第8章 卒業
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《新藤智》
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夢。あの日の夢。暑い夏の夢。
私の高校は陸上部の強豪校だった。
それなりに大きな大会だと一学年がまるまる応援に駆り出されるのもザラで、あの日も炎天下の中、部員の応援のため私は会場の席に座っていた。
座っていたら、ふらぁっときて椅子の上に倒れた。
椅子は硬くて、頭を乗せると、余計に吐き気がした。クラスの女子は誰も、助けてくれない。遠目でくすくす笑うだけ。
「もしもし、生きてるか?」
誰かの低い声。男の子の声。
人に素顔を見られるのが怖いという理由で意図的に伸ばした前髪。 その向こうに見えた人影。
顔には、見覚えがあった。
確か他校の陸上部の選手で、先の試合で、うちの高校の選手と並走していた――そして、追い抜いていた――流れるように綺麗なフォームで走る方だった。
思わず、自校の選手の応援そっちのけで、目で追ってしまうほどに。
私の意識はそこで途切れ、次に目が覚めた時は夕方で、会場内の医務室のベッドだった。
起きると、男の看護師の方から説明を受けた。
とある男性選手が君を助けてくれた。
君は熱中症で危ないところだった。
熱中症を馬鹿にしてはいけない。夏は、そいつで人がよく死ぬ。
看護師が話し終えたところで、医務室のドアが開き、噂の彼が入ってきた。
「お、蘇生したか」
「す、すみません。ありがとうござい……ます」
「いやいや、頭上げてくれ。何はともあれ、死ななくてよかったよ」
「えっと、もしかして、選手の方ですか?」
「ん、まあな。たまたまスタジアム席を通りかかったら、あんたが死にかけてた」
「め、面目ないです」
「つうか、あんたのクラスメイト。ありゃあ酷い連中だな。ぐったりしてるあんたをまるっきり無視してたぞ。血も涙も暑さで蒸発したのか?」
「あはは、ま、まあ、いろいろありまして」
「ほい」
「え?」
「ミネラルウォーター。心配すんな。口はつけてない。新品だから飲んでくれ」
「お、お金は?」
「いらねえよ」
「い、今持ち合わせがないので、今度必ず返します!」
「お前、人の話聞いてないだろ」
「あの……さ、さっき、五〇〇〇メートル走られていましたよね?」
「ん。まあな」
「し、新記録を出したとか……」
「あー、たまたまだよ。たまたま」
「私、み、み、見ていました! その試合!」
「そっか、暑い中駆りだされて大変だっただろ?」
「い、いえ、そそそそんなことないです!」
そして、伝える。
「私、あなたの走りに、み、魅入っておりました!」
……あの日、彼と交わした会話の一ページ。
たぶん、彼の心のノートには残っていないけど。
私のノートにはちゃんと、そのページの全記述には太い蛍光ペンで線が引かれているのだ。
***
《府神静馬》
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「新藤さん、卒業するらしいね」
「みたいだな」
「寂しい?」
「まさか」
「じゃあ、せいせいする?」
「お前、質問が両極端だよ」
「府神の気持ちを知りたいんだ」
「おめでとうと言って、送り出すのが正解だろ」
「……それ、本音?」
「どういう意味だ?」
「府神にしては、政治的に正しすぎる解答だったから」
鶏が鳴いた。
そういや、あいつらの声を聞くのも、何だか久しぶりな気がする。
「知ってるか? 俺は、本当のことしか言わない男なんだ」
書いていた日記を放り出し、ついでに蓮沼との会話も打ち切って、俺は立ち上がった。
***
夜の一松学園を、鶏小屋に向かって歩いていると声が聞こえた。
教育棟外階段の下にいるあの〈お鶏様〉に、新藤がしゃがみ込んで、何やら話しかけていた。
「よ」
近寄って声をかけ、肩を叩く。
すると「ひぅわ!」と叫んで新藤は飛び跳ねた。
「わ、悪い。驚かせた」
「い、いえ……あの、もしかして、さっきの聞こえてました?」
「お前の話し声は耳に入ってきたけど、内容までは聞き取れなかった」
ほっと、新藤が胸を撫で下ろす。
そんなに聞かれたらまずい会話だったのか?
