021,暗雲
「な」
「おい!」
イセ先輩もリンドウ先輩も驚いて後ずさる。
五味の体にまとわりついているどす黒いもやは、彼の体から噴出しているかのようにゆっくりと上昇している。それはあたかも、五味がたった今、炎に焼かれてぶすぶすと焼け焦げた体から煙を立ち上らせているかのようでもあった。
「な、なにしてんだよ先生!」
リンドウ先輩が声を荒げて問うも、五味は反応を返さない。
一層勢いを増して五味の体から溢れ出るもやは、彼の体を覆い隠してしまいそうなほどだ。
「ちょ、ちょっと、なんかヤバそうじゃない?」
「おい、五味は何をしている!?」
イセ先輩がいよいよ敵意も露に、おれに刀を向けてくる。
「し、知りません! おれ、先生の仲間じゃありません!」
ようやく弁解の言葉を口にすることはできたものの、状況が状況だけに、センパイ方に聞き入れてもらえたのかは定かではない。
そうこうしているうちに五味の体はすっかりもやに覆いつくされ、まるで古い家屋に住み着いてそこらじゅうを煤と埃だらけにしてしまうという妖怪が部屋の隅に集ってしまったかのようでもある。
室内の四人の人間が緊張に表情を歪めて注目するなか、五味は驚くほど平然ともやの中から立ち上がった。
「え、五味……だよね?」
アガサ先輩が疑問の声を漏らすのも無理のないことで、そこに立っていたのはさきほどまでの五味とは容姿がちがっていた。身につけたスーツは五味が着ていたものと変わりないが、上半身はほとんど肌蹴られ、均等に割れた腹筋が覗き、胸板にも冴えないイメージとは程遠い、しっかりとした厚みが見て取れる。顔もたしかに五味とわかるほどには面影を残してはいるのだが、全体に洗練され、美男子といっていいものになっている。もし現実で五味が突然こんな顔で現れたとしたら、だれもが間違いなく整形手術を受けてきたと思うにちがいない。彼は全体の雰囲気から、十歳以上は若返って見えた。
そしてなにより、五味の頭には、黒いもやのまとわりついた左右対称に二本一対のツノが生えていた。五味が五味であったときにはどこか頼りなげで、情けなく見えていた立ち姿も、容貌が美しく変化した途端、急に艶めかしく見えてくるようだった。
「お、おい、なんだよこれ! マジでゲームかなんかかよ!」
五味はリンドウ先輩たちの声など聞こえていないかのように、悠然と自身の左手を見下ろしていた。そこにあったはずのイセ先輩の刻みつけた刀傷は、すっかり消えてなくなっている。
「なんだ、おれはどうなったんだ……?」
自分でもなにが起こったのかわからないのか、五味は不思議そうな顔で左腕を中心に自分の体を眺め回していた。
「おい、何をしたんだ」
イセ先輩が痺れを切らしたように五味へと刀を突きつけた。瞬間、五味の顔色が変わり、悪鬼のごとく表情を歪ませる。
「だまれイセ! おまえこそおれに何をしたっ!」
叫びながら大きく腕を振り払った五味。するとその腕から、彼にまとわりついていた黒いもやと同じようなものが瞬間的に膨れ上がり、イセ先輩へと放たれた。
「うぐっ!」
「うおっ!」
近くにいたリンドウ先輩も巻きこんで、イセ先輩は大きく弾き飛ばされ、反対側の壁に叩きつけられていた。ずり落ちるみたいにして床に座りこんだセンパイの白いシャツには、黒いもやがまるで先輩の身を焼くようにぶすぶすと音を立てながらわだかまっている。
「ちょ、ちょっと、なんなのこれ!」
パニック状態で慌てふためくアガサ先輩。それをあざ笑ってでもいるかのように五味は哄笑をあげていた。
「あはははは! なんだこれは! まるで悪役の化け物みたいじゃないか!」
「みたいもなにも、女の子襲っといてそんなの悪役に決まってんだろ!」
立ち上がりながらリンドウ先輩が吠える。
「あん? なんだリンドウ。おまえだって”そういう”夢のひとつやふたつ、見たことがあるだろ? ん? 想像したことだってあるんじゃないのか?」
五味の言葉に、リンドウ先輩は「ぐっ」と呻いて押し黙ってしまった。
「……サイテー」
「うるっせえな! しょーがねえだろ健康な高校三年の男子なんだぞ!」
リンドウ先輩は顔を紅潮させて弁解していた。おれもリンドウ先輩の意見は正しいと思う。もちろん、だからといって相手の気持ちを無視したり、ましてや犯罪行為に走ったりしてはいけないけど、性への興味がなくなってしまったら人類自体が存続しないことになってしまう。……さいきんは、倫理観さえ黙殺されてしまえば、必ずしもそうではない時代に差し掛かっているようでもあるけれど……。
「そうだろうリンドウ。それにな、現実での教職員の性犯罪について調べてみろ。全国にどれだけの本物のゴミがいると思う? 成人女性が被害にあっているものでさえ性犯罪は明らかにされにくいんだ。あんなものは氷山の一角だぞ? 夢でくらいハメを外したって……いや、ハメたっていいじゃないか」
アガサ先輩やリンドウ先輩の冷めた目線を気に留めることもなく、何も面白くないことを口走ってまた五味は哄笑をあげている。
