プロローグ
硬い床、遠くから聞こえるうめき声。それらにも、大分慣れてきた。
ぼんやりと開いた眼に映るのは、見慣れた教室の天井と蛍光灯。少し視線を傾けると、うっすらと窓から明りが差し込んでくる。
朝だ。
ゆっくりと、身体を解すようにして立ち上がる。無理な姿勢で寝ていたからか、ポキポキと小気味いい音が聞こえた。立てかけて置いた鉄パイプは、寝ぼけて倒してしまったのか無造作に転がっている。
ふと、外を見る。
晴れ晴れとした青空を、そこかしこから立ち上った黒煙が埋め尽くしていく。誰も消火できる人がいないのだろう、微かに火の手すら見えた。
視線を少し下に向けると、開け放たれた昇降口から、今もふらふらと彷徨うように入ってくる姿があった。
遠目でわかりにくいが、血に塗れているのだけは見て取れる。中には腕がとれている者もいた。
――あれが、俺、角野順が学校で寝泊まりしなくてはならなくなった原因だ。
通り良く聞く名前はゾンビ。映画の影響だろうけども、現れた連中の特性はまさしくフィクションの世界に居るそれらと遜色がなかった。
ゾンビに傷付けられると、幾らかの時間を置いてゾンビになる。
もう、学友たちが何人もそうなった。
何時から現れ始めたのか、俺は詳しく知らない。初期に流れていた不確かな噂だと、政府が極秘裏に運ぼうとしたUFOからウィルスがばら撒かれたとかなんとか。
証拠はなにもないけど、現実としてゾンビどもが現れている以上は予測もつかない事があったことは間違いようだ。
もっとも、それが何かの慰めになるわけでもないけれど。
何時までも代わり映えしない窓から視線を外し、俺はベランダに出た。
微かに血の匂いが混じった冷たい風が吹く。灰だろうか、わずかに粉塵が舞っていた。
とは言え、慣れたものだ。
血の匂いも、粉塵も無視してベランダに置きっぱなしの雨水を貯めたバケツに手を浸す。
ひんやりとした感触。わずかに浮いたゴミを避けるようにして軽くすくい、顔を撫でた。
洗顔と言うほど上等じゃないが、それでも目ぐらいは覚める。
もう一回。今度は軽く、舐めるように飲んだ。
世の中がこうなって半月ほど。汚れた雨水位は、もう平気だった。
「……さて」
顔をシャツで拭いて、身体を伸ばす。今日はどうしようかなと考えていると、教室のドアがノックされた。
「起きているか」
野太い男の声が、遠慮がちに聞いてくる。
「ういっす。起きてますよ」
俺が答えると同時に、入るぞと断りをいれてドアが横に開かれた。
現れたのは、ドアの天井部に頭頂部が隠れるほどの巨漢。
がっちりと鍛えあげられた肉体。きゅうくつそうに着こなすシャツは、上のボタンを二つ、余計に開けている。ネクタイもしてた気がするが、何時からかなくなっていた。
前までは上級生の受け持ちだったから接点は無かったが、今の有り様になってからは一番、世話になっている先生だ。
風間洋平。見ての通り、そのがっしりした身体を活かした空手部の顧問でもあった。
「おはようございます、先生」
「おはよう。早速ですまないが、朝食の前に生徒会室に集まってくれるか?」
「はぁ、分かりました。なんかあったんですか?」
この学校での、集団生活を管理しているのは唯一の大人である風間先生と生徒会長だ。今回の呼び出しはどっちが発案かわからないけれど、朝飯前にってことは相当に急ぎみたいだ。
「まだわからない。が、どうやら黒森に向かう必要が出てきそうだ」
「黒森に?」
複合商業施設シュバルツバルト。通称、黒森は県内に住んでいれば誰もが一度は訪れたことのあるこの町のシンボルだ。
商業地区はもちろん、公園地区、住宅地区と複数のエリアに分かれていて、極端な話だが黒森から一歩も出ないで生活することができるとさえ、言われる場所だ。詳しくは忘れたが、それぞれの場所に色にちなんだ名前がついていて、総括して『黒』森なんだとか。
もちろん、こんな状況になる前は俺も良く友達と遊びに行っていた。
「いまさら行くってことは、流石に物資がつきそうなんすか?」
半月前。二週間前に、俺達と数名の男子で近くのスーパーやコンビニから、可能な限り缶詰や水をかき集めた。今、この学校にいるのが三十人くらいで、試算だと一ヶ月は持つらしい。
答える前に、先生は少し悩んだゆっくりと口を開いた。
「正直な所、外からこれを聞いていたらオレは賛成していたと思う。だが、実際に自分たちがソレを受ける側となると、どうにもやりきれないことだ」
「つまり?」
「……町が閉鎖される可能性が高くなった」
生徒会室は、三階の一番西側にある。広さは普通の教室の半分ほどだが、実は冷蔵庫とか電子ケトルなんかが置いてあって、羨ましく思う。
