第12章 浮力のついた夢を走る
これで完結です。
お読みいただいた方は、ありがとうございました。
では、また。
翌日から電車で二子玉川の河川敷に行き、陸上部の頃の練習メニューを思い出して走った。
アップして、ジョグをやって、ペース走。
その後全力疾走。
息が切れ、肺が潰れそうになるまで練習する。日が沈んでも練習する。
夜は二子玉の漫喫に寝泊まりした。
傷口には絆創膏やガーゼ、包帯、かさぶたを作らず傷を治すために開発された貼ると白い膜を作って浸出液を逃がさないようにするパッド等を貼り、痛みを誤魔化す。
長距離をずっと走っているといつの間にか、新藤が入院している青田菜の大学病院までたどり着いてしまうこともあったが、もちろん中には入らなかった。
南方たちには見つかっていない。
病院から逃げた後、遠くに行き過ぎなかったのが功を奏したのかもしれない。
灯台下暗し。
欲しい物が眼と鼻の先にあると、人間は案外見落とすもんだ。
右膝の怪我は酷く痛む時もあれば、ほとんど痛みを感じなくなる時間帯もある。
身体のバイオリズムに左右されるのかもしれない。
残り五日間で体力を全盛期ラインに戻すのは無理だが、日を追うごとに、俺の足は軽くなり、体力が尽きる時間も遅くなった。
夜、漫喫の無駄に柔らかい椅子で眠る時は、いつも、新藤の顔が頭に浮かんだ。
なぁ、新藤。俺、わりと頑張ってるぞ。
だからお前も頑張って、怪我、治せよ。
七々川や蓮沼のことも考えた。
七々川は無事に少年院に帰れただろうか。
単独に長期で入れられちまったんだろうか。
もしそうなら少し胸が痛む。
あいつを巻き込んだのは俺なんだから。
蓮沼は今も教官や院生相手に、薀蓄語りをしているのだろうか。
いつかの日の夜に蓮沼が俺に語って聞かせてくれた〈くだらない話〉。
感化院に入れられた反抗者の物語。
『反旗を翻したんだよ。このゴールラインを超えたら、自分を利用した院長の思う壺だと考えたんだ。だから、彼は止まった』
蓮沼。
俺は、超えるからな。ゴールライン。
***
《新藤智》
***
「それで、府神君とは、どんなお話をしたの?」
入院中の大学病院の病室で、南方先生に質問される。
同じ質問。これで、三度目。
「す、すみません。や、やっぱり……覚えてないです。思い出せないんです」
嘘。
本当は、はっきりと覚えている。
病室で彼と交わした会話の全部を。
だけど、それは、人に話していいものじゃない。
たとえ、南方先生でも、ノーだ。
ここ数日、南方先生は毎日のように私の病室に訪れる。
未だ、府神くんの所在は掴めていないらしい。
少しでも私から情報を得ようとしているみたいだけども、こちらとしても府神くんを売るような感じになってしまうので、どうしても非協力的な態度になる自分がいた。
「南方さん、ちょっと」
別の教官が病室に現れ、南方先生に耳打ちする。
すると、南方先生の顔が見る間に険しいものとなった。
「外で」
そう言って南方先生は教官を伴って廊下に出てしまう。
(何があったんだろう?)
