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第9章 新藤智

***


《新藤智》


***


「さっきの男の子は?」


 帰り道、車の中で母に質問された。


「と、友達です。大事な、大事な、あの場所で知り合ったお友達なんです」


 ちょっとだけ、お母さんに嘘をつく。

 本当の〈気持ち〉は、お鶏様にしか話していない。

 一年ぶりの我が家は、様変わりしていた。

 家の場所も内装も何もかも違っていた。

 当たり前だ。両親は、引っ越したのだから。


「お帰りなさい、智。あなたの部屋も用意してあるわ」


 お母さんが新居に私を入れる。

 歓迎されている。人殺しなのに。

 事件の後、私の両親は新潟県新潟市から神奈川県横浜市に移った。 弁護士と警察の方に勧められたのだ。

 週刊誌記者や大手マスメディア、それに無辜の野次馬を避けるために。

 私のせい。

 私が、カッターナイフで彼女の首を切らなければ、一年前より痩せこけたお母さんを見なくて済んだ。

 定年間近で仕事を辞めないといけなくなったお父さんを見なくて済んだ。


「お母さん……わ、私、本当に、帰ってきて……よかったのでしょうか?」


 お母さんは、無言で私を胸の中に抱き入れた。

 思い出が詰まった母の匂いがした。

 お母さんは肯定も否定もせず、


「お帰りなさい」


 と言った。


***


 ――リビングでフカフカのソファに座って、お母さんとお話をした。

 少年院で私が何をしていたのか。

 誰と出会い、どんな生活を送っていたのか。

 個別指導やお部屋係のこと。

 宮田先生や南方先生、蓮沼さんのこと。アカちゃんのこと。

 それから、府神くんのこと。

 彼のことを改めてお母さんに伝える時、何か胸がふわふわとして落ち着かなかった。

 話し終わるとお母さんは台所に行く。

 今日は腕によりをかけて、ご馳走を作ると張り切っていた。


「あれ? 塩が切れちゃったみたい」


 調理中、お母さんが空になった塩のビンを振る。

 ここ一年はお父さんと二人分の食事しか作っていなかったから、分量を間違えたらしい。

 お母さんに無理はさせられない。

 私は、足りない調味料の買い出しに行くと申し出た。


「スーパーの場所、わかる?」

「だ、大丈夫です。先ほど、帰り道でマルエツを見かけました」


 心配性のお母さんは自分が行くべきだと主張したが、私が粘ると、根負けしたように、


「じゃあ、ついでにこれも買ってきてくれる?」


 塩とそれ以外の調味料や食材が記載された買い物レシピを、五千円札と一緒に渡してくれた。

 私は、お母さんの役に立てることが嬉しくて、早足で新居を飛び出した。

 マルエツでレシピに書いてあった商品を買い物カゴに入れ、レジに向かう。


「二四七〇円になりまーす」

「あわわわ、ははは、はひっ!」


 一年ぶりの買い物は、感覚みたいなものを忘れてしまっていたので、少し苦労した。

 マルエツを出る。買い物袋を下げて。

 外は雨が降っていた。


(ええっ。か、傘持ってきてないよー)


 買った物が濡れないように、袋を胸に抱えて走る。

 雨水が目に入るのが嫌だったから、顔は伏せたまま。

 だから、視界に人影がうつったことを認識するのが遅れた。

 ドンッ。

 誰かとぶつかり、尻もちをつく。


「ご、ごめんなさいっ」


 ぶつかった相手が手を差し伸べてくれたので、顔も確認せずその手を掴んだ。


「いいのよ」


 身体を起こされた直後、聞いたことのある声が私の耳元で囁いた。


「今から」


 いつの間にか、人気の少ない通りまで走ってきたことに、私は気づく。


「殺すから」


 ぐさり。

 とっても嫌な音。


「え?」


 腹部が悲鳴を上げたと思ったら、血が服を汚していた。

 刺されたと理解するまでに時間、かかった。

 気づいた時にはもう遅かった。

 お腹を押さえて、私はその場に蹲る。

 買い物袋が地面に落ちて、中身が辺りに散らばった。

 痛い。痛い。血、止まらない。

 どうしよう。こんなに血が出たら治るのに時間かかるかも。


「よかったね。これで、夕飯を取らなくてもよくなるわ。お腹に穴が空いたのだもの」


 見上げると、血まみれの包丁を手に持った女性が立っていた。

 雨に打たれてずぶ濡れの髪には、白髪が混ざっていた。


「金沢……さん?」


 それは、見間違いようもなく、私が殺した同級生の母親だった。


「こんばんは、新藤さん。遊びに来たわよ。約束通り、美味しいご飯を用意して、もてなしてくださる?」


 眠る時も起きている時も絶えず望んでいた願いが、ようやく現実のものになる。

 そんな瞬間に浮かべるような笑みを顔に張り付かせ、彼女は私を見下ろす。


「ねえ、どお? 痛い? 死にそう? 大丈夫。まだまだ続けるから」


 包丁の先端には血だけじゃなくて、私の肉の一部がついていた。


「私ね、ずっと探してたの。あなたの家の住所」


 彼女は、血が付着した右手に四つ折りの紙を掲げ、私に見せびらかした。


「だけどね、ほら、日本って子どもに優しいでしょ? 少年法ってあんたらをものすごく一生懸命保護してくれてんのよ? わかる? 私ねえ、家庭裁判所の職員や少年院の教官にも訊いたんだけどねえ。誰も教えてくれないの。あなたの退院後の帰宅先を」


