第6章 そしてブルドッグは、てるてる坊主に噛みつく
《二〇〇七年六月一八日(月) 午前三時一四分 総田谷病院 男子トイレ》
俺の股間からションベンが流れる。
床置小便器は少年院のやつよりも十倍は清潔感があった。
俺の右隣では、巨体の男が同様に放尿している。
「何で真横の便器使ってんだよ。ここのトイレ他に誰もいねえんだから離れた所で尿、出せよ」
「お前が逃げねえように監視するためだ。諦めろ」
ゴリラの宮田が人間語で俺の質問に答えた。
トイレを終えると俺たちは病室に戻った。
二〇一号室のスライドのドアを開けると、中ではベッドで眠っている七々川。
そして、そばに寄り添って七々川の手を握っている新藤がいた。
「……あっ。お、おふたりとも、お、お帰りなさい」
こくこく。慣れ親しんだ高速会釈。
「新藤は監視しなくていいのか?」
「お前と違って信用があるからな」
会社の会議とかでプレゼンする時、結論を先に述べるのが上手いプレゼンターだそうだ。
だから、まずは結果から言おう。
七々川は死ななかった。
頸動脈洞を圧迫していた時間が短く適切な救命処置で呼吸もすぐに戻ったので、命に別状はないそうだ。
MRI検査をしたが大脳も傷ついてはいない。
今日明日にでも目を覚ますだろう。ただし、念のため、一週間は検査入院が必要だが――七々川を担当した医者は、そう言っていた。
救急車で七々川が運ばれたこの病院に、俺と新藤、南方と宮田もついてきた。
容態が落ち着いた後も、新藤は眠っている七々川のそばから離れたくないと言い出した。
『お、起きた時に……近くに誰もいないと、アカちゃん寂しがると思うんです……だから、今日だけは、と、泊まらせてください』
結局、外泊許可を得て新藤と俺は七々川の病室に今晩だけ宿泊することになった。
家族ではないので(しかも年少のガキ二人なので)病院側は当然渋ったが、宮田が掻い摘んで事情を説明し説得すると、今晩だけだと念を押されてから、病室に敷布団を用意してくれた。
宮田は付添人兼監視役として共に外泊。
南方は状況を院長や次長に報告するため学園に戻った。
深夜三時。
病室に運ばれてからずっと七々川の手を握っていた新藤も、さすがに瞼が重くなってきている。
「寝てていいぞ。朝になったら俺が起こす」
宮田が眠そうな顔の新藤にそう言って、近くの椅子に腰掛けて腕を組む。
新藤は眠っている七々川の手を握り続ける。
「も、もう少しだけ……アカちゃんの寝顔、見てます」
***
三十分程経つと、やはり眠気には勝てなかったのか、新藤が七々川のベッドに顔を伏せて寝息を立て始めた。
右を見れば椅子に座った宮田も船を漕いでいた。
監視役失格だな。
敷布団で寝ていた俺はふたりを起こさないように立ち上がる。
(今なら、逃げられるな)
自由な世界へ。
考えた。
このまま病院を抜け出して、〈三年〉を殺しに行くべきか否か。
本来の、俺の目標を思い出せ。
足が向いた。
七々川のベッドヘ。
最後に、この雑魚チビの顔を見ておこうと思って。
俺が助けた少女。俺が自殺に追い込んだ少女。安らかな寝息だ。首の痕も薄くなっている。
母への贖罪はこれで済んだか?