「こいつ、まだこの場所に住んでたんだな」
俺も新藤の隣にしゃがみ込んで、お鶏様の鶏冠を撫でた。
迷惑そうにお鶏様は首を振る。
「嫌われるてるな、俺」
「あはは。な、慣れていないだけだと思いますよ」
新藤が同じように撫でると、お鶏様は猫のように新藤の手のひらに顔を寄せる。
「退院日って結局何日なんだ?」
「八日後の七月二三日です。朝には、ここを出ます」
お鶏様が顔を上向かせ、新藤の目を凝視する。
まるで、今の新藤の言葉を理解したみたいに。
「と、特訓の件、ありがとうございました」
「感謝されるようなことは何もしてない。乱暴なやり方だったしな」
結局、件の「ぶっ殺す」事件が大問題になったのか、南方の判断で俺と新藤の〈特訓〉は昨日をもって、強制的に終了となった。
「で、でも、し、新鮮で楽しかったです。ば、馬鹿とか、クソとか、死ねって私、いっつも言われる側だったので、あはは」
「……その自虐、二度と口に出すな。同情を誘ってると思われるぞ」
「はうっ、ご、ごめんなさい」
新藤が萎縮してしまう。
くそ、俺の馬鹿。
何で、こういう言い方しかできねーんだよ。
「悪い。ビビらせるつもりはないんだ。ただ、外に出たら、その手の自虐を言っちまうと、途端にお前を舐めてくる奴が出てくる可能性があるし、だから、その、自衛のためにも自重しとけって伝えたくて……」
新藤が、呆けたような表情で俺を見た。
左目の眼帯と裸眼の右目。
右の瞳に吸い込まれそうになった。
「な、なんだよ」
「い、いえっ!」
四秒で、新藤は視線を地面に落としてしまう。
「府神くんが、前よりも、優しくなった気がして……そ、そういえば最近は授業も真面目に受けていますし、先生方に注意されても前みたいに手が出なくなってますっ」
「子どもの成長に涙を流す母親みたいなテンションで喋るのやめろ」
まあ、単独を出てからここ一週間は、あまり表立って騒がなくなったのは事実ではある。
理由は、正直、俺にもよくわからない。
七々川の病室の一件以来、憑き物が落ちたみたいに、何でもいいから何かを殴りたい、ぶっ潰したいという衝動が薄れた。
「こ、困りました」
新藤が、俺のジャージの袖を右手の親指と人差し指で控え目に摘んできた。
「こういう土壇場で、そ、そんなに優しくされると、卒業、しづらくなります」
「いや、しろよ」
「そ、外、怖いです」
「引きこもりの発言だな、それ」
「少年院には、わ、私に悪意をぶつけてくる人はいません。でも、外では注意してても、いつの間にか、私を憎んでいる人がいっぱいいるんです。そ、そういう時、対処ができないんです」
いじめという単語が頭に浮かぶ。
全ての発端であり、こいつが檻にいる理由。
「ふ、府神くんは、人に悪意をぶつけられた時、どうしていますか?」
「タコ殴り」
「ううっ、き、訊いた私がバカでした」
「つうか、どちらかと言うと俺は自分から率先して、人を憎んでるタイプだからな。なんつうか、俺の場合、初対面の人間に対しての印象は、ほぼ確実に嫌悪からはじまるんだ」
だって、その方が、リスクが少ないから。
「じゃあ、私も?」
「いや、まあ、最初は、な」
妙に、口ごもってしまった。
「今は、どうですか?」
「今は……それほど、嫌いじゃない。てか、これ、前にも言った気がするぞ」
「えへ」
新藤が笑っていた。
前髪を切った新藤の笑顔。
片目だけなのに、心臓が鳴った。
これが両目なら、どんな破壊力を持つのだろう。
ああ、困った。
俺、こいつと、後八日で、二度と会えなくなるのか。
悪くないと思ってしまったんだ。新藤と一緒にいるこの状況が。
俺の袖を摘む新藤の右手を、取った。