〈死ね ブス〉


 ――脳内で、懐かしい彼女の声がした。


「個人情報がどうのこうのと本当に煩わしかったわ。私、被害者の親なのに。なんで、こんなに扱い悪いのかしらって怒りに震えてたわよ」


〈何でこんな酷いことするかって? え? 理由とかいる? だってあんたの存在そのものが理由じゃん。そんな気持ち悪い喋り方のブスがさ、あたしらと同じ空気吸ってるだけでむかつくんだよね〉


 ――懐かしい彼女の声は続く。


「住所、教えてくれてありがとね。おかげで、愛心の仇を取れるわ。ねえ、わざわざ殺す必要はなかったと思うの。話し合いで解決できなかったの? 愛心があなたをいじめてたのが事実だとしても、それはあなたにも問題があったんじゃない? あなたのメンタルが弱すぎるから、愛心の言葉を勝手に自己解釈して、勝手に落ち込んでたんじゃないのかしら? 違う?」


 彼女に屋上へと連れていかれる前に、私は筆箱の中にあったカッターナイフをこっそりブレザーのポケットに忍ばせた。

 自衛のためだ。

 私の心と身体を守るためだ。


〈ほら、食えよ。ナメクジ〉


 ――だって、耐えるには、もう限界が近かったんだから。


「私にとって愛心はたった一人の娘だったのにね。でも、あなた子どもだもんね。いいわねえ。子どもは他人の子どもを殺しても社会に戻れるのよ? 大人たちが勝手に矯正してくれるの。あなたたちを支援して仕事まで与えてくれるのよ。ほんとおおに羨ましいわねえ」


 金沢さんが、包丁を振り上げた。


「けどねえ――そんなの納得できるわけないでしょ!」


 目の前に私の血でべとべとになった包丁が迫ってくる。

 これは、報いなのだろうか? 

 私は、この人に、素直に殺されるべきなのだろうか?

 この人の気が済むのなら、抵抗するべきじゃない。

 するべきじゃない。

 ――唐突に、アカちゃんが泣いている光景が、瞼の裏に浮かんだ。

 それから。


《ひとつだけ助言してやる。もし、お前がな……外に出て、お前を嫌う人間と出会った時、そいつにどうしても許せないことをされたら。遠慮するな》


《この拳で――殴れ》


 あっ。

 口が、勝手に動いた。


「ぶっころす!!」

 

 彼との特訓で何度も言ったあの言葉を喉が焼けるほど叫び、金沢さんの身体を突き飛ばす。

 金沢さんがお尻を打って地面に倒れる。

 カランッ。

 包丁が落ちた。

 取り落とした包丁を私は拾い上げ、金沢さんの眼前に突きつける。

 逸らさずに、彼女の目を、しっかりと見据えた。


「食べてください!」


 どもらずに、声を上げた。


「食べてくださいよ! ナメクジ! ぐちゅぐちゅしてるの! 口の中で蠢いているの! 歯で噛むとぷちって音がするんですよ! どうしてそんなことをするんですか! どうして、私は食べさせられたんですか!!」


 言える。

 私は、はっきりと言える。

 自分の意志を、言葉で表現できる。

 それは、彼との特訓の成果だ。


「教えて……けほっ……ください」


 咳をすると口から血の飛沫が撒き散らされた。

 傷口は痛くて熱くてしょうがない。


「なんで……私を人殺しに……したんですか?」


 膝から崩れ落ちた。

 金沢さんが、私の顔、次いで、私の傷口を凝視した。


「あっ……あっ」


 私のお腹から流れた夥しい血を見て、金沢さんの口がぱくぱくと開閉する。


「いやぁあああああああ!」


 狂乱し、彼女は逃げ出す。

 私の元から。

 包丁が手から滑り落ちる。

 もう、何かを握る握力も無くなっていた。

 ドサッ。

 私は、そのまま雨で濡れた路地に、仰向けに倒れる。

 血液が私の身体から逃げ出し、アスファルトに赤い筋を作った。


「アカちゃん……」


 あの子の名前を呼ぶ。


「府神くん……」


 彼の名前を呼ぶ。


 恵みの雨を降らす空に向かって、私は手を伸ばした。


「私……できたよ」


 目尻に溜まった涙が、雨とともに、頬を濡らした。


「……ちゃんと相手の目を見て、どもらずに……お話……できた……よ」


***


 夢を見る。

 八日前の夢。

 思い出の再現。

 夢の中には、お鶏様がいる。


「……お鶏様。私、もうすぐ卒業なんです。卒業したらみんなとは、会えないんです……そういう決まりだから。でも、私、想像ちゃうんです――外で、みんなと一緒に遊ぶ想像」


 お鶏様以外誰もいないあの教育棟外階段の下で。


「例えば、冬に、府神くんやアカちゃんや蓮沼さんを誘ってクリスマスパーティーをやるんです。乾杯の音頭は絶対にアカちゃんが取るのだと思います。凄い高いテンションで。えへ」

「例えば、年末にはみんなで初詣に行くんです。私、運が悪いから凶を引いちゃって、府神くんは何故か大凶で、そしたら府神くん『こんなの信じる方が馬鹿なんだよ』って怒りながら、おみくじ、ビリビリに破くんです。私の分も一緒に。『これが、俺流の厄除けだ』って言いながら……あはは、なんか、想像してみたら、本当に現実になりそうな気がしてきましたよ」


 私は、お鶏様の立派な鶏冠を撫でながら、


「最初に、府神くんを見た時は驚いたなあ」


 かつて王様だったこの子に、


「だって、まさか……私が二年前の夏からずっと憧れていた彼が――」


 心の奥底を、


「同じ少年院に、入ってきちゃうんだもの」


 打ち明けたのだった。

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