「……ふかみ、くん?」
しまった。新藤が起きてしまった。
これで脱走計画は失敗だ。残念だなまったく。
「悪い、起こした」
「い、いえ。ごめんなさい。ね、寝るつもりはなかったんですっ」
「涎」
「ふぇ?」
「涎、出てるぞ」
「……っ!!(ごしごし)」
「二・五倍速で拭いたな」
「だ、誰にも言わないでください!」
「言わねえよ。誰が得するんだよ」
すっかり目が覚めてしまった新藤とともに、七々川の寝顔を見る。
深夜の闇の中、地球の呼吸が停止したみたいに辺りは静寂に包まれている。
「なぁ」
戯れに、訊いてみた。
「お前にとって、七々川はどんな人間なんだ?」
「アカちゃんは……」
涼風のように静かな声で新藤は答えた。
「初めて、ま、真似しないでくれた女の子だったんです」
「真似?」
「私の、ものまね……です」
私、物真似されやすいんです、と、新藤は続けた。
人の目を見れず、きょどり、あがり、口を開けばどもる新藤の性格はよく言えば小動物的でコミカル。
悪く言えば〈馬鹿にされやすい変人〉。
変人の行動は嘲笑と蔑視をこめた模倣をされることが多い。
「が、学校にいた頃はクラスの女の子たちから、よく、私のどもりや、え、会釈の再現をされました。あはは」
強がりが下手なやつだと思った。
「け、けども、アカちゃんは、笑わないでくれたんです。わ、私の、こ、こんなおかしな感じを見ても、と、友達になろうって言ってくれたんです」
俺は新藤の隣に腰掛ける。
何も言えない。
ただ、地味に痛む刺が、心に刺さった。
「……ありがとう、ございます」
違う。やめてくれ。
「府神くんのおかげで、アカちゃん、助かりました」
自業自得なんだ。悪いのは俺で、俺が、七々川に唾を吐いたから――
「七々川、早く、良くなるといいな」
心の本音を飲み込み、押し殺し、俺は言った。
それから、一時間後。
本格的に眠ってしまった新藤を敷布団に寝かせてから、俺は、ひとりで七々川の寝顔を見下ろし、その頬に触れる。
温かい。
生者の熱だ。死体じゃない。生きてる。
母さんと違って。
「ごめん」
まるで死んだ母に謝るようにそう漏らした瞬間、両目がじんと熱くなった。
俺は、眉間を指で強く押さえて、必死に、
目の奥の泣き虫をぶっ殺した。
***
朝。午前九時一三分二三秒。
そいつらは病室のドアを乱暴に開けて入ってきた。
「んだよ、お前のガキ、生きてんじゃん」
「えー、つまんなーい。モノホンの死体見れると思ったのに~」
二人組だった。
きつい香水をつけた女と、短く刈り込み整髪料でガッツリキメた金髪の男。
両名とも歳は二十の後半といったところ。
男はカップアイスを器用に立ち食いしていた。
女の方は、見たことがある。
あの時、学園の廊下ですれ違った……七々川の手を振り払った、厚化粧のケバい女。
「え? 君らふたりともネンショーの子なの?」
男がカップアイスを掬う木のスプーンで俺と新藤を指し示しながら、素っ頓狂な声を上げた。
「うわ、スッゲ。俺も鑑別所まではイったことあっけど、さすがにネンショーにぶち込まれたことはねーわ。キョーアクハンだねえ君ら。つーか、そこの前髪長い女の子、よく見りゃ可愛くね?」
金髪に名指しされ、新藤は縮こまり硬直する。
まるで、嵐が去るのを、じっと待つように。
「ねえねえ、君らふたりさ、人殺したことあんの? 人殺すって、どんな感じ? あ、でも未成年だから実名も出ねーしネンショーなら、前科もつかねえんだよな。羨ましいわ。俺もハタチ迎える前にひとりくらいぶっ殺しておけばよかったなあ、ははははは」
男の右手薬指には銀の指輪がつけられ、指の付け根には『BAD』という刺青が彫られていた。
「あ? なに、この歓迎されてない空気。あ、ごめん、自己紹介遅れたわ」
金髪男がベッドに近づき、寝ている七々川の頬をアイスが付着した木のスプーンでつついた。
「オレ、こいつのお義父さん」
木のスプーンが、王子様のキスとなった。
――七々川が、目を覚ました。
