第5章 てるてる坊主
《二〇〇七年六月三日(日) 午後〇時五五分 一松学園紅葉寮 面会室》
この日は、午後一時から特別面会が行われることになりました。
「ヒデッキー」
明里は、面会室の右隣に座っている岩石のような方のお名前を呼びます。
宮田秀喜さん。明里の担任教官。
顔はゴリラ族ですが、心は紳士なナイスガイです。
「おトイレ、行きたいんですけど」
「七々川。十分前にこの部屋に入ってから、何回トイレに立ったか、思い出せるか?」
曲げていた手の指を三つ、まっすぐに開きました。
「あと、五分あります。四回目の花摘みをお許しください」
「おれは構わんが、問題はお前の気持ちだ。どうする? 会うのが難しければ日をずらしてもいいぞ? 無理はするな」
ヒデッキーの申し出はありがたかったのですが、明里は断りました。
「自分の親に……会うだけですから。えへへ」
***
何も出ないのにトイレにこもりました。
酷い生理痛が来たみたいに、お腹、痛いです。
特別面会。
ようするに、明里と、明里の保護者と、担任教官との三者面談。
お母さんと会うのです。四ヶ月ぶりに。
会いたいか、と問われれば頷きます。
けど、心の中は恐怖心でいっぱいでした。
何を話せばいいの?
頭の中を巡る疑問。明里はお母さんを愛しています。
けど、逆は?
お母さんは明里のことが嫌いなはずです。
嫌いだから明里に〈痛い〉を与え続けていたのです。
でも、でもでも、明里、お母さんともう一度ちゃんとお話して、お母さんに謝って、仲直りして、いっぱい愛されたいんです。好きって言って欲しいんです。
トイレの洗面台に立ち、鏡の向こうの自分に命じました。
「お母さんと……仲直りしてください。絶対に」
面会室に戻り、待ちました。
約束の一時を二十分超過後、扉の向こうからバキバキに厚化粧でキメた女性が現れました。
お母さんです。
明里の心拍数、急上昇。
表情筋を無理やり笑わせて、胸の中の恐怖を押し込めます。
ヒデッキーが丁寧に頭を下げながらお母さんに名刺を渡しました。
お母さんはアイメイクを施したデカ目でその名刺を数秒ほど見てから、面倒臭そうに片手で受け取ります。
彼女の香水の臭いが、狭い面会室に充満しました。
明里が入院してから四ヶ月間の状況をヒデッキーはお母さんに報告します。
当のお母さんはずっと携帯をいじりながら「あ、はい」と空返事で答えていました。
それから、お話は本題へ。
「退院後の……身元引受人の件についてですが」
ヒデッキーは慎重に言葉を選んでいました。
「七々川さんが十分に反省し、今後、明里さんときちんと向き合うなら、私どもとしては七々川さんに引き取り手になって頂いても構わないと考えています……ただ、退院後暫くは、保護観察官と児童相談所の人間が、七々川さんのお宅にお邪魔して……娘さんの安全確認を行う形を取らせて頂くことになるかとは思いますが」
決してあなたを信用していないわけじゃない。
手続き上仕方のないこと。
あくまで形だけのチェック。
ヒデッキーはそう続けます。
ギリギリの綱渡りを行っているのに表面上は笑ってないといけないような、そんな固い笑顔をヒデッキーは浮かべていました。
「もしアタシが引き取らなかったら、どうなんのこの子?」
お母さんが気怠そうに尋ねます。
「その場合は、明里さんは退院後、自立援助施設に送られることになります」
お母さんは、視線を明里に向けました。
「明里はさ……ここ出たら、暮らしたい? アタシと」
熱くて、喉が乾くのです。まるで、燃え盛る家の中にいるみたいに。
そうだ。お母さんは、助けてくれたんです。
火と一酸化炭素が充満するあの場所で、明里を抱きしめてくれたんです。
「うん!」
明里は、これ以上ないくらい満面の笑みで頷きました。
「めんどっっっくっっっっせえぇえええ」
煙草臭い息が、大きく開いたお母さんの口から漂ってきました。
お母さんは悪い人じゃないんです。
だって、火事の中、娘の明里を救い出すために危険を犯してくれたんですよ。愛がなきゃそんなこと、出来ないじゃないですか。
だから明里は――燃やしたんです。
空き家にガソリンを撒いて、ライターで火をつけて。
そうすればお母さんがまた助けてくれると思ったから。
「最初に家が火事になった時にでも――焼け死ねばよかったのにね」
……あれ? おっかしい、なぁ。
「ま、あの火事のおかげで保険金ガッポガッポ入って焼き太れたからいいんだけどさー。ついでにアンタも処分できてりゃあ、一石二鳥だったんだけどなぁー」
「七々川さん。申し訳ありませんが、娘さんを刺激するような発言は謹んで頂けますか?」
「アタシが産んだ子なんで、どー扱おうとアタシの勝手っぽくないスか?」
たぶん、嘘じゃなくて、これ、お母さんの本音。