「ひとつだけ助言してやる。もし、お前がな……外に出て、お前を嫌う人間と出会った時、そいつにどうしても許せないことをされたら。遠慮するな。この拳で――殴れ」
「ぼ、暴力は……」
「違う。暴力だけど暴力じゃない。守るためだ。自分を」
驚くほど、真剣な声が出る。
「暴力は、強いやつの特権じゃない。弱いやつに残された最後の砦でもあるんだ」
***
消灯後。自室にて。
「おい、平成の雑学王」
二段式ベッドの上段で寝ている男に、声をかける。
「何か、面白い話をしろ」
「面白い話?」
「ああ。馬鹿にも理解できて、心底くだらなくて、下品に笑える二束三文のクソ話だ」
「もしかして……新藤さんと会ってきたのかい?」
沈黙。
「……そうだな。じゃあ、リクエストに答えて、古いお話を、ひとつ」
どことなく穏やかで、限りなく胡散臭い蓮沼の声が、紡いだ。
「昔、イギリスで、パン屋を襲撃して感化院に送られた非行少年がいたんだ」
「感化院?」
「少年院や児童福祉施設の古い呼び名だよ。それでね。捕まった彼は長距離走の才能があった。性悪な院長は彼の才能に目をつけて、陸上の大会に感化院の代表選手として出場させたんだ。在院生が大会で優勝すれば、院や自分の名誉に繋がるからね。彼は院長の目的に気づいていた。けど、走ることを愛していたからその大会に出た。彼の足は他の選手を引き離し、トップを独走。すでにゴールラインは目の前。このまま走り続ければ優勝は確実だ。彼はどうしたと思う?」
「どうしたって……ゴールしたんだろ?」
「止まったんだ。ゴール前で。そして後続の選手に次々と抜かされ、彼の優勝は終わった」
「馬鹿だろ、そいつ」
「反旗を翻したんだよ。このゴールラインを超えたら、自分を利用した院長の思う壺だと考えたんだ。だから、彼は止まった」
「なら、最初から棄権すればいいだけの話だ」
「たぶんね。彼は悩んだ末に〈選択〉したんだと思う。自分が何をやりたいのか。何が欲しいのか。院長の鼻を明かしてやりたいのか。一位でゴールしたいのか。両立できない願望を天秤にかけ、最後の最後に、選んだんだ」
まるで、自分に言い聞かせるような調子で蓮沼は言った。
「どう? くだらない話でしょ?」
「ああ、本当に、最低だ」
「でもさ……府神なら、どうする?」
「は?」
「同じ立場なら、ゴールするかい?」
「……わかんねーよ。その時になってみねえと」
「今が、その時なら?」
「その時じゃねえだろ」
「その時だよ」
「悪い。理解できない」
「好きなんでしょ? 新藤さんのこと」
蓮沼に、頭蓋を割られた。
「はは、隠し球が飛んできたな。まるで、中学生男子の修学旅行の夜だ」
内心の動揺を隠し、小馬鹿にするように笑ってやった。
「性愛の話じゃない。府神が新藤さんを女性として好きかどうかは、僕は知らない。けどきっと、人としては好きだと思うんだ。誰だって好きな人がいなくなる時は、寂しいと感じるだろ?」
「寂しくねえよ」
「隠すべきことでもないよ」
「どうすればいいんだ」
「選択すればいい。長距離走者の彼のように。自分と相談するんだ。社会でも教官でも無く、自分とだけ相談するんだ。そして何をするか決めろ。身の程知らずと罵られようとも」
一呼吸置いて。
「たぶん、府神が深まるには、大切なことだ」
蓮沼は、いつになく、優しい声色で俺に伝えた。
普段の胡散臭さは欠片もない。真摯な問い。
それから、蓮沼は大きく息を吐く。
「よかった。まだ、府神の拳が飛んでこない。ぶん殴られるかと冷々したのに」
「殴らねえっての」
「出会った当初に胸ぐらを掴まれたからね。トラウマになってるんだ」
「古い話を持ちだすな」
