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第11章 どぶさらい

 朝日が顔を出す頃に内房線に着いた。

 そこから予定通り、千葉駅で一度乗り換えて、錦糸町まで揺られる。

 電車に乗るのは久しぶりだったので、俺も新藤も、どの値段の切符を買えばいいか苦労した。

 駅員に訊くという手もあったが、ジャージ姿の両名の姿を必要以上に覚えられると教官が追ってきた時にどの電車に乗ったかばらされる可能性があったので、除外した。

 錦糸町に着くと、半蔵門線には乗り換えず、一度ショッピングモールに向かった。


 服を買うためだ。


「先輩、これ、どうですか! どうですか!」


 試着室のカーテンが開き、花柄のワンピースを着た七々川が登場。


「こっちはいかがですか!」


次は、ミニスカートにストライプ柄のシャツ。


「きゃー。こんなのにも挑戦してみました。オタクの方を殺せるやつです!」


 それは、フリフリのエプロンドレスっぽい服。


(やばい、目眩がしてきた)


 七々川は目に見えて、はしゃいでいた。

当初の目的を忘れているのかもしれない。

女なので、服選びには時間がかかるのは覚悟していたが、想像以上の有り様だ。

ちなみに俺は一五分でジーパンと黒のTシャツを買って、すでにトイレで着替えていた。

少年院のジャージは店内のゴミ箱に捨てた。


(どうせお古の貸し出し品だ。学園側で新しいのでも買えばいい)


「ちっちゃくて可愛い彼女さんですねー」


 店員の女が冷やかしてくる。これはきつい。


「彼女じゃないんで。ほんと、違うんで。誤解なんで。ほんと、ご勘弁」


 全力で否定した。

 何故か、それを聞いた七々川が、頬を膨らませて怒っていたわけだが。

 選択の結果、七々川が選んだのは、デニムのホットパンツにアイボリーの長袖シャツだった。

 動きやすく、かつ、見舞いに行くのにも派手すぎないバランス。

 ――どうやら、一応、この遠足の目的を覚えてくれていたらしい。

 店を出ると興奮冷めやらぬ調子で、七々川が新調した服の生地を触っている。

 ま、無理もないか。

 年頃の女が何ヶ月もダサいピンクのジャージで過ごしていたんだから。


「ん? 先輩、明里の顔に何かついてます?」

「いや、お上り人間が一匹、出来上がったなあと思って」


 東京メトロ半蔵門線の錦糸町駅に着く。

 地下への階段を俺たちは降りる。

 切符を買ってそのまま改札に向かった。


 改札の前に、スーツを着たポニーテールの女がいた。


 俺は、それが、顔の似ている別人であれと願った。

 だが、女の目は俺と七々川にまっすぐ向けられていて、


「ふたりとも、東京観光は満喫できましたか?」


 挙句の果てに、声までかけてきたわけだから、もうどうしようもない。


「……南方」

「呼び捨てはいけませんね。名前の後には、教官または先生とつけなさい」


 南方の周囲には、宮田ほどではないが、屈強そうな男の教官が数人待機している。

 七々川の手を取って奴らから逃げようとした。

 だが、背後を振り返ると、同じく、俺の十倍は鍛えている感じの〈教官連中〉が立っていたので、ようやく、俺と七々川はこの駅で待ちぶせアンド包囲されたということがわかった。

 七々川が一歩前に出る。

 その顔に恐怖は無かった。


「通してください、カオリン先生」

「聞けません。後、宮田先生に助けを求めても無駄ですよ。あの人は、あなた達のせいで謹慎処分となりました。どちらが先に炊きつけたのかは知りませんが、下手な〈芝居〉でしたね。普通に考えて、宮田先生が、物理的な力比べで、府神君に負けるわけがないんですよ」

