もみじ折らばや
神無月十二日。黄色くなり始めた木の葉を寒風が散らし、屋敷を歩き回っていた桃の足元を飾る。それに気付きふっと足を止めた桃は、一枚の葉を拾い上げて頬を緩めた。
側にある名前も分からぬ木は、つい先日まで青々とした葉をまとっていたのに、今はすっかりその着物を黄色へと衣替えしていた。青二才の皮を脱ぎ捨てさらに美しくなった姿は、桃と重なって見える。その先に冬があるのを知らぬ姿もまた……。
「桃さん、中で旦那さまがお呼びでございます」
桃が紅葉に見とれていると、庭のはじから奉公人の森重の声が呼んだ。詩的な気分を邪魔された気持ちで、むっとして振り返る。
「今行く。それより森重、この木の名を知らぬか」
「分かりませぬ。吉井の屋敷にはない木ですね」
「絃次郎さまがお植えになったのでしょうか……」
絃次郎もとい松方絃次郎は、桃がこのたび祝言をあげた相手である。今日は二人がこれから住む屋敷に荷物を運ぶ段取りなのだ。桃の父もそれを手伝いにやってきていた。運び終わればその時より、ここは家族の家となる。
絃次郎の松方家も桃の吉井家も、徳川幕府成立より続く由緒正しい武家である。弥生に松方家から祝言の話が来て以来、両家は幾度も顔合わせをして、祝言の段取りを決めてきた。霜月で十七になる桃も、そろそろ婿をとるか嫁に行くかの時分だったので、吉井家はずいぶん喜んでこれを受けた。松方家も今年二十八になる絃次郎に嫁をもらうことができ、両家万々歳の祝言となったのだった。
「もう片付けは済んだのかしら。お父様はもう帰るのかしら」
森重に呼ばれて屋敷の中に向かう途中、桃はふいに寂しくなってそうこぼした。これから大人の女になろうとする娘を、年寄りは優しげな瞳で見守る。
「お嫁に行かれても、吉井家は桃さんの実家でございます」
しかし桃はそんな森重を、鋭い目つきで睨みつける。
祝言の話が来る前までは桃のことをお姫さんと呼んでいた森重も、最近では桃さんと名前で呼ぶようになった。そんなことにいちいち寂しさを感じて、桃は悟られぬようため息をつく。桃はもう少女ではない。髷を結ってお歯黒をした、大人の女なのだ。
「お父様、桃です」
両の手で座敷のふすまを開けると、そこには父のほかに絃次郎もいた。一回り年上の絃次郎との接し方が、桃にはまだ分からない。桃は戸惑いながら二人の前に膝をついた。
「桃、大方片付けは済んだので、俺はもう帰るぞ。あとは絃次郎くんと一緒におやんなさい」
「でもお父様、もうすぐ夕餉の時間でございます。こちらで食べて行かれないのですか」
立ち上がりかけた父を思わず引きとめると、父は呆れたように娘を見返した。
「夫婦での初めての夕餉を邪魔するわけにはいかん」
もっともなことだ。初夜はふたりで過ごすべきである。礼儀を知らぬ父ではない。
しかし桃は、「でも……」と言葉を濁らせた。親元を離れるのが、これほどに心細いことだとは思わなかったのだ。先に嫁いだ姉の凛は、まったくその様子を見せなかったのに。桃だけがまだ、少女のままなのだろうか。
桃はしおれた心で、父を見送るために立ち上がった。
「それじゃあ」
父は行燈を照らしながら、足早に帰っていった。暗い門前に、桃と絃次郎のふたりが残される。気まずい沈黙に耐えるように父の背中を見送っていた桃に、絃次郎が遠慮がちに声をかけた。
「寒いですから、中へ入りましょうか」
「ええ……」
絃次郎の優しげな面差しを一瞬見つめ、これからこの人とふたりで生きていくのだと、桃は改めて実感したのだった。
「お給仕いたします」
夕餉時、桃は絃次郎の前に膳を置いて言った。奉公人を雇ってもよかったのだが、桃は町人の嫁らしいことをしてみたかったので、奉公人はつけないことにしたのだ。絃次郎もこれに賛成してくれた。
「お願いします」
亭主のくせにそんなことを言う絃次郎に、桃は黙って湯飲みを渡す。
真面目な人だ、と思った。十一も年下の妻に敬語を使うなど、聞いたことがない。
絃次郎は桃の作った佃煮や茶碗蒸しを上品に食べてゆく。それを横目で見守りながら、桃は味の方が気になって仕方がない。
