000,悪夢
ふと気づくと、自宅のリビングに立っていた。台所や玄関を背にしてバルコニー側を向いている。カーテンも窓も開かれたそこには、月明かりを背にして見知らぬ女性が立っている。窓から吹きこんでくる風で、銀色にも見える長い白髪がなびいていた。
彼女はゆっくりとこちらに振り向いてくる。すこしずつ、髪の白さにも劣らない新雪のように白い頬、首筋が見えてくる。目はこちらに向いているようで、横顔が見えきらないうちから、まるで宝石のように紅く輝く瞳が見えていた。
かなしばりにでもあったかのように、彼女の瞳から目を逸らすことができない。
月に雲がかかったのか、巨大な生物に一呑みにでもされたかのように、突然にあたりが暗闇に包まれた。彼女の姿も、周りのなにもかもが見えなくなる刹那、二つの赤い燐光が、こちらに向かって幽かに尾を引いたような気がした。
一瞬にしてすべてが無くなってしまったかのような暗闇の中、頬にそっと何かが触れた。さらさらとした感触が頬に添えられ、どうやらそれが手のひららしいと知る。それはゆっくりと頬を包むように触れると、そのまま首筋へと指を滑らせ、背中に巻きついてくる。
ふいに、目の前が赤く染まった。
あまりの出来事に反射的に仰け反ろうとするも、背中に回された手のためか、それ以前から続くかなしばりのような状態のためか、体は痙攣のようにびくついただけで動かすことができなかった。
どうすることもできずにただただ目を見開いていると、やがて目の前の赤がすこしずつ離れていき、それが二個一対の丸いものだと気づいたとき、それが一瞬だけ消えて、すぐに現れた。見間違いでなければ、上からつぶれて、下からもどったという具合に。
もしかしてさっきの女性の目だろうか、そう思ったとき、紅い瞳はふたたび接近してくると、斜め下にすっと移動した。首筋にかすかな吐息の感触を覚えた次の瞬間、鋭い痛みが走った。
「うあああああ!」
叫びながら目が覚めた。
はぁはぁと荒い息をつきながら、慌てて身を起こし、首筋に手を伸ばす。痛みを感じた辺りをぺたぺたと触れてみるが、これといっておかしな感触はない。
大きく息を吐いて、四肢を投げ出すみたいにしてふたたびベッドに横になる。
悪夢を見て飛び起きるなど、過去に記憶がないくらい珍しいことだった。
どうも夢というのは、見てはいるものの覚えてはいない、というのが正しいらしいのだが、とにかくおれはふだんあまり夢は見ない性質だった。時折見るとしても、それはほとんど五感の伴わない、箇条書きされたうえに支離滅裂な小説のようなもので、とてもじゃないが楽しめるようなものではなかった。
それがさっきの夢は、おそらく五感がほとんど働いていたように思う。特徴的な匂いこそ記憶にないが、最後の瞬間、赤い瞳が斜め下に消えていったあたりで、なにか甘ったるいような香りがふわりと漂ったような気もする。
いったいなにがいけなかったのだろうと、昨夜の行動を振り返る。まだ春先だというのに、オカルトが恋しくなって動画サイトでそっち系の動画を視聴したのがまずかったのだろうか。
あたりはまだ薄暗く、目覚めるには早いようだった。また同じ夢を見たらどうしようかと不安を抱えながらもごろごろしていると、いつのまにか眠ってしまっていたらしく、けっきょく携帯端末のアラームに起こされるはめになった。
夢は見なかった。
次話以降は一話4000字程度での投稿となります。