「ヒデッキーは関係ありません。明里のせいです。明里がふたりを巻き込んだんです」

「黙ってろ七々川。いいか南方。発起人は俺だ。七々川は俺に無理やり連れてこられただけだ」

「はい、ストップ」


 南方が呆れたように両手を前に掲げ、〈止まれ〉のハンドサインを作った。


「それらのエクスキューズは、学園に戻ってから聞きますので」

「明里たちは、トモちんに会いたいだけなんです。それの何がいけないんですか?」

「……何か根本的に、勘違いしているようですね。あなた達ふたりは、ただの子どもではありませんよ。保護処分を受けて少年院に入院した、犯罪少年なんです」


 南方が目を細め、死体に向けるような眼差しで俺たちを見た。


「二〇〇一年の少年法改正で、罪を犯した子どもの刑事罰対象年齢は一六歳から一四歳に引き下げられました。また、一六歳以上で殺人を犯した子どもは問答無用で検察官逆送となりました。来年にもまた少年法の一部が改正される予定です。今度の改正では今まで非公開だった少年審判において、被害者や遺族の傍聴が認められるようになります」


 淡々と、国語の授業中に怠け者の生徒が行うやる気のない音読のような調子で南方は喋る。


「これらの改正の背景にあるのは、少年犯罪そのものに対する国民から湧き起こった厳罰化の声です。人を殺した悪い人が子どもだという理由で刑が軽くなるのが許せない。大人と同じ罰を与えるべきだ。そんな正義の声――少年の凶悪犯罪が起こると、うちの学園にも大量のメールが届くの。おたくの学園のルールをもっと厳しくしろ。再犯を起こさないように暴力を使ってもいいからクソガキどもの人格を叩き変えろ。そんな皆さんの〈貴重なご意見〉が」


 南方の語気が荒くなる。

 この女は、俺たちではなく別の何かに怒りを感じているようだった。


「一般の人々にとっては少年院も刑務所も同じなんです。施設の人間が少年院は刑罰ではなく少年の更生を目的にしていると説明しても、どちらも犯罪者を閉じ込めるための施設に過ぎないと彼らは思い込む。いえ、〈そうあるべきだ〉と考えているの。彼らの目から見たら、あなた達は囚人と一緒。刑務所を脱走した囚人がいたら大変な騒ぎになるでしょ? そういうこと」


 じりじりと、南方とそのお仲間たちが距離を詰めてくる。


「外はね、危険なんです。今のあなた達は、市井の人間にとっては、凶悪な罪人。石を投げられ、排除される異分子なの。だから私達がいる。色眼鏡を排した保護施設、少年院で我々はあなた達を矯正し、再び、善良な一市民として社会に返す義務があるんです」