そして、ニヤついた金髪男と七々川の目が合う。
瞬間、目覚めたばかりなのに、七々川の身体が、ゴキブリが腕を這っている光景を目撃したみたいに、ほとんど反射に近いスピードで起き上がりベッド脇に仰け反った。
「うおっ、ばっか。起きるなら前もって言えよ。つーか、ビビりすぎだろ」
「あっ……あっ……」
七々川が金髪男を凝視し、歯をガタガタ鳴らす。
七々川明里は、どうしようもなく――
「アカリちゃん、おひさー。どぉっすか? あの時のせじゅつした歯の調子は?」
目の前の金髪に恐怖していた。
水が流れる音。
次いで、アンモニア臭。
じょろじょろじょろ。
ベッドに座っている七々川の下腹部から、痛々しい小水が溢れだし、七々川の着ている病衣とベッドシーツを汚した。
「うへぁ!」
金髪がせせら笑う。
「こいつぅ、漏らしやがったぁあああ! おい、オマエの産んだポンコツ、膀胱雑魚過ぎだろ!」
ケバい女は七々川を見てあからさまに眉を顰める。
それは実の娘に向ける顔じゃなかった。
「明里、キモいから。ほんと、マジでやめて」
「ああ、面白え。いやぁ、見舞いに来てよかったわ。なぁ!」
同時に、ふたりが動いた。
宮田は金髪と七々川の間に割って入り、彼女を守るように直立する。
新藤は七々川を抱きしめ、その胸の中に彼女の身体を押し込んだ。 七々川の視線が金髪男から外れる。
新藤は自分の胸で七々川に目隠しをしたのだ。
不快な生き物を見ないで済むように。
「申し訳ありませんが、今すぐ、出ていってくれますか?」
宮田は慇懃に命じる。
金髪の眉間に皺が寄る。
「は? オレたちさ、お前んとこのネンショーの人間から連絡受けてここにきたんだけど?」
「ええ。決まりですから。あなた達は、法律上はまだ明里さんの保護者ですので。このような場合は連絡をしなければなりません。ただ、連絡したうちの従業員はあなた達にこうも言ったはずです。『何があっても、担任教官の許可がない場合は、明里さんへの見舞いは禁ずる』と」
「自殺未遂したガキの親が、見舞いにきちゃいけねえ理由が見当たらねえんだけど?」
「現在、明里さんの身元は我々が預かっています。彼女の心身に悪影響を与える人物は、たとえご家族の方であっても、何のアポイントメントもなく会わせるわけにはいきません」
宮田が目を細めて金髪を睨んだ。
「とくに、あなたには明里さんへの虐待の嫌疑がかけられています。これが意味するところを、どうか、ご理解ください」
ケバい女が、気怠そうに金髪の服の袖を引っ張る。
「ねえ、もぉいいじゃん。あんなの放っといて、早く吉祥時行こうよ、吉祥時」
金髪は舌打ちしながら、なおもカップアイスを食っていた。
アイスはすでに個体から液体へと変貌を遂げつつあった。
「ちっくしょ。バニラアイスがアンモニア臭くなっちまった」
いきなり、金髪はケバい女の肩を抱き寄せ、女の唇に接吻した。
俺たちに見せびらかすように舌を絡め、唾液を交換し、上唇と下唇をついばみあう。
「死体になっとけばよかったのにな」
唇を離してから、金髪は七々川を見て、堂々と発する。
「そうすりゃ、後腐れなくこの女とガキ作れんのに。うざいんだよ、連れ子なんてよ。オレの血がはいってねえガキなんて愛せるわけねえだろ。冗談じゃねえ」
「シゲチー。大丈夫だって。すぐにシゲチーの子ども、作ったげるからさ」
「言ったな? ちゃんと作れよ? オレの種で生産しろよ? 今晩中に決めろよ?」
半ば、脅すような口調で言われ、ケバい女はうんうんと頷く。
こいつらにとって、娘の見舞いよりも、その後に控える吉祥時デートや東京駅で買える高級駅弁の具材や都心のラブホで行う貫通式に思いを馳せる方がよっぽど建設的で、大事な行事だ。
俺は、頭の中でコイントスを行うこととする。
「 痛いんですよ 」
新藤の声が耳に入った。
今まで聞いたことのない、暗く、淀み、鋭く、哀しい声だった。
「赤ちゃん産むのって、すっごく痛いんです。鼻からスイカを出すような痛みなんです」