気になった私は、病室のドアの前に行き、耳をピタっとくっつけた。
盗み聞きだ。
「これを見てください」
「どぶさらい?」
「陸連の登録番号から、大会申し込み者が府神静馬であると判明しました」
「主催者側は? 偽名や住所偽装なら参加を拒否するはずでは?」
「問い合わせたところ『かつての神童選手が本名を偽ってうちの大会に出場してくれるなんて光栄なことだ』とおっしゃっていました……意欲的なようです」
「ユニークな主催ね。大会の名称は?」
「小浜大長距離走大会。小浜体育大学の横浜キャンパスで開催されるみたいですね」
「うちの後輩のひとりが、そこの出身だったわね。非常に自由な気風の大学と聞くわ」
「開催は明日。タイムテーブルは男子五〇〇〇メートルが十時十分から開始です。府神はその種目に出ます」
「了解。神奈川県警とも協力して、当日までに人を集めてください」
「承知しました」
私は、耳をそばだてながら、片手に持った携帯電話のメモ帳に、ふたりの会話の中に出てきた『大会名』と『所在地』と『開催時間』を手早く書き込んでいった。
――南方先生たちが帰ると、入れ替わりでお母さんがお見舞いに来る。
私は、お母さんの服の袖を強く引っ張った。
「お、お願いします! あ、明日、先生に頼んで外出許可を出して欲しいんです!」
「智。どうしたの? 急に」
携帯のメモ帳を母に見せながら、私はできるだけ、真剣で、真摯で、深刻な声で、伝えた。
「この大会に、行きたいんです。どうしても!」
***
《府神静馬》
***
大会当日。
横浜駅に降りた俺は、その足で小浜体育大へ赴く。
到着し、正門をくぐると、案内係の指示に従って、キャンパス内に設けられた大きな陸上競技場に向かった。
(さすが体育大学。トラック、でか)
広々とした全天候型トラック。
赤錆色の走路が視界を埋め尽くしていた。
朝の長距離走種目に出場予定の選手の姿もちらほらと見かける。
俺は受付に足を運んだ。
「君が、えっと……どぶさらい君」
受付のおっさんが〈凄いの来たな〉という感じの目で俺と選手リストの紙を交互に見た。
「はい、どぶさらいです」
「怪我してるね」
まだ、俺の全身は絆創膏やガーゼまみれだった――が、膝の調子は、悪くない。
「どぶでもさらってたのかな?」
「はい、どぶをさらってました」
「なるほど」
男は参加者のリストにある俺の名前の部分にチェックをつけた。
「着替えは向こう。ユニフォームは新品のものを貸し出してるからそれに着替えて。靴は……」
「あります」
俺は、履いている靴をおっさんに見せる。
少年院を脱走してから、ずっと履きっぱなしのランニング・シューズ。
おっさんの案内通り、控室で新品のノースリーブとランパンのユニフォームに着替える。
外に出ると、案内があった――時間ですので二組目の男子五〇〇〇メートル競走参加選手は、スタート地点にお集まりください。
スタートラインであるバックストレートの出口に着くと、見知った顔と対面する。
「……府神っ」
苦虫を噛み潰したような顔で瀬戸は俺を見る。
「約束通り、ボロ雑巾の身体で来てやったぞ。感謝して笑え」
「死ねよ。犯罪者」
「わかった。走ってから、死んでやるよ」
トラックの周囲の観客席には一般の観客や大学の応援団らしき連中が座っていた。
スタートラインの左右にスターターが配置される。
間もなくスタート。足をプラプラと左右に振っていた選手たちが、全員、一、二歩前に進み、前かがみになり、片足を出す。
スターターが手を上げた。
――位置について。
俺は、深呼吸を一回。
久方ぶりの晴れ舞台に、胸が高鳴る。
ここにいるほとんどの人間は俺を知らない。俺を覚えていない。 俺はすでに過去の異物だ。
いや、そもそも、はじまってすらいない。はじまる前から終わっていた。
――用意。
だったら、もう一度、はじめてみようじゃないか。
ここから。
スターターピストルが鳴った。
全員が一斉に飛び出した。
