05. 夜半
星の輝く刻限になった。風を通さぬ石の宮は、しかし驚くほど冷え込んでいる。流石に宮殿とあって、草原では望むことすら思いつかない厚い壁は、澄佳と琉枉の部屋を隔てていた。余程のことがなくては壁の向こうで何が起こっているのかも分からぬであろう、それは境界だった。
「……やっぱり、だめ」
寝台から這い出して、扉に背を預ける。元より琉枉が大きな音を立てることもあるまいが、あまりに深い静寂はむしろ、澄佳の眠りを妨げていた。一介の従者が望むべくもない厚遇だろう。個人で室を与えられ、殆ど異国とすら言える遠い故郷の調度に囲まれて。何より、良い主に恵まれて。琉枉は、「よいひと」だった。少なくとも、澄佳はそう感じていたし、何も悪いことなどないように思われた。
それでも。澄佳は唯一薄い扉の向こうに、ひと(琉枉)の気配を探す。
『お前にしてもらうことは、今はない』
だから今宵は早く休め。そう告げた琉枉は、もう眠っているのだろうか。声をかけることは躊躇われた。曲がりなりにも貴人であり、主たる琉枉の眠りを妨げるなど許されることではないし、何より澄佳自身、未だ琉枉との距離をどのようにして埋めてゆくのか、うまい手立てを思いつけないでいた。肩に触れた扉がかたり、と音を鳴らす。月に差し掛かる雲が晴れ、さやかに降り注ぐ月影が室を照らし、
「―――――――――――!!!!」
獣の絶叫が、夜を裂いた。
草原でも聞いたことのない、それは何という獣の声なのだろう。澄佳には分からない。けれど、その咆哮が主の室から聞こえてくることは、理解できた。どうして、とか、そんなことは思考の外へ。
皇さまではないけれど、大切な、澄佳だけの琉枉さま。会ったばかりだというのに、どうしてか失うのが怖いと思った。大きく、複雑なつくりの錠前を外し、凍るように冷たい扉の把手を掴む。短く息を吸い込み、間髪を入れず開け放した。
「琉枉さまっ!」
月明かりに照らされたのは、黒い獣だった。深い、底なしの闇のような黒。澄佳を見つめる獣は決して大きくはないが、低い声で威嚇する姿は恐怖を呼び起こす。
情けない、足が震えている。そんな場合ではないのに。澄佳は、主を守るために扉を開いたのだ。しかし、その琉枉の姿は室内のどこにも見当たらなかった。大きな寝台だけが鎮座する琉枉の私室に、ひとが隠れる場所などどこにもない。では、琉枉はいったい何処へ行ったというのか。
「……………………」
「あなたは……」
唸り続ける濡れ羽色の獣は低い姿勢を保ったまま、澄佳を睨み据えている。今すぐにでも、飛び掛かってくるかもしれない。そうなれば、澄佳などひとたまりもないだろう。爪が肉を引き裂き、牙が骨を砕くさまを容易に想像することができた。
恐ろしいはずの獣と視線を合わせたままに、澄佳はしばしその漆黒に魅入られた。硬質で強いその輝きを、知っているような気がした。うつくしい黒曜石の瞳は、さながら――――
「琉枉さま……?」
返答はなかった。獣がひとの言葉を解するなど、ありえないことだ。ただ、澄佳は獣のことを琉枉であると直感し、その上でできることを探すだけだった。恐らく、獣となった琉枉にひととしての自我はないのだろう。このまま対話を試みたところで、いずれ澄佳は食い殺されてしまうかもわからない。
それなら、澄佳には何ができるのだろう? 答えは、一つしかなかった。澄佳は神語。神の語りをうたうもの。そして、何より、
神に語り掛けるもの。それが、神語の意義だった。
「神語。あたしが、神語」
相手を琉枉だと認識したときから、澄佳の足はもう震えてはいない。澄佳は神に語り掛ける、という言葉の持つ意味を十全には理解していなかったし、國の皇族が持つ定めのことも知らされてはいなかった。けれど、宮殿に上がって巡り会った琉枉に、確かに救われたのだと思ったから。
「あなたの神語です、琉枉さま。あたしがうたうのは、あなただけのための言葉です」