「え? なになに? お嬢ちゃん突然どしたの?」
「つわりもひどくて、出産の時に赤ちゃんが出ないと、お腹、切らないといけなくて……」
七々川を抱きしめたまま、ぽつ、ぽつ、と、新藤はまるで教科書で覚えたばかりの妊娠のリスクを金髪男へと伝える。
「も、もし堕胎する場合でも、そ、そうはほうっていって、スプーンみたいなので、胎盤と赤ちゃんを細かくして、か、かきださなきゃ駄目なんです。そうすると子宮も傷つけちゃって、次から、こ、子ども、産めなくなっちゃうかもしれないんです」
「あのさぁ、お嬢ちゃん――何が言いたいの?」
「あ、甘くないんです! 子ども作るのって苦しくて辛くて痛々しくて嫌なことで、お手軽じゃないんです! だ、だから、生まれた子どもは大切にしなくちゃいけないんです! 絶対!」
コイントス十回目。
裏。
ついでに、悪魔は天使をマウントでボコボコにした。
金髪が吹き出すように笑った後、すぅっと真顔に戻り、
「犯罪者が。いっちょまえに、説教垂れてんじゃねえぞっ!」
手に持っているカップアイスを新藤めがけて投げつけた。
咄嗟に宮田が動く。
宙を舞ったカップアイスは、宮田の顔面にぶち当たる。
アイスの汁が筋となって宮田の顔面から垂れる。
宮田はほとんど殺意に近い目で、金髪を無言で凝視した。
その目に射すくめられ金髪が一瞬固まる。
直後、強がるように床に唾を吐く。
「白けたわ。おい、いくぞ」
金髪が俺たちに背を向け、ケバい女を伴って歩き出す。
一連の光景を俺は脳内でコイントスをしながら見ていた。
コイントスは現在十五回目。
全部裏だ。
俺は賭けをしていた。
表なら、宮田にまかせて俺は何もしない。
裏なら、俺は俺のやり方でいく。
残念ながらコインは裏しか出なかった。
あと、よくあるテンプレート的な天使と悪魔が俺の脳内で戦っていた。
悪魔が常勝だった。
すでに天使の手足をバキバキに折っていた。
俺は、動いた。
「まてよ」
病室を出ようとする背中に声をかける。
ピタッと金髪が止まり、こちらに振り返った。
「今の、命令形だよね? オレ、ひとに命令されるの大っ嫌いなんだけど」
俺は金髪野郎に向かって半歩前に踏み出す。
刹那、宮田に腕を掴まれた。
「心配すんな。何もしねえよ」
その腕を振り払い、金髪の前まで歩む。
「お、めっちゃ目つきヤバイじゃん。さすがネンショーの子だわ。普通じゃないね」
「シゲチー、さっさと行こうよ。こんな犯罪者のいる病院なんて怖くて長居できないって」
ケバい女――七々川の母親が、金髪を急かす。
「そうだよ。俺は、善人じゃない。悪人だ」
七々川の首吊り映像が、一瞬、脳内をサブリミナル的に駆けた。
顔を上げ、目の前にそびえるドでかいゴキブリ二匹を見た。
叩き潰すべきだと思った。
「お前らに教えてやる」
俺は言った。
「悪人は、この星のルールに従わなくていいんだ」
金髪に飛びかかった。
頭突きを食らわせ、当て身を三発叩き込む。
軽快で乾いた音がした。
金髪の鼻や口から血が飛び散る。
勢い余って俺と金髪は病室のドアを破壊して廊下まで飛び出した。
「ふざけんなこのガキァ!」
顔面を鼻血で満たした金髪が、怒りに任せて何度も俺の顔面を殴打する。
俺はタイミングを見計らい、奴の右手の親指に噛み付いた。
背後から宮田が俺の肩を掴んで止めようとしてくる。
俺は宮田の顎に肘を打ち付けた。
当たりどころが良かったのか宮田が怯む。
その隙に俺は金髪の指をよりいっそう強く噛む。
俺は、ブルドッグだ。
ブルドッグは離さない。噛みついたが最後、そいつの肉を千切るまで離さない。俺はお前を食い尽くす。お前を俺の糞にする。
糞は農作物の肥料になる。こいつを生かすよりもよっぽど有益だ。こいつの存在よりもこいつを飲み込んで抽出された堆肥の方が、世界を緑豊かな土地に変えてくれる光となる。
「いてえええええええええ! 痛い痛い! ふざけんな! おい、誰か誰か誰か剥がせ!」
俺はブルドッグだ。
殴られても炙られても刺されても離さない。離さない。離さない。
