3話
クルルが赤崎家の居候となって1週間。
その間クルルが何をしていたのかと言うと、猫とたわむれていた。
いや、そうではなく。
クルルは猫にたわむれられながら、赤崎潤という人物を観察していた。
今もクルルは眠い眼をこすりながら、早朝の掃除をしている潤を玄関脇の植え込みの影から観察中である。
「今日も潤さんは楽しそうにお掃除してます──にゅ、重いですよ玄武先輩」
物陰から潤を観察するクルルの頭上に、ずしりとした重みが加わる。
それは彼女の頭上で器用にバランスを取ると、退屈そうににゃあと鳴いた。
彼の名は玄武。クルルから見れば先輩に当たる居候だ。
赤崎家にはクルルが来る以前から居候がいた。
それは玄武、白虎、青竜、朱雀という名前の四匹の猫たちである。
全身黒色で四肢と尻尾の先が白いのが玄武、全身真っ白なのが白虎、虎縞が青竜で三毛猫が朱雀。
もちろん彼らは潤によって拾われ、そのまま赤崎家に住み着いた猫たちであった。
潤が拾ってくる犬や猫は、その殆どが門下生や近所の人たちに引き取られるが、中には彼らのように貰い手が決まらず赤崎家に居着くものもいる。
クルルが居候として赤崎家に住むことが決定した時、彼女に提供されたのは離れにある使われていない一室だった。
だが、使われていないというのはあくまでも人間の話。
実際の所、離れはいつの間にか猫部屋となっていたのだ。そして、部屋にいる四匹の猫を見たクルルは大喜び──どうやら猫好きらしい──で、この部屋に入ることを了承した。
だが、猫たちからすればクルルは新入り。
彼女が部屋に入った瞬間、猫たちは一斉にクルルを威嚇した。
きしゃあと毛を逆立て、鋭く睨み付けられたクルルは思わず後ずさり身を竦ませ、腹を上にしてごろんと寝転がった。
いわゆる、「降参」のポーズである。
そしてこの瞬間、この部屋におけるヒエラルキーが構築された。当然クルルが一番下っ端として位置づけて。
以来クルルは猫たちを先輩として敬い、彼らの世話がクルルの赤崎家での主な仕事となっている。
今もクルルは頭上の玄武だけでなく、他の3匹たちにまとわりつかれながらも潤の観察を続行中であった。
「それにしても、潤さんはどうしてお掃除をあんなに楽しそうにするんでしょう? 自分もお掃除はいっぱいやらされましたが、ちっとも楽しくはなかったです」
クルルは所属する支部でも一番の下っ端だった。故に掃除などを押しつけられることも多く、その際にはぶつぶつと文句を言いながら掃除したものだ。
今度聞いてみようと思いつつ、クルルは猫たちにまとわりつかれながら観察を続けた。
そしてその日の夜、クルルは自室でこれまでの調査結果を自分なりにまとめてみた。
一言で言えば、潤は大らかで優しい人物であった。
掃除や炊事、洗濯といった家事を進んでこなし、道場に通ってくる門下生や近所の子供たちに優しい笑顔を向ける。
その優しさは動物たちにも及び、近所の飼犬が散歩しているのを見かければ、立ち止まってそれは楽しそうに頭を撫ぜてやる。
そして潤を知る人たちもまた、そんな潤を見る度に知らず知らずのうちに優しい表情になってしまう。
赤崎潤という人物は、自分だけでなくその周囲の人までも優しい雰囲気に飲み込んでしまう、所謂『和み系』とか『癒し系』と呼ばれる人種であるとクルルは判断した。
学校の成績も──情報提供は鉄心──飛び抜けて良い訳ではないが決して低くもなく、中の上から上の下といったところだとか。
「考えれば考える程、潤さんは『象徴』に相応しいの人です。それに──」
──赤崎潤は恋をしている。
乙女テスターが異様なまでの高数値を示した原因。それこそが潤が恋をしているからだというのがクルルの見解であった。そしてその相手とはまず間違いなく天野鉄心であろうと予測する。
「潤さんと鉄心さんはいつも一緒ですし。それにお二人の雰囲気は、まるでお互いが側にいて当然といった感じです」
学校へ行く時も一緒、部活も一緒、帰りも一緒。