「あああ! うっざい! い・ら・な・い。ガキとかもう邪魔! 金ばっか食うし、いちいち泣くし、漏らすし、何かあるとすぐ保護者の責任とかいわれてさぁ、こっちは子育てで自由な時間なんて一分もないし、そりゃあ、少子化になるに決まってんじゃん。ああ、いいよ。なに? 援助施設? 送っちゃっていいっスよ。勝手にすれば。親権とかいらねーし。剥奪でもなんでも好きにどうぞ。あ? でも親権放棄とかって罰金取られたりしないよね? 金ないのよ今」
ヒデッキーが立ち上がり、入り口の扉を指しました。
「今日のところは、お引取りください」
さして驚いてもいないようです。
最初からこの展開を予想していたのかもしれません。
「今日のところ? いや、もうこねーよ。言ったじゃん。親権いらないって……はぁ。時間の無駄だったわ。アタシばっか非難されそうな空気っぽかったし」
お母さんが席を立ち、扉に向かいます。
取手を掴むと、振り向き、空いている方の手で明里を見、手を振りました。ヒラヒラと。
「じゃあね明里。なんかぁ、アタシよりマシないい感じの人に貰われてよ」
扉、開かれます――唐突に、明里は解りました。
今捕まえないと、お母さんに二度と、会えなくなると。
だから――手を、手を、手を、手を、伸ばしました。
***
《府神静馬》
***
たまたまその日、俺はそこを通った。
特別面会室の前の廊下を通った。
丁度、スライド式の扉が開かれたんだ。
中からケバい女が出てきたんだ。
後ろには雑魚チビ七々川がいたんだ。
「いやだ!!」
鼓膜がピリピリと震えるほど、大音量の七々川の叫び声が廊下中に響き渡った。
「お母さん、あの日、火事の中から明里を助けてくれたんですよね? なのに、どうして、いまさら捨てるんですか? だったら、あの日、見捨ててくれれば……」
「はぁ?」
ケバい女が目を丸くする。
「助けてないっつの。あの火事でアンタを勝手に救出したのって、消防士でしょ? なに? 煙吸って頭ぱっぱらぱーになってたから見間違えたの? あ、そっかぁー。アンタ助けた消防士って確か女だったしね。えー、マジでお母さんだと思っちゃってたわけ? うける」
七々川の目から、光が消えた。
「残念でしたー。アタシはあの日、ずぅうううっと、シゲチーとランドでデートでしたー」
七々川の唇が戦慄く。
「いや……」
その女の服を七々川は引っ張る。
「嫌っ、嫌っ、嫌っ、嫌っ、」
強く、強く、縋りつく。
「っ! 離しなさいよ! 服、皺ついちゃうでしょ!」
「捨てないで!」
それは、命乞いに似ていて、
「お願いします! いい子にしますから! 悪いことしたらぶってもいいから! 歯も抜いていいから! お母さんと一緒にいさせてください! お母さんの娘でいさせて――ください!」
ひどく、ダサかった。
ダサくて、悲惨だった。
「ああ、もう。うっとおしい!」
何の逡巡もなく、顔の周りを飛び回る蝿を追い払うように女は七々川の手を振り払った。
宮田が後ろから七々川を抱き止める。
七々川は手を伸ばし、ケバい女を求める。
女は我関せず、ズカズカと廊下を歩き、俺の目の前まで来た。
「キモっ。死んじゃえよ、犯罪者」
すれ違いざま、女は横目で俺を睨んで、吐き捨てた。
七々川が地べたにへたり込む。
「お母さん、お母さん、お母さん……」
母を求め、
「お母さん……お母さん……トモちん……トモちん……トモちん!」
途中から求める対象が、母親から、代替物に変わった。
「アカちゃん!」
都合良く代替物が現れた。
新藤が七々川のところへと急ぎ走ってきて、後ろから抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だから」
泣きじゃくる七々川を落ち着かせようと、彼女の背中をさする新藤。
「い、医務室に……連れて行きます」
そう言って新藤は七々川を立たせ、廊下の向こうへ消えていった。
後には、俺と宮田。
「おい、どうなってんだ」
俺は宮田を問い詰める。
「今の茶番、クソほども面白くなかったぞ」
覗き見た修羅場。
事情は不明だが、気力は奪われた。
悪意をぶつけた女とぶつけられた女。
感情の奔流にあてられ 、吐き気がこみあげてくる。
バツが悪そうに、宮田は俺を見た。
「親子の絆が、今、完璧に千切れたんだ。そんな場面が、面白いわけねえだろ」
***
翌日からだ。
バランスが崩れたのは。
七々川が新藤のそばから片時も離れなくなった。
朝会時も食事の時も授業中も個別学習の自由時間も、おそらく寝る時も、七々川は新藤の腕を掴んで常に身体をくっつけて生活していた。トイレすらも一緒に利用していた。
分離不安って言葉を聞いたことがある。
生後十ヶ月くらいの赤ん坊が、親が自分を置いてどこかに行ってしまうんじゃないかという恐怖心を過剰に抱いて泣き叫ぶ症状だ。七々川の現状とほぼ一緒。大きな赤ん坊である七々川は母親代わりの新藤との分離を病的に怖がっていた。
だが、そんな状態を長く続けられるはずがない。
