020,流血
夢の世界に来てまで透明化するという身を隠すだけの技能を身につけてしまった。いったいおれはどこまで臆病だというのだろう。アキラさんのことを知っていたのだから、超人的な能力を会得することができる可能性については認識があったはずなのだ。だから、もしリンドウ先輩に見つかりそうになったときや、その後、学校の裏手でオバケに見つかりそうになったときなどに、自分に戦う意志があれば、もっと違う能力に目覚めていた可能性もあったのではないか。
「顔はともかく、胸はあんまり期待できそうにないな」
いまさら後悔しても取り返しがつかない。力でこの状況を覆すことは難しいだろう。いまからでもなにか超人的な能力に目覚められればどんなにいいだろう。しかしおれの心はもう、大人の男性に勝てるはずがない、と敗北を認識してしまっていた。
だから、切り抜けるにはやはり、先生に事情を説明してわかってもらうしかない。
「ま、待って、先生っ、待ってください!」
「ああ?」
五味は気分を害したのか、おれのカーディガンを捲り上げていた手を止め、頬を挟むように掴んで顔を寄せてくる。
「おまえはおれのパートナーなんだろ? なんでおれの邪魔するんだ? あ!?」
最後のどすの聞いた声に、体が勝手にびくりと跳ね上がり、視界が滲んでくる。
「ひっ、う……お、おれ」
「女の子が自分のことをおれなんて言うのはやめなさい」
「ち、ちがうんです! おれ、スミレですっ、スミレカヅキです!」
「すみれ……?」
五味は眉間にしわを寄せた。倒れこむようにして近づけられていた顔が離れていき、両腕の拘束も解かれた。
「……スミレは男だぞ。おまえはどう見ても女じゃないか」
おれは五味の担任するクラスになったことがない。だからわかってもらえるのかどうか自信がなかったが、幸いにも五味はおれのことを覚えてくれていたらしい。ふだん名前負けする珍しい苗字やキラキラっぽい名前にいまなら感謝できそうな気がした。
「こっち……夢の世界に来るとこうなっちゃうんです」
眉根を寄せたままの五味が、突然スカートを捲りあげた。
「ちょ、ちょっと!」
反射的に両手でスカートを押さえる。
「……女装じゃなさそうだな。それでなんだってんだ、本物がどうとか」
五味が雰囲気を軟化させ、これならなんとか話ができそうだと思った瞬間、
「おい、何をしている」
そんな男性の声が廊下のほうから聞こえてきた。
「あ?」
奇しくも五味といっしょになってそちらを振り返ると、そこには主人公センパイが立っていた。
「た、たすけてください! 先生が無理やり!」
ベッドに両手を縛り付けられたままの女子生徒がセンパイに向かって叫ぶ。彼女は上半身を肌蹴させられたままの状態だった。それを見たセンパイの顔色が、明らかに攻撃的なものへと変貌する。
「五味先生……こんなことのために、みんなをこの夢に閉じこめたのですか?」
「おれがみんなを閉じこめただと? 何を言っているんだ。三年のイセだな。おまえこそ何をしているんだ。って、夢相手に何を言ってるんだおれは……」
五味が自嘲するように頭を掻いているのに対し、イセ先輩は変わらず保健室の前で直立して五味を睨みつけている。
「……お前が元凶でないとしても、この所業は見逃せない」
そう口にしたイセ先輩が右手を持ち上げる。その手は肘から先辺りが青いもやに覆われていて視認することができない。もやを払うようにして振り下ろされた先輩の右手には、おれをオバケから助けてくれたときと同じ、刀が握られていた。
「ああ? イセ、なんだそりゃあ? 高校生が刀とかよお、おれもずいぶんな夢見るようになっちまったなぁ……」
「だ、だまれ! たしかにちょっと、いかにも、って感じだけど、仕方ないだろ!」
言われてみればたしかに、学生服に刀というのは現実的にはイタイ部類に入るのかもしれない。おれは純粋にかっこいいと思っていたこともあり、大人である五味に指摘されてなんだか急に顔が熱くなってきた。
イセ先輩は五味を見据えたまま室内へと足を進め、女子生徒が縛られているベッドの近くまでたどり着くと、彼女の両手を戒めている五味のネクタイらしき布を刀で慎重に切り裂いた。解放された女子生徒は制服の前を掻き抱くようにして肌を隠し、イセ先輩の背後に隠れる。傍らの五味が小さく舌打ちをするのが聴こえた。
「サトウさん、だったよな。一応聞くが、どうしてこんなことに?」
刀も視線も五味へと向けたまま、イセ先輩が尋ねる。
「先生がついてこいって、それで無理やり……」
「……あっちの子は?」
「知らない。後から一人で来て、先生がパートナーだとかなんとか……」
