033,葛藤
おれは立ち上がり、元来た廊下を引き返した。
目の前のダンジョンから逃げたのだ。
別のルートも確認しておくべきだという言い訳を使って、おれは逃げた。
確認をすること自体は悪いことじゃない、そう思う。何度も何度も。
だがそれは、おれが逃げたと思うこととは関係がないのだ。
確認するべきだからと、ダンジョンから離れたのではない。
ダンジョンから離れるために、確認する必要があると廊下を引き返したのだ。
足が止まる。
壁にもたれかかり、荒い呼吸を繰り返す。
これで良いのか。
そんな言葉が脳内に絶えず反響し、止むことがない。同時に、確認するのは間違いじゃない、と反証する言葉も次々と胸の内に詰めこまれていく。
呼吸しているはずなのに息苦しい。
そもそも、夢の世界で息苦しいとか、もう意味がわからない。
「ふふ……」
口から乾いた笑いが漏れ、その場に崩れ落ちた。
「なんで……こんな……」
情けない人間なんだろう。
慎重と臆病は違う。
勇気と無謀さは違う。
分かった振りで言い訳にしている言葉。
それが分かるから、冷静に考えてだれもが出すであろう結論だと思えても、それに安堵している自分が厭わしくてならない。
床に思い切り拳を叩きつけようとして躊躇する、激情家にもなりきれない自分。
何も考えたくないと考えながら、無為にうずくまる。これではいけないとわかっているのに、どうすればいいのかわからない。
いや、わかっていて、逃げている。分からない振りをしている。
行動すれば、自分がいかに価値の無い人間なのかがはっきりとわかってしまうから。
自分がどれだけ駄目なヤツかなんて、自分自身が一番わかっているはずなのに、どこか心の奥底は、そうじゃない、認めたくないと浅ましく叫んでいる。
ふいに、こめかみのあたりに生暖かく湿った何かが押しつけられた。
びくりとはねるようにして顔を上げると、そこには件の小さな白い犬がいた。
「またおまえか……」
犬の表情などわからないが、心なしか不安そうにおれの顔を見上げている。
これで二度目だ。
「ふふ……、犬にまで慰められてるなんてさ」
おまえのような情けない人間にはお似合いではないか。
アニマルセラピーというものもあるし、べつにおかしなことじゃないだろう。
犬をひとりの家族として扱う人だって世の中にはいるのに、犬にまで、なんて軽んじる思想は失礼じゃないのか。
そんな複数の思考が、せめぎ合うみたいに思考に浮上する。
みぞおちのあたりに熱した石でも放りこまれたみたいに全身に熱が広がっていく。
わけもわからないやりきれなさに襲われ、おれは立ち上がった。
口汚い言葉をつぶやきながら、さきほどまで歩いてきていた道を引き返し、防火戸へと向かう。
走らないのか。
学校の廊下だぞ。
夢の世界で何を言っている。
うるさい。
防火戸の小さな扉を乱雑に開く。
ほんとうはそんなことないのに激情にかられているというポーズだ。
学校の設備だぞ。
この先に足を踏み入れるのか?
うるさい。
扉をくぐってダンジョンの中に侵入すると、夏場に蒸し蒸しとした暑さの蔓延する炎天下から、冷房の効きすぎた室内に入ったときと同じような怖気に襲われた。
それでも、身のうちに巣くった熱は引くことがなく、肌の表面に湯気でも立てているのではないかと思うほどだった。
ほんとうに行くのか?
顔真っ赤にして本物の馬鹿だな。
もしこれで先輩たちとすれ違ったりしたらどうするつもりなんだ。
「だまれ!!」
背後から物音がして振り返ると、防火戸の扉のところにポメラニアンの姿があった。
「ついてくるな!」
おれの声に驚いたのか、硬直している犬を捕まえて、扉の外である廊下に放り出した。そのまま身を乗り出して扉の取っ手をつかみ、ダンジョン内部に引っこむようにして扉を閉めた。なおもダンジョンに入ろうとしている犬の姿を廊下に残し、扉から差しこんでいた光は途絶えた。
あれほど不気味に思えた静けさと暗闇が、不安感を増幅しながらもなぜか心地いい。
理由を考えようとした頭を乱暴に振り回し、足を踏み出す。
簡単なことだ。ダンジョン化していようが、踏破してしまえばそれで済む話だ。
最初の角を曲がった先に、因縁の白い布のバケモノがいた。ヤツは相変わらずふわふわとのんきそうに浮かんでいた。
気がつくと、半ば無意識に歩き出していた。
なにをしているのだろう。うるさい。こんなことをして取り返しのつかないことになったらどうするのか。うるさい。これ以上速度を上げたら足音を抑えきれない。
布野郎が何かに気がついたかのように、浮かんだり沈んだりの動きを止める。
足の速度が緩みかけ、どくどくと逸る鼓動の中に怯えが混じっていることを自覚した。
自覚したから、いっそう速度を上げ、走り出した。布野郎が今度は明確にこちらを振り向こうとする。その前に、目と口の位置関係的に、人間ならこめかみと呼ぶだろうあたりに、跳躍して振りかぶった拳を、粉々に叩き潰してやるつもりでぶち込んだ。
