032,10分前には着いていたかった
硬い机の感触を上半身に感じ、意識が覚醒する。まだ一週間も経っていないが、感覚的にはもう、いつも通り、と思える夢の世界での目覚め。
だが、いつものようなそわそわとするような不安感はない。格好はあいかわらず女装……、いや、逃げずに言えば女体化してしまっているが、それでも今夜は、おれをちゃんと男として認識してくれる人たちと行動を共にできるのだ。
かつて、この夢の学校をこんなふうに軽い足取りで歩いたことがあっただろうか。最初にこの場で目覚めたときは、ただ普通の学校であるように過ごし、翌日もごく普通に登校。結果、ふだんの倍以上、学校に通っている錯覚を味わい疲労した。
次の日はもっと最悪で、服装に問題のある状態での目覚めとなり、さんざんな思いを味わった。それから先は五味先生の問題や、センパイ方に敵として見なされるなど、ろくなことがなかった。
だが今日からは違う。たしかにタガメ先輩が行方不明であるとか、五味先生の問題は解決していないものの、そういった問題に協力して立ち向かえる仲間ができたのだ。
仲間……、そう思うのは、まだ早いだろうか? 失礼だろうか? おれは先輩たちのように武器を手にして戦うこともできないし、たとえば回復魔法で支援したりもできない。
教室の扉を開いて廊下に出る。
もしこれがゲームであるなら、今からでもヒーラーないしバッファーに転職するか、でなければ姿を隠す系の技能からして、ローグだとかシーフだとかスカウトみたいな系統の戦闘技能でも身につけばいいのにと思う。あまり力になれないのかなと考えると、少しだけ気分が落ちこんだ。
目的地である二階階段前を目指すにあたり、先に二階に上がるルートと、一階で当該の階段まで移動したうえで二階に上がるルートが考えられる。しかし先に二階に上がる場合、一度目的の階段からは遠ざかるルートになるので、まず一階の廊下を移動して、当該の階段を上がるのが最短の道のりとなる。の、だが……。
「な……に、これ……」
教室の扉を開いた先にあったのは、見知らぬ薄暗い廊下だった。本来、教室の真向かいは壁だ。しかし今、目の前にはまっすぐに通路が伸び、壁があるはずの距離をはるかに越えたところでようやく通路が折れ曲がっている。
おれは扉を閉め、いったん自分の席にもどって着席した。
これまで、おれが一人で移動するときに扉の先がダンジョンだったことなど一度もない。それが今日、こうして変化が現れたことを、いったいどう考えるべきだろうか。
おれは頭を抱えた。こんなはずじゃなかった。今日からはようやく先輩たちといっしょに、タガメ先輩も見つけて、五味先生も説得して、まだいるかどうかも確定していないけれど、黒幕がいるならそいつもなんとかして、学校からも抜け出すのだと思っていた。
なんて、無責任なんだろう。
自分にはなんの力もないのに、先輩たちに縋って、なんとかしてもらえるって思っていたんだ。現に、教室の出口がダンジョン化した今、おれはここから出られなくなってしまった。
いや……。たとえダンジョンで出口をふさがれていたとしても、透明化でやり過ごせばいいのでは? おれは再度立ち上がり、反対側の扉を開いた。
「ダンジョン……」
それはそうだろう。片方だけがダンジョン化していてもう片方はふつうだなんて……、あり得ないことだろうか? なにせダンジョンなど、空間のつながりなんて無視した存在なのだから、片方がダンジョンにつながっていたからといって、もう片方もつながっているとは限らないのでは?