「――ははっ」


 俺は笑い飛ばした。


「言いたいことは、それだけか」


 改札から出てきた大量のリーマンが俺たちの間を避けて、地上へと登っていく。


「あんたは優秀な法務教官だよ。間違いなく」


 目の前にいる俺の担任教官に、拳を向ける。


「だが、気に食わねえ。むかつく。おもしろくねえ。最低だ。不快だ。蕁麻疹が出そうだ。だから、俺は、あんたの言うことは、絶対に、死んでも、聞いてたまるか」


 脇を締め、膝を曲げ、迫る教官に対抗できるように構えた。


「気をつけてください。乱暴な子なので。最悪、気絶させても構いません。ただし、怪我は負わせないように」


 南方が、周りのガタイのいい男たちに命じる。

 まるで、女王様だな。

 七々川に、そっと耳打ちする。


「俺がこいつらの相手をするから、その隙にお前だけでも電車に飛び乗れ」


 七々川は答えない。


「おい、聞いてんのか?」


 ――代わりに。突っ込んだ。


「っ! 七々川さん、離しなさい!」


 一瞬の出来事だった。

 突如、七々川が走りだし、南方にぶつかったと思うと、両腕を回し、その腰をがっしりと掴んだのだ。

 今度は茶番じゃない。

 マジだった。


「先輩っ! 走って!」


 七々川が叫んだ。

 男たちが七々川を南方から引き剥がそうとするが、磁石のように七々川は離れない。踏ん張っている。


「ばっ――お前、何してんだよっ!」

「すみません! ここは明里が抑えるので先にいけというやつです!」

「勝手に決めんじゃねえよ!」


 背後にいた男たちが、俺に向かって吶喊した。


「駄目なんですっ! 明里じゃ駄目なんですっ! 今、トモちんにとって、本当に必要な人間は、明里じゃなくて、先輩なんですっ! 悔しいですけど!」


 何、クソバカなこと言ってんだ。いいから南方から離れろって。


「だから、走れえええええええっ! 先輩ぁああああああああい!」


 奥歯を噛みしめる。

 砕ける一歩手前まで。

 背後の男たちに掴まれそうになった瞬間、俺は、咄嗟に左手に飛んで、間一髪で避けた。

 改札付近にいるリーマンどもが、何事かと俺たちを見る。


「七々川!」

「はい!」

「無茶すんなよ!」

「承知です! トモちんに会ったら、明里がめっちゃ心配しとったって、お伝えください!」


 俺はバネのようにスタートダッシュを切る。

 男たちの腕をすり抜け、南方と七々川の側を横切り、走り幅跳びの要領で、改札を飛び越えた。

 背後から、男たちと、七々川の拘束を振りきった南方が追いかけてくる。

 追いつけるわけねえだろ、馬鹿野郎。

 こちとら、元陸上選手だぞ。

 駅構内を、人混みをジグザグに避けて走った。

 時刻は九時半。ピークは過ぎたがこの時間帯ならまだ通勤ラッシュ中だ。構内は利用者でごった返している。

 俺を追う南方一行は、何度も人とぶつかる。

 障害物競走だと思えば、こんなものは軽い。

 俺はひょうひょうと階段を降り、地下鉄のプラットフォームに飛び出す。


「待ちなさい! 府神静馬!」


 南方の制止を振り切って、俺は、


『扉が閉まります。ご注意ください』


 東京メトロ半蔵門線急行、中央林間行きの電車に飛び乗った。

 南方たちの目の前で、ドアは閉まった。


***


 ――東急田園都市線の青田菜駅で降りると、俺は駅のロータリーにある地図で場所を確認し、徒歩五分の大学病院へ向かう。

 途中のスーパーで、ちゃんと、見舞いのバナナを買って。

 病院に着くと、ナースステーションで面会受付のノートに名前を記入する。それから、新藤の入院している病室を訊き、面会バッジを胸につけて、病棟の二階へ。

 『新藤智』と表札がかかったスライド式のドアの前で、俺は三回ノックした。

 中から、長い髪を後ろで一房に結んだ綺麗な女性が現れる。

 新藤の退院時に、正門前で見たあの人――新藤の母親だ。


「……あの……もしや」

「府神です」


 名を告げると、新藤の母親はその顔に驚愕の色を浮かべ、右手で口を押さえた。


「新藤さんと同じ少年院に入っていました。今日は勝手ながら娘さんのお見舞いに伺いました」

「そう……あなたが……」


 とても優しい目で、彼女は俺を見た。


「ここ数日で……時折、目を覚ますようにはなったんです。でも、誰の言葉にも反応せずに、うつろな目で天井を見るばかりで……」


 内心の辛さを押し殺したような笑顔を、新藤の母親は浮かべる。

 本当に、娘に似ているなと思った。


「智に、会って頂けますか?」

「もちろんです――そのために、俺は来ました」


 中に入ると、真っ白なベッドの上、前より少しだけ痩せた新藤が、病衣姿で寝ていた。

 新藤の母親に許可を貰ってから、ベッド脇のパイプ椅子に座る。買ったバナナはベッドサイドテーブルに置いた。

 間近に見た新藤の寝顔。顔には酸素マスクが取り付けられ、枕の横にはベッドサイドモニターが置かれ、心拍数や体温、血圧などを画面に映し出している。


「俺さ……」


 寝ている彼女に声をかけた。


「まだ、少年院で悪いことばっかしてんだ。前にも土木関係の職業補導中に測量機器をぶっ壊しちゃってさ。教官に怒られて散々だったよ。二度とこんな授業出るかって腹の中でキレてた……でも、なんか、その時に、サボる俺を引き止めようとするお前の顔が浮かんじまったんだ」


