027,ポメ公
リンドウ先輩とアガサ先輩も慌てて立ち上がり、イセ先輩の後を追う。走ればさすがに足音を隠し切れないと思い、おれは走ることを躊躇した。だが見失うことは避けたかったため、意を決して廊下を駆ける。
犬が逃げていく廊下には、授業時間が迫り少なくなってはいるものの生徒の姿がある。犬は小柄な体躯を活かしてすり抜けていくが、おれたち人間はいくらか速度を落とさざるを得ない。
「待てっ!」
もどかしげにイセ先輩が叫んだ。白い犬……、ネットで調べたところ、どうやらポメラニアンらしい小型犬は、ちらとセンパイを振り返ったが、またすぐに逃げ出し、体育館へ続く渡り廊下へと駆けて行く。
あまり足音を立てたくなかったのと、そもそも走るのが遅いせいでかなり遅れて体育館へ続く渡り廊下へたどり着くと、先輩たちが体育館前で息を整えていた。
「またダンジョンなの?」
うんざりしたように前髪をかきあげるアガサ先輩。男子ふたりも気持ちは同じだったようで、どこか苛立ちを含んだような疲れた表情をしていた。彼らの疲労は走ったせいだけではないだろう。
「あれって、あの……、あんときの犬だよな?」
「あれとかあのとか」
「うっせーな」
「タガメを罠に嵌めたヤツを助けた犬だった」
鋭い視線で体育館の入り口を、いやその先に逃げこんだらしいポメラニアンを睨みつけながらイセ先輩が言った。
センパイの言葉に、あれはやっぱりそうだよな、と思った。もしあのとき体当たりされていなければ、おそらくおれはイセ先輩に斬られていた。もしかしてたんに体当たりをぶちかましてくれただけかとも考えたが、わざわざあの場の四人の中からいちばん遠い位置にいたおれを狙うものだろうか。もしオバケとの一件を、犬が恨みに思っているとしたらあり得ない話ではなさそうだが。
あのとき、おれは助けに入ったつもりだったが、いざ走り出す前は遠巻きに眺めていたわけで、もしそのあたりを犬が正しく認識していれば、嫌われている可能性もあるんじゃないかとは思っていた。
「行くしかない」
そう言うと、イセ先輩は片手に刀を携えて体育館の扉を開いた。扉の先には、先輩たちの言葉通り、ふだんの体育館とは異なる空間が広がっているようだった。
「ま、しゃーねえよなあ」
先輩たちがダンジョンに潜入していくのを見送る。扉がひとりでに閉まるのを見届けた後で、扉に手をかけた。
体育館の内部と、渡り廊下の空間がわずかな隙間で接続された瞬間、漏れ出てきた喧騒から、やはり、という感想を抱いた。隙間を広げて中を確認すると、授業中の生徒たちの姿が目に入る。軽く見渡して、隅っこに犬の姿を見つけた。先に同じ扉を通過したはずの三人の先輩たちの姿は見当たらない。おそらく、数十分後くらいに疲れた表情でこの扉を開いて体育館の中にやってくるのだろう。
おれは透明化を解除し、体育館内に踏み入った。バスケに勤しむ生徒たちを横目に、隅っこの犬のところまでゆっくりと歩く。
途中、まだ互いのあいだに数メートルの距離があるところで犬はおれの接近に気がついたが、逃げ出すことはなかった。そのまま近づき、数十センチのあいだを空けて、体育座りで横に腰掛けた。はじめのうち、なんだか床がいつもよりひんやりするような気がした。自分が下着で座っているのだと気づき、慌てて後ろから尻をなぞるみたいにスカートを下敷きにして座りなおす。
クラス内でチームを分けての練習試合をぼーっと眺めながら、膝に乗せた両手のひらが汗ばんでくるのを感じていた。
下手をすれば手のひらに載ってしまいそうなくらい小さな犬を横目に見下ろし、自分はなぜ緊張しているのだろうと不思議に思えてくる。
膝をたたみ、正座に切り替える。素足で触れる体育館の床がぺたりと張り付くような感触がした。隣の犬に対して向き直ると、犬が小さな体をびくりと震わせたのがわかった。それでも、顔はバスケの試合に向けたままだ。
おれは頭を下げた。
「たすけてくれて、ありがとう」
頭を上げると、犬は微動だにせず、変わらない様子で座っていた。
「ま、わかんないよな」
おれもまた体育座りに座りなおす。
「……わかんなくてもいいし、おれの妄想かもしれないけど」
言いながら、でもなんとなく、この犬は理解しているかなと思っていた。
「恩返しだったらもう十分だから。もう危ないことするなよ。あと、もうちょっとしたらさっきおまえのこと追っかけてた人たちもここに来ると思うから、その前に逃げたほうがいいぞ」
言って、おれは立ち上がった。
「じゃあおれ、先生とセンパイを探さないといけないから」
おれは体育館の扉は開けたままにして渡り廊下に出て校舎へもどった。授業中の廊下に人の気配はなかった。