***
《七々川明里》
***
教育棟の二階廊下。窓を開けてお空をぼ~っと眺めておりました。
「黄昏きってるね。どうしたの?」
お隣にポスドクさんが並びます。ふたりで一緒にブルーなスカイを見上げました。
「ポスドクさん」
「んー。何度聞いても慣れないね、そのアダ名」
「いつ帰ってくるんでしょうね。あの人」
「府神のこと?」
こくりと頷きます。
長い遠足でした。
ここ数日、院内は脱走した先輩の件でてんてこ舞い。
私は先日、単独から出してもらえたばかりだったので、学園の急変に戸惑いを隠せません。
「聞いた話だけどさ。府神、今日、陸上競技の大会に出るみたいだよ」
「うあ、びっくりです」
ていうか、情報セキリティ、ガバガバですね。ここ。
「先輩ずるい。お外、満喫中ですか。遠足で迷子になって、そのまま悠々ひとり旅ですか」
空に浮かぶ怪獣みたいな雲を見ながら、不満気にぼやきました。
内心は、小躍りしておりましたが。
「先輩、きっと、今すっごく、人生楽しんでるんだろうなあ」
「応援でもする? 府神が優勝するように」
「名案です」
太陽が、学び舎であり、檻でもあるこの複雑な施設を燦々と照らします。
夏、真っ盛り。
「フレー、フレー、府神」
「ふれー、ふれー。先輩」
なんだか、すごく馬鹿っぽい気がします。
でも――たまには、悪くないかも。
戻ってきたら、きっと彼は、やり遂げた顔をしているのでしょう。
その時は、ちゃんと言わなくちゃ。
大嫌いな彼に。
――おかえりなさいって。
***
《府神静馬》
***
走者は一六名。
俺は丁度八番目の順位をキープしながら最初の六週目まではペース走を意識して、一定の速度を維持しながら走っていた。
七週目から、スピードを上げた。
一〇〇〇メートルを三分以内のペースで駆け抜ける。
八周目で五人抜いた。九週目で二人抜いた。
現在、トップは瀬戸。
へぇ、意外にやるな。馬鹿にし過ぎたかもしれん。
だが――
更に速度を上げた。
身体が羽のように軽い。
目に見える風景も、耳に聞こえる音もすぐさま後ろに流れる。
何もかもを追い越す。
瀬戸と並び、瞬時に抜かした。
トップに躍り出る。
観客席から歓声が湧く。
懐かしい響きだ。
あの頃を思い出す。
叫びちらしたい衝動に駆られた。
俺はここにいるぞ、と。俺は、帰ってきたぞ、と。
泡沫の夢だ。すぐ覚める。
だったら、覚める前に、精一杯、この夢を楽しんでやろう。
右足に違和感を抱いた。無視した。
十週目。十一周目も快調。二位以下を引き離し、颯爽と駆け抜ける。
そして、膝が死んだ。
「え?」
自分が地べたに、仰向けに転がっていることに気づく。
思いっきり転んだせいか、全身が擦り剥けている。また傷が増えちまった。
いや、そんなことはどうでもいい。
ほら、俺、立て。余裕こいて寝るなよ。
ウサギとカメじゃないんだから。いくらなんでも他の選手に失礼だろ。
つか、追いつかれるぞ、おい。どうした。何とかしろ。
何とかしろ!
右膝が悲鳴をあげる。
金槌で容赦なく殴られたみたいに。
膝を押さえて、のたうち回った。
痛みで気が狂いそうだった。
観客席がざわつき始める。
誰かが、救護班を呼んでくれと叫ぶ。
やめろ、馬鹿。余計なことするな。
俺は、まだ走れるんだ!
頭上を影が通過した。
影が俺を見てニヤァと薄気味悪い笑みを浮かべた。
影の顔には、「ざまぁ」という文字が書いてあった。
『六レーンの瀬戸選手。一位に踊り出ましたぁ!』
実況者が、事実を告げた。
ぞくぞくと、抜かされていく。
二位に転落。
三位に転落。
ウサギの敗北。
四、五、六、七――飛んで、一五。ビリ。ドベ。最下位。クズ。 膝痛い。クズ。俺の負け。クズ。
「――あ、ああっ」
声にならない声が、漏れた。
選手たちの背中に手を伸ばす。
やめろ。
置いて行かないでくれ。
熱い、熱い雫が眼からボロボロと落ちて、落ちて、俺の腫れた頬を伝って、トラックを濡らした。
どうしてだ!