 ベッドの上に置かれた新藤の左手を俺は両手で包み込み、握りしめた。


「なぁ。新藤。ちょっとだけでいいんだ」


 眉間が痛くなる。

 目の前が滲む。

 声は震え、喉は乾き、心が悲鳴を上げていた。


「また、俺を叱ってくれよ。授業サボっちゃ駄目ですって言って、俺を止めてくれ」


 願いを。


「話がしたいんだよ、新藤」


 吐き出した。

 ――ピクッ。

 新藤の瞼が動き、次いで、その目が――生まれたての赤ん坊のように開かれた。


「智っ!」


 新藤の母親が、目を覚ました彼女の元へ駆け寄る。


「わかる? 府神君が来てくれたのよ。あなたの友達が、会いに、来てくれたのっ」


 最後は、嗚咽が混じって、言葉の形を保てていなかった。

 新藤はキョロキョロと視線を彷徨わせ――俺の姿を見て、その視線が固定される。


「……府神、くん?」


 目が覚めただけじゃなくて、声まで聞かせてくれた。

 とんだ、贅沢だ。


「何で、そんな自信なさげな言い方なんだよ。俺の顔、もう、忘れたのか?」

「ううん、ごめんなさい。なんだか、とっても久しぶりに府神くんと再開したような、そんな気分なんです」

「奇遇だな、俺もだよ」

「府神くんも、ですか?」

「ああ。もう何年もお前の顔を見ていなかったような気がする。おかしいよな。まだ別れてから一ヶ月も経ってないのに」

「はぁ、はぁ……えへ、そうですよね。おかしいですよね」


 新藤の息が荒い。呼吸が不規則だ。

 けど、彼女はそれでも俺と話をしようとしてくれる。


「聞いたよ。人に、刺されたんだって?」


 一瞬だけ真顔になってから、


「はい。刺されちゃいました」


 新藤はそう言って、はにかんだ。


「私が憎かったみたいなんです、その人」

「そりゃあ、刃物で刺すくらいだからな」

「……だけど、私、勝ちましたよ。『ぶっころす!』って叫んでその人を追い返したんです」


 ぶっころす。あの日の面接室での思い出。俺たちの合言葉。


「えへ。府神くんとの特訓が……役に……立ちました」

「あんなもんでよければ、いくらでも、お前がやりたいときは……いつでも付き合ってやるさ」


 下唇を噛んで、弾け飛びそうな感情を、かろうじて抑える。


「……はぁ、はぁ……府神くんは……どうして、ここに?」

「脱走してきた」

「えへ、悪い人ですね」

「当然だろ。俺を誰だと思ってるんだよ」

「府神くんは……私の大好きな」

間。

「アスリートです」 

「…………」

「私、少年院に入院する前、府神くんに会ったこと、あるんです」


 ――忘れていた夢の内容が、霧が晴れるように、ありありと網膜に浮かんだ。


「二年前に高校の陸上部の応援で、スタジアムに行った時……他校の選手の中に、凄く綺麗なフォームで走る人がいたんです……ひとりだけ、風のように早くて、キラキラと輝いている人で、思わず、自分の高校の応援も忘れて、私、走るその人の姿をずっと目で追っていました」