俺の白い歯は、お前をただの千切れた人肉に変えるために生えてきたんだ。死ね。
「ちょっと、あんた、なにしてんのよ!!」
ケバい女が金髪から俺を引き剥がそうと、俺の両目にその鋭い爪を食い込ませた。
眼球に強烈な痛み。
たまらず金髪から距離を取る。
が、それで終わるつもりはない。
俺は女の髪を引っ掴むと、引きずり倒し、その顔面に膝蹴りを二発お見舞いした。女の鼻から血が迸った。
「やめて!」
七々川の叫び声が聞こえた気がしたが、無視する。
まだまだこれからだ。俺は金髪の耳に裏拳をぶち当て、ケバい女のつま先を足で踏みつける。
「■■■■!」
新藤の声。何を言っているか聞き取れない。
「いや、いや、こいつ、怖い!」
ケバい女は痛みと恐怖で発狂寸前フェイス。
いいぞ、その顔は殴りがいがある。悪くない。
廊下の向こうから、複数人の足音。
女が後退る。涙でマスカラが剥げ、黒い筋を刻む。
――俺は、女の顔に狙いを定めた。
お前のような母親は呼吸をすべきじゃないんだ。
子どもを大切にしない親に何の意味がある。
俺の母さんは違う。あんたとは真逆だ。
どうせなら、母さんじゃなくて、あんたみたいなクズ親が死ぬべきだったんだ。
右足で踏み込み、七々川を産み、七々川を壊した目の前の元凶へと、拳を突き入れた。
顔面の骨が拳に食い込むミシッという音が、耳を打った。
確かな手応えを感じた。
新藤が倒れていた。
病院の光沢のある廊下の上で、打ち上げられた魚のようにびくんびくんと痙攣していた。
ケバい女の前にこいつが飛び出した時、シルエットだけは見えたんだ。
でも、止められなかった。
口の中がカラカラに乾く。
倒れた拍子に新藤の前髪が持ち上げられ、彼女の素顔が見えた。
ああ、なんだ。前髪を上げたら、妖怪とは程遠いじゃないか。
足が震えるくらい、可愛いじゃないか。
目を閉じ、気絶している新藤の左目の周囲は赤く腫れていた。
俺が殴った痕が。赤い痕が。
くっきりと、刻まれていた。
強烈な吐き気に襲われる。
頭がぐらぐらと揺れて前後不覚に陥った。
数人の医者と看護師と宮田が俺を拘束する。
「離せ!」
奴らの腕の中で俺は暴れる。
病室では、七々川が声を張り上げてわんわん泣いていた。
金髪がよろよろと立ち上がると、ケバい女の手を引いて逃げ出そうとしていた。
おい、まてよ。逃げんなよ。おい、お前らわかってのか。お前らは失格なんだよ。親として失格なんだよ。
だから、殴らせろ! 逃げるな。殴られろ!
「俺に殴られろ!」
もがき、怒鳴り、暴れ、甲走る。
ドカッ。
腹部に熱い衝撃。
宮田の右拳が俺のみぞおちに入った。
口の中が酸っぱくなる。
新藤は倒れたまま、動かない。
七々川は赤ん坊のように、泣き続ける。
目の前がブラックアウトした。重心が地面へと傾いた。
地球の重力は、重い。
気絶まで、後三秒。
三、二、一、
誰か。
誰か俺を殺してくれ。
***
「……前もって言っておきますが。これは、体罰ではありませんので」
南方に頬を張られた。
「痛えよ」
「ありがと。そう言ってもらえると叩いた甲斐があったわ」
個別室棟は相変わらず、死んだ鯨の臓器のように、静かだ。
「一ヶ月は出てこれないと思いなさい」
そう言い残し、南方が単独室の扉を閉めて鍵をかける。
一日、二日、三日。先の病院での暴行により〈調査〉で単独に入れられてから、俺はベッドの上に横たわり眠くもないのに寝続けた。
夢に母が出てきた。
続いて七々川が出てきた。
ふたりは、身体をプラプラさせて、瞳孔が開いた目で俺を睨んでいた。
何であなたも死なないの?
どうして先輩も自殺しないんですか?
ふたりとも、潰れた喉で訴えてきた。
南方から差し出される作文(反省文)は、一枚も書かずに破り捨てた。
このまま、この白くて狭い四畳間の部屋で死んでもいいと思った。 俺に相応しい末路だ。
でも、死ぬ前にどうしてもひとつだけ、確かめたいことがあった。
(あいつ、無事なのか?)