「朝早くからごめんなさい。だけど、急いで話し合わないといけない事態になってしまって」
室内に集まっているのは、ここに残されたあるいは残った男子生徒が八人俺も含め、それぞれが適当にパイプ椅子を出して座っている。
それと生徒会長である苅部雪奈と風間先生だ。二人が議長というか中心なので、全体が見渡せる位置に陣取っていた。
まず、生徒会長が深刻な顔で口火を切った。集まった男子生徒は、おおよそのことは事前に聞いているのか、どこか落ち着きが無い。
「ある程度は風間先生から聞いていると思うけど。実は昨夜、ラジオが拾った電波の中に『一帯を隔離し、事態の収集に当たる』と取れる内容があったの」
「正確に聞いたわけじゃないんですか」
えっと、名前はなんだっけ。確か上級生の一人が聞く。
「うん。学校内に残っていたお古だから。今の御時世でもカセット式で、それを再生させるだけでも雑音がするくらいだからね」
少しばかり笑って、でもその顔をすぐにしめて続ける。
「いや、それはいいわね。雑音まじりで満足に聞こえなかったけど、『異常』『地域を隔離』『壁の建設』などが聞こえてきたから、おおよその予想はつくわ」
ざわめき声が上がった。ある程度は聞いてたとはいえ、やっぱり事実としてこうもはっきり言われるとキツイもんがある。
不確定な情報だが、確定って言ってもいい気がする。実際に完成するのは今日明日ってわけじゃないと思うけど、始まる以上は予定地周辺の警備は万全になりそうだ。
「だが、重要なのはそこじゃない。壁の建設が決まった以上、我々がどのように動くかだ」
風間先生は一度ためらった後、静かに続ける。
「方針は大きく分けて二つ。
すなわち、逃げるか、残るかだ」
「そんなッ!」
誰かがいきり立って立ち上がり、声をはりあげた。はりあげたけど、ソレまでだった。納得がいかない、でもどうすればいいかわからない。そんな印象だ。
「私としては、そのどちらになっても良いように動いておきたいの。
脱出するなら、大人数がまとめて動ける安全の確保を。
ここで生活していくなら、自給自足の用意ね」
「……そこで、本題だ。
君たちの中から何人か、外へと向かい情報と物資を集めてきてもらいたい。
何をするにせよ、現状のまま閉じこもっていては手詰まりだからな」
外へ、か。
集まった男子は大半が乗り気ではない様子だ。当たり前だが、外はそれこそ無数のゾンビがいる。
何度か外に出たが、その時であっても全滅しなかったのは単純に十五人いた男子が半分になったからにすぎない。
「先生は、でられないんですか?」
震える声で、誰かが聞く。
「……ごめんなさい」
風間先生が答えるより早く、生徒会長が立ち上がって頭を下げた。
「先生はやっぱり、ここの守りの要なのよ。
学校に残されている大半の生徒が、ある程度は秩序だって行動できるのは頼りになる大人の先生がいるからという部分が、大きいと思うの。
それを簡単に動かすことはできないわ」
せめて、安全を確認できるまで。とは言わなかったけれど、そう言いたげな雰囲気は見て取れた。
「勘違いしないで欲しいのだけど、あなた達を無碍に追い出すわけじゃないわ。
必要な支援は行うし、拾ってきた物資の優先権もある程度は保証します。具体的に、食料なんかは流石に独占させて上げることはできないけれども多めにしたり、あるいは嗜好品や部屋の融通かしら。
――今、なし崩し的に独占している人もいるけれど、そこをキチンと個人部屋として扱うつもりよ」
なんとなく、コッチを見た気がする。実際、俺が空き部屋を占拠してるのは事実だけど。しゃーないじゃないか、血の匂いがするって嫌がられるんだから。
「それで、どうかしら。もちろん、条件も応相談します」
「すまないが、オレからも頼む。今すぐ、とは言わないが近日中できるなら、明日までには決めてもらいたい」
そっか、情報が出回れば各地で籠城している人たちも出てくる可能性がある。
協力し合えるのが理想だけど、そう簡単にはいかないだろう。なにせ助けが来ないのだから。
周りの人たちは、やはり及び腰のようだ。そりゃまあ、そうだよな。ほとんど死んでこいってのと変わらない要求だ。
まして、ここから黒森までは地下鉄で五駅。都合、三十分ほどの距離がある。歩きとなると、最悪は泊まりがけだよな。
外で。安全な場所なんてあるのかどうかすらわからない場所へは、誰だって行きたくなかった。
「……う~ん」
正直な所、行くのは別に構わない。死にたくはないけど、誰かが行かないと本当に不味いことになりそうなのは、俺でもわかる。
なんていうのは、ただの建前だ。
ふと、外へと眼を向ける。見えるのは、平和だった頃と変わらない青空だけだ。
でも、この下にゾンビが無数とうごめいている。
