023,落とし穴
しかし、廊下にはだれもおらず、だれかがやってくる気配も感じられなかった。まだ3時限目の授業中なこともあり、廊下は水を打ったように静かなものだった。
「どうかしましたか?」
扉の向こうから、様子を伺うようなおずおずとしたタガメ先輩の声が聞こえてきた。
「す、すみません」
なんでもないので気にしないでほしいと伝えつつ、あらためておれは自分の名前を名乗った。
「おれ、菫香月です。えっと現実では2年生なんですけど、こっちでは一年生で……」
「スミレ……くん?」
生徒会室の扉が開かれ、中からタガメ先輩が顔を覗かせた。
「やっぱり、女の子……だよね?」
「それには事情がありまして……」
タガメ先輩は生徒会室内に、おれは廊下にそれぞれ留まったままで話をした。おれはこの夢の世界に来るとなぜか女子になってしまうことを説明し、この格好が自分の意思ではないことを先輩に伝えた。先輩はおれの拙い説明をずっと真面目な表情で聞いてくれた。
「そうなんだ。でも、もっと早く私たちに話してくれてもよかったのに」
「すみません、恥ずかしくて……。それに、変態だと思われたらどうしようって不安で……」
「んー、恥ずかしがることないと思うけどなぁ。すごく可愛いと思うよ?」
タガメ先輩は何か致命的に歯車の噛み合っていないことを言いながら微笑んでいる。だというのに、優しげなタガメ先輩の表情や雰囲気に、おれはどこか安らぎを覚えていた。一年の歳の差は高校生の自分にはまだまだ大きく感じられるものでもあるけど、でも同時にたった一年のちがいじゃないかという気持ちもある。そんな、自分と大して生きてきた時間の変わらないはずのタガメ先輩に、なんだか甘えてしまいたくなるような気持ちを自覚した。
「お、おれのことはいいんです。それより、えっと、サトウ先輩は……?」
室内の見える範囲にはサトウ先輩の姿はなかった。
「サトウさんなら教室にもどったよ。ちょっと前まではここにいたんだけど……」
NPC状態の人たちは、おれたちのような夢の中で自我を保っている人間と話したりしたときだけ、夢の世界での日常生活から逸脱するようだが、それはあくまでも一時的なもので、やがて夢の世界で過ごしている日常にもどっていく。きっとサトウ先輩も、そうしてふだん通りの夢の日常にもどっていったのだろう。どれくらい逸脱が持続するのかは不明だが、少なくともサトウ先輩が保健室から三階にいたセンパイ達のところまで移動し、事情を説明することができていたことを考えると、接触していた時間や、相手の印象に残る何かがあったか、などで変化するのかもしれない。
「じゃあ、五味先生のことは……」
「聞いたよ。まさか五味先生が生徒にその……乱暴するなんて思わなかったけど」
先輩は痛ましげに瞳を伏せた。
「でも、おれ、それは先生がこの世界をただの夢だと思っているからだと思うんです。これが現実の延長みたいなものなんだってわかってもらえたら、そんなひどいこと、やめてもらえるんじゃないかって」
「そう、だね……。先生だって男の人、なんだもんね……」
先輩は、おれが暗に言っている、男なら夢の中でそういうことを夢想しても仕方がない、というのが受け入れ難いみたいだった。たしかに、女性からしたらあまり見たくはない部分かもしれないと思う。
「それは、はい……。でも、先生は、現実ではこんなことしないと思いますし、それはきっと、法律で罰せられることが理由じゃないって、おれは思います」
おれの言葉に、タガメ先輩はうつむきがちだった顔をあげておれを見つめてきた。なにかマズイことを口走ってしまっただろうかという不安と、かわいい女子の先輩に見つめられているという緊張で、心臓の鼓動が早くなる。これが蛇に睨まれた蛙状態だろうかと見当違いのことを考えているおれをよそに、先輩はこくりとうなずいて、
「うん、私もそう思う」
と、おれの言葉に賛同してくれた。
「みんなはあんまり知らないと思うけど、五味先生ってすごくいい先生なんだよ? 私、生徒会の役員やってるんだけど、五味先生は数少ない頼れる先生のひとりだった」
タガメ先輩の語るところによると、五味は頭ごなしな年嵩の教職員などと違い、生徒側の主張にもちゃんと耳を傾けてくれ、折衝役としてよく動いてくれたのだという。それもただ生徒側の人気取りのように味方をするばかりではなく、過ぎた要求にはしっかりとなぜ駄目なのかを説明し、矛を収めさせることもしていたのだとか。おれは冴えないとばかり思っていた五味先生の新たな一面を知った。
「でもさいきんはお疲れみたいで……。なんだかご家庭に問題があるって話で、それって私たちが頼りすぎて負担をかけてしまったせいじゃないかって申し訳なくて……」
「そうだったんですね……」
おれはタガメ先輩が保健室に来なくてよかった、と思ってしまった。男性の性の側面にあまり免疫のなさそうな先輩が、尊敬している教師のあの言動に触れたら、いったいどれだけのショックを受けてしまうのだろうか。しかし、五味をどうにかしようとする以上、いつかは向き合わなければならないのだろうと思うと、なんだか居たたまれない気持ちになった。
