第2章 蓮沼立
鶏が頭に響く声で鳴いた。
朝六時。億劫な気分で引き出し付きベッドの上から起き上がる。
「移動ですよ。府神君」
迎えに来た南方が、施錠していたドアを開放する。
一週間、単独室で考査期間を耐え抜いた。作文、日記、内省ノートもえづきながら書いた。
が、耐えぬいても自由の身になるわけじゃない。
檻の移動が行われるだけ。
今日から俺は集団寮に移される。
「ここが第二寮。正式な名称は『紅葉寮』です」
秋に竣工したからという安易な理由でつけられた紅葉寮の扉を俺は通された。
寮に入り、階段を登る。時刻は六時十分。院生の本来の起床時間は七時なので、朝から個別で役割活動がある院生以外は、まだ寝ている時間帯。
なので、寮内には人の姿は見当たらない。
と、思ったら、階段の踊り場で、女とすれ違った。
灰色の帽子を目深にかぶり、ピンクのジャージ(女子在院生の日常着)を着た女。
――一瞬、妖怪か幽霊の類かと見間違えた。
「おはようございます、新藤さん」
南方がその女の名を呼んだ。
名前を呼ばれたそいつは、びくぅと肩を震わせながら、こくこくこくこくと、何度も会釈する。
「今日は、早いですね。何か、役割活動でも?」
「はははいっ、そそそそそそ、そのっ!」
「緊張しないで。大丈夫、新藤さんのペースでいいから」
「す、すみません、み、宮田先生に呼ばれまして。アカちゃん、あ、いえ、七々川さんの件で」
「そういえば、彼女、前日に〈反省〉で単独行きになってましたね」
「……ま、また……不正会話をしてしまった、み、みたいで……」
妖怪は、ずっと俯きながら、ぼそぼそと喋っていた。帽子から飛び出た前髪が長すぎて、顔が隠れて目がほとんど見えない。ずっと、 壊れた機械のように会釈している。不気味だ。妖怪だ。でも、声は女の声。だから、かろうじて、人間か。
「――え?」
新藤という名の前髪伸ばしすぎのかろうじて人間女が、すれ違いざま、素っ頓狂な声を上げながら、前髪に隠れてよく見えないその両目を俺に向けてきた。
「あ? 俺の顔になんかついてる?」
「……あっ、うっ……」
俺に見られた瞬間、外敵に襲われた小動物レベルの速度で、女は俺から目を逸らす。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい」
こくこくこくこくこく。ヘビに睨まれたオコジョのように慄きながら、女は目にも止まらぬ速さで頭を五回ほど下げ、逃げるように階段をおりていった。
……なんだよ。まるで、俺がいじめてるみたいじゃないか。
女の胸についていたバッジの色は白。一級上(最上級生)の証。
「誰、あいつ?」
「紅葉寮の〈お部屋係〉の新藤さん。君もお世話になりますよ、これから」
「何であんな意味もなくキョドってんの?」
「人前だと、こっちが心配になるくらいあがっちゃう子っているから。彼女はそれに該当しているだけです」
それだけ言うと、何事もなかったかのように、南方はスタスタと前を歩き始める。
「一応、女だったな、あいつ」
「そうですね」
「この寮、男女兼用なのか?」
「ええ。一松学園自体が男女共院なので。敷地を広くする予算もないから、寮も男女同じ」
「ちょっとまて。いいのかそれ? 問題が起きるんじゃないか? 男と女が同じ屋根の下だと」
二階に上がると「見て」と言って南方が三階に続く階段の方角を指さす。指さした先、踊り場の天井付近には、監視カメラが二台、設置されていた。
「三つある寮のうち、どの寮も二階が男子部屋。三階が女子部屋。この赤線見える?」
女子部屋への階段。その一段目には赤いラインテープが引かれていた。
「男子在院生は許可無くこのラインテープを越えてはいけません。もし一歩でも越えたら、別室で監視カメラをチェックしている警備員の方々がすぐさま飛んできます。女子部屋区画への不法侵入に対する罰則は大変厳しく、半月は単独室から帰ってこれないと思ってください。もちろん、女子が男子部屋区画に来る場合も同様です」
それから南方は、何かを思い出したように、さっき妖怪女がおりていった階段下を見下ろす。
「まあ、先ほどの新藤さんに関しては、役職上、特別に許可を与えて男子部屋区画に行ってもらう場合もありますが。とはいえ、その時は教官付き添いが絶対ですけども」
言い終わると、二階の男子部屋区画を案内される。
T字型の廊下の突き当りに行くと、右に折れる。四つ目のドアを超えたところで、南方は止まった。
「ここが、君の部屋です」
指し示した一室の扉を南方が三度、ノックした。
「蓮沼君、おはようございます。南方です。新入生の子を連れてきました。起きてますか?」
扉の向こうへと声をかけ、同時に鍵穴に鍵を差し込み、慣れた手つきで回した。
扉が開く。
「出ます!」