「……たしかにこれは夢だ」
いつのまにか立ち上がっていたイセ先輩の腹部にはもう黒いもやは残っていなかったが、シャツが焼かれでもしたようにところどころボロボロになっていた。
「だけど、たとえ夢から覚めても、おれはおまえのことを覚えているぞ」
イセ先輩はまだ体が痛むのか、ゆっくりとした足取りにもどこか歪な印象を受ける。
「みんなだってそうだ。おれたちみたいにこれを夢だと理解せずに、ふつうに学校生活をしている生徒たち……さっきのサトウさんだって、おまえにされたことを覚えているはずだ」
しかし、イセ先輩の言葉を聞いても、五味はどこか余裕綽々といった雰囲気で先輩のことを見下していた。
「ふん、何を言うかと思えば馬鹿なことを。イセ、おまえも所詮、おれの夢の登場人物のひとりだろうが、まったく……。付き合っていられん」
「止まれ!」
歩き出した五味に向かって、イセ先輩が刀を向ける。
「今度はほんとうに斬るぞ……!」
「やれるものならやってみろよイセ。殺人は強姦よりも重罪だぞ? 夢の中だから構わないか? なら強姦だっておまえに止められる謂れはないよな?」
「ふざけるな!」
身構えることもなく冷めた視線を向けてくる五味に、イセ先輩は大きく刀を振りかぶった。今度はさきほどのような払い除ける間合いじゃない。刀が振り下ろされれば、間違いなく五味の体は袈裟切りにされることだろう。だが、
「ぐっ……!」
先輩の刀は振り下ろされることなく、黒いもやに覆われた五味の片手によって止められていた。先輩の腕が、いかに力が込められているのかを表すように小刻みに震えているのに対し、五味は身じろぎすることもない。
「はは、やはりここはおれの世界だな。そら!」
「ぐあっ!」
「うおっ」
手にした刃先を五味が振り払うと、近くに立っていたリンドウ先輩ごと、イセ先輩は保健室の床に吹き飛ばされた。
床に倒れたセンパイたちを一瞥し、ふん、と鼻で笑った五味は悠然と保健室の出口へ歩みを進める。
「ま、待ちなさいよ!」
アガサ先輩が五味と保健室の出口とのあいだに両手を広げて立った。勇気を振り絞っての行動なのだろう、ふだんの強気そうな表情のなかに、不安の色が混じっていた。
「なんだアガサ、相手をしてほしいのか?」
五味はわざとらしく頭ごと視線を動かして、アガサ先輩の全身を嘗め回すように視姦した。
「ちが……」
アガサ先輩は竦みあがってしまったのか、五味の手が頬に添えられても抵抗できずに震えているばかりだった。五味の手はゆっくりと頬から首筋へと下りていく。
「やっ……」
アガサ先輩が両手で五味の腕を握って制止しようとしても、五味は構わずセンパイの首筋を撫で続ける。さらに首元から指先を制服の下へと潜らせ、鎖骨の上を滑らせるようにして腕まで撫で下ろした。センパイはもともといくつか首もとのボタンは開けていたが、さらにぶちぶちとボタンを弾き飛ばしながら、五味の手は容易くセンパイのほっそりとした肩を露出させた。
「やめろおおお!」
声を張り上げながらリンドウ先輩が五味の後姿にラグビーのタックルのように突っこむが、五味の体はわずかに傾いだだけで、ほとんど動じることがない。
「……ふん」
五味が羽虫でも払うみたいに腕を振り払うと、センパイたちはふたりともがそれぞれに保健室の床に転がった。
「おまえたちの相手は面倒だ。夢の中でまでストレスを感じるのはごめんだな」
そう言うと、五味はもう保健室の内に視線を向けることなく廊下へと出て行った。
五味が出て行くと、扉はなぜかひとりでに閉じられた。
「ぐ……くそ……」
よろよろと立ち上がったイセ先輩は、悔しげな表情で保健室の扉を……おそらくのはその先に見ている五味の後姿を睨みつけていた。と思ったら、センパイが恐ろしい顔をしたままこちらを振り返った。
完全に蚊帳の外で、ただ呆然と事態の推移をうかがっていたおれは、イセ先輩の表情に心臓の止まる思いがした。が、センパイの視線はすぐに周囲に流れ、やがて床に倒れたままのリンドウ先輩たちに向けられた。腕に視線を落とすと、おれは自分でも気がつかないうちに透明化していたようだった。
「大丈夫かリンドウ」
「お、おう……おれは平気だ」
イセ先輩はすでに刀を持っていなかった。手を差し出して、リンドウ先輩を引き起こしてやっている。
「アガサ、平気か」
「まぁ、ね……」
すでに立ち上がっていたアガサ先輩は、もともと開けていたシャツのボタンを閉めていた。ただ、五味に触れられたときに閉めていた箇所のボタンはいくつか弾け飛んでしまっていたらしく、シャツの隙間がいくらか広がってしまっていた。
「つかなんだよあれ、化け物になるとか、テンプレかよ」
「そうだな……」
独り言のようにもらしたリンドウ先輩の声に、言葉を返したイセ先輩の声にも覇気がなく、どこか項垂れたような様子からも意気消沈しているのが伝わってくる。




