017,変質者、そしてストーカーへ
そっと音を立てないように扉を開いて廊下を覗きこむと、そこにはだれもいなかった。まだ授業中なので当然といえば当然だろう。とはいえ、じきに授業が終わる時間だ。できれば廊下に生徒たちが出てくる前にセンパイ方の姿を見つけておきたい。
廊下に出て、そっと扉を閉じる。おれの透明化能力は、音や、おそらく匂いも隠すことができない。そのことを忘れないように気をつけなければならない。
センパイ方は順番に教室を巡っているみたいだったから、一年生の教室を回り終えて二階へ移動したと思われる。完全に教室に入っている可能性もないではないが、悲鳴を聞いたとか椅子が倒れていたとか、おそらくは特徴的であろう出来事があったにもかかわらず、おれのいる教室に入ってこなかったことを考えると、仔細に調査するというより全体の状況を確認するような方針なんだろう。
センパイ方が歩いていった方向へ廊下を進む。階段自体は反対側にも存在し、そちらのほうが距離は近いのだが、進行方向を先回りするのは少し怖い。べつに見られはしないのだから、視界を警戒する必要はないかもしれないが、度胸のなさは如何ともしがたい。
それに罠を仕掛けたりしにいくわけじゃないんだから、わざわざ危ない橋を渡ることはない。
さっきはつい興奮してクラスメイトにいきなり話しかけるという暴挙に出てしまったが、そんな思い切った行動は、本来は苦手なのだ。
まだまだ使い慣れない能力を用いての追跡であることだし、あまり気を配らなければならない要素を増やすべきじゃない。
ひとしきり消極策に出る言い訳を胸の内で済ませたところで、二階の廊下にセンパイ方の姿を見つけた。彼らは階段側から数えて二つ目の教室を覗きこんでいる様子だった。
さすがに階段側に折れた通路の壁に身を隠しながらでは距離が遠く、話している内容を聞き取ることはできない。
もっと近づくべきだ。そう思う。しかし廊下には遮蔽物の類いがほとんどなく、しかもそのわずかな死角は、人間が隠れられるようなものじゃない。
身を隠す必要はないのだと理解はしているが、だからといっていきなり人前に出て行ける人なんているだろうか。いまのところは意識しない限り透明化は解除されないみたいだけど、もしなにか能力を解除する能力とか、透明化の通じない索敵能力みたいなものがセンパイ方のだれかに備わっていたとしたら、身を隠せる場所を確保しておかなければ見つかってしまう。
いやそもそも見つかったらなにか問題があるのか? とは常々考えているのだけど、いかんせん夢世界でのおれは女性であり、夢世界の学校では女子生徒の格好までしてしまっている。本来のスミレカヅキが男子生徒であることは把握されているし、タガメ先輩に至ってはおれの見た目まで記憶しているという。
せめて携帯端末のように服装も任意のものを持ちこめればよかったのだが、それはうまくいかなかった。
おれがまごついているあいだにセンパイ方は教室の扉を閉めていて、移動を開始しようとする様子が見られた。
と、なぜかセンパイ方は廊下の奥へではなく、すでに回り終えているはずのこちら側に向かって歩き出した。
予想外の挙動に、なんで! と心中で叫んだ。
もしかして見つかったのか、とも思ったが、おれが様子を見ているあいだ、だれもこちらは振り返らなかったし、おれは階段側に折れた廊下の陰から出てもいないのだから、可能性は低いと思う。見ている限り、特殊な能力でおれの存在を感知したというわけでもなさそうだ。
センパイ方とはまだ教室ひとつ分の距離がある。慌てずに移動すれば気取られることなく離れることは十分に可能だ。しかし……。
問題なのは三階と一階、どちらに向かうかだ。
もしセンパイ方と向かう先を同じにできなければ、行く先を見失う可能性がある。とはいえ、同じにできればできたで、ついさっき忌避したばかりの先回りの格好になってしまう。
八方ふさがりじゃないか!