あの時とは、状況が違う。
少なくとも今の蓮沼は、俺にとって殴りやすい人間ではない。
「訊いていいか?」
「ん?」
「何で、俺にそんなアドバイスをくれるんだ?」
「僕らはルームメイトで友達だから」
「俺なんかと友達になってもいいことひとつもねえぞ」
「損得で友達になるわけじゃない」
「じゃあ、どういう理由だ?」
「府神はいびきをかかないから」
「冗談はやめろ」
「冗談じゃないんだけどね。でも、もうひとつ理由をあげるなら……抗おうとしてるからかな」
「抗う? 何に?」
「自分の不幸に」
――二段式ベッドの上。俺のルームメイトで、俺の友達が、俺の胸に本音を落とした。
「僕はね、人の不幸な話を聞くのは好きだけど、自分の不幸な境遇を克服しようと足掻き続ける人間のお話は、もっと……そう、比べ物にならないくらい、好きなんだよ」
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《新藤智》
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面会室で、金沢さんと会った。
「退院は、明日でしょ?」
私は頷く。
時折、ちらっと金沢さんの目を見ては、また視線を机の上に落としてしまう。
駄目だ。府神くんとの特訓の成果が出ていないじゃないか。
「退院したら、家に遊びに来て。一緒に愛心のお墓参りに行って、あの子と仲直りしましょ?」
机に置いた私の手に金沢さんはそっと触れ、慈しむような声で私にお墓参りの許可をくれた。
どこまで良い人なんだろう。
加害者と被害者の立場を超えて、彼女は私を労ってくれる。
「よければでいいのだけれど。退院後の新藤さんの住所を教えてもらうことってできる?」
もちろん、禁止されていた。
加害者の少女が、被害者の遺族に自分の住所を教えることの意味は十分理解している。
どんなトラブルが起るかわかったものではない。
私は、四つ折りにした日記の切れ端を面会室の外にいる宮田先生に気づかれないよう、こっそりと、金沢さんに渡した。
中には、私の現住所が書かれている。
私にしては、大胆な行動。
「こ、今度、私の家に遊びに来てください。美味しいご飯を用意してお待ちしております」
金沢さんの心が癒えるなら、私は自分の住所でも何でも教えるべきだと思った。
「ありがとう……本当に、新藤さんは……優しい子ね」
金沢さんが、日記の切れ端を大事そうに両手で握る。
その手が、小刻みに震えていた。
部屋に戻り、最後の日記を書く。
明日が仮退院日だというのに、まるで実感がわかない。
同じ朝が来るような気がする。今日と変わらず、鶏の鳴き声と南方先生の「起床!」の声で起こされる朝。
起きると、二段ベッドの上で眠っている女の子に私は声をかけるのだ。
――おはよう、と。
後ろから、抱きしめられた。
「アカちゃん?」
「…………」
無言でアカちゃんは日記を書く私の肩に腕を回す。
彼女の吐息が耳をくすぐる。
病院から帰ってきてからというものの、アカちゃんの口数は目に見えて減っていた。
「……トモちんは、明日、退院ですよね?」
「う、うん、仮退院だけどね。もしかしたら、また、ここに戻されるかもしれないよ。あはは」
全ての在院生は、まず、仮退院で少年院を出る。
出院後保護監察官が身辺につき、私たちの状況を一定期間チェックし、問題がなければ本退院となるのだ。
少ないけど、再入院になってしまう可能性だってあった。
「嫌です」
アカちゃんの腕に力がこもった。
「戻ってきちゃ、嫌です。トモちんは更生できたんです。ちゃんとここから出てください」