ここは託児所じゃなくて、少年院なんだ。
階段の踊り場で新藤が南方に説教されている場面に遭遇した。
曰く、七々川を甘やかし過ぎだと。あれでは更生にならないと。 自立を促せないと。
「来週から、新藤さんと七々川さんの部屋を分けます。今後暫くは、授業教室がかぶらないように、おふたりの指導科目も別にします。これは宮田先生も合意の上です」
「っ! そ、そんな……きゅ、急過ぎます」
「新藤さんに対する七々川さんの依存関係を断ち切るためです。荒療治ですが仕方ありません。もし代案があるのならおっしゃってください。聞いた上で考慮すべきか判断します」
新藤が、自分の右腕の袖をぎゅっと握った。
「だ、誰だってお母さんに捨てられたら、お、おかしくなります……い、いまのあの子には、そ、そばにいてあげる人が必要……なんです。む、無条件に肯定してくれる人が」
「それは、私たちの役目です。新藤さんが担うものではありません。あなたはあくまで在院生。ルームメイトを気遣う精神は立派ですが、まずは自分の更生を第一義に考えて」
「取り込み中のところ悪いが……」
俺は踊り場にいる両名に声をかけた。
「通行の邪魔だ」
南方の冷たい眼差しが俺に向けられる。
その顔は機械のように無表情だった。
「新藤さんのお気持ちもわかります。けど、七々川さんにこれ以上、干渉するのは止めてください……どうせ、この学園で友達になっても、卒業後は会えないのだから」
南方はその場から立ち去った。
「七々川は……」
踊り場に残された新藤に、俺はできるだけ何気なさを装って訊いてみた。
「親に、捨てられたのか?」
先日覗き見た親子の修羅場。
純粋な悪意をぶつけた母親。ぶつけられた娘。
数瞬の間を置いて、新藤はぎこちなく頷く。
肯定の意。
「十歳の時のアカちゃんの体重って、二一キロだったんです。ど、同年代の女の子の平均より、十キロ以上低かったんです」
これもたぶん不正会話なのだろうけど、こいつは話を続ける。
少し興奮しているように見えた。
「お母さんに、ご飯、食べさせてもらえなかったんです。あまりにもひもじいから、アカちゃん、人の家に忍び込んで、炊飯器のご飯、勝手に食べていたこともあって、でも、それは仕方の無いことなんです。た、食べなきゃ、死んでしまい……ますから」
虐待。
「……それでも、アカちゃんは、やっぱりお母さんのことが好きで、退院したらお母さんと一緒に暮らしたいって、また、もとの家族に戻りたいって……わ、私に何度も言ってたんです」
「捨てるさ」
俺は新藤の発言をばっさりと断ち切った。
「親は子どもを捨てるさ。当たり前だろ。よくある話だ。ありふれた悲劇だよ」
「府神くん……」
「南方の言うとおりだ」
ジャージのポケットに手を突っ込み、俺は新藤に背を向ける。
「お前はこれ以上、七々川に構わないほうがいい。入れ込み過ぎても碌なことにならない」
「……どうして、ですか?」
「見てないからだよ」
踊り場の階段。その一段目に足をかけ、背後を振り向き、新藤に伝えた。
「七々川は……お前のことを見ていない。都合良く優しくしてくれる相手を求めているだけだ」
***
南方の行動は早かった。
翌週から七々川は新藤と別の部屋に移され、授業教室も分けられた。有限実行――ただし、結果は、逆効果。
誰の目から見ても、新藤から物理的に離された後、七々川の調子は崩れていく一方だった。
新しくルームメイトになった女ともそりが合わなかったのだろう。七々川は、前よりも酷く、他人を求めた。
「友達になってください」
見知らぬ在院生に声をかけては、一歩通行の愛情をばらまいた。
「なんでもしますから! 明里と、友達になってください!」
誰も見向きもしない。〈七々川明里は頭がおかしい〉という空気が院内を覆っていた。教官ですら、七々川を放置しておくことが多くなった。単独に入れるよりも、気が済むまで友達作りに励んでもらって、その無意味さに自主的に気づいてもらう方が更生に役立つとでも思ったのだろう。どうせ、他の院生は勝手に七々川を遠ざけるし。不正会話には繋がらない。
ま、そのせいで、標的は俺になったわけだが。
――その日。夜八時。自由時間。
コンコン。
俺の部屋をノックする音。
開けると、
「先輩っ ばんこんは!」
扉の向こうには七々川。
男子部屋に教官の付き添いも無くやってきた。
明らかな規則違反。
だが七々川は意に介さず、俺の手を引っ張った。
「グラウンド、行きましょう!」
俺を連れ出し、紅葉寮を飛び出す。
突然のことで俺も思考が追いつかず、なすがまま手を引かれた。 たどり着いた場所には、土のトラックがあった。
走るための設備があった。
七々川が、俺の右横で何の前触れもなく屈伸運動を始める。
「一応訊くが、何の真似だ?」
「んー、見ての通り準備体操ですよ」
気の抜けた声で俺に説明しながら、大きく背伸びをした。
