の知識はおろか、剣道にも見識がないので正確なところはわからないが、そうした武術の整った正式な動きというよりは、もっと変則的な実戦に即した動きのように見えた。一週間にも満たない時間ではあるが、先輩たちはこれまで幾度となくダンジョンに潜り、様々な大きさ、動きをするモンスターと戦ってきた。おそらくはその経験が培った動きなのだろう。
しかし、対する五味にあまり焦った様子は見られない。先輩の斬撃をいなし、受け止め、突きを払い、避け、余裕を持って立ち回っているように見える。特別に凄い動きをしているという感じじゃない。むしろ、動き自体はいかにも素人めいていて不恰好なものだ。
「なんだイセ、やけに遅いな」
余裕たっぷりに笑みを歪ませた先生は、先輩の剣を上から叩き伏せた。先輩の上体が沈みこみ、わずかに体勢が崩れる。先生の、雷雲を握っているのとは反対側の腕が振り上げられる。その手にはいつの間にか、もう一本の雷雲が握られていた。
「くっ!」
先輩はとっさに刀を手放して後ろに跳んだ。背後を気にしている余裕がなかったのだろう、ろくに身構えないままにフェンスにぶつかった。先輩の肩口は少し裂けていて、裂け目の縁には雷雲のような黒いもやが付着して燻っている。
「武器を手放してどうするつもりなんだ、イセ!」
先生が下ろしていた雷雲を振り上げると、それは球状の塊となって先輩に向かって放たれた。
雷雲の命中するギリギリのところで転がるように横に避けたイセ先輩に、もう一本の雷雲を振り上げて先生が迫る。
「そら!」
躊躇いなく振り下ろされた雷雲は、だがしかしイセ先輩の体へは届かなかった。
「今日はイセだけじゃねえ、おれも相手してもらうかんなあ!」
槍を長く突き出すようにしてイセ先輩に向かって振り下ろされた雷雲を受け止めたリンドウ先輩は、腕を支点にして石突部分を押し下げ、てこの要領で雷雲を弾きながら体ごと両者のあいだに割って入った。槍を体に巻きつけるようにして飛び上がると、空中で回転する。と、目の前の先生の頭上から降り注ぐように槍の穂先が強襲した。
「んぐっ」
雷雲を槍で振り上げられて体勢を崩していた先生は何も手にしていない腕で防御していた。殴られでもしたみたいに、半ば背を向ける恰好で2歩、3歩と後ずさる。地面には赤い血が飛び散った。
「チッ」
血を見たリンドウ先輩は顔をしかめた。自分でしたこととはいえ、やはり人間を傷つけることに抵抗があったのだろう。
そのリンドウ先輩の影から、床を滑るような低い姿勢でイセ先輩が飛び出す。低く、ほとんど床と水平に振るわれた刃は、屋上に突き立てるようにした黒雲に防がれた。
「刀、なぜ……」
斬撃を受け止めながらも呟く先生に、リンドウ先輩の鋭い突きが迫る。
先生は驚愕に目を見開きながら、それでも上体ごと頭を反らして避ける。
ためらいが見られた割には、急所を狙ったリンドウ先輩に、おれは背筋がひやりとした。さすがにやりすぎだと思ったからだ。
この世界での死は、現実のそれとは違う。とは、屋上へ到るまでに話してもらったことだった。
これまでのダンジョン攻略の際、まだリンドウ先輩が武器を手にして間もないときのこと。リンドウ先輩はアガサ先輩を庇って致命傷を負ったことがあったそうだ。すると先輩は現実で目を覚まし、その後は何の異常もないという。
それがわかっているから、万が一やりすぎても問題はない。そういうことだが、それにしても本来は、ひとまず打倒して大人しくさせ、それから話をする、という段取りだったはずなのだ。「一度戦って勝つ、それから話をするって、ゲームじゃよくあるもんな」とは、リンドウ先輩の言だ。
実際、五味先生は何かに取り憑かれたみたいに話が通用しない。一度その力、おそらくは保健室で纏わりついていた黒いもやを払う必要があるのかもしれないと、そう考えていた。