その中を、一人、探索するのだ。
「――ッ!」
訳知らず、身体が震えた。
怖いと言うよりも、武者震いに近い。
まともな感情だとは自分でも思えないが、どうにも世の中がこうなってからはいっつもそうだ。
ゾンビと相対するときも。
ゾンビを殺すときも。
あるいは取り囲まれて、些細なミスが死に繋がるときも。
俺はどうにも、そう言う生き死にがかかった瞬間を楽しいと感じるたちであるらしい。
それを踏まえると、行かない理由はないな。
「あ~、すんません」
どうするかと相談しあう中、手を挙げる。
何だ、何事だと視線が俺に集中した。
「俺、立候補してもいいっすか」
室内がざわつく。そう多い人数でもないのに、けっこう騒がしかった。
「なんだと? いや、助かるが……しかし、本当に良いのか」
「そりゃあ、まあ。一人で出来る事は限られてますけど、とりあえず黒森に行くくらいなら、できるんじゃないかと」
例えば地下鉄。通れるかはわからないけど、上手く中のゾンビを回避できれば外を行くよりも安全に行き来ができるだろう。
他にも道が通れるとなれば、先生に車を出してもらってもいい。
「そうね。あまり話し合っていてもしょうがないし、人まずは君……角野くんに行ってもらいましょう」
「うっす。とりあえず、黒森方面に行きつつ情報とか物資を拾ったりしてくるってことで、いいすっかね」
一人でできる事なんてたかが知れてるけど、野菜の種とかならなんとかなると思う。あと、水をろ過するやつとか。
「どちらも、できればで構わない。無理をせず、無事に帰ってくることを考えてくれ」
「それと、生存者が何処に集まっているかって言うのもわかればいいわね。
お互いに協力しあえれば、少なくとも周辺のゾンビは掃討できるかもしれない」
それは、流石に楽観視し過ぎにおもうけれど、言わないでおこう。
「分かりました。
ああ、それとバッグかなんかも持って行っていいですかね」
「もちろんだ。朝を食べてくるといい。オレが持ち運び食料と水を、用意しておこう」
「ありがとうございます」
「それでは、一旦解散しましょうか。朝食の後、しばらく休憩してから角野くん以外のメンバーは日常業務にあたってください」
生徒会長の言葉を皮切りに、集まった男子はぞろぞろと立ち去っていく。通り過ぎる中、それぞれが軽く声をかけてくれた。
ほとんどが心配してと言う感じで、どうにも楽しそうだと感じている俺が場違いな気分だった。
「今からでも、考えなおしてもいいんだぞ」
登山部が使っていたらしい深い緑色のリュックを片手に、風間先生が言った。
「いや、それは流石にかっこ悪いっすよ」
校舎の二階。非常口近くの防火扉。ここまでが、ゾンビの出てこない安全圏だ。
俺は先生からリュックを受け取り、それを背中に背負う。手にはいつもの鉄パイプ。使いやすいように、持ち手はビニールテープで改造したやつだ。後、普段から履いてるスニーカー。
これでも何回もゾンビを叩けば、俺の手に衝撃が返ってきてかなり痛いので使用する場合は要注意である。
「いかに状況が危機的であっても、生徒が命をかけるというのを、オレは何もせず見過ごしたくはない。
周りがなんと言おうと、今ここでやめたとしてもキチンとかばってやる」
風間先生がまっすぐに俺を見る。
あ~、やべ。この人、本当にいい人だわ。というか、外言ってゾンビ狩りとか命がけのなんたらを楽しみたいですとか、マジで言えない空気。
「……あ~、ホントの事言うと、一回は家に帰るチャンスかなって思ったんすよ」
「家に? しかし、君のご家族は……」
「はい。初日に全滅しています。ただ、そのままにしてきちゃったんで、せめて弔いたいなって」
初日。あの日、俺は家族が心配で真っ先に家に帰った。
まだゾンビもそう多くなくて、家にまではわりと簡単に辿りつけたけど……居たのは全裸の見たことない男と下着姿のおふくろのゾンビだった。
たぶん、そういうことなんだろう。
どっちが感染源かは知らないが、どっちも同じように俺が頭を叩き潰した。どっちも、そのままリビングに転がしっぱなしだ。
「弔い、か。たしかに、こういう機会でもなければ個人の事情で自宅まで行くことはできないな」
嘘です。ごめんなさい。と、心のなかであやまっておく。
「もちろん、それだけじゃ申し訳ないんで手土産くらいは拾ってきますよ」
「わかった。ならばもう、止はしない。生きて帰って来い」
「はい。んじゃ、行ってきます」
そうして、俺はちょっとの罪悪感と共に防火扉を開いた。
本作はのべぷろさんにも掲載しており、そちらでは別の作者さんが解釈や設定部分をそれぞれ独自に構築して発表しています。
興味を持たれた方は、是非ともいらしてみてください。