なんとなく晴れ晴れとした気持ちで校内を歩く。悩みをだれかに話すことで気持ちが楽になると、話には知っていた。おれはべつに悩みを話したわけではないけど、この夢の学校に迷いこむようになって以来、あんなに穏やかに他者と交流したことはなかった。強いて言えばタガメ先輩を相手にしたときも同じような感覚はあったものの、あのときは話さなければならないことが多く、状況も差し迫っていた。安らぎを覚える相手が小さな犬とは、と思われるかもしれないが、おれはあの犬をただの犬だとは思えないのだ。そもそも現実の学校であんな犬は見たことがないし、行動にもどこか犬とは思えないような知性を感じたからだ。あの犬はもしかしたら、この学校の守り神だとかそういう存在だったりするのではないだろうか。なにせ不可思議な化け物も存在する夢の世界だ。そのくらいオカルトなこともないとは言い切れないのでは、と思う。それに、ポメラニアンという犬種は、調べた限りではかなり気の強い犬種らしい。さきほどの様子からも、あの犬が攻撃的にはとても思えなかった。個体差と言われてしまえばそれまでだし、それこそ不可思議現象的に犬種の性格がちがうことがあり得ないとは言い切れないので、根拠として薄いとはわかっている。だから、これはもう半分以上、おれの希望的観測というヤツなのだろう。
なんとなくでも友好的でいられる相手がこの世界にも存在する。そう思えるだけで、イセ先輩に向けられた怒りの声が遠のく気がしたのだ。まぁ学校から出られればアキラさんやシュウゴさんも友好的でいてくれるとは思っている。思いたい、と言うべきかもしれないが……。
と、なんとなく繋げて考えられていなかったけど、センパイ方が夢の中の出来事をもとに現実で行動していたわけだから、まず間違いなくこの夢の世界がほとんど現実の延長みたいな、他人ともつながっている世界だということは証明されていたんだなといまさらながらに気がついた。
さて、これからどうすべきか。方針は変わらないが、目的は増えた。それはタガメ先輩の救出だ。
まず整理したいのは先輩たちの方針についてだ。
先輩たちはおれを五味先生の仲間だと思っていて、そのおれを助けたあの犬のことも五味先生の仲間だと考えているのだろう。そして、タガメ先輩が穴に落ちたことをおれが罠に嵌めたのだと言っていた。そしてタガメ先輩が捕まっているかもしれないというようなことも言っていた。
つまり先輩たちは、五味先生を追うことでタガメ先輩にたどり着けると考えていると思われる。もしそうでなければ、あれだけ取り乱した様子のイセ先輩が、たとえ手がかりがないにしても、タガメ先輩を探すことを後回しになどするはずがない。
だが実際は、五味先生を追ったとしても、タガメ先輩にたどり着けるとは限らない。先輩たちの言動から、タガメ先輩はどうやら夢の世界にいるらしいが、それは五味先生の許であるとは限らないのだ。
おれはこの夢の世界に、センパイ方や、五味先生のほかに、なにかよくない力が蠢いているような気がしてならないのだ。
その理由は、五味先生に纏わりついていた、あの黒いもやだ。
以前も考えた可能性。五味先生を何者かがおかしくしたのではないか、というものだ。
その何者かの悪意が、タガメ先輩を罠にかけ、イセ先輩たちの探索を邪魔しているのではないかと思うのだ。先輩たちが扉をくぐる際に、その先がダンジョン化するのも、きっとそういう理由なのだろう。
おれが邪魔されないのがなぜかはわからないが、おそらく脅威と思われていないのか、もしかしたら肉眼で見ているような感じなのかもしれない。それにしたって、いくらおれが透明化していても扉を開けばそれは目に見えるのだから、いまいち可能性としては低いかもしれない。だが、たとえば、肉眼で見るのと変わらないような条件の千里眼、みたいなものでおれたち夢の世界に迷いこんだ人の行動を見ているとしたらどうだろう。扉がひとりでに開けばそこにおれはいるかもしれないが、そのあと廊下に出てしまえば行き先を把握するのは困難なのではないか?
仮に何者かが悪意を持っておれたちを弄んでいるとして、もしもそんなヤツが存在するとしたら、はたしておれたちに勝ち目はあるのだろうか。なにせソイツは、どういう理屈でかは知らないが、学校中の関係者をこうして学校に閉じこめ、遠隔で五味先生を悪魔のように変え、タガメ先輩を罠に嵌めたことになる。
自分の妄想ながら、にわかには信じがたい。しかしあり得ないなんてことを言えば、おれの透明化だって、先輩たちの刀や槍だって、そしてアキラさんの身体能力だって、あり得ないものにはちがいない。この夢の世界での力の上限みたいなものがわからない以上、そんなとてつもないヤツだっていないとは言い切れないのではないか。
黒幕……めいた者がいるとして、ソイツはいったい何がしたいというのか。
考えながら歩く内、授業の終了を告げる放送が流れた。三時限目の授業が終わり、夢の残り時間は四時限目と、昼休みを残すのみとなった。