黒縁メガネ。ぼさぼさ頭。童顔。喧嘩弱そう。体育の授業は見学し、理科の授業で一番張り切りそうなタイプが、威勢のいい、優等生然とした声を上げて部屋から出てきた。
「入院番号五六番 蓮沼立と申します! 何卒、よろしくお願いいたします!」
何度も鏡の前で練習したかのような、流暢な挨拶。胸には二級上を示す赤いバッジ。
俺の同居人。
「蓮沼君とは、必要最低限、仲良くしてください。逆に言えば、必要以上に仲良くしちゃダメ。不正会話には、気をつけること。それじゃ、朝礼まで部屋で待機」
南方は立ち去る。
去り際、俺と蓮沼がいるこの部屋の扉を再び施錠した。これで、本来の起床時刻の朝七時まで部屋から出ることはできなくなった。
この扉は、内側からは、開かない。
さっきの威勢の良さはどこへやら。南方がいなくなると、蓮沼の顔から表情がすぅーと消える。
そのまま、奴は無言でプラスチック 製の安っぽい椅子に座った。
机の上に置いてあった文庫本を手に取り、読み出す
俺を無視して。
五分経過。お互い、沈黙。
「秋田県の老人が、一番自殺するらしいね」
六分三六秒後に言語が飛び出した。
蓮沼が喋ったんだ。謎の話題だった。
「何の話だ?」
「年間三万人以上の日本国民が自殺で死んでるけど、これは交通事故による死者の四倍なんだ。男女で比べると、数は男のほうが多い。男の方が女より死ぬ。そして、若者より高齢者の方がよく死ぬ。妻に先立たれた後に自殺するパターンが多いんだ。地域別に自殺率を見てみると、都市部より農村の方がいっぱい死んでる。田舎のほうが自殺するための道具、多いしね。農薬とか。それと、これは有名な話だけども、自殺率が一番高い県は秋田。冬場に太陽が出ない日が多いからかな? それと、単身よりも三世代同居者のほうが自殺する率、高いみたいだよ」
文庫本の表紙のタイトルは『自殺大国の実相』だった。
本を片手で閉じると、蓮沼が、俺を見据える。
「まとめると、秋田県の田舎に住んでて、孫たちと一緒に暮らしている、妻に先立たれたおじいちゃんが一番危険ってこと」
「話、なげえよ」
「話が長いのは性分でね。不快な気分になったのなら、謝る」
「俺がいつ自殺の統計について質問した?」
「言いたかった」
「あ?」
「言いたかったんだ。これ、タイトル通り、日本社会における自殺の実情を綴ったルポ本なんだけど、凄く面白くてね。得た知識は積極的にアウトプットしたいんだよ、僕」
「壁にでも話しかけてろや」
「折角新しい同居人が来たんだ。壁に向かってアウトプットするだけじゃ、つまらない」
「もしかして、俺を舐めてる?」
「舐められると、困るのかい?」
「胸ぐら掴むぞ、お前」
「はは、言う前に掴めよ」
掴んだ。
蓮沼の胸ぐら、掴んで、壁に叩きつけた。挑発に乗ってやった。
「なるほど。得心した。そういうタイプか」
「殺されてえか?」
「うん」
こともなく、奴は頷く。
「今日死ぬのも、明日死ぬのも、六十年後に胃がんで死ぬのも、さほど、差はないし」
蓮沼の顔に怯えの色はない。ひどくやりづらい男だった。俺が刺した奴とは違う。俺が襲った〈三年〉はこんなに諦めた目をしちゃいない。
何故か、怒りが萎んだ。
舌打ちして、手を離す。
「教官連中に、チクリたきゃ。チクれ」
そうすれば、また、あの静かな単独室に逆戻りできる。
「チクらないよ。これから寝食をともにする人間を、単独に送る真似なんてしないさ」
微笑みを浮かべながら、飄々とした口調で蓮沼は言った。
「……府神だっけ? 君、いびきはかくかい?」
「いびき? かかねーよ。歯ぎしりもしねえ。死んだように眠る」
「よかった。前の同居人は最低だったからさ。壊れたラッパみたいないびきをかく男だったんだ。あの時ばかりは、自分の鼓膜を破ろうかと真剣に考えたもんさ」
蓮沼が手を差し出してくる。
「というわけで、安心した。いびきをかかないなら、ヤクザでも悪魔でも構わない。歓迎するよ、府神。うまくやろう。できるだけ、この少年院のなかで、最善を尽くして、深まろう」
握手を求められていることに、その時、初めて気がついた。
「変なやつだな、お前」
「あはは、そもそも、変なことをした人らが来るところだからね、ここ」
でも、話していて、そこまで不愉快な気分にならない。
珍しい相手だ。こいつ、明らかに俺を舐めてるのに、それが神経に触らない。
だから、とりあえず、握手には応じた。
「さっきの胸ぐらを掴んだ件については、俺は一ミリも悪く無いと思ってるんで、絶対に謝らねえけど、根には持つなよ。めんどくせえから」
「了解。でも、これだけはアドバイス――教官の評価を上げたいなら、嘘でも謝ったほうがいい。あと、大きな声で挨拶をしよう。そうすれば評価なんて勝手に上がっていくから」
これが、蓮沼立との最初の接触。初対面の印象は、謎の男。