 ああ。やっぱり。


「そのあと……私、真夏の暑さにやられて……観客席で倒れちゃったんです……誰も、助けてくれなくて、ひとりぼっちで……頭がぼぉっとして喋れなくなって」


 夢だけど夢じゃなかったんだ。


「暫くして……誰かが私の肩を叩いて……声をかけてくれました」

「そいつは、馬鹿で夢見がちで口の悪い陸上選手だったか?」

「はい、私が憧れた、あの選手の方でした」

「ミネラルウォーターを渡してただろ、そいつ」

「はい……ミネラルウォーター、奢ってもらいました、えへ」


 握った彼女の左手。

 新藤は、その手に力を込め、強く、握り返してくれた。


「彼が、ひとりぼっちの私に手を差し伸べてくれたんです」


 向日葵のような笑顔が、少女の顔を照らす。


「……一個だけ……訊いてもいいですか?」

「もちろんだ」

「スタジアムの……医務室に私を運ぶ時……重くなかったですか?」


 不器用に、俺も笑い返す。


「軽かったよ……お前」


 目尻から、一筋、熱いものが頬を伝って流れ落ちた。

 それは次から次へと溢れて止まらない。


「……府神……くん」

「どした?」

「走って……ください」


 新藤の瞼が重くなる。


「……卒業したら……また……陸上を……趣味でもいいんです……府神くんに、好きなことを……もう一度……」

「少年院を卒業するための目標を持って欲しいのか?」

「違い……ます」


 弱々しく、新藤が首を振る。


「……府神くんの走っている姿を、ただ、私が見たいんです」

「……っ」

「アスリートを、辞めてほしく……無いんです」


 毒の盃を飲み干せと言っているに、等しい。


「じゃあ、そうするか」


 飲み干してやった。


「えへ……安心しました……これで、ゆっくり……寝れそう……です」

「悪いな。長話させちまった」

「……いいえ」


 新藤の左手が俺の頬に触れ、目尻から流れ出る雫を指で拭った。


「楽しかったです……とっても」

「新藤」

「?」


 ――好きだ。


「お休み」


 と俺は言った。

 想いは口に出さず、心の中に鍵をかけて、そっと閉まった。

 新藤が目を閉じ、少しすると寝息を立てる。安らかな寝顔だった。

 看護師がひとり、病室にやってきて、神妙な顔で俺と新藤の母親を交互に見る。

 それから、母親だけを手招きして、ふたりで病室から出て行く。

 たぶん、追いついたんだろう。錦糸町から。

 部屋には、眠っている新藤と俺だけ。


「……たく。走れっつってもな。しんどいんだぞ、わりと」


 一度挫折した人間がもう一度同じ分野に挑戦するのって、初めてのことにチャレンジするよりも、きついんだ。

 だけど。


「約束は、守る」


 足音が廊下に響く。複数人。声も聞こえる。


《危ないのでお母さんや看護師の皆さんは部屋に近づかないでください。我々が先に入ります》


 本当は、新藤に会ったら、寄り道せずに帰るつもりだったんだけどな。


「遠足の時間、延長決定」


 このままじゃ帰れない。

 俺がまた走りだすためには、今からあいつに会いにいかなきゃ駄目だ。

 過去を、きっちりと清算しなきゃ、俺は前に進めない。

 足音が大きくなる。

 眠っている新藤を見た。

 酸素マスクが取り付けられた眠り姫。

 新品のジーパンのポケットに手を突っ込んだ。


(本当は、寝ている間にってのは好みじゃないけど)


 折衷案。

 俺はポケットに手を突っ込んだまま、彼女に顔を寄せ――

 酸素マスクの上から、新藤の唇にキスをした。


 優しい医療器具の味が広がった。


「またな、新藤」


 顔を上げると、窓に近づき、ガラリと開けた。

 本来、自殺防止のために病院の窓は手首くらいの幅までしか開かないが、ここは二階だったせいか、出し惜しみせず、全部開いた。

 病室の扉が、乱暴に打ち開かれる。

 次いで、冷たい女の声。

 俺は、後ろを振り返らず、二階の窓から――外に飛び降りた。


 さぁ、俺だけの遠足を、始めよう。


***

 