「一緒に走りましょう」
「理由をくれ」
「トモちんから聞いたんです。先輩が昔、陸上をやってたって」
「……新藤から何聞いたかしんねーけど、陸上やってたとか、嘘だからな」
「あれ? 先輩、顔怖い。もしかして、明里、地雷踏んじゃったり?」
「お前と一緒にいて、変な噂にでもなったら困るんだよ」
今日は辺りに教官の姿もない。監視がいないということは、何かあった時言い訳が聞かないということだ。
このまま脱走しちまうという手もあるが、それこそこいつの存在が邪魔だった。
「変な噂って、お色気方面ですか? うひゃー、先輩、明里をそんな目でご覧になっていたのですねー、明里のパイオツクンカクンカマンになりたかったのですねー、いてっ!」
ほとほと殺意がわいたので、七々川の顔面にチョップをかました。
「ううっ、先輩、ゲロ痛いです」
踵を返し、紅葉寮に向かって歩き出す。
もうたくさんだ。俺は部屋に帰るぞ。
「わー、先輩。帰らないで! ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから付き合ってくださいよ!」
「百歩譲って、仮に俺が元陸上選手だったとしてもだ。お前みたいなもやしが俺の足についていけるわけねーだろ。冗談も大概にしろ」
「失敬な! むしろ長距離走はもやしっ子の方が得意ですよ!」
確かに。長距離ランナーにとって付け過ぎた筋肉は走る邪魔になる。が、筋肉が全く必要ないというわけじゃない。BMIが低値になるように調整して筋力をつけるトレーニングは必須だ。
「明里、基本運動オンチですけど、こう見えてスタミナだけはあるんです! 中学の体育の授業で持久走をした時は、クラスで三番目でしたよ。スタート直後は辛いですけど、暫く走っていると、段々と楽になってくるんです。アレですよ。ペースを保って走り続けてれば、身体が〈ランナーズハイ〉になってくれるじゃないですか? そしたらもう苦しくないです。楽勝ですよ」
ランナーズハイ……だと?
振り返った。
「あれ? 先輩、目つき、めっちゃ怖くないですか?」
「馬鹿かお前。ランナーズハイなんてな――あるわけねーだろ!」
説教タイム。俺の口は止まらない。
「クソ素人が。お前らの言うランナーズハイってあれだろ? 体育の授業中に校舎の周りをトロトロ三十分以上かけて走ってるうちに、なんとなく身体が走ることに馴染んで『あ、俺って体力あるんだ』って錯覚を起こす現象のことだろ。いいか。アップしてジョグを二十分やってキロ三分二十秒で六〇〇〇メートルのペース走を終わらせ、すぐ二〇〇〇メートルの全力疾走。終わったらまたジョグ二十分。休みもなく更にインターバル走×八。次に体幹トレーニングを三十分。最後に十分ジョグとストレッチで終了。そこまでやった状態でな『俺って体力あるんだ』なんて思うやつはゼロだ。もれなく満身創痍だよ。不慣れな一年はゲロを吐く。地獄だ。俺たち陸上選手はな、走っている最中その終わらない地獄に延々耐えなきゃいけないんだ。ランナーズハイ? んなもん、本当に肺と心臓が潰れそうなほど走ったことがねえ奴の戯言だよ」
「――へぇ」
上目遣いで、
「陸上のこととなると、いきなり饒舌になるんですね、先輩。やっぱり好きなんだ。走るのが」
本当のことを言われた。
俺の中で、何かが切れた。
「じゃあ、なおのこと走りましょうよ。明里も先輩のためにひと肌脱ぎますから。先輩が楽しく走れるように、明里が、お側で応援してあげますから」
人間は、本気で怒ると、わりかし、冷静になる。
「断る」
自分の声がひどく冷淡に聞こえた。
「遠慮なさらずにー」
腕を掴まれた。その腕を払った。
七々川の目を正面から見据えて言った。
「俺、お前のこと、嫌いなんだ」
はっきりと。信ずるに足る迫真さを込めた声色で。
「――あっ」
禁句、だったのだろう。
七々川の顔から笑顔が消えた。
代わりに、画用紙を黒と灰色と赤のクレヨンでぐっちゃぐっちゃに塗りたくったような絶望が浮かびあがった。
「なんで……そんなこと、言うんですか?」
七々川の目は泳ぎ、手足が震え、発汗し、息苦しいのか胸を押さえる。
「明里たち、友達じゃないですか」
また、妄言を吐いた。
「なぁ。ひとつ訊きたいんだが……俺はいつ、お前と友達になったんだ?」
「だって、前に、食堂で……明里、先輩に、友達になりましょうって言って……」
「その時、俺は頷いたのか? 首を縦に振ったのか?」
言おう。
嘘偽りのない真実を。
簡単な話だ。お前は女だ。そう告げるのと何も変わらない。
「お前。自分に優しくしてくれる相手なら、誰でもいいんだろ?」
「っ! ち、違っ」
「弁解するな、黙れ。陸上を餌に釣れば、褒められると思ったのか? 俺の得意分野に話題を合わせりゃ、俺と親密になれるって、浅い打算を巡らせてたのか?」
何故俺はこんなに怒ってんだ?