身体を包む小さな腕に触れ、寂しがり屋な私の友達に、私は「ありがと」と伝えた。
「トモちんは……明里のこと、好きですか?」
「うん」
間髪入れずに頷く。
少しでも、返事を先延ばしにしたら、アカちゃんを不安がらせてしまうと思ったから。
私は、ただ、彼女を安心させたかったんだ。
「信じて欲しいことが、ひとつあるんです」
アカちゃんは卒業後――
「明里もトモちんのこと、大好きです」
自立援助施設に引き取られることが、決まった。
「お母さんの代わりじゃないんです。トモちんは、トモちんだから、好きなんです」
しゃくりあげるようなアカちゃんの声――私も、釣られてしまいそうになる。
「ひ、ひとつだけ、お願いしてもいいかな? こ、小屋の鶏と、階段下のお鶏様のお世話――」
それ以上言わずとも。
「はい! おまかせ下さい。その任、責任をもって、明里が引き継ぎますっ」
アカちゃんは、察してくれた。
***
《二〇〇七年七月二三日(月) 一松学園 体育館》
仮退院当日。教育棟の体育館を借りて、式は行われた。
「えっと。わ、私、新藤智の一年に及ぶここでの生活も、きょ、今日で終わり……ます」
慎ましやかな、私の出院式。
事前に書いた決意文を読み上げるだけなのに、やっぱりあがってしまう……でも、少しは、マシになったのかもしれない。うん、そう信じよう。
「こ、ここに入院して、教育プログラムを受けて、日々の生活を通じて、わ、私は人が罪を償う意味を、社会の中で正しく模範的に生きる意味を学びました。仲間がいて、信頼できる教官がいて、み、みんな、こんな私を時に厳しく、時に優しく導いてくれました」
出院式の参加者は教官だけだ。
院生の参加は許されない――もちろん、お見送りも。
「本当にお世話になりました」
アカちゃんの顔も、府神くんの顔も、もう、見ることはない。
「さようなら」
「皆さんとは、二度と会うことはないでしょう」
私は羽ばたく。
この学び舎から。
今日、私は、少年院『一松学園』を卒業した。
***
《府神静馬》
***
古い木目の机が並んだ、小学校を思わせるような教室で授業を受けていた。
新藤の姿は見当たらない。
俺が居眠りをしても起こしてくれる在院生は、どこにもいない。
俺が授業をサボっても引き止めてくれる非行少年は、どこにも見えない。
まるで、母親だなと思った。
振り返れば、恥ずかしくなるほど俺はあいつに甘えていたんだ。
二階の教室から窓の外を見下ろす。
白いブラウスに水色のロングスカートを身につけた少女の後ろ姿が、見えた。
母親らしき女性が、少女の隣を歩いていた。
ふたりとも、学園の正門に向かっている。
門を抜ければ、彼女は、自由の身だ。
右手で机の上の消しゴムを払い落とした。
わざと。
手を挙げ、教官に落とした旨を伝える。
消しゴムを落とした時は自分で拾わずに挙手して教官に拾って貰わなければならない。
それが、ここの原則。
眼鏡をかけた教官が、渋々、俺の近くに寄り、しゃがみこんで消しゴムに手を伸ばす。
教官の視線は床の上の消しゴムに固定された。
椅子を引き、立ち上がり、走った。
初速は早かった。
教官が物音で気づき、顔を上げたが、もう遅い。
府神! と、教官が叫んだ時、俺の身体はすでに廊下に飛び出していた。
学園の階段を駆け降り、教育棟の正面玄関に向かい、靴も履き替えずに外に飛び出した。
――正門前に新藤がいた。
自問する。
歩くその背中に声をかけるべきか。声をかけてどうするのか。
俺は新藤の何なんだ。恋人か。違う。友達か。わからない。赤の他人か。そうは思いたくない。
生涯会うことのないふたり。
これでいいのか?