帰ってくれば鉄心はほぼ赤崎家に入り浸っているし、赤崎家の家族もまた、鉄心のことを家族のように扱っている。
「これはもう、家族公認の仲ということですねっ!! 先輩たちもそう思いますよねっ!?」
思わず拳を握って猫たちに力説するクルル。
当の猫たちはといえば、クルルの頭上で揺れるハネ毛にじゃれつくのに一生懸命。
「もう潤さん以外の候補者は考えられませんっ!! 潤さんなら絶対に自分の話を真面目に聞いてくれますっ!!」
クルルはまとわりついている猫たちを落としながら立ち上がる。
現在の時刻は午後9時過ぎ。
鉄心は既に自宅へと帰っており、初穂はこの時間なら入浴中で、冬華は深夜帯のコンビニでのアルバイト。
今なら潤は一人で自室にいる筈。今こそクルルの事情を説明する最大のチャンスである。
「にゅ、こういう時は何と言うんでしたっけ……そう! 確か Go to Hell ですっ!!」
地獄に行ってどうする。
本日の宿題と明日の予習を済ませ、潤がぱらぱらと料理の雑誌を眺めていた時、こんこんと控えめにノックの音が響いた。
「えっと、クルル? こんな時間にどうしたの?」
「え? どうして自分だと判ったですか?」
潤の予測通り、ドアを明けて顔を覗かせたのはクルルだった。
「うちで控えめにノックする人いないから。お姉ちゃんはもっと乱暴だし、お母さんはノッ
クより先ず声をかけるし。それに鉄心はノックすらしないしね」
楽しそうにくすくす笑う潤。そんな潤に促され、クルルは部屋へと足を入れた。
「実は、その……潤さんにお願いがあるんですけど……」
「うん、いいよ。ボクにできることなら何でも言ってね」
「そのですね、自分が仕事でこっちに来たのは説明したと思うんですけど」
「うん。それは聞いたよ」
「それでですね、その仕事を潤さんにも手伝って欲しいのです」
「え? それってどんな内容? ボクにできること?」
「そりゃあもう、潤さんじゃないとできない内容です」
そしてクルルは改めて居住まいを正した。
「いいですか、潤さん。今から話すことは妄言でも妄想でもない、純然たる事実です。それだけは信じてください」
きょとんと首を傾げる潤に、クルルは深呼吸を一つすると真面目な表情で語り始める。
「自分はこの世界の人間ではありません」
「……え?」
「自分は『管理界・第1382支部』から派遣された管理官──第14等級管理官なのです」
「だ、第1382──え? 何?」
話の内容のあまりの突拍子もなさに、さすがの潤も当惑を隠せない。
そして更に突飛な言葉が、クルルの小さな口から紡ぎ出された。
「そしてこのままではこの世界──自分たちが『第1382被管理界』と呼んでいるこの世界は遠からず滅亡します」
「せ……世界が滅亡……?」
いきなりの異界人宣言に世界滅亡宣言。
普通なら「それって何のゲーム?」と笑い飛ばすところだがそこは潤のこと、当惑しつつも黙ってクルルの話に耳を傾ける。
「なぜなら、この世界を管理運営するために必要なモノの在庫が、現在極めて少なくなっているからです。そしてそれが枯渇すれば、この世界は運営することができなくなり、滅亡への道を転がり落ちることになるです」
そこでクルルは言葉を一端区切り、潤の様子を伺う。
自分でもいきなりとんでもないことを言っていると思う。だがどんなにとんでもなくても、これは事実なのである。
果して潤はこの話を信用してくれるのだろうか。
不安を押し殺して潤を見れば、その表情にクルルを馬鹿にしたようなものは一切なく、それどころか徐々に青ざめてさえいる。
「そ、それって大変なことじゃない! それでその燃料って一体何? ボクはその燃料を集める手伝いをすればいいの?」
「え……っと。今までの話を信じて──くれるんですか?」
潤ならきちんと説明すれば、きっと信じてくれるだろうと思っていた。だが、それでもクルルは一抹の不安は掻き消せなかった。
いきなり世界が滅亡しますと言っても、誰がすんなり信用するだろう。場合によっては、こちらの正気を疑われたって不思議ではない。
それぐらいのことはクルルