第7章 ノーウェア・ガール
……問われました。
……食べるか。飛ぶかって。
……飛びたくないので、食べたんです。
……口の中にぐちゅって……干しナマコの親戚みたいな味が広がって。
……泣きながら、咀嚼しました。
……彼女はもっと食べろっていいました。
……嫌で嫌でたまらなくて目の前が赤くなって、持ってきたカッターナイフで……私は、その子の首を……血、いっぱい吹き出して……。
彼女は、そのまま……。
新藤智の供述調書より抜粋
***
《新藤智》
***
「ごめんなさい」
もう何度目になるかわからない謝罪の言葉を口にすると、私は対面の金沢さんに頭を下げた。
「いいのよ新藤さん。お願いだから、頭を上げて」
柔らかい声が上から降ってくる。
目尻に溜まった涙を拭いてから私は顔を上げ、彼女を見た。
髪には白髪が混ざり、目元には深い皺が刻まれている。
年齢以上に老いて見えるその顔に――蓄積した疲労を隠すような、笑顔を湛えていた。
面会室で彼女と向き合うのも、これで三度目。
金沢さん。
私が〈殺した〉同級生の女の子の母親。
「天国の愛心も、きっと、新藤さんのそんな悲しい顔、見たくないと思うの」
「あ……あ、愛心ちゃんは……」
駄目だ。いつも以上に、詰まる。
だって、目の前には被害者の母親がいるのだから。
「落ち着いて。大丈夫。おばちゃんね。待つから」
膝を曲げて金沢さんは私に目線を近づける。
私の悪癖。
この、どもり癖。
この、あがり症。
接した多くの人がストレスを感じ、私を急かそうとする。
『言いたいことがあるならはっきり言え』
『で、結局何が言いたいの?』
まともなコミュニケーションができないのだ。
頭のなかの言葉をうまく引っ張り出せなくて、いざ、言語化しようとすると詰まり、躓く。
だから、私の言葉を『待つから』。
そう言ってくれる金沢さんは、本当にありがたくて、私はまた泣きそうになってしまう。
私は、彼女の仇なのに。
彼女が大切にしていた存在をこの世から消した張本人なのに。
金沢さんが私に恨み言を吐いたことは、無い。ただの一度も。
「私のせいで……私が……」
結局、耐えられずに、ポロポロと、涙の粒が頬を伝う。
「ごめん……なさい」
「いえ、謝るのはこちらの方よ。私がもっと早く気付いていれば。弁護士の方から聞いて初めて知ったの。愛心が学校であなたに何をしていたのか……それは絶対に許されないこと。私は愛心を止めないといけない立場だったのに……」
砂利のようにざらついた手が私の頭に乗せられた。
私が落ち込んだ発言をすると、いつも、金沢さんは私の頭を撫でてくれる。
「新藤さん……愛心を許してくださる?」
張り裂けそうな胸を押さえて、私は深く頷いた。
これでいいのかと、いつも思う。
『あなたを憎んでいる』と面と向かって言われた方が、まだ楽なのかもしれない。
少年法第二二条の二項では『審判は、これを公開しない』と定められているそうだ。
未成年の裁判は、原則非公開。
そんな法律によって保護された私は、傍聴人やマスコミの視線に晒されることもなく、閉鎖された穏やかな場で、少年審判を迎えた。
審判の時、裁判官や調査官の方は決して私を責めず、寛容な態度で審理を進めてくれた。
後で知ったことだが、件の事件が――もちろん私と被害者の名前は伏せられた状態で――報道された直後、ネット上では私に同情するような意見が大勢を占めたらしい。
優しすぎる。
私はいじめられっ子である前に人殺しなのに。
私を悪く言う人が誰もいない。
被害者の母親ですらも。
そのぬるま湯に甘んじている自分がいる。
――口の中に、あの味が広がった。
干しナマコの親戚のような柔らかさ。
記憶の味だ。
「そういえば……」
金沢さんが、自分の左目を指さした。
「ずっと気になっていたのだけれども。その目、どうしたの?」
金沢さんとの面会を終えた、当夜。
私、新藤智の退院日が決まった。
***
《府神静馬》
***
夢を見た。
高校の陸上部。夏の長距離走大会。
五〇〇〇メートル。一四分六秒一二でゴールイン。
高校一年の歴代最高記録を叩きだした、懐かしく、輝かしいあの日の夢。
初めて、マスコミの取材を受けた。
部員や顧問が俺を褒めちぎり、肩を組んで労った。
素直に嬉しいと感じた。自分がひとかどの人物になれたと、錯覚したんだ。
自分の試合が終わった後、俺はスタジアムの中を特に目的もなく歩いてみた。
円周のスタジアムを東西南北ぐるっと一周し、他校の観客席も拝見して、何人かの生徒と朗らかに交流をもった。
普段の俺じゃ考えられない積極性。
歴代一位という成績は、俺に万能感を与えた。
スタジアムにはセーラー服やブレザー姿の女子高生も多く来場していた。
陸上部が強い高校では大会の折、一クラスや一学年の生徒が丸々応援に駆けつけることはザラにある。
彼女たちもその類だろう。
ひとつ、引っ掛けてみようと思った。
今の俺なら、どんな女も振り向いてくれるはず。
ようするに、俺は調子に乗っていたのだ。
女子高生が座っている前方の観客席に近づく。
一番前の席に、違和感を発見した。
女が横向きに倒れているのだ。
長椅子の上で。
その列に座っていた他の女子高生たちは、倒れている女に見向きもせず談笑している。
その女の右隣は人間ひとり分の座席がぽっかりと空いていた。
なんだろう。
ちょっと、イラッとした。
俺は〈意図的に空けられた〉その席に勝手に座ると、倒れている女の肩を叩いた。
「もしもし、生きてるか?」
そいつの前髪は、目が隠れて見えないほど、やたらと長かった。
***
《二〇〇七年七月九日(月) 午前七時 一松学園個別室棟 第一単独室》
目覚めると、単独室の鉄格子の窓から陽の光が差し込んでいた。
もう、朝か。
何だか、どうしようもなく、眩しい夢を見た気がする。
ドアが開く音。
「出なさい」
鋭利な南方の声に促され、俺はのそのそと起きだす。
「早漏だな。まだ三週間だぞ。俺はてっきり、あと一周間は出られないと思ってたんだけどな」
南方は無言で俺を睨みつけた後、ついてこいとばかりに歩き出す。
金魚のフンみたいに後をついていくと、たどり着くは、懐かしの紅葉寮。
出入口の下駄箱に靴を入れ、上履きに履き替えた直後、前方から新藤が歩いてきた。
新藤は、前髪をばっさりと切っていた。
「おおおおお、お勤め、ご苦労さまです!」
「出待ちの若衆か、お前は」
新藤の左目には、白布の眼帯。
俺が殴った箇所。
髪。切りたいから切ったというよりも、治療のため、切らざるをえなかったのだろう。
けど、長い前髪が無くなった新藤の顔は、見違える程、整って見えた。
もっとはっきり言えば、可愛いと思っちまった。
「あの!」
ずずいと新藤の顔が近づく。
おい馬鹿。やめろ、近いんだよ。今のお前の顔はちょっと反則なんだよ。好みすぎて、ドキッとしちまうだろう。くっそ、しかもいい匂いするぞ。くっそ、やばいって。やばいんだって。
「せ、せんえつながら、わ、私、卒業することになりましたっ!」
瞬刻、呼吸が止まった。
「卒業って……」
「か、仮退院日が三週間後に決まったんです」
ああ、ようするに――お勤めを終えるのは、こいつの方だったわけか。
三週間後にこいつは、この少年院からいなくなる。
文字通り、卒業だ。
それは同時に。
俺の人生において、新藤智という女と顔を合わせることができるのは、後、三週間だけ。
少年院で培った人間関係は、卒業と同時に解消しなければならない。
外に出たら、院生同士は互いに会ってはいけない。
それが、ここの原則だ。
新藤と目が合っていることにその時初めて気づく。
「っ! ご、ごめんなさい!」
途端に新藤は顔を真赤にして、平時と同じく俯いてしまった。
「左目の眼帯、いつ頃外せるんだ?」
「は、早ければ退院日の前日には、と、取れるらしいです」
じゃあ、遅かったら。俺は前髪を切ったこいつの……本当の素顔を見ずに終わるってことか。
新藤智。
あがり症で、引っ込み思案で、生真面目。自分の意見を言うのが下手くそなくせに、時折、とんでもないぱんちを飛ばしてくる。そんな女。
殺人の罪で、約一年、この少年院に入れられた。そんな女。
『私、人殺しなんです』
あの日、新藤の告解は続いた。
『私、こんなんだから……〈対象〉になっちゃったんです。クラスの強い女の子たちの』
『いじめられっ子、だったんです』
そう、彼女は言葉を繋ぐ。
『そ、それはよくある話……なのだと思います。む、無視をされるのも、体操着を隠されるのも、女子トイレの個室にバケツの水を撒かれるのも、嫌な物を食べさせられるのも――ありふれた悲劇なのだと思います。でも、わ、私、わがままだから、我慢できなかったんです。ありふれた悲劇は、私にとっては、唯一無二のありふれた地獄だったんです』
――よくある話だ。ありふれた悲劇だよ。
七々川の虐待の件を新藤から聞いた後に言った自分の言葉。
それに対する、新藤なりの返答だった。
『……ある日、クラスの〈強い〉女の子たち三人が、わ、私を屋上に連れていきました。か、風が強い日でした。彼女たちは、屋上の柵を指さして私に言ったんです。飛び降りろって。私は、首を横に振って、困りますって、返事したんです。も、もしここが三階なら、言われた通りにしたかもしれません。でも、校舎の屋上だったから。ひ、人は、四階以上の高さから落ちると、生存率が一気に下がるんです。私、まだ、生存したかったから、断りました。か、彼女たちは、それならばと、ティッシュにくるんでいたものを、広げて見せました』
人間は自分のトラウマを語る時、やけに饒舌になるか、言葉が途切れがちになる。
新藤は、前者だった。
こいつの性格からいって後者になるかと思ったけれども。
普段とは違い、時折どもるが、雄弁だった。
痛々しいほどに。
『中身は、ナメクジが二匹、でした。と、年頃の女の子がギリギリ触れるグロテスクな生き物を選定した結果だったのでしょう。さ、さすがにクモとか、ゴキブリとかは、彼女たちも手に取ることすらままならなかったのだと思います。ナメクジを持った女の子が……愛心ちゃんっていうんですけど、彼女が私に近づいて、問いかけたんです。これを食べるか、今すぐ屋上から飛び降りて、全身が崩れた積み木みたいになって、死ぬかって』
たぶん、新藤は、自分でも〈話しすぎている〉と気づいていた。
引っ込みがつかなくなっていたんだ。
『わ、私、食べ、ました……いえ、違います。ほとんど、無理やり三人に押さえつけられて、愛心ちゃんに口を開けさせられて、一匹目を押し込まれたんです。歯に当たって、ぐちゅって、音がして、吐き出そうとしたけど……できなくて。喉の奥を千切れたナメクジが流れていきました。一匹だけなら、まだ我慢できたんです。そ、そういうものか、と諦めもついたんです。だけど、愛心ちゃんが、二匹目も食べろって言うから――』
――府神君
『こっそりと、制服のポケットに入れてたカッターを手に持って』
――府神君っ
『振り回したら、べちゅって音がして、み、見たら……血が……愛心ちゃんの首から……』
「府神君!」
南方の声で、はっと、我に返った。
いつの間にか南方の手が俺の肩に置かれていた。
「立ち寝ですか。面白い特技があるのですね」
南方の皮肉を聞き流して新藤を見る。
何故か、新藤は物言いたげに頬を赤らめ、両手の指をもじもじと動かしていた。
新藤の〈ひとりごと〉をどう処理すべきか悩んだが、結局、自分の胸に仕舞うことにした。
規則とか関係なく、追求は互いへの毒だと思ったから。
「新藤さん。折角だから、あの件について、今、府神君にお願いしてみたら?」
「え? い、いえ……でも、府神くんに……悪いです……」
「駄目で元々。宮田先生の許可は得ているのだから、後は府神君の返答次第でしょ? 断られるにせよ、まずは話してみないと始まらないですよ」
こいつら、一体何の話をしているんだ?
新藤が、一歩俺に近づき――突如、九十度の角度に、頭を下げた。
「お、お、お、お願い……できますでしょうか?」
「話は聞くから、とりあえず、何を、どう、お願いしたいのかを、冷静に、正確に、言え」
「人の目を見る、特訓……です!」
語尾の部分だけ、新藤の声のボリュームが跳ね上がる。
嫌な予感。
「わ、私事で大変恐縮ではございますがっ、ど、どうか仮退院日まで、私のあがり症克服のためのお手伝いをして頂けませんでしょうかっ!」
***
――で、だ。
「……(ぷるぷる)」
二秒経過。
「………………(ぷるぷるぷるぷる)」
四秒経過。新藤の顔、汗だらだら。
「…………(さっ)」
目が、逸れた。
「六秒だな」
俺は持っていたストップウォッチのボタンを押下した。
新藤が俺の目を見れる限界時間、六秒ジャスト。
最後は水に溺れたシマリスみたいな顔になっていた。
先は長いな。
「はぁ~」
新藤が、解放されたように息を吐く。
「考え方を変えてみたらどうだ? 俺も人間。お前も人間。同じ細胞、同じ材料で成り立っている。一緒だ。農家に植えられた無数の青ナスを想像しろよ。俺たちはその青ナスのうちのひとつに過ぎないんだ。青ナスは隣に生えた別の青ナスを見てもビビらないだろ?」
「お、同じじゃないです。材料は一緒でも、私と府神くんは、別々の……た、他人です。あと、私たち、青ナスじゃないです。人間です。あ、あんなに顔、緑色じゃないです」
「おい、青ナス馬鹿にすんな。美味いだろ、それなりに」
「ひぅ、ごめんなさい。青ナス、お、美味しいですっ!」
早速、本日より、特訓は始まった。
場所は面接室。
部屋には俺と新藤のふたりきり。
今日から毎日一時間、俺が新藤のあがり症克服のための練習台となる。
発案は新藤。
卒業の日が判明した直後、新藤は担任である宮田に今回の件を相談した。
したらば、要望は、すんなり通ってしまったらしい。
南方の方は反対したようだが。
俺が予定より一週間早く単独から出られたのも、今回の新藤のお願いごとのおかげだった。
まったく、余計な真似ばかりしやがって。
「とりあえず、せめて今日中に記録を十秒までは伸ばせ」
「は、はいっ! 頑張ります」
勢いと、やる気だけは十分に感じられる返事ではあったが……。
なるべく自分の目つきが鋭くならないように注意はしたけれども、一時間フルに使っても、新藤の記録は六秒以上にはならなかった。
***
――特訓を終え、紅葉寮一階の面接室から新藤と一緒に廊下に出る。
あまりの成果の無さを申し訳なく思ったのか、新藤にしつこいくらい謝られた。
「いいって。まだ初日だろ。今日一日でどうにかできるとは俺も思ってねえよ」
つうか、こういうのって、本当は心理療法士とかそういう連中の仕事じゃないのか?