 南方たちを撒いた後、俺は田園都市線に乗り込んで渋谷に向かった。

 金は、宮田から拝借した財布の中に、まだ十分詰まっている。

 渋谷に着くとセンター街方面に向かい、ロフトでナイフを買った。

 ナイフをポケットに突っ込んで、明治通りへ方向転換。

 徒歩一五分程で目的地に着く。

 和学院大学。

 超高層のタワーがそびえ立つ、渋谷区にある都市型キャンパスの私立大学。

 あいつが通っている大学。

 正門前で一時間程待つと、デニムシャツを着たボブカットの黒髪男が、キャンパスの三号館から出てくるのが見えた。

 左右に華やかな女子大生たちを侍らせ、談笑している。

 眩しくて羨むような光景。

 どす黒い感情が、内側で湧き上がる。


「……っ。お、お前っ」


 ボブカットが俺の姿を捉える。

 途端にその顔を青くして、後退った。

 正門前でボブカットのそいつ――かつて、俺に白い粉を吸わせ、俺の凶刃で腹部を抉られた〈三年〉と対面した。


「お久しぶりです。瀬戸せとさん」


〈三年〉の名を呼んだ。

 ごくりと、瀬戸が唾を飲み込む音が俺の耳に届く。


「さ、先に帰っててくれ……」


 周りの女子大生に瀬戸は頼んだ。

 正門には、俺と瀬戸のふたりだけとなった。


「……少年院から、出てこれたのか?」


 信じられない事実だが、確認せざるを得ない。そんな口調。


「ええ」


 俺は、嘘をついた。


「は、早くないか? さ、最低半年は出てこれないはずじゃ……」

「素行が良かったんでしょうかね」


 無駄口を叩いている暇は無い。

 俺は瀬戸に近づくと、ポケットからナイフを取り出した。

 刃の先端を瀬戸に見せびらかす。


「ひっ」

「動くな。泣くな。喚くな。俺の指示にだけ従え、いいな?」

「お、俺を殺すのか?」

「質問に来ただけだ――あんた、まだ陸上はやってるな?」


 瀬戸が首を素早く縦に二回振る。

 こいつは大学で陸上同好会を作っていた。

 自分が部長で、練習は週二回。メインはコンパや合宿。

 メンバーには女が多い。

 一応大学の公認サークルという体なので、助成金を頂くために、関東圏の学生や社会人向けの陸上大会、記録会にはこまめに団体参加している。


「近々参加予定の大会はあるか?」

「……小浜大こはまだいの大会に」

「横浜の?」

「あ、ああ」


 早くこの状況から解放してくれと、瀬戸の目が訴えていた。

 俺は他の学生から見えないよう、瀬戸の腰の位置にナイフを突きつけ、言った。


「パソコン室、いこっか」


***


 大学構内の四階にあるコンピュータールームに赴く。

 場所は瀬戸に案内させ、室内には瀬戸の学生証を使って入った。奴を席に座らせると、卓上のデスクトップPCの電源を入れ、ネットブラウザを開かせる。


「大会の申し込みサイトに入れ。陸連登録番号は口頭で伝える」

「何で俺にやらせるんだよ」


 瀬戸が小さく悪態をついた。


「悪いな。俺、ローマ字が打てないんだよ」


 瀬戸が大会の申し込みサイトから、エントリー・フォームに飛んだ。申し込みのための必要事項記入欄がディスプレイ上に表示される。


『第五回 小浜大長距離走大会』


 私立小浜体育大学の横浜キャンパスで毎年、八月半ばに開催される陸上競技の大会。

 今年の開催日は、五日後の八月一二日、日曜日。

 小浜大の学生主体で運営している比較的新しい大会で、大学生から社会人まで、今年度の『日本陸上競技連盟登録者』であれば誰でも(個人でも団体でも)参加可能。

 Web応募も受け付けている。

 大会では主な種目に五〇〇〇メートルと一〇〇〇メートル競走があり、八〇〇や一五〇〇、三〇〇〇メートル競走も実施されていた。

 俺の指示の元、エントリー・フォームに瀬戸が必要事項を書き込んでいく。

 申込者氏名(俺のフルネーム)、申込者住所(実家の住所)、連絡先メールアドレス(あるわけないので、瀬戸に俺のフリーメールを作らせてそのアドレスを入力)、電話番号(実家の電話番号)、部門名(男子) 種目名(五〇〇〇メートル)。

 最後に陸連番号。


「番号を言う。EのXXXXXX」


 陸連番号を瀬戸に伝えた。

 瀬戸がアルファベットと六桁の数字を書きこんでいく。

 多くの陸上競技大会や記録会では、参加資格に『日本陸上競技連盟』への登録が必要となる。

 登録は一年ごとに失効となり、翌年になると新たに再登録をしなければならない。

 中学の頃から陸連には登録していた。

 そして昨年部活を辞めたにも関わらず、俺は今年の三月にも個人で再登録していた。

 ……なんてことはない。

 口ではごちゃごちゃ言いながらも、未練があったわけだ。

 走ることに。


***

 