ああ、嫌いだからか。
そうだ。俺が七々川にずっと感じていたもやもや。
言葉にすることで腑に落ちた。
俺はこの女を心底嫌悪していたんだ。
だって、こいつは――ただの、メンヘラだから。
「最初からおかしいんだよ、お前。初対面の時は俺に飛び蹴りかましてきたくせに、次に会った時は、もう、お友達になりませんか、ときた。どんな心変わりだ?」
「っ! あ、あれは、と、トモちんに説得されて、明里が、間違ってたって気づいて……」
「ああ、間違いだよ。お前の認識は、だいたい間違ってて、狂ってる。真実を言ってやる。俺はお前のことが嫌いで、お前も本当は俺のことが嫌いだ。けど、保険になるから、自分すら偽って、俺と友達ごっこを続けようとしたんだ」
「先輩の言っていることの意味がわかりません……保険って、何ですか?」
「無条件にお前を愛してくれる他人の保険だよ。数を用意しておくんだ。いざ、愛想を尽かされた時に、すぐに乗り換えられるように。最初は新藤。駄目なら、院生の何人かが候補だ。そいつらも空振ったところで、最後に俺にお鉢が回ってくる」
傷つける言葉が湯水のように湧いてくる。
昔、似たような行動をやらかしたな、と俺は思い出す。
対象物が傷つくとわかっていながら、言ってはいけない言葉を、罵倒の唾を吐いた過去。
「親の愛情が足りなかったのか? 知るかよ。足りなかった分を赤の他人で代用するんじゃねえよ。ヘドが出る。俺はお前の妥協じゃないんだ。親の抱擁が無理だからって、ランクを下げてお前にしとくかってか。そんな真似をされても、こっちは受け付けられないんだよ」
あの人は、俺が我慢出来ずに吐き出したその唾に、どう反応した?
「っ……えへぇ」
笑っていたんだ。
「ひぅ……うぐっ……え、えへへ」
母さんは、泣きながら、笑っていたんだ。
この女と、同じように。
「ごめんなさい」
頭を下げられた。
面を上げると、八重歯をむきだしにして、ボロボロと涙をこぼしながら、七々川はまた笑う。
「先輩にご迷惑をおかけしました。もう、でしゃばった真似はしません」
鶏は鳴かない。あいつら、今日は早寝だったのかもしれない。
七々川が俺に背中を向けて、足早に紅葉寮に帰っていった。
よくやった、俺。
俺はあいつの依存対象じゃない。だから、はっきりと言ってやったのは間違いじゃない。
これでいいんだ。
やっと煩わしい雑魚チビから解放された。ああ、せいせいした。 今晩だけは、部屋に戻ったら蓮沼にも優しくできそうだ。
自分に言い聞かせた。
七々川明里が自殺未遂をしたのは、翌日の夜だった。
***
《七々川明里》
***
嫌われた。嫌われた。嫌われた。嫌いなやつに嫌われた。
え? それって、万々歳じゃないんですか?
違うんです。駄目なんです。
明里が誰かを嫌うのはいいですけど、誰かが明里を嫌いになるのは困るんです。
ストレートに嫌悪をぶつけられることに耐えられないんです。
耐えられなかったら、どうなるんですか?