「それで、イセ君たちや先生はいまどうしてるの?」
「それは」
「おい、タガメから離れろ!」
背後から突然大声が響き、おれは思わず飛び上がり、生徒会室の扉に体当たりしてしまった。
「イセ君!」
「タガメ! そいつは敵だ! 離れろ!」
イセ先輩は興奮した様子で刀を構えて立っていた。おれがいるのを見てすぐに声を発したようで、まだいくらか距離があった。
「どうした!?」
「今度はなに?」
後ろからリンドウ先輩とアガサ先輩も姿を現した。ふたりはそれぞれ、槍と銃を携えている。
「ど、どういうこと!?」
タガメ先輩が生徒会室の扉から身を乗り出してたずねてくる。
「あ、その、ちがうんです! おれ、先生の仲間だと思われてて……」
「タガメ!」
「誤解なのね?」
滲んだ視界の中、これまでにないほど真剣な目つきで見つめてくるタガメ先輩に、おれは必死で頷いてみせた。
「イセ君待って! 話を聞いて!」
生徒会室から飛び出し、おれとイセ先輩のあいだに割って入ったタガメ先輩。
「ひゃっ」
その、女装姿で現実よりもさらに小さくなっているおれとほとんど変わらない身長のタガメ先輩の姿は、目の前から突然消えてしまった。
「なっ!」
「おい!」
「うそでしょ!?」
おれも、イセ先輩たちも、タガメ先輩の立っていたはずの廊下を見つめた。そこには大きな丸い穴が口を開けていた。それもただの穴じゃない。ふつう床に穴が開けば穴の側面にはその床の切断面が見えるはずだが、いまタガメ先輩を呑みこんだ穴には、切断面が見えていなかった。それはまるで穴の中に光を一切通さない黒い水を縁まで一杯に満たしたようでもあり、もしくは床に真っ黒なインクをぶちまけて真円形に塗りつぶしたかのようでもある。
だがやはり穴なのだ。なぜならば、おれや、そしておそらくはイセ先輩も、タガメ先輩の制服や髪の毛がふわりと空気をはらんで膨らみ、足先から溶けてしまうみたいに穴の中に消えていくのが見えたはずだからだ。
「おまええええ!」
怒りの声。さきほどまでの大声ともちがう、明らかな敵意を含んだイセ先輩の声が、おれに向けられていた。
「あ、ち、ちがくて、おれ……」
黒い穴の直径は廊下の横幅八割近くにまで及んでおり、イセ先輩は刀を手にしたまま憤怒に顔を歪め、穴の縁が届いていないほうの廊下を回りこむようにしてこちらに向かってこようとしている。おれの体は半ば無意識にセンパイから離れようとして生徒会室の扉を伝うように移動する。センパイから目が離せず、扉の開かれた箇所に到達したことに気づかず、突然に支えを失って反対側の扉の縁に倒れるみたい体をぶつけてしまった。
「っ!」
「うおっ、なんだ!?」
「今度はなに!?」
一瞬逸れてしまった視線をふたたびイセ先輩が向かってきているはずの方向に目を向けたとき、そこには刀を振りかぶったセンパイの姿があった。
「ワン!」
突然聞こえてきた音に釣られて視線を走らせると、黒い穴の上をなにか白い塊が飛んできているのが見えた。
反射的に……、それだけでなく、現実から目を背けたい一心で、ぎゅっと強く目を閉じる。身構えも心構えもなく、恐ろしさからただ身を硬くした。
首の付け根あたりに何かがぶつかったような衝撃があり、重力が消失したような気がした。しかしそれはごく一瞬のことで、次の瞬間には上半身が何か硬いものに叩きつけられた。
「ぃだっ!」
床に倒されたことはわかった。おれはすぐにもイセ先輩の刀が振り下ろされるか、突き刺されるかするのだろうと思い、頭を抱えて足を曲げ、丸まるようにして身を硬くしていた。
刀で手のひらを切り裂かれた五味先生の様子が脳裏によぎる。そしていましがたぶつけた全身の痛み。刀で切り裂かれるのは、いったいどれほどの痛みだろう。そして、五感のすべてが現実と同じように感じられるこの世界で、死ぬというのはどのような感覚だろうか。
おれはその瞬間を恐れ、待ち構えていた。半ば無意識に、雷と同じように、少しでも恐怖を和らげようとしていたのだ。
しかしおれの身に訪れたのは、体を切り裂かれる痛みでも、身体の内側に刃物を突き立てられる苦しみでも、経験したことのない死への誘いでもなかった。
何か生暖かい、濡れたものが目のした辺りに押し付けられた。
「うやあああ」
じつに間抜けな声を発し、おれはザリガニが逃げ惑うみたいに床の上を滑った。
「いづっ」
どんっと背中を何かにぶつけ、止まる。思わず目を開くと、そこには壁に垂直に座っている小さな白い犬がいた。
体を起こしてあたりを見回せば、どうやら生徒会室の中であり、廊下への扉は閉じられていた。室内にはおれと、ただ床に座っていただけの犬しかいないようだった。
「う……うう、ぐすっ……うっぐ……」
おれは頭を床にこすりつけるようにして、しばらく泣いた。