「なぁ。む、虫のいい話かもしんねえけどよ、ゆ、許してくれねえか。お、お互い過去のことは水に流そうや。頼むよ。な、なんなら。お前の気が済むまで謝るから――」


 大会への申し込みが終わると、俺は瀬戸を大学近くの神社の裏手へと連れていった。

 手に持ったナイフは突きつけたまま。

 瀬戸を人気のない拝殿の土壁へと追い詰める。


「ずっと考えていたんだ」


 と俺は言った。


「お前をどうすべきか。少年院の単独室で昼夜関係なく、考えていたんだ。そして結論が出た。殺してやりたい。もう一度リベンジすべきだって、俺は俺に言い聞かせた」


 一歩前へ踏み出す。瀬戸の膝はガクガクと、今にも漏らしそうな程震えていた。


「望みを、叶えさせろ」


 柄を握りしめ、奴の心臓目掛け、躊躇なく、突き刺した。

 シャコという馬鹿っぽい音とともに刃が内側に引っ込んだ。

 瀬戸が「ひゃぁ!」と情けない声を上げ、腰が砕けたのか石畳の地面に倒れて尻を打つ。


「ばーか」


 俺は、ロフトで購入した、刺すとプラスチックの刃が柄の中に引っ込む玩具のナイフを、奴の胸元に放り投げた。


「アスリートの実力もねえくせに、嫉妬心とベシャリだけはいっちょ前のくだらない生き物が。わざわざてめえの同好会を大学で作ったのも、箱根駅伝に出るようなここの陸上部じゃ、自分のレベルだと居場所すら作れないと思い込んでたからだろ? 諦めきってたからだろ?」