なんか、壊れちゃう。いろいろと。
部屋に帰りました。途中で部屋を間違えそうになりました。明里はもうトモちんのルームメイトじゃないのです。ドアの前で気づいてゆーたーんしたのです。
自室のドアを開けると、新しいルームメイトの女の子に泣き顔、もろ見られました。
「え? どうしたの?」
明里を、救え。
「さっき、先輩……府神さんにめっちゃ怒られたんですよ。話してたら、地雷踏んだんですよ。お前のことが嫌いだーって面と向かって言われたんですよ。明里、今、とっても、つらたん」
「ふーん。大変だね」
新しいルームメイトさん、興味ゼロでした。
というか明里に対する興味ゼロでした。
恐怖が全身を浸します。
駄目だ。また嫌われた。先輩にも、この人にも嫌われた。どうしてだろう。明里は全部話したのに。自分のこと、全部話したのに。
出し惜しみせず、防御せず、仮面をかぶらず、自分の生い立ちや人生観、本音――〈明里がどういう人間か〉、その一切合切をぶちまければ、誰とでも仲良くなれると思っていました。
だって、みんな好きでしょ? 隠し事の無い人。
だから、明里も隠さなかったんです。でも、でもでも、どんどんどんどん嫌われる。人に自分語りをすればするほど、その人に嫌われる。このままじゃトモちんにもいずれ……嫌だ。考えたくない。 そもそも、自分の母親に嫌われる時点で明里は駄目なんだ。この世界にいてはいけないんだ。辛い。生きていれば、またこの辛い痛みを味わうことになるんだろうな。出会う人出会う人に面と向かって「嫌い」って言われることになるんだろうな。
そんな生に何の意味があるのでしょうか。
教えてくれる人、誰もいないよ。
消灯時間が過ぎました。ルームメイトさん、寝ました。
暗い部屋の中で明里は国語辞典を取り出しました。国語が壊滅的な明里にヒデッキーが持たせてくれたものです。部屋でも自主勉しろということだったのでしょう。
希死念慮って言葉が、パラパラめくってたら見つかりました。
鉄格子の窓から差し込む月光のおかげで、問題なく読めます。
希死念慮――●を請い願うこと。
「希死念慮……希死念慮……希死念慮」
小さく口に出して、三回唱えました。
なんだか、やる気が出てきましたよ。
ベッドに潜り、ザラザラしたベッドシーツを強く握りました。
(これ、使う)
***
《府神静馬》
***
「昨日から、覇気がないね」
寮の部屋で日記を書いていたら、蓮沼に声をかけられた。
「色々あったんだよ」
泣き笑い顔を浮かべた女の姿が、頭をよぎる。
あれから一日経った。今日一日、七々川は、表向きは落ち込んでいるようには見えない。ただ、俺に話しかけてはこなくなった。
「当てようか。七々川さんを泣かせた」
蓮沼が俺を指さして、したり顔で正答する。
特に否定もせず、俺は首を縦に振った。
「駄目だよ、女の子泣かせちゃ。まして七々川さんは最近不幸な経験をしたばかりじゃないか」
あれだけ面会室前の廊下で暴れたんじゃ、情報漏洩を防ぎようがない。七々川が実母との面会で一悶着あった件に関しては、すでに院内の少年たちの間には広まっていた。
「結構ね、少年院には多いんだ。親から虐待受けた子って。けど『あなたの尊敬する人は誰?』ってアンケートを取るとそういう子ほど親の名前を書くんだよ。親との繋がりとか愛とか、求めちゃうんだよね。悲しい現実だ。七々川さんだけじゃなくて、僕まで泣きたくなってくるよ」
俺は蓮沼を睨みつける。
「顔、笑ってるぞ」
「そう?」
「綺麗事を言うな。だいたい、お前、人の不幸が好きなんだろ?」
他人の不幸話を聞くと笑ってしまう。
こいつが前に言っていたことを思い出す。
「違う違う。好きなわけじゃないんだ。安心するんだよ」
蓮沼がベッドに腰を下ろし、膝を組んで正面から俺を見据える。
「人の不幸な話を聞くとね、ほっとするんだ。最悪なのは自分だけじゃないって思えるから」
消灯時間まで後十分というところで、戸を叩く音が部屋に響いた。
また懲りずに七々川が来たのかと訝しんだが、扉の向こうの声は新藤のものだった。
「あ、アカちゃん……」
対面した新藤は、
「……見つからないんです」
泣くまで後三秒という顔をしていた。
***
消灯時間が近いのに七々川が寮に帰ってきていない。
七々川の新しいルームメイトから報告を受けた新藤は、居ても立ってもいられなくなって探しに出た。教官に話すべきか迷ったそうだが、消灯時間を過ぎても許可無くウロウロしていたら単独行きは必須。大事になる前にまずは自分の足で七々川を見つけようと決意し、結局、教官抜きの独断で部屋から飛び出してきた。
「だからって、俺まで巻き込むなよ……」