放って置けない女だったんだ。
あがり症のくせにお部屋係なんて面倒なもんを引き受けて、放っときゃいいのに、俺の院内での態度を改めさせようとして……疲弊して、重圧感じて、それでも、ふてくされず、自棄にならず、やれるだけのことをやろうとしていた。
七々川のことも俺のことも見捨てず、馬鹿正直に、向きあおうとしていたんだ。
ひどく生きづらそうな性格をしているくせに、人一倍、正しく生きようとしていたんだ。
こんな牢獄で。
拳を握りしめる。爪が食い込むほど、強く。
「新藤おおおおおおおおおおおおおお!」
叫んだ。彼女の背中に向かって。
新藤が、振り向く。
白いブラウス。水色のロングスカート。
初めて見る彼女の私服姿。
ピンクジャージは着ていない。
灰色の帽子もかぶっていない。
バッジもつけちゃいない。
年頃の女の子が身にまとう、可愛らしい洋服。
ただ、それだけ。
「府神……くん?」
新藤が驚き、目を見開く。
新藤のそばには、長い髪を一房に結んだ彼女とよく似た顔の女性。
やっぱりあいつの母親だ。
口が固まる。
喉に砂利が詰まったように、言葉が出てこない。
話したいことはいっぱいあるんだ。
あるはずなんだ。
だけど、時間がない。
まもなく、教官が駆けつけ、俺を連れ戻すだろう。
新藤の左目を見た。そこにはまだ、あの白布の眼帯があった。
「埼玉県さいたま市っ!」
やぶれかぶれに、声を張り上げる。
「大宮区土手町! 二丁目七番地の三〇! イサナハイツ四〇一!」
三回、住所を繰り返した。
三度目で、厳つい教官二名に羽交い締めにされた。
「俺の家だ!」
「府神! 教室に戻れ!」
怒鳴り散らす教官たちの腕の中で、もがく。あがく。
「俺も頑張って近いうちに卒業するから。そしたら、もしかしたら、お前が大宮に来ることがあるかもしれないから。そんで、たまたま、その住所のところを歩いてたまたま俺にばったり会っちまったりするかもしれないから。だったらいいよな! 駄目じゃないよな!」
――再会を願っても。
「はい!」
と少女は、躊躇なく答えた。
「お、大宮! 行ったこと無いですけど!」
「京浜東北線大宮行きに乗ったら、後は寝てるだけでいい! そうすりゃ、すぐに着く!」
不正会話の大洪水。
俺、単独行き確定。
言いたかったんだ。それだけだ。他に理由なんて無い。
俺は、ここで終わりたくなかった。
あいつとこんな場所で、二度と会えなくなるなんて嫌だったんだ。
「しょ、承知しました! 前日に夜更かしして、いっぱい夜更かしして、翌日、寝ぼけて、電車を乗り間違えて、京浜東北線に乗っちゃって、そのままうたた寝してたら、いつの間にか、大宮まで着いちゃいますから!」
新藤が一歩前に踏み出す。俺のところに来ようとする。
「だから、卒業してください!」
張り裂けた感情の波が、そのまま言葉となって新藤の口から溢れる。
「絶対絶対、府神くんも、更生して、立ち直って、卒業してください!」
ありったけの何かを絞りだすように、新藤は叫ぶ。
その身体を新藤の母親が抱きしめた。
――拍子に。
彼女の左目を覆っていた眼帯が、外れて落ちた。
少しだけ、周囲が赤く腫れた左目。
だけど、初めて見る彼女の素顔は。
抱きしめたくなるほど、愛らしかったから――
泣くのを堪えるのが、大変だった。