サトウさんとかいう女子生徒の言葉にひとつも嘘はない。おれは後からひとりでやって来たし、たしかに五味はおれのことをパートナーかと誤解していた。だけど待ってほしい。どう見たっておれもサトウさんと同じような被害者だって、そういう状況じゃないでしょうか。でも彼女がおれを五味の仲間かのように誤解してしまうのも無理はないのかもしれない。おれはイセ先輩のようにはじめから敵対的ではなかったし、実際、五味を説得しようと思っていた。襲われていた彼女からしてみれば、どうしてもっとはっきりと五味を犯罪者だと糾弾して助けのひとりも呼んでくれないのかと思ったことだろう。それに途中までではあるが、成人男性に無理やり組み敷かれる恐怖というのはおれも実感していた。状況を正しく認識できなかったとしても無理はないと思う。
「……五味の仲間だったのか」
さすがにセンパイ方に敵と認識されるのは避けたい。
「待ってくださ」
「ごちゃごちゃうるせーぞイセ!」
成り行きを見守っていた五味がよりにもよってこのタイミングで怒り出してしまった。ベッドから降りて、ゆっくりとイセ先輩へ近づいていく。
「てめえおれの夢の登場人物のくせして、なにヒーロー気取ってやがんだ、あぁ!?」
イセ先輩は背後の女子生徒をかばうようにして前に立ち、五味へと刀を向けたままじりじりと移動するが、やがて部屋の隅へと行き着いてしまった。じりじりとした緊張感が漂う。
おれは焦っていた。このままではおれはセンパイ方に五味の仲間だと思われてしまう。
「センパイ、おれっ」
おれが声を発したことで、五味を見据えていたイセ先輩の視線が一瞬、こちらに向いた。その瞬間、五味が猛然とセンパイ目掛けて突進した。
「ぐああああ!」
イセ先輩がとっさに凪いだ刀の剣線が、赤い雫を伴った。襲い掛かろうとしていた五味は右手で左手を握り締めながら、よたよたと後ずさり、情けない声をあげている。
「い、いでええ、イセ、おまえマジか、マジで切りやがったのか……」
五味の後ずさった軌跡が、垂れて散らばった血液で描かれていく。それを見つめるイセ先輩の顔色も、主人公然とした凛々しいものではなく、格好いい先輩も、やっぱりひとりの高校生なんだと実感できるような当惑の張り付いたものだった。
「クソッ……なんでおれの夢なのに、こんなクソみてぇな思いしなきゃならないんだ……!」
ふらふらと後ずさる五味が、保健室の備品が納められている棚に背中からぶつかった。がちゃがちゃと耳障りな音を立てて、収められていたもののいくつかが、倒れ、床に散らばっていく。五味もその場にしりもちをついて腕を押さえ、痛みに呻いている。
「三階の廊下にタガメさんとアガサさんがいるはずだ。事情を話して保健室に来るように伝えてほしい」
脱いだブレザーを女子生徒に渡しながら、イセ先輩は彼女を廊下へと送り出した。刀を構えたまま、部屋の隅にうずくまる五味へゆっくりと歩み寄る。途中、ベッドの上で固まったままのおれに、ちらりと向けられた視線は、断じて友好的と言えるものではなかった。
「クソ……クソ……」
部屋の隅にうずくまったまま、五味はうわごとのようにクソクソと繰り返している。イセ先輩が目の前に立っても、顔を上げることさえしない。
「改めて聞きます。五味、先生。あなたが、みんなをこの夢に閉じこめたのですか?」
「あぁ? そんなのおれが知るかよ。つーかなんだよこの夢、痛みまでリアルとか、拷問かよ……」
「では、あなたは何も知らないと?」
「そう言ってるだろクソガキがっ! 刀なんて持って調子に乗りやがって! 銃刀法違反に傷害だぞ! わかってんのか!」
座りこんだままで喚きだした五味に、イセ先輩はわずかに距離を置いた。
「……そういうあなたは強姦罪ですね」
刀を五味に向けたまま、イセ先輩が横目でこちらに視線を送ってくる。
「きみは……共謀罪?」
「ちっ、ちがいます! おれは共謀なんて」
イセ先輩に事情を説明しようとした瞬間、またしても「イセッ!」という男性の声に邪魔された。
「おいどうなってる!? サトウがレイプされそうになったって……斬ったのか?」
五味の流した血の軌跡を眼で追って、部屋の隅に座りこんでいる彼を見やるリンドウ先輩。
「こ、殺したのか?」
「いや……」
座りこんだままの五味の足元にはちょっとした血溜まりができていた。彼は腕を押さえたままほとんど身動きしないので、死体かと勘違いしたのだろう。
次いでおれに目を向け、
「おい、あの子は?」
「五味の仲間らしい」
「ち、ちがうんですって! おれは」
「イセ! リンドウ!」
保健室の入り口に、今度はタガメ先輩ではない、もうひとりの女子のセンパイが現れた。
「アガサ! タガメは?」
「サトウさんについてる。ってなにこれ血!?」
飛びこむようにしてリンドウ先輩の傍らに立ち、同じように血の軌跡を辿る。
「ちょ、ちょっとイセ! なにそれ!」
「なに、とは?」
「それだよそれ!」
アガサ先輩はしきりに部屋の隅を指差している。そこにはさきほどまでと変わらず、座りこんでいる五味の姿がある。
しかし、ただ項垂れるようにしていた五味の体には、どす黒いもやのようなものが絡み付いていたのである。