 倒れた瀬戸を見下す。目でも、心でも。


「俺はお前を殺さない。足でお前に勝つ」


 実力は落ちてるが、こんな男に負けるつもりは毛頭ない。


「いいか。小浜の大会、必ず来い。俺にビビって逃げるなよ」


 決着をつけよう。

 大会でこいつに走りで勝つ。

 他の参加者にも勝つ。

 俺は、かつて、自分が誇りに思っていたものを取り返しにきたんだ。


「最後に、言っておく」


 俺は頭を下げた。


「あの日、腹、刺して悪かった」


 ――鈍器が、俺の脇腹を強く打ち付けた。


「ごほっ」

 咳き込み、境内の上に倒れる。頭上から更に〈バットの芯〉が俺の右肩に命中した。


「おせーよ」


 瀬戸が服の埃を払いながら立ち上がる。


「すまんなせっちゃん。装備整えんのに手間取ったわ」

 俺を殴打した金属バットを手に持った関西弁の男が、ニヤついた表情で瀬戸を見る。

 俺は殴られた脇腹と右肩を押さえながら、何度も咳き込んだ。

 涎と胃液が石畳を汚す。

 瀬戸がうつ伏せに倒れた俺に近づき、屈みこんで携帯の液晶を見せつけてきた。


「残念でした。お前に見えないように、こいつにこっそりメール飛ばしたんだよ。ヘルプのな!」


 瀬戸が関西弁の男を指差しながら、怒声と共に俺の顔を蹴り飛ばす。

 奴の目は六割の復讐心と四割の嗜虐で埋まっていた。

 関西弁の男には見覚えがあった。俺の高校時代の陸上部の先輩。 瀬戸のお仲間だ。

 瀬戸は今の大学に推薦入学で入っている。たぶん、こいつも同じだ。


「久しぶりやな府神。元気やったか? いやぁ、よくもまあ、うちのせっちゃん刺しといて、ノコノコ顔だせたなぁ、おい!」


 関西弁が瀬戸と一緒に俺の身体を何度も何度も何度も、上から厚底ブーツで踏みつける。

 容赦無し。

 瀬戸はともかく、関西弁は義憤と正義感からの行動だろう。

 友人を刺し殺そうとした〈加害者〉である俺に正義の鉄槌を下しているのだ。


「ふざけやがって! お前なんてなあ、一生ムショにでも入ってろや! ゴミが! ゴミが!」


 瀬戸がヒステリックに喚き、ボブカットの髪を振り乱しながら、乱雑に俺を蹴りつける。


「こんな足、今すぐなくなっちまえ!」


 そう叫んだ直後――瀬戸が、俺の右膝を強く蹴り飛ばした。


「ぐぁっ!」


 痛みが全身を貫く。

 蹴られた右膝を両手で抱え、俺は歯を食いしばる。

 瀬戸と関西弁は「はぁ、はあ」と肩で息をつく。

 奴らに蹴られ殴られた箇所が火を吹くように熱い。

 額と唇から流血し、ついでに鼻血も垂れ、頬や手足は赤黒く腫れていた。

 それから瀬戸は俺の髪を引っ掴んで、神社のそばにある側溝まで引きずった。


「ほら、便所水より美味いぞ。飲めよ」


 そして、俺の顔を側溝の底に突っ込んだ。


「わはは、せっちゃん。それやり過ぎやろ」


 目、鼻、口、耳に不衛生なドブ水が流れ込んでくる。


 「ごぽ、がはっ!」


 手足をばたつかせながら、空気を求めて俺は反射的に暴れた。

 それを見て両名は心底可笑しそうに笑った。

 十秒おきに俺の顔を上げ、それから四秒後にもう一回水に浸ける。それを三セット繰り返した後、俺は急勾配の藪道に連れていかれ、胸ぐらを掴まれたまま無理やり立たされた。


「俺さ、怖かったんだよ」


 と瀬戸は言った。


「お前に刺された時、すっげえ、怖かったんだよ。だからいいよな? やり返してもいいよな? なぁ? なんで……お前黙ってんだよ。これじゃあ……」 


 瀬戸が拳を振り上げた。

 拳は震えていた。奴の目尻には水が溜まっていた。


「俺が、悪もん見てぇじゃねえかよぉ!」


 手心のない感情任せの拳が俺の顔面を打ち抜く。

 俺の身体は林の中の藪道をころころと転がった。

 ドブ水で濡れた顔に落ち葉や土を付着させながら、そのまま、下の遊歩道まで落下する。


「おい、府神ぃ!」


 頭上から針のような瀬戸の叫び声。


「俺はなぁ、お前の言うとおり、ちゃんと大会に出てやるよ! お前もなぁ、そのボロボロの身体で参加できるもんなら、してみろや!」


***

 

 身体を起こせたのは、遊歩道の石畳で背中を強か打ってから三十分も後のことだった。

 不衛生な水で顔を濡らし、あちこちが腫れ、擦り剥け、血にまみれた身体に鞭打ちながら俺は歩く。

 周囲の人間が傷だらけの俺に対し、奇異なものに向けるような視線を浴びせてくる。

 センター街の方へ行き、ネットカフェに入った。

 店員が俺を見るなり「げげっ」という感じで、顔を顰めた。


「お客さん、大丈夫ですか?」

「何が?」

「顔、血まみれですし、全身、ライオンに襲われたみたいにグチャってますよ」

「生きてりゃ、たまにはそんな目にも会うさ」


 ご利用はさせて貰えた。

 俺はネットカフェのシャワールームを使って全身をくまなく洗い、パーティションで仕切られた部屋に入ると、リクライニングチェアに深く腰掛けた。

 落ち着いてくると、脳内麻薬が切れ、誤魔化していた痛みが顔を出す。

 特に、瀬戸に蹴り飛ばされた右膝の痛みは尋常じゃなかった。


(大丈夫だ。問題ない。走れる。走れるとも)


 右足でわざと地団駄を踏みながら、自分に言い聞かせた。


(そうだ)


 唐突に俺はあることに気づき、ネカフェのパソコンを起動する。

 先ほど瀬戸に作ってもらったフリーメールを見ると、小浜大長距離走大会の運営から『申し込み完了』のメールが届いていた。

 メールに記載されている『住所変更などがあった場合はこちら』のURLからリンク先に飛んだ。

 パスを求められたので、陸連の番号と氏名を入力すると、エントリー・フォームが開く。

 フォームを見ると、住所変更だけではなく、氏名変更も可能だった。

 よく考えれば俺は逃亡の身だ。

 本名や実家の住所で大会にエントリーすれば、南方たちに俺の痕跡を残しているようなものじゃないか。

 馬鹿だろ俺。馬鹿。


(いや、そもそも陸連の登録番号から辿れば本名なんてすぐバレるけどさ)


 さすがに陸連番号は偽装できない。


(まあ、ハリボテでも、カモフラージュくらいはやっとくか)


 俺は住所や氏名変更ページの該当箇所にカーソルを合わせる。

 住所は東京都の目黒区に変え、家電の番号も03から始まるものに直した。


(名前は、どうすっかな)


 上着にドブ水の臭いが染みついていた。


(よし、これにしよう)


 新しい名前を『かな入力』で、エントリー・フォームに書き込む。

 新名(偽名)は。


溝浚真どぶさらいまこと

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