目蓋の裏で、新藤の顔がちらつく。
一週間が経った。
単独室には時計も無いので、足元の食器口から乱雑に入れられる朝昼晩の飯と、日の昇りと沈みだけで日付を測った。
一週間後の夜。
個別室棟の廊下に足音が響いた。
南方が来たと思ったがどうやら別の人間らしい。
足音は控えめなものだった。音の間隔も南方のそれに比べて遅い。
足音が俺の部屋の前で止まった。
「っも、もしもし……」
聞き慣れたどもり声。
反射的に俺はベッドから身体を起こす。
「なんだよ」
いきなりのことに驚きながらも、なるべく平静を装って扉の向こうの新藤に話しかける。
「ひとりで来たのか? 教官連中からの許可は?」
「ひ、ひとりです。む、無許可です。その……忍び足で、き、来ました」
「お前にしては随分大それた行動だな」
「が、頑張りました」
何しに来たんだ? そう訊いたら、新藤は、俺が暴れに暴れまくって、宮田にノされたあの後のことを――途切れ途切れの口調で――語ってくれた。
後遺症が残るほどの大きな怪我を負った人間は、いなかったらしい。
俺は、単独室の畳の上に座った。
声の小さい新藤の言葉を聞くため、扉に背中をくっつけて。
「……俺、今度は刑務所行きかな」
「い、いえ、だ、大丈夫です! 刑事事件にはなりません!」
教官の監督不行き届きによって、在院少年が一般人に怪我を負わせた。
当然、金髪とケバい女は学園に対して訴えを起こす権利がある。
事実、駆けつけた警察官相手に、あいつらは自分たちの被害性を散々喧伝していた。
「で、でも、結局、ふたりとも起訴はしなかったみたいです……た、たぶん、あの人達、脛に傷を持っている気がするので、裁判で色んなことが暴露されるのが嫌だったんだと思います」
クズは自己保身に長ける。何時の世もそうだ。
「……そ、その、立ち話も、な、なんなので……す、座ってもいいですか?」
特に断る理由もないので許可すると、新藤が地べたに腰掛ける衣擦れの音がした。
それから、コツンという音がした。
彼女が、扉にもたれかかったのだと、見えなくとも理解した。
扉を挟んで、背中合わせ。
「どうして――」
自分が冷や汗をかいていることに気づいた。
「庇ったんだ? あんな女を」
返答は以下の二種類のうち、どちらかだと俺は予想した。
一 無言
二 暴力はいけないことです
間があった。
「ぱ、ぱんちしても、良かったんです」
予想外の答えが返ってきたので、焦った。
「ぱんちじゃない。可愛らしく言うな。ただの暴力だ」
「すすすすみません。でででも、あの金髪の人を府神くんがいっぱいぱんちしてくれた時は――ざ、ざまあみろって、思いました」
「だからぱんちじゃ……つか、おい、いいのかよ、んなこと言って」
「わ、私、そんな品行方正な子じゃありません。怒る時は、怒ります。嫌な人には、ひどい目にあえって思うこともあります」
「初めて、お前に親近感が湧いたよ」
「け、けど、あの人は……アカちゃんのお母さんだけは、ぱんちしたら、駄目なんです」
「……理由は?」
「あの人は、アカちゃんが……アカちゃんだけが、ぱんちするべきだからです」
声が上ずっている。
もしかしたら、扉の向こうで少しだけ泣いているのかもしれない。
「アカちゃんをずっと、ずっと傷つけていたのはお母さんで、だけど、アカちゃんがずっと、ずっと、好きだったのも、お母さんなんです……だから、本当にアカちゃんがあの人を憎んでいるなら、アカちゃんがきちんと、ぱんちするしかないんです。でも、まだ、アカちゃんがお母さんのことを憎みきれていないなら……」
実母を殴ろうとする俺に、七々川は『やめて!』と叫んだ。
「お前……七々川の代わりに、俺を止めたのか」
「あの人は……まだ、アカちゃんにとっては、大切なお母さんなんです……」
そいつを俺が傷つけようとしたから。
だから、新藤は俺を止めた。
「……左目、大丈夫か?」
「はい、暫く安静にしていれば問題ないって、医官の人が言ってました」
内心で、自分でも驚くほど、ほっとしていた。
「………………悪かった」
許して欲しいわけじゃない。
ただ、言わないと落ち着かないだけだ。
「七々川にも、そう、伝えておいてくれ」
「だ、駄目です。府神くんの口から、直接、言うべきです」