桃は嫁す前に、姉の凛から料理を教わったのだ。凛もまた、桃と同じく賄いは自分で作っている。姉妹で性格は似るものらしい。
「…………」
絃次郎が黙って膳を平らげる姿を、桃も黙って見守る。上品な箸使いに感心しながら、夫の言葉を待つ。
しかし絃次郎は黙って食べるばかりで、料理の感想も言わない。桃は待ちかねて聞いた。
「お味はいかがでしょうか」
「…………」
絃次郎は黙っていた。
美味しくなかったんだわ、と桃は両の手で顔を覆う。甘やかされて育ってきたわたしには、自分で家事をすることなんて無理だったんだ。心細い涙が、顔を覆う手に落ちる。ひとつが上手くいかないと、後に起こることすべてが失敗するような気がしてならない。これから先、わたしはやっていけるだろうか――
そんな桃の濡れた手が、絃次郎によって優しくはがされた。突然のことに桃は動揺する。絃次郎に触れられたのは、これが初めてだった。
「今、感想を言うところです」
絃次郎は桃に言い聞かせるように、優しく言う。自分の手が濡れるのも厭わず、桃の濡れた両の手を自身の大きな両の手で包み込んだ。
「ずいぶん修行なさったでしょう」
「はい……」
「どれも美味しくできています。私のために、ありがとう」
絃次郎は目じりに皺を寄せて、優しく微笑んだ。そのあたたかさに、桃のしぼんでいた気持ちが膨らんでいく。涙はもう引っ込んだ。
「絃次郎さん、ごめんなさい。わたし、泣いてしまって……」
「よいのです。私が黙っていたのがいけない。美味しくてつい、夢中で食べてしまいました。申し訳ない」
年上の絃次郎に謝られて、桃は慌てて首を横に振った。
「絃次郎さんが謝ることはないわ。それに、わたしの料理をこんなに褒めてくれた。なんだかこうも褒められると、むずがゆいわ」
つい正直な感想が口にしてしまって、桃は慌てて拳で口を押さえる。そんな桃を包み込むように、絃次郎が優しく微笑んだ。
「外に出てみましょうか」
「外に? 寒くないかしら」
「少しです。今日は月が綺麗ですよ」
絃次郎に導かれ障子を開けて外に出ると、なるほどまんまるい綺麗な望月が出ている。十五夜の月にも劣らぬ明るさが、雲のない空を照らす。桃は思わず見とれ、絃次郎が腰をおろしたのにも気付かずに、しばらく月を眺めていた。
着物に入り込んだ寒風で、絃次郎が座っているのに気付く。桃は恥じて顔を赤くした。そうして絃次郎の隣に腰をおろすと、その手元を覗き込んで首をかしげた。
「絃次郎さんは、句を詠まれるのですか」
絃次郎の手には句帖と筆があった。側には墨も置いてある。
「ええ、あまり上手くはないのですが……」
絃次郎は月を見ながら照れたように微笑むと、ふっと桃に視線を落とした。桃は再び首をかしげる。絃次郎は筆をとると、本人によく似た繊細な筆跡で、句帖にさらさらと書きとめた。
望月の明に劣らぬもみじかな
絃次郎は満足そうに句帖を眺め、そして下駄をつっかけて庭に出た。
なるほど、確かに下手な句である。しかし――。桃は置かれた句帖をしげしげと眺め、その句を思いのほか自分が気に入ってしまったことを知る。
そうしている間に、庭に出ていた絃次郎が戻ってきた。手には紅く染まったもみじの葉が握られている。庭に植えてあるもみじを折ってきたのだろう。驚くほど優しく握られたもみじは、月明かりに照らされて真紅に輝いていた。
絃次郎はそれを桃の手に載せると、下駄を脱いで床にあがった。
「桃さんには、もみじが似合う」
絃次郎はそれだけ言うと、ひとり障子の奥に引っ込んでしまった。が、桃はそれに続かず空にかかった望月を見ている。
夜露に濡れたもみじの葉は、桃の手の中でぴかぴかと輝く。絃次郎の顔を思い浮かべながら、桃はもみじを胸に抱いた。
そうしてまた、絃次郎の形のいい唇からつむぎだされた言葉を思い出す。
桃さんには、もみじが似合う
桃はこれからの人生をひとり想って、胸のもみじをそっと撫でた。
こんにちは、作者の桜内です。
プロットと大きく違うものが出来上がってしまいました……。桃が泣いたあたりから、もう二人にまかせっきりで(笑)
初めての時代小説ですが、頑張ります。よろしくお願いします♪