001,桜の向こう
窓の外では桜の花が満開で、はっきり言って空が見えづらくて邪魔だった。実際問題、おれ以外の生徒たちにしても、大量に教室に舞いこんでくる桜の花びらには辟易している。小耳に挟んだところによると、一階上となったこの二年生の教室では、一年生のころの教室よりも花びらの被害が大きいらしい。よく見なくても、教室の中には踏み潰されて黒ずんだ桜の花びらが散乱していた。そういったことがありながらも桜は人気であり、新学期のはじまりに計ったように咲き乱れた桜の花に生徒たちの多くは視線を奪われているようだった。
クラスメイトの幾人かが桜を眺めているそのなかに、ひとりの女子生徒の姿を認めた。カーディガンだけの生徒もちらほら見られる中、彼女はブレザーの前までしっかりと閉めていた。しゃれっ気のまったく感じられない黒縁の眼鏡をかけていて、その眼鏡にかかるていどの長さの前髪と、全体も肩にかかるくらいの長さの黒髪。そんな、優等生を絵に描いたような出で立ちをしていた。その姿はどこか前時代的で、いまの年代にあっては浮いているようにも思えた。だけど、おれが彼女に目を留めたのはそれだけが理由じゃない。彼女は窓際に立って外の景色を眺めていたが、その瞳は咲き誇る桜の花ではなく、その先の、どこか遠くを見つめているように感じたからだった。
ふいに彼女がこちらに視線を向けた。おれは焦ることなく視線を窓の外へともどした。これで、見られていたような気がするけど、よくよく見たら違ったらしい、となってくれればありがたい。もともと頭は窓の外に向けたままだったのだから、不自然ではないはずだ。
それにしても、一年生のときと同じように、窓際の席を割り当てられたのは僥倖だった。これがもしも教室の真ん中から廊下側だったとしたら、おれはずっと机に突っ伏して眠った振りを続けなければならないところだっただろう。
教室の中はにぎやかだった。ほとんどは前学年でクラスがいっしょだった人だったり、部活がいっしょの人だったりが、クラスがいっしょになったことなどについて話しているみたいだけど、なかには初対面にちかいらしいのに会話を交わしている人たちもいるようだった。おれはそんな人たちをはっきりと尊敬する。厭味でなく。
数人はおれと同じように頬杖をつきながら窓の外を眺めたり、机に突っ伏して眠っていたり、携帯端末に視線を落としていたりもするが、それらは少数派だった。
やがて教職員が入室し、おれの高校二年生としての生活が本格的にはじまった。
◇
ふいに目が覚めた。あたりの薄暗さから、どうやらまだ夜中らしいと覚る。べつだん寝苦しいということもなく、悪夢を見たのでもないのに夜中に目を覚ますというのは珍しかった。そのまま寝なおそうとも思ったのだが、思いのほか眠気が飛んでしまっていて、寝付かれない。とくに喉が渇いていたわけでもなかったが、なんとなく台所に向かった。
おれは電灯は点けずに行動した。今夜は晴れて月が出ているらしく、家の中はぼんやりと明るかったし、暗闇に目が慣れていたこともある。いくらか不便には感じるものの、電気を点けて、父親や近所の人に存在を覚られるのが嫌だった。
台所にはウォーターサーバーが設置してあるが、おれは自分のコップを棚から取り出して水道の水を注いだ。なんとなくだが、水道でいいだろ、という感覚があるのだ。これが捻くれた劣等感のようなものからくるのか、はたまた変化を嫌がる臆病さからくるものなのかは自分でもよくわからない。前者であるような気がしているけど、元来、臆病である自分は後者の感覚もかなり含んでいるような気がしていた。かといって、絶対に水道水を飲むというわけでもない。もうすこし季節が進んで水道水のカルキ臭がきつくなってきたらサーバーの水も飲むのだ。そんな自分の一貫性のなさというか、現金な感じがおれはあまり好きではなかった。
なんとはなしに室内を見回し、バルコニーに続く窓に視線を向けた。窓には薄手のカーテンが引かれてあり、月明かりが透かしたように射しこんでいたのだが、そこに覚えのない影があった。
人影、というわけではないと思う。なにせカーテンに映っているものなので、はっきりとした輪郭はうかがえない。ただ、カーテンの凹凸や窓までの距離によっては、こんなふうに影ができることもあるのでは? とも思える。
はっきり言ってびびっていた。ことさらオカルトに傾倒しているわけでもないし、どちらかといえばそれなりに高層階にあるこの部屋のバルコニーに、実在する人間かなにかが存在すると考えたほうがなお恐ろしいのではとも思う。だけど、実在のなにかが入りこむ余地がなさそうだからこそ、不可思議な何者かがそこに佇んでいる可能性が高まるのではないだろうか。
昨夜見た夢を思い出す。
自宅のバルコニーにだれかが居て、おそらくは危害を加えられた夢を見た翌日に、こんな事態に遭遇するなんて、偶然とは思えないようななにかを感じても無理はないだろう。