そもそも、あがり症って、わりと本人の過去のトラウマに起因する根の深い問題だって、昔、何かのテレビ番組で見た気がするぞ。 素人の俺に何ができるっていうんだ。
ちらっと新藤の左目に付けられた眼帯を見る。
特訓中何度も直視させられた、俺の暴力の証。
……まあ、こいつが望むなら、手伝う分にはやぶさかではない。
――とたとたと、廊下の向こうから、小柄な少女が歩いてきた。
「アカちゃん」
名を呼びながら、新藤が七々川明里に駆け寄った。
七々川と、病院以来のご対面。
目つきが違っていた。
七々川は新藤の影に隠れると顔だけを覗かせ、無言で俺をじっと睨む。
ああ、この視線はそうだ。
親の敵を見るような、そういうやつ。
出会った当初よりも、険悪なモード。
「……トモちん、この人と、何をしていたんですか?」
この人、か。随分と、距離が離れたもんだ。
新藤が丁寧に説明する。
自分がもうすぐ卒業するから、俺にあがり症克服のための特訓をしてもらっていることを。
「そんなの、言ってくれれば明里が手伝うのに」
「ご、ごめんね」
新藤が、膝を曲げ、七々川と目線を合わせる。
「アカちゃんだと、安心しちゃうんだ」
子どもをあやす母親のような、優しい声。
七々川が拳を握りしめ、まだ納得していないというような表情を浮かべたが、
「わかりました。トモちんがそう言うなら、明里は、トモちんの判断を尊重します」
駄々はこねず、渋々ながらも認めた。
少し、意外だ。
依存対象である新藤の出院が決まったのだから、七々川はもっと取り乱してどうしようもなくなると思っていた。
しかし、見た限り、今の七々川は自己抑制が効いている。
――あるいは、また、別の依存対象を見つけたのか。
七々川が俺に近づくと、目を細めて、俺に鋭い視線を向けてくる。
「――――っ」
一瞬、俺は呆けた。
それは、耳を澄まさないと聞こえないような小さな声。
俺に言い捨てると、七々川は小走りで廊下を駆けていった。
「も、もぉ、アカちゃん。廊下は走っちゃ駄目なのに」
「あいつ、いつ頃、病院から戻ってきたんだ?」
「あ、えっと、に、二週間前です」
「予定通り、退院できたってことか」
「は、はい。あ、そ、それと、へ、部屋も私と同じ所に戻してもらいました。あと、三週間ですけど、また、アカちゃんとルームメイトになれました」
七々川の生活環境を変えすぎたのはミスだったと、南方たちも認めてくれたらしい。
七々川と相部屋に戻してもらえたと話す新藤の口調は、どこか弾んでいた。
去り際に聞いた死にかけの鈴虫が鳴くような七々川の声。脳内で、何度も再生されてしまう。
七々川は俺に、
『誰でもいいわけじゃありません』
と言ったんだ。
***
最初の三日間はほとんど成果が出なかった。
五日目でようやく俺の目を九秒までは連続で直視させることに成功したが、直後に新藤が目をあけたまま気絶してしまった。
埒があかないな、これじゃあ。
「ひとつ、思いついたことがある」
荒療治かもしれないが、俺は切り出してみた。
「お前、俺を罵倒してみろ」
「ば、罵倒とは?」
「馬鹿、死ね、臭い。何でもいい。真正面から俺を見据えて、汚い言葉で俺を罵ってくれ」
「ふ、府神くんは……じ、実はエムの称号を持つ方だったのですか?」
「おい、性癖の話じゃねーよ。仮に性癖の話だとしても俺がMなわけねーだろ。世界中の女の腹は俺の拳をめり込ませるために用意されてると信じる程度にはドSだよぼけ」
説明する。お前は俺に気を使いすぎているから駄目なのだと。