「ご、ごめんなさい。府神くんなら心当たりがあるかもと思って。ルームメイトの子が、昨日、アカちゃんが府神くんと一緒にいたって、本人の口から聞いたと、お、おっしゃっていました」
その言葉に含むところは感じられない。
実際に昨晩俺が七々川相手に何を口走ったかは、新藤の耳には入っていないのだろう……そのことに、内心、胸を撫で下ろす自分がいた。
は? 撫で下ろしてどうすんの? 罪悪感? んなもん、感じてるわけねえだろ、死ね。
ズキズキズキズキ。頭痛がしたので、思わず、頭を押さえる。
「ふ、府神くん。ちょ、調子悪いんですか? す、すみません。む、無理はせずに……」
「いや」
頭を振った。
「何でもない。いいさ。探しもの、手伝ってやる」
ざわつく。嫌な予感がひしひしとする。
ああ、幸先悪いな。こういう勘は当たるんだ。
紅葉寮の各部屋。グラウンド。鶏小屋。教育棟。七々川が行きそうなところを虱潰しに探した。漫画じゃないので、ゴミ箱の中は見なかった。
教育棟で捜索をしている段階で、
「消灯時間、過ぎちまったぞ」
電気が一斉に消えた。
暗闇の中、新藤が「ひゃうっ」と小さく悲鳴をあげ、俺にしがみつく。
「ばっか、お前近いよ」
俺の声に焦りが混ざる。暗いからじゃない。新藤の胸があたっているからだ。ふにゅふにゅしたやば気な感触が俺の全身を駆け巡る。 くそ。こいつ、たぶん美乳だ。大きさはそれほどでもないが、感触から判ずるに、形は芸術なのだろう。
「ごごごごめんなさいごめんなさい。くくく暗いの駄目なんですっ。実は怖がりなんです!」
「お前が怖がりなのはわかる。誰だってわかる。つか、懐中電灯とか持ってきてないのか?」
「もももも持ってます! 持ってきてます! どどどどうしましょう!?」
「いや、使って欲しいんだけど」
ジャージの上着ポケットから取り出した懐中電灯で、新藤は辺りを照らす。
その明かりを頼りに俺たちは七々川捜索を再開した。
「ひっつくな。歩きづらいだろ」
右手で俺の服の裾を引っ張りながら、新藤は俺にピタっとくっついて歩く。
「ごめんなさい。わ、私のせいで、府神くんまで規則違反に……」
延灯活動の事前申請は、当然ふたりとも行っていない。
「あとで一緒に怒られてくれ」
「は、はい。もちろんです。三人で、怒られましょう」
三人か。七々川が見つかる前提の話だ。
「つ、つかぬことをお訊きしますが……」
暫く歩いていると、新藤が声量を落として遠慮がちに尋ねてくる。
「ふ、府神くんは、アカちゃんのこと、苦手だったりしますか?」
唐突な質問。適当に受け流すか迷ったが、
「嫌いだよ。反吐が堆積するほどにな」
バカ正直に答えてしまった。
「わ、悪い子じゃないんです」
「こんなやりとり、前もやったな」
あの時も新藤は七々川を庇っていた。
「別に俺はあいつが悪い人間だから嫌っているわけじゃない」
話しながら、思考をまとめようとする。
俺が七々川を嫌いな理由。つまるところ――
「全人類が、余さず、自分に興味を持ってくれると思い込んでるところが、不快なんだよ」
だから七々川は語るのだ。自身のことを。
年齢、血液型、出身地、趣味嗜好、性癖、男性経験の有無、ムダ毛の有無、自分に似ている芸能人について、そして、自分の犯した罪について。
自分という存在を高価なケーキのように切り売りして、人に好かれるために、人に好かれると信じて、サーカスのピエロを演じる。 自分の傷口(犯罪)を他人への見世物にする。
ガタンッ。
物音がした。教育棟三階の女子トイレから。
さて、ここで質問だ。
どんな馬鹿でも、生涯で唯一、多数の人間から注目を集めることができる方法は何だと思う?
音の鳴った方へ俺と新藤は走った。
三階の女子トイレは電気が点いていた。
プラプラ。ギィギィ。
トイレの個室に、ぶら下がっていた。
トイレの天井近くに設置された水洗タンクの配管。
そこにベッドシーツをくくりつけて、シーツの片方を首に巻きつけて、教室から持ってきた椅子を蹴り飛ばして、足場を無くして、空中浮遊。
輪っか状のシーツがいい感じに喉に食い込んで、首の動脈を圧迫して、
プラプラ。ギィギィ。
探偵アニメの事件現場で死体を見ていきなり叫ぶ女なんてフィクションだとわかる。
人は、本当に非現実的なクソ現実に出くわした時、叫ぶ前に脳がぶっ壊れる。
七々川明里が、首を吊っていた。
自分語りのフルコースを他人に浴びせても他人は自分に興味を持ってくれないと判断したピエロは、観客のいないピエロは、観客を呼び寄せるために自ら火の輪に飛び込む。
どんな馬鹿でも、生涯で唯一、多数の人間から注目を集めることができる方法は何だ?