「ああああ!」
腕に伝わってきたのは、かつて校舎の裏手で飲みこまれたときに感じた、粘度の高い液体が詰まっていそうな重たい感触。衝撃が手首を通過し、腕を軋ませながら肩に伝わる。
おそらくは偶然。細かなことはわからないが、きっと色々な要素がたまたまうまくかみ合ったのだと思う。それとも夢の世界の補正とでもいうのか、気がつけばおれは腕を振り切り、布野郎を殴り飛ばしていた。ヤツは空中から床に叩き落され、床を滑っていった。拳がめり込んだらしい箇所を中心に布がよじれてしわが寄り、ひらひらとした裾の下からは黒々とした液体を溢れさせていた。
床に倒れこんでぴくぴくと痙攣しているオバケを目にしたとき、おれの胸にこみ上げたのは、達成感や、ざまあみろといった感情ではなく、後悔や、憐れみだった。それは屋内に現れた虫を叩き潰したときに感じるもの。一寸の虫にも五分の魂という言葉が――本来、字面通りに虫にも魂があるというだけの意味ではないが――脳裏にちらつき、自分が不快であるというだけで無益な殺生を行って良いものだろうかという迷いや罪悪感によく似ていた。
だが違う。
ここが夢の世界であるとかよりも、こいつはいくら気持ち悪いと感じても現実的に命の危険を感じないような小さな命ではない。消化吸収するのか、たんに現実にもどされるのか結末は知らないが、おれを捕食しようとした相手だ。偶然、事がうまく運んだくらいで、食物連鎖上の上位捕食者にでもなったつもりなのか。
床に倒れたまま、どこか歪に揺れ動いているオバケに歩み寄る。ふつうに立ったままでは高さが足りないと思い、軽く飛び上がる。勢いを付けて、片足でオバケの頭を思い切り踏みつけた。
おれの拳で微妙に破けていたらしいよじれの中心と、ひらひらとした布の裾から黒い液体が流れ出し、オバケは力なく横たわった。
こめかみの辺りから飛び散った液体がおれの足にもかかり、わずかな時間だけはっきりと空中に足の形を浮かび上がらせる。足元のオバケがじょじょにその姿を薄れさせ、床に溶けるように消えていくのを見守るうち、足は元通り半透明になっていた。
体の内側で煮えたぎっていた熱はその大部分が失せていた。その代わりに詰め込まれたものは後悔と自己嫌悪だ。
おれはその場に座りこんだ。全身を虚脱感に支配され、オバケを殴りつけた右腕ばかりが痺れるみたいに痛かった。
どれくらいそうしていただろう。ふいに視界の端をまた別の布のオバケが通り過ぎるのを見たとき、知らず口の端がわずかに歪み、乾いた笑いが漏れた。
同じ個体が復活したと思ったわけじゃない。ただ、ゲーム的な発想から、この場に設定された同じ敵が出現したのか? とは考えた。
おれは何をやっているのだろう。馬鹿馬鹿しい。生殺与奪がどうだとか、そんなことはいま考えるべきことなのか。
立ち上がり、歩き出す。
ふよふよと漂うように浮遊しているオバケの傍らを、ただ通りすぎる。音を立てずに行動することには慣れていた。
◇
その後、先輩たちの後をつけていたときに見たようなモンスターの脇を通りすぎ、難なくダンジョンの出口にたどり着いた。あのときにあった教室のような場所があって、中ボスのようなものを倒さなければいけないのかと懸念していたが、そういったものは存在せず、ただ通路の先に、一瞬回りまわって入り口にもどってきてしまったのかと思うような、見覚えのある扉があっただけだった。
扉を抜けた先には、最終的な目的地である屋上前まで続く階段がひっそりとしてそこにあった。防火戸の閉められた光景は見慣れないもので、やはり非日常の感が強い。
あれだけ煩悶としたことを馬鹿らしく、恥ずかしく思いながら階段に足をかける。一段一段上るにつれ、膝下に冷ややかな空気を感じた。まるで上階で冷やされた空気が、階下の暖かい空気と循環しているようだ。踊り場で上階を望んだとき、二階部分に立ってこちらをうかがっているリンドウ先輩の姿を認めた。
「リンドウ先輩!」
おれは透明化を解除し声をあげた。
「んお! スミレか? いつ来たんだ!?」
驚きを含んだリンドウ先輩の明るい声音が胸に染みた。
「すみません、遅くなりました」
言いながら階段を上る。視線が二階に及ぶようになるにつれ、イセ先輩、アガサ先輩の姿も見えてくる。
「そっちは大丈夫だったか?」
イセ先輩が体は廊下側に向けたまま横目に話しかけてきた。アガサ先輩は壁にもたれかかり、三階へ続く階段に視線を送っている。
「はい、大丈夫です。それよりこれ……」
「ま、見てのとおりよ」
リンドウ先輩が槍を首の後ろに通して腕を絡め、一見すると十字架に貼り付けにされたみたいな格好で言った。イセ先輩も、アガサ先輩も、それぞれに武器を手にしている。
階段を上りきって見渡した二階廊下は薄暗く、異様な空気に包まれていた。




