(3)
「元気ではないですよね」
「まあね」
友香梨の家に来たのはいつぶりだろう。
「相変わらずすごいね」
「そろそろ部屋を変えないといけないかもしれません」
しばらく来ていなかったが、いつ見ても壁一面に並んだ本の数に圧倒される。そこまで広くない部屋の壁にはそれぞれ本棚が置かれ、どの棚にもぎっしりと本が詰め込まれている。それでも入りきらなかった本達は、床に平積みにされている。前に来た時より明らかに増えている。一体全部で何冊あるのだろう。
「毎度ながら狭くてすみません」
「いいよ、逆になんか安心する」
「あれ? 本好きでしたっけ?」
「全然読まない」
「これおすすめですよ。ページ数も多くないですし、文体もさらっとしてるんで」
「うん、いい大丈夫」
「そう」
「また気が向いたら貸して」
「今までケイが一度も気が向いた事なんてないです」
「いつかは向くよ」
「期待せずに待ってます」
僅かだが友香梨が不服そうな顔になったのを見て思わず笑顔になる。顔に出てないつもりだろうが、残念さが隠しきれていない。ここに来るまで確かに元気はなかったが、それだけで少し元気をもらえた。
ダメになりそうな時に頼る場所。そう心で思った瞬間、どうしようもなく寂しくなる。
ここに来るときは、いつもまた日常に戻るためだった。ダメな自分を戒めて、また頑張って歌う為に。
「ねえ、友香梨」
名前を呼んでみる。たまらなくなって、何も考えずに。
「ケイ」
友香梨も私の名前を呼んだ。柔らかくも硬くもない、平坦な声。
ダメだ。瞬時にそう思った。
「今日はお別れを言いに来たんですか?」
彼女は分かるのだ。何でも。
長い付き合いだもんね。
※
「式部さーん、私のもお願いね」
私と友香梨が出会ったのは、高校二年の頃だった。全身どっぷり音楽に浸かりきった私は、勉強そっちのけとまではいかずとも、確実に勉学よりも音楽に情熱を注いでいた。聴く事だけに留まらず、私はヘイリーに少しでも近づきたいと思い、マイクをとりバンドに身を置き始めていた。まだまだ初心者で聴くのとやるのとでは大きく違うという現実を感じながらも、それでも歌う事こそ生き甲斐だ全てだと音楽にぶつかっていた。
周りはそんな私を「カッコイイね」と言ってくれたが、どれだけの人が自分の本気を分かってくれているのか。私は口でありがとうと言いながら、心は素直に喜んでいなかった。
ここにいるどれだけの人に私の歌と言葉は届いているのか。
もっともっと、皆に届いて欲しい。
「ほんと助かるよ、式部さんがいてくれると」
私がそうやって音楽でもがいている時、友香梨はたいてい静かに机で本を読んでいるか、ノートやテキストに文字をひたすら書き込んでいるかのどちらかだった。
物静かで、長く真っ直ぐな髪に、分厚い黒縁眼鏡。描いたような文系少女の机の周りを囲っていた彼女とはまるで正反対なけばけばしく制服を着崩した女子達の言葉は、決して本当の意味で彼女を頼ってるものではなかった。私はそんな彼女の姿を見知っていたが、特に何も行動を起こす事はそれまでなかった。
言っちゃ悪いが、彼女は見るからに強い力や権力にいいようにされてしまう弱者だった。そんな彼女を見て、「あんたはそうやって生きてくんだね」とどこかで馬鹿にすらしていた。
少しぐらい立ち向かいなさいよと。そんな立場になった事などないし、なりたくもないと思っている私からすれば、彼女の姿は少なからず私の心をかき乱す存在でもあった。
「式部さん、ちゃんと断りなよ」
どこかで鬱積した気分の限界を気付かぬ間に迎えていたのだろう。その日気付けば私は彼女にそう言い放っていた。
式部さんはもちろん、彼女に宿題を押し付けその場を去ろうとした女子達も驚いた顔で私の方を見る。それにまたどうしようもなく腹が立った。押し付ける者と、押し付けられる者。そこに善悪の概念は当に消え失せ、当たり前の日常として双方に沁み込んでいることに。
「何、偽善者さんですか?」
口を開いたのはその中でも一番気の強い、睫毛を無理やりに捻りあげた見た目通りに主張の強い女子だった。
「へー意外」
彼女の言葉を聞いて私は思わず鼻で笑った。
「何よ」
「偽善って言うぐらいだから、悪いって意識はあんたにもあるんだ」
ぐっと声にならない声が彼女から漏れた。その間式部さんは静かに机の上に視線を落としていた。あんたがそんなだから、と彼女にも言葉を向けそうになったが今の所はやめておこうと一旦踏みとどまった。
「関係ないでしょ、あんたには」
あー出た出た。会話にならない。こういう輩は自分の都合の悪い正論を突き付けられると恐ろしいぐらい語彙力の欠片もない反論しか出来なくなる。関係がないと自分の世界のルールに踏み入った事を非難するのがせいぜいだ。
くだらないくだらない。こんな奴らですら音楽を聴くんだろう。音に感動するんだろう。歌詞に共感するんだろう。だったら、なんでこんなダサイ事をするんだ。
「関係はある」
「はあ?」
「ダサイし、見てて胸糞が悪い」
ぐっと一歩前に踏み込む。キス出来るぐらいに詰め寄ってやる
「その睫毛、ダサいから引きちぎってあげよっか?」
自分で分かっている。薄くてきりっとしたとクールな見た目と言えば聞こえはいいが、逆に言えば冷淡で威圧的にうつる私の顔は、こうやって使えば効果は抜群なのだ。加えてハスキーな声で低く恫喝してやれば、こんな女々しいうさぎ野郎はひとたまりもない。
うさぎちゃんの目がぷるぷると潤んでいるのが分かる。他はいい。リーダーの格のこいつさえ潰しておけば周りの金魚のフンなど構う必要もない。
「うっせえよ!」
最後の抵抗とばかりに私の肩をドンと押しのけ、彼女たちは教室から足早に去って行った。
「矢下さん」
友香梨が私を呼んだ。その声は思いのほかしっかりとしていた。多分彼女にちゃんと呼ばれたのはこの時が初めてだ。まさか彼女と名前を呼びあいずっと互いに関係を続けていく存在になるだなんて、その時はこれっぽっちも思っていなかった。
「一応、ありがとうと言っておきます」
「……は?」
友香梨の視線は毅然としていて、一切おどおどせずにしっかりと私を見据えている。私が勝手に抱いていた弱者のイメージなど一切感じられなかった。
「別に大した労力ではなかったのですが、いちいち反論して面倒な事になる方が鬱陶しかったので、おかげで面倒事は減りました」
まるで予想外な答えに私はただただ唖然としていた。そんな私がおかしかったのか、友香梨はくすっと笑った。それが妙に大人びて色気じみていて思わずどきりとした。
「あ、いや、見てて気分が悪かっただけだから」
「そうですか。矢下さんにもいらぬ迷惑をかけてしまいましたね」
私はとんでもない存在に関わってしまったのではないかと恐怖すら覚え始めていた。それは次の言葉で確信へと変わった。
「面白かったですけどね」
「え?」
「彼女達。こんな簡単な問題も解けずに放棄してしまうんだなって。将来が見物ですね」
そう言って友香梨は笑った。
――あ、こいつやべえ。
そう思いながらも、彼女を好ましく思った瞬間でもあった。