しかしさすがに頭が吹き飛んで話をするも何もないと思う。まさか、強敵と書いて友、もしくはライバルなどと読む間柄のように、先生なら避ける、と信じていたわけでもないだろうに。
イセ先輩とリンドウ先輩の二人はうまく連携して攻めている。イセ先輩ひとりを相手にしていたときとは違い、先生の表情にも余裕がない。見ている限り、イセ先輩はあまりリンドウ先輩のことは考慮せずに攻めこみ、リンドウ先輩は邪魔をしないようにしながら隙間を埋めるように立ち回っている。イセ先輩のみを相手にしていたときには反撃の余地があった動作の合間に、リンドウ先輩が割り込んでくるために、先生は攻めに回れず、防戦一方という感じがする。
「むっ」
先輩たちが狙ったのかどうかは定かではないが、先生は屋上の隅に追い詰められた。
「そら、もう後がないぞ。調子ん乗って好き放題遊んでるからこうなんだぞっと!」
先輩が突き出した槍を、先生が手にした雷雲で払う。
「うるさいぞリンドウ! おれがおれの夢で好きにして何が悪い! どうせ全部おれの頭の中に記憶されたただの偶像だろうが!」
叫んだ先生の懐に、イセ先輩が一息に踏み込んでいた。居合い斬りのように、刀が鋭く振り上げられた。刀の軌跡の延長線上に、赤い雫が散り、先生の体は後方上空、フェンスも越えて屋上の枠からもはみ出し宙に舞っていた。
「チッ」
舌打ちは、イセ先輩のものだ。その理由は、見ていればすぐにわかった。先生は空中でくるりと回転すると、そのまま空中で滞空したのだ。その背中には、漆黒の羽が生えていた。それは鳥のように羽毛の敷き詰められたものではなく、コウモリや、でなければドラゴンなどのように、骨組みに膜を張ったようなもの。足にまで膜が及んでいないため、構造上はドラゴンなどに見られるそれに近いが、色合いが黒いため、やはりコウモリの印象が近い。それはつまり、コウモリのごとき羽を持つ、とされる悪魔の姿そのものだった。
「ツノもあるし、学生服姿の悪魔とか、おれ、これがマジで先生の夢だとしたらそのほうが引いてしまうかもしれん」
「黙れリンドウ!」
先生は空中に飛び上がったまま、屋上の先輩たちに向かって雷雲を投げつけた。
軽口を叩きながらも油断なく槍を構えていたリンドウ先輩は、迫る雷雲を槍でなぎ払おうとした。
「おっも!」
一瞬の均衡を経て、リンドウ先輩はなんとか雷雲を弾き散らす。だがその表情には余裕がなく、雷雲を槍で弾くのが容易でないことは明らかだった。
「そらそらどうしたぁ!」
先生は緩やかに飛翔したまま次々と手のひらに雷雲を生み出し、屋上の二人の先輩たちに向かって投げつける。
イセ先輩は体勢を低くして転げまわるように回避し、リンドウ先輩は回避を主体に、ときには槍で打ち払っている。二人の避けた雷雲は屋上の床に炸裂しているが、焼け焦げたような痕こそ残るものの、床が抜けたりはしていない。リンドウ先輩が槍で払っているときの印象とは食い違っているが、ダンジョン内でモンスターが火の玉などをぶつけていても壁や床が壊れるということはなかった。それがダンジョン化した空間に限った話ではなかったということなのかもしれない。
「はははは! 逃げてばかりで芸がないなあ二人とも!」
先生は悠々と空中に留まり続けている。コウモリのごとき翼を羽ばたかせる回数はそう多くない。微妙に纏わりついた黒いもやなども考慮すると、おそらくは何か超常的な力も用いて飛んでいるのだろう。飛ぶためのそうした力が尽きるのが先か、それとも先輩たちが雷雲の餌食になってしまうのが先か。一見、戦いの構造はそう変化したように思える。だが、本当に先生に飛翔の限界時間のようなものが存在するのか。そうした不安は到底拭い去れるわけもない。
「てっめ、卑怯だぞ五味! 降りてこい!」
「はははは! いいかリンドウ、現実なんて理不尽なことばかりだぞ。よーく覚えておくんだな!」