例えばお前が北海道の三毛別でヒグマに遭遇したとして、もしそのヒグマから目を逸したら一秒後には頚椎を折られて即死するとわかったなら、お前、絶対に死んでも目を逸らさないだろ? 死ぬからな。
「つまり、怒りや恐怖心を抱く対象には、存外、気を使う相手よりも、遠慮せずに正面から対峙できる場合もある、と俺は言いたいんだ」
「そ、それじゃあ、私、府神くんのことを憎まなきゃ駄目ってことですか? む、無理です!」
「別に憎めってわけじゃない。擬似的に俺をそういうものとして扱えってこと。一時でいいから俺を罵倒可能な生物に入れ替えて見ろ。そんで、その状態で俺の目を見て俺に罵声を飛ばせ」
やはりというべきか、新藤は首を縦に振らなかった。
俺に汚い言葉を吐くなんてできないと拒否する。
が、俺も半ば語調を強めて「やれ」と脅した。
「頑張って想像力を働かせろ。何事も始める前から言い訳して行動しないのは嫌いだ」
「ううっ。ふ、府神くんが、ぜ、前代未聞なほど、真面目です」
「とにかく、始めるぞ。使う単語はお前で選べ。難しければ最初はマイルドなもので構わない」
強引に、俺流の特訓を開始させた。
新藤が、不安げな表情で俺を見る。一秒経過。
「――あっ」
喉の奥から絞り出すように声を出す。三秒経過。
「あほ~」
五秒経過。
何ら痛痒を感じない。
蟻が靴の上を歩くようなレベルの罵倒だった。
だが、『あほ』の一語だけでも、こいつの内心に宿る倫理の針が振りきれたらしい。
「すみませんすみませ――いたっ!」
新藤は顔を真っ青にして頭を団扇みたいにブンブン上下に振り、勢い余って額を長机にぶつけ、呻いた。
「馬鹿が極まってるな。って、俺が罵ってどうする」
「うぅー、ご、ごめんなさい」
涙目で額をさする新藤。
「ほら、今の俺の暴言、ムカついただろ? その怒りをぶつけてみろ。ワンモアだ、ワンモア」
「……あ」
もう一度、新藤が俺を見て。
「あほ~」
「何で同じこと二回言ってんの? 何で同じこと二回言ってんの?」
前途多難だった。
「よし、わかった。やり方を変える。俺に続いて復唱しろ」
「ふ、復唱ですか?」
「英語の時間と一緒だ。俺の言った単語を一字一句、同じ発音で真似をするだけでいい」
人差し指で新藤をさした。
「いくぞ――まずは、馬鹿」
「え? え?」
「単語の意味は考えるな。はい、復唱。馬鹿」
「ば、ば、ばか」
「よし、次。クソボケ」
「クソ……ボケ」
「腹から声出せ。次、ぶっ殺す」
「ぶ、ぶ、ぶぶころす」
「違う。ぶっ殺すだ。小さい『っ』が足りん。気合も足りん。あと顔を上げろ」
「うう」
「悲しむな。俺を見ろ。声を張り上げろ! さあ、いくぞ。ぶっ殺す!」
「ぶぶ、ぶっころす!」
「下を向くな 俺を見ろ。ぶっ殺す!」
新藤が、ほとんどヤケクソとばかりに、俺を見――そして、張り上げた。
「ぶぶぶぶぶぶっころす!」
「俺は」
「お、おれは」
「お前を」
「お、お、おまえを」
「ぶっ殺す!」
「ぶっころす!」
パチンと、指を鳴らす。なんか、テンション上がってきたぞ。
「よし、視線はそのまま、気が済むまで叫びまくれ!」
「ぶっころす! ぶっころす! ぶっころす! ぶっころす! ぶっころす!」
椅子を引いて新藤は立ち上がり、俺も立ち上がり、新藤が汗をまき散らして罵倒し、俺はただ受ける。
ぶっ殺す。ぶっ殺す。ぶっ殺す。ぶっ殺す。ぶっ殺す。ぶっ殺す。ぶっ殺す。
「マッドマックスの世界ですか!」
南方がそう叫んで乱入するまでの間、新藤は俺の目を見ながら、ありったけの「ぶっころす」を俺に浴びせ続けた。
ストップウォッチは二十五秒で止まった。最高記録だった。