決断しなければならない。
施錠はしてあるはずだ。もっとも、そんなものは実在するものでも、しないものでも、ほとんど意味はなさないのだろう。ここまでやってくるような犯罪者であれば、施錠など関係なしに窓を開ける手段を用意しているだろう。そして後者は言うまでもない。古式ゆかしい吸血鬼であるというならば別かもしれないが……それなら施錠自体が無関係か。
放置するか……でなければ通報しなければならないだろうか。それは気が引ける。実在するものであればいいが、でなければ下手をすれば悪戯扱いされてしまうかもしれない。父親にも迷惑がかかるだろう。
やはり……正体を確かめる必要があるのでは。そういう思いに駆られる。好奇心はきっとない。わけのわからないものは怖いから、正体をはっきりさせて安心したいという強迫観念のようなものだと思う。ホラーなどで、なぜわざわざ自ら危険に踏みこむのだろうと思うことがあったが、皆こんな気持ちだったのだろうか。あの不審物が、自分に危害を加えないものだとはっきりさせないことには不安を拭い去れない。不安を抱えたままベッドで膝を抱えて夜を明かすというのは、それはそれで恐ろしい。
考えてみれば、仮になんでもないような、たとえばなにかのごみが風に乗ってひっかかっていたりするのであれば、確認していなくともひとまず問題はない。朝までベッドで震えることになるが、それだけだ。だがもし、なにか問題のあるものがそこにいるとしたらどうだろう。もし確認しなくても、我が家に危害が加えられる可能性は高いのではないか。しかし、懸念されるのは藪を突いて蛇を出す可能性だ。本当ならなにごともなくやりすごせたはずの危険を、自ら招き入れるのは馬鹿らしい。
つまり目指すべきは、相手に気づかれずにその存在がなんなのかを把握すること。
結論を出しておいてなんだが、かなり無理っぽいような気がする。胸の内の臆病な自分は、下手に動いて失敗するほうがまずそうだから、このまま部屋にもどって寝てしまおうと訴え続けている。
だが、足は床に縫い付けられたかのように動かない。異変を見過ごしてなかったことにしてしまいたい自分とは別に、非日常に踏みこんでみたいと感じている自分がいたのだ。
ゲームやアニメ、漫画などは一通り嗜んでいる。あれこれと仔細に語れるほどではないが、人並みに憧れは持っていた。
一歩、踏み出した。バルコニーに向かって。
足音を立てないようにそろそろと歩み寄る。視線の先、カーテンの向こうの影はまったく動いていないように見える。鼓動の音で外の何者かに気づかれるのではないかと思うほど心臓がうるさく跳ね回り、途中、何度も深呼吸をした。
やがてカーテンの前までたどり着く。影の主とは、もう窓を挟んで何十センチと離れていないのだと思うと、不思議な感じがする。窓という遮蔽物がなければ、手を伸ばしてとどく距離に、なにかがいるのだ。
その場で床に腹這いになった。まさかカーテンを引くわけにもいかないし、ちょっとずらしてみるには位置が悪い。それに何者かの視界に入る可能性がおそろしかった。だから、カーテンの下をすこし持ち上げて様子をうかがうことを考えていたのだ。
カーテンはぎりぎり床に触れない、ちょうどいい長さのものだ。その端を恐る恐るつまんで、ゆっくりと持ち上げていく。
格好悪いと思う。物語の主人公たちなら、こんなときどうするだろう。うだうだと悩んだりせず、なんだ? と疑問をうかべた次の瞬間にはカーテンを開いて、その向こう側のなにものかと邂逅を果たしたりするだろうか。カーテンの向こう側にいるものがかわいい女の子なら異能力バトルものとか? でなければ伝奇ファンタジーとか。異世界に連れて行かれるって展開もありうるだろうか。
女性がおどろおどろしい容姿であればホラーかな。逆にコメディなんかの可能性も高いかもしれない。個人的にあまりグロテスクなのは得意ではないので、スプラッタ系のホラーは遠慮したいところ。
恐怖と好奇心が入り混じったなんともいえない気持ちで、わずかに捲り上げたカーテンの向こうを見た。
そこにはバルコニーの床が見えていた。床、だけが。
しかし影は変わらずそこにある。もうすこし捲り上げてみる。
白い布が見えた。かすかにではあるがひらひらとゆらめいてる。
おれは一度、カーテンを元に戻し、大きく息を吐いた。一気に体の力が抜けた。
カーテンの向こうにあるものは、おそらくただの布だろう。シーツとかそんな類いの。上層階の洗濯物でも落ちてきたのだろう。そんなことがあるだろうかとも思うが、きっと風の影響かなにかだろう。不思議な女の子だとか、幽霊だとかに比べればはるかにあり得そうな話だ。
急に恥ずかしくなり、立ち上がった。さしたる躊躇もなく、カーテンを開く。
目が合った。