そう考えると、目の前に伸びる、奥へ向かうほど薄暗くなっている廊下に、何者かの悪意が透けて見えるような気がした。
教室を振り返る。窓の外では、いまだにはらはらと桜の花びらが舞い落ちている。それは秒速五センチよりもゆっくりに見えた。
ごく普通の、学校での一日が始まる前の朝の教室での時間を過ごしているクラスメイトたちのあいだを縫うようにして、外へ続いているはずの扉へ向かう。現実どおりにおれが二年生になっていれば、この扉はベランダへとつながっているはずのものだが、夢の世界では一年生となって一階の教室で目覚めさせられているので、学校の構造上は外へと通じているはずの扉だ。そもそも扉自体が外枠以外はほとんど透明なガラスになっていて、そこからは一年前によく見ていた外の風景がこの夢の世界でも変わらず映し出されている。
ひとつ、息を吐いて扉に手をかけた。扉を開いたそこには、上から下まで、隙間なく壁が存在していた。材質は、おそらく学校中の壁に使われているものと同様のものと思われる。手で触れてみた感触も、予想を確信させる慣れた手触りだった。
少し力を入れて押しこんでみるも壁はびくともしない。少し離れて観察してみると、扉を開いたところだけが壁で埋められて陰になっている、異様な光景が展開されていた。
無駄だろうなとは思いながら、縋る思いで、扉ではなく窓を開くも、そこにもやはり壁が存在した。光の遮られた空間が増え、わずかに教室が暗くなった気がしたが、クラスメイトたちに気にした様子はない。
窓や扉を閉め、おれは教卓側の教室の出入り口付近に立った。先輩たちの後を追いかけてダンジョンに潜入したのと、逆のことをやろうと考えたのだ。これがうまくいかなければ、本格的に透明化でダンジョンを踏破するしか選択肢はなくなるだろう。
朝のホームルームの開始時刻が近づくにつれ、じょじょに教室内の喧騒が収まっていく。教師が来るまでうろついているものがいないわけではないが、少なくともおれはいつも席についているはずの時間だ。クラスメイトにもすでに席についている者たちが多くいる。夢の世界とはいえ、そうした雰囲気の中でふだんと違う行動を取るのは気が引ける。
手のひらがべたついてくるような気がして気持ちが悪かった。どうせなら現実においては不快な要素は排除してくれてもよかったのにと、だれとも知らぬ夢の世界の創造者にひとりごちる。創造者といっても、特定の個の存在とは限定していないが。
と、静かになりつつある廊下を、人のやってくる気配がした。直後に目の前の扉が開き、見慣れた男性教師が姿を現した。その背後には、見慣れた明るい廊下が見えていた。
教師は入室し、すぐに扉を閉めようとした。考えてみれば、だいたいの教師はみんなこうしてすぐに扉を閉めてしまうよなと、自らの考えの浅さに嫌気が差す。慌てて足を伸ばし、閉まりつつあった扉をせき止めた。
「ん、なんだ?」
行動を阻害したことで、接触したという判定が成されたのだろう。教師の視線がおれに向けられた。
「す、すみません……、急にお腹が痛くなって。トイレに行かせてください……」
教師は足で扉を止められたためか、どこか苛立ち混じりの表情を見せたが、おどおどとしたおれの態度がほんとうに具合が悪そうに見えたのか、はたまた生理現象ならば仕方がないという判断からか、あっさりと許可を出してくれた。
再度、教師に詫びつつ廊下に出て、扉を閉める。狙い通り、ダンジョンではない、ふつうの廊下に出ることができた。
おれはさっそく透明化した。いま目にしている範囲は現実で見る学校と変わりないものだが、おれを対象として行動を妨害されたかも知れない状況に、怖気づいたというのが正直なところだ。
もしかすると、たんに学校中の扉がダンジョンにつなげられただけかもしれないが、この状況でそれを確認することはできるだろうか? いや、先輩たちとの待ち合わせ場所までに、もう扉は存在しない。ならば、先に合流したほうが良いのではないか。
結局、頼っているだけなのでは? という疑念は胸から離れない。だが、おれが姿を現さなければ、きっと先輩たちは心配するだろうと思う。そのことを忍びなく思う気持ちも嘘じゃないと己を鼓舞し、おれは廊下を歩き出した。
階段に近づくにつれ、見えている景色に微妙な違和感を覚えた。見慣れたはずのものが、どこかおかしいと感じる。その正体はじきに判明した。階段へと通じているはずの廊下が、防火戸で塞がれていたのだ。
「そんな……」
思わずつぶやく。
防火戸には小さな扉のようなものがついている。おそらく本来は延焼を防ぎつつ、通行人はこの小さな扉を通過することで避難を阻害しないという造りなのだと思う。
おれは小さな扉の取っ手をつかんだ。奇妙な緊張感が、はたして触れたことのないものに触れていることから来るものなのか、それとも現状で扉を開く、という行為自体から来るものなのか判然としない。
「ああ……」
扉の先を見やり、おれはその場に膝をついた。
階段があるはずの場所。そこには教室で見たものよりもいっそう暗く、どこか禍々しさすら漂う廊下が続いていた。気温すら異なっているのか、ひやりとした空気が頬を撫で、どこか埃っぽいような臭気が鼻をかすめる。
おれはひとまず扉を閉めた。休み時間になったら、NPCの生徒たちはここを通るのだろうか? これまで彼らは現実と変わらない様子で過ごしているように見えていたが、こうして現実にほとんど存在しない状況に対してはどう動くのだろう。
わからない。だが、教室からダンジョンを経ずに廊下に出られたことを考えれば、待ってみる価値はあるように思える。先輩たちを待たせてしまうかもしれないことが申し訳なくはあるが……。
再度、防火戸の小さな扉を開く。
比較的新しくきれいに見える現実の校舎と同じ部品で構成されているはずの廊下が、月明かりの暗さともちがう、照らすもののない暗がりに沈んでいる。
見えてはいる。だが、光源も判然とせず、影の在り処さえうまくつかめない視界に、じっと見ていると気持ち悪さがこみ上げるようだ。
この道を、行かなければならないのか。
もうひとつの、ふつうの校舎であれば遠回りになるルートにもどることを考える。しかしどのみち階段を上らなければ二階へは到達できない。だとすれば、おそらくは同じ問題に突き当たることになるだろう。