自殺だ。
***
――物心ついた頃から、家には父親がいなかった。
どうしてうちにはお父さんがいないの?
そう訊いたら、母さんは、こう言った。
お父さんは山で死んだのよ、と。
実際は、親父は山ではなく殺人の罪で刑務所にいたわけだが。しかも、死んでないし。
そして、母さんは、てるてる坊主になった。
ダブった。
目の前で揺れている地に足が着いていない七々川と、あの時の母さんが。
しかも前日譚も同じときたもんだ。
あの日、俺は母さんを傷つける言葉を投げつけた。
「何で俺を産んだ!?」
傷つけるとわかっていながら投げつけた。
「何で俺を犯罪者の子どもに産んだんだ!」
母さんは、昨晩の七々川と同様に、笑った。泣きながら笑って、
「ごめんね」
と、一言。
翌日に居間で首を吊っていた。
吐いた唾は戻らない。人殺しの親父のせいで、世間のバッシングを浴びて心身ともに疲弊していた母親の最後の命綱を奪いとったのは、俺の不用意な発言。
新藤が、女子トイレの汚いタイル貼りの床に尻もちをついた。
伸びた前髪の奥の目が、わが子を殺された母猫のように見開かれる。
その時だ。
シーツが破れたのは。
人間ひとりの体重に耐えられなかったんだ。
耐えるように作られていなかったんだ。
破けたシーツと一緒に七々川の身体が女子トイレの個室の床に落下する。
七々川がうつ伏せに倒れ、右足が和式便所の便器の排水口に落ちた。
「呼べ!」
俺は新藤に怒鳴る。
「救急車だけを呼べ! 救急車しか呼ぶな!」
腰が抜けて立てないと思ったが、新藤は存外素早かった。
泣きそうな顔だが、涙はぐっとこらえ、転けそうになりながらも教官のところへ走った。
教官に伝えろ新藤。救急車だけだと。間違えても、死体を片付ける警察を呼ぶなって。死人を運ぶ霊柩車を呼ぶなって。
女子トイレに残された俺は七々川の身体を個室から引きずり出し、仰向けに寝かせた。首にはシーツの痕。口から涎が垂れ、血が仄かに混じっている。顔は土気色。目は閉じている。
呼吸は止まっている。
「死ぬな!」
耳元で、大声で呼びかけた。反応なし。肩を叩いた。反応なし。
右手の人差し指と中指を顎の下に差し込み、顎を上向かせ気道を確保。
七々川の鼻を摘んで、俺は大きく息を吸って、
七々川の唇を奪った。
七々川の口は血の味がした。俺は一秒以上かけて息を吹き込む。 それをもう一往復行う。
呼吸は戻らない。
「お前は死ぬな!」
今度こそ助けなければならない。さもなきゃ俺は崩壊する。
両手を開き、組んで、手の付け根を七々川の胸部に当てた。
七々川は意外にもおっぱいがあった。着痩せするタイプか。
感触を楽しんでいる暇はない。手の付け根に体重をかけ、七々川の胸骨を垂直に圧迫する。心臓マッサージ。七々川のおっぱいもろとも、胸部が内側に沈み込む。
どうでもいい。おっぱいなんてどうでもいい。
呼吸の停止したおっぱいに価値は無い。
中学の頃、陸上部の合宿で顧問に人工呼吸の練習をやらされた。
冷たいマネキンを使って、部員全員が救命処置を覚えさせられた。
人命救助ができなくてはスポーツマン足り得ない。走るのも大事だが、まずは、人を救う呼吸法を覚えろ。それが、顧問の思想だった。
んだよ合宿まで来て、何で、こんな陸上と関係ねえことやらされんだよ、死ね。
部員の誰よりも、一生懸命やった。
母さんのことがあったから。居間で母さんの死体を見た時、俺は只々放心していた。足が動かなかった。その縄を解き人工呼吸をしてやれば、もしかしたら助かったのかもしれないのに。
「死ぬな! 死ぬな! 死んで、俺の心に残ろうとするな!」
胸骨が折れるほど、圧迫し、緩め、また圧迫する。
命の鼓動が復活するまで続けろ。
「明里!」
押しこむ。手を。彼女の胸に。初めて、下の名で呼びながら。
「明里!」
ごほっ。
咳が聞こえた。魂が口の中に戻ったかのような咳が。
七々川が息を吹き返すのと同時に、宮田と南方を伴った新藤が女子トイレに戻ってきた。
救急車はその五分後に到着した。