おれは急に進路を変えたセンパイ方を胸中で呪いつつ、そっと身を寄せていた壁から身を離し、足音を立てないように反対側の壁に沿って、ゆっくりと廊下側に移動する。
少しずつ、廊下をこちらに向かって歩いてくるセンパイ方の姿が見えてくる。それぞれに話をしていたり、窓の外を眺めていたりして、意外とこっちを見ている人は少なかった。
階段側に折れた通路から体が出ようというところで、緊張から足が動かせなくなってしまった。正確には、動かすことはできそうだけど、緊張で震えてしまって足音を立ててしまいそうだった。本当なら廊下側の隅にまで移動するつもりだったのだが、仕方なくその場にしゃがみ込んだ。
廊下は何人もの生徒が問題なくすれ違えるくらいには広いので、この位置ならばセンパイ方が目の前までやってくることはないはずだ。
「ほんで、いまのところこっちでいなくなってるのって何人?」
タガメ先輩ではないもう一人の女子の先輩が話していた。彼女はなんとなく華やかに見えた。学生から逸脱しているようには見えないが、全体にどこか垢抜けた雰囲気を纏っているように感じた。それと同時に、女状態のおれと同じくらいの、ボブ? かショートボブ? くらいのうっすらと明るい髪がさっぱりとした印象で、なにかスポーツでもやっていそうな快活な雰囲気も備えていた。たぶん、現実のおれより少し身長が高そうな気がする。
「一年生で二人、二年生でいまのところは一人だね」
質問に答えたタガメ先輩は四人のなかでいちばん背が低い。ことさらに小さいというわけでもないが、女子の平均くらいではなかろうか。口調と同様に見た目も落ち着いた印象で、おれの頭の中ではどこかアキラセリカさんが重なって見えた。しかし両者を比較した場合、アキラセリカさんが硬質なのに対し、タガメ先輩は柔らかく、受容的な雰囲気を纏っていた。俗な物言いになるが、美少女の高校生といったらこんなイメージではないかと思う。
「んーで、二年のあとは三年と。教師連中はどうすんの?」
「先生方は難しそう。皆さん行動がバラバラで……」
タガメ先輩の隣には、例の刀を持っていた主人公センパイがなにやら思案気な様子で歩いていた。ふだんから刀を持ち歩いているわけではないのか、いまは持っていない。すらりとした立ち姿はまさにイケメンといった風情で、大柄なリンドウ先輩ほどではないが、身長も平均よりは少し高そうだ。おれは思わず自分とセンパイを比較して打ちのめされてしまった。どちらかといえばリンドウ先輩のほうがおれの父に近く、理想形のイメージなのだが、なんだかおれとは系統がちがうような気がして、どうあがいても到達できないような気がするのだ。それに対して主人公先輩は系統が似ているというか、おれの質をどこまでも高めていった完成形がこれなのではないか、という感じがするのだ。
「職員会議とかしてないの?」
「私たちがこの世界にいる時間に、会議の時間が含まれていないから……。朝ならぎりぎり間に合うかもしれないけど」
しかしため息をつくわけにはいかない。あれこれと考えているうちにセンパイ方はもう目の前にまで迫っていた。先頭を歩くリンドウ先輩が廊下を曲がり、階段へ向かう。廊下の奥側に移動せずに壁に張りついていたら、服が擦れ合っていたかもしれない。
「んじゃ休み時間にでも職員室で張ってみる? 全員は無理っぽいけど、あるていどは把握できるだろ」
そしてセンパイ方は三階へ続く階段を上りはじめた。現実の学校にもいたことから考えても、センパイ方のこの夢世界での学年は二年生だと思うのだが、なんらかの調査を途中にしてまでどこへ向かっているのだろうか。
「こういうのって用務員さんとか怪しそうじゃない? 関係者だけど関係者じゃないみたいな絶妙なポジション」
「ありがちだろ」
そんなことを考えながらセンパイ方の姿を目で追っていると、しゃがみ込んだ姿勢のせいで、垢抜けた雰囲気の先輩のスカートの中がかなり際どいところまで見えてしまった。
慌てて顔を伏せた瞬間、廊下と上履きの擦れ合う、きゅっという音がわずかにもれた。
「ありがちってことは確率が高いってことでしょ!」
「ん……」
その瞬間、主人公先輩が足を止め、階下を振り返った。
おれはオバケに気づかれそうになったときのことを思い出しながら、こんな失敗ばかりじゃないかどんだけ小心者なんだ、と心中で自分を詰っていた。
「おーい、どしたん?」
「いや、いま……」
主人公センパイがいまにも階下へもどってきそうな様子を見せた瞬間、授業の終わりを告げる放送が流れた。
静寂から一転、あたりには降って湧いたようにがやがやとした喧騒が満ちる。
「……」
センパイはどこか心残りのありそうな表情を見せたが、教室から教師や生徒が出てくるのを認めると、ふたたび階段を上りはじめた。すぐに踊り場まで到達して折れ曲がり、センパイの姿は見えなくなった。
おれは廊下にぺたんとしりもちをついて体育座りになり、膝におでこを預けて大きくため息をついた。
ほんとうならここからすぐにこっそりと追いかけるつもりだったのだが、とてもそんな気にはなれそうもない。
廊下を行き交う生徒たちの話し声をBGMにうじうじしていると、ふいに近くに人の立つ気配がした。
見上げてみると、そこにいたのはいつもとちがい、どこか虚ろな表情を顔に貼り付けた五味先生だった。
「三年にだれかいいのいたっけなぁ……」
彼は二年生のクラスが並ぶ廊下を眺めながらそんなことをぼやくと、とぼとぼと歩き出した。
おれは背筋にぞくりとした寒気を覚えた。だっておかしいではないか。いま、夢の世界でこの階にいる人たちは二年生で、彼らが三年生なのは、この世界での話じゃない。
現実での話だ。