内面がまるで見えない。
趣味は読書とのこと。
無駄な薀蓄披露と作り笑顔と芝居がかった口調が得意。
そして――
後に、俺の友達になるやつ。
***
朝七時。南方教官が「起床!」と叫んだ。
俺たちは解錠された部屋から出て廊下に並ぶ。
「脱帽! 番号!」
初めての点呼。そのまま、生活棟の食堂で朝食。
朝食後に歯磨き、洗顔まで終えるとホールにて朝礼を行い本日の日課開始。
教育棟に移動し、二階教室に入り、九時から英語の授業が始まる。 教師は南方。
ここでいくつか発見があった。
まず、ここの連中、歳は一六歳以上二〇歳未満しかいないわけで、普通だったら、高校や大学に通う年齢の奴らなわけで……なのに、授業はアルファベットからスタートした。
書き方じゃなくて、読み方。「A」というアルファベットは「エー」と読みます。そういうレベル。
でも実際に生徒を見ると、今生まれて初めて英語というものを知ったみたいな顔をしている奴も少なくない。
ようするに、これが、この学園の少年に合わせた妥当なレベルの教育らしい。
次に驚いたのが教育棟の廊下と教室の作りだ。
廊下の手洗い場には固形石鹸が赤い網の中に収まっていた。
そして、手狭な廊下に並ぶ教室の扉。その上には各々の教室の組番号が書かれたプレート。教室内の机は古い木目のあるもので、鼻を近づけると加工された木の匂いが漂ってくる。椅子も木製で、俺くらいの歳の男が座るには、いささか小さい。
まるで、小学校だ。
ランドセルを片手に担いで通ったあの義務教育施設。
ここは、日本中、どこの小学校に通った奴でも懐かしさを覚える作りになっていた。
小学校と違うのは、どいつもこいつも引くほどに生真面目ってこと。そりゃそうか。授業を受けて挙手して発言して、教官のゴキゲンを取っていれば文字通り早く卒業できるんだもんな。
南方教官が質問すれば、全員が手を挙げる。挙げていないのは、俺だけ。
「新藤さん」
南方がその名を呼んだ。
「は、はははははい!」
先ほど廊下ですれ違った、あの新藤とかいう女がテンパりながら立ち上がっていた。
伸びすぎな前髪からかすかに見える両目がグルグルと回っている。
「アルファベット、AからZまで、書けるだけ書いてください」
南方に言われるがまま女はチョークを受け取り、黒板にアルファベット二六文字を書き連ねていく。
その手は震えていた。危なっかしい。
パキン。案の定チョークが折れる。
「ひぅ!」
女は自分が折ったチョークの音に自分でビビっていた。
パキン。
「あぅ!」
二本目も続けて逝った。
結局、アルファベット二六文字を書き終わるまでに、七本のチョークが犠牲となった。
***
教科教育が終わり、午後の南方との個別面接も終え俺は寮の自室に戻った。
「脱走だ。脱走。今すぐ脱走」
南方からもらった内省ノートと睨めっこしながら、自動音声のようにぶつぶつ呟く俺。
「気が早いね」
横から蓮沼が苦笑気味に声をかけてくる。
「後一日でもこんなところにいたら、禿げ上がっちまう」
「逃げようと思えば逃げられるけどね。少年院は刑務所とは比べ物にならないくらいセキュリティは緩いから」
「短い付き合いだったな、蓮沼」
「じゃあね府神。ただ肝に銘じて欲しい。脱走者っていうのは脱走行為そのものよりも、脱走した後の方がよっぽど大変だってことをさ。長時間の鬼ごっこは想像以上に、辛いよ?」
「うるっせえ、わかってるよ、それくらい」
仕方なく、内省ノートに鉛筆を走らせる。
内省ノートとは、ようするに俺と南方の交換日記だ。
毎回、南方がテーマ(課題)を決め、それに俺が文章で答え、それを読んだ南方がコメントを記入する。
通常の日記と違って書く頻度は三日に一回ほどだが、毎度うざったいテーマが設定されるせいで、俺の筆はいつでも鈍る。
「あ、内省ノートか。南方教官のコメントは手厳しいから、弱っちゃうよね」
蓮沼の担任教官も南方だ。
南方は現在、俺と蓮沼の二人の担任をしている。
「テーマは何だい?」
答えるべきか、迷った。
「家族について……だとよ」
結局、答えた。
「へえ、親のことか。また、こういう施設にいる子どもが一番書きづらいことを書かせるなあ」
「書きづらいもクソも、おふくろ、死んでるし。首吊って。親父も、俺の下の毛が生えるずっと前に人殺して捕まって、まだ服役中だしな。あと十年は出てこれねえ」
聞かれてもいないこと、ぺらぺら喋った。
別段、大した話でもないし。
「…………」
蓮沼が押し黙り、両耳を塞ぐ。
「何だよ?」
「府神に殴られたくないので」
「あ?」
「聞かなかったことにするよ、今の話は」
蓮沼の口角が上がっていく。
「笑っちゃうんだ。人の不幸な話を聞くと」
申し訳無さそうに――
「こんなんだから、僕は深まれないんだけどね」
笑いをこらえていた。