「前々から思ってたんだが……お前ってさ、こっちが油断してると、わりと一撃入れてくるっていうか……意外に手厳しいよな」
「そ、そうです。私、厳しいんです」
暗い個別室棟には、俺達の声が無駄に反響する。
それが嫌だから、俺は声量を抑えて言った。
「直接あいつに話すのは、難しいな。俺、あと一ヶ月は出れないっぽいから」
「な、長いですね」
「悩みどころは、その間どうやって暇を潰すかだよ」
あるいは、七々川の真似をするという手もあった。
悪くないアイディアだ。
新藤の無事を確かめた今、生きる理由もなくなった。
もう、終わりにしたい。していい気がする。いや、気がするじゃない――すべきだ。
何もかも失った人間に残された最後の矜持は、潔さだけなんだ。
単独室の扉の足元にある食器口。
そこから、誰かの手が差し込まれ、床に置いていた俺の右手にそっと触れた。
「まいったな……」
反射的に、
「作文と食器以外のものが、入ってきやがった」
俺は、彼女のその手を掴んだ。
「お前の手、汗ばんでるぞ」
「ご、ごめんなさい。あ、汗っかきなんです」
単独室の院生が教官の監視もなしに、集団寮の院生と会話を交わすのはタブーだ。
ましてや、食器口から伸ばされた手を握るなんてことは。
「どういう風の吹き回しだよ」
「き、きっと。府神くんも、暗くて狭い部屋にひとりでいたら寂しいと、お、思うんです……だ、だから、せめて、手を……つ、繋げば、寂しさ、半減するかも……しれません」
「お前ってさ――もしかして、いいやつだったりする?」
「そ、そんなことないです。ふ、普通です……」
「なぁ」
「は、はい?」
「何でお前、少年院に入ってんの?」
訊くべきではないと頭ではわかっている。
けど、限界だった。
何かの間違いだと思ったから。
こんな善良の塊みたいな女が檻に入れられているなんて、どう考えても筋が通らない。
「それ……不正会話……です」
「許可もねえのにここに来て勝手に俺と喋っている時点で、お前も規則破ってんじゃねえかよ」
図星をつかれたのか、新藤が押し黙る。
「府神くんは……また、走らないんですか?」
ようやく口を開いたと思ったら、さっきとは全く関係のない話題を振ってきた。
「何の話だ?」
「陸上の話……です」
顔が熱くなる。
「言ったろ。陸上なんてやったことないって。それに学園のグラウンドで走るのも、もうやめ」
「すごく綺麗でした!」
俺の言葉に、新藤の声が重なった。
握られた手に力が込もった。
「わ、私、陸上には明るくないですし、ルールも、フォームも、よ、よくわかりませんが、前にグラウンドで見た府神くんの走り方は、綺麗で、嘘がなくて、夜なのに、眩しく映ったんです。例えるなら、サバンナのチーターが優雅に大草原を駆けるみたいな感じで……つまり、あの……ご、ごめんなさい。う、うまく言えなくて」
耳を塞ぎたくて、たまらない。
「俺が走ろうが走るまいが、お前に何の関係があんだよ」
「も、目標を持った方がいいと思うんです。ここを卒業して、間違った自分にお別れするための、生きる目標が、府神くんには必要な気がするんです」
今更俺に何を期待させる気だ?
俺は終わったんだよ。あの〈三年〉を刺した時点で、何もかも。
俺はな、新藤。ただの殺人未遂の〈非行少年〉なんだ。
「もういい……早く、部屋に戻れ」
つい、口調に苛つきが交じる。
俺は、繋いでいた手を離した。
自ら、彼女の温もりを手放した。
俺たちの間を沈黙が浸す。扉越しに新藤の息遣いが聞こえる。
戻れと言ったのに、新藤は俺のそばから離れない。
「府神くん?」
数分後に新藤が俺の名を呼ぶ。
俺は無視する。聞いているけど、無視する。
「も、もう、お休みになられたんですか?」
返事はしない。でも、耳には嫌でも入ってくる。
「……あ、あの、わ、私、府神くんに殴られたの、全然怒ってないんです。な、殴られても、しょうがないんです。わ、私は悪い人ですから……こ、更生なんて本当はしちゃだめなんです」
自虐には聞こえない。それは、新藤の本心。
「ふ、府神くんはもう寝てるみたいなので……こ、こ、これはひとりごとだから、不正会話じゃないんですけど……」
新藤が言葉を区切って――
「私、人殺しなんです」
告解した。