俺が犯罪者だからか。
非行少年だからか。
人道から外れたクソガキだからか。
やめてくれよ。
言い訳させてくれよ。
蓮沼も七々川も新藤も俺も、好き好んで少年院に入ったわけじゃない。
言い訳させてくれよ。
事情があるんだ。
誰にだって起こるかもしれない面倒な事情が。
親の虐待かもしれない。
同級生のいじめかもしれない。
母親の自殺かもしれない。
トリガーはなんだっていい。
けどさ、俺たち以外の、今、善良ぶってる人間みんながさ、トリガー持ってんだよ。
暴発させる危険があんだよ。
許して欲しいわけじゃない。
だけど、俺たちだって、更生すれば、切り拓くことができるかもしれないじゃないか。
許して欲しいわけじゃない。
だけど、認めて欲しいんだ。
どうしようもないクズでも、
深まれば、
人の道を生き直していいって。
ああ、違う。
こんなこと言っても無意味だ。
誰もが右から左に聞き流す。
そうだ。
最初から意味なんてない。
一度堕ちた人間に手を差し伸べてくれる善良な人間は、いない。
なんで、こんな大会に出ちまったんだ。
何かを成し遂げられると、本気で思ってたのか?
救護ボランティアらしき連中が、担架を持ってトラックの中に入ってくる。
ああ、そうか。俺をドクターストップさせる気だな。
救護ボランティアの後ろに。
――見慣れたポニーテールを見た。
南方可織がいた。
走っていた。
俺のところへ。
他の教官も南方の後をついてくる。
伏兵として濃紺色の制服を着た警官まで並走。
連中は捕まえに来たんだ。
檻から抜けだした俺を。
諦めるか。
ああ。そうしよう。
ほら、楽になった。
いらない夢を捨てたら。
やっぱり、おしまいで、いいや。
「府神くん!」
え?
声が聞こえた。
観客席の奥を見る。
車椅子があった。
座っていたのは――
「府神くん! 頑張れ!」
新藤で。
「立ってください! 府神くん!」
叫んでいるのも、新藤で。
「ゴールは、目の前ですから!」
その時、視界に映る風景が消え、音も消え、
全てが逆流した。
俺は躯になりかけていた身を瞬時に起こし、走った!
「あああああああああああああああああああああ!」
狂気が噴出するような絶叫を上げ、あらゆる痛みを誤魔化す。忘却させる。
南方たちの足が、止まる――いや、違う。正確には、違う。
「待ってください!」
先頭を走っていた南方が他の教官や警官、そしてボランティアの連中を制止させたんだ。
「今だけは……彼の自由にさせてあげてください」
一瞬だけ、南方と目があった。
ふたつの双眸が、許可をくれた。
少年院にいた時みたいに、挙手をして、求めなくても。
――新藤さんの手前よ。走り切りなさい。
――その後はちゃんと迎えに言ってあげますから。
俺は走り続ける。肺が潰れそうになろうが構わず走り続ける。
ひとり抜かした。
ふたり抜かした。
短距離走レベルの全力疾走。
胃からゲロがせりあがってくる。
知るか馬鹿。
引っ込めゲロ。
右膝がバラけるほど痛い。
大丈夫。
最悪切断って手もある。
つーか俺のいうこと聞かねえ足なんているか。
ただし、切るのはこのレースが終わってからだ。
半分抜かした。物凄い勢いで。
抜かされた選手たちが青ざめる。
これから抜かされる連中も青ざめろ。
コーナーを曲がったところで四人をゴボウ抜きにした。
更に五秒後には二位の瀬戸に背後まで肉薄する。
止まれ。
俺の心臓が嘆いた。
止まれ。
じゃないとこれ、俺(心臓)が止まる。
二者択一だ。
どちらかひとつ。
じゃあ、心臓だ、と俺は言う。
お前(心臓)が止まれ。俺は走る。
一二周目突入。ゴールラインまで後、二〇〇メートル。
観客席にいる連中がどっと沸き立つ。
最前列の応援団が、声を張り上げる。
南方や他の教官、濃紺の制服を着た警官、救護ボランティア達の視線が俺に向けられる。
だが、もはや、俺にはそいつらは、見えていない。
聞こえていない。
俺が認識しているのは、目の前を走る奴と。
「府神くんっ! いっっけえええええええ!」
彼女の声。
残り一〇〇メートル。
瀬戸とは目と鼻の先。
残り五〇メートル。
瀬戸と並んだ。
瀬戸が殺意をこめた目を俺に向ける。
俺は瀬戸を見ない。
ただ、ゴールラインを。
残り一〇メートル。
残り九メートル。
八
七
六
五
四
三
二
一
俺は、ラインを超えた。
――前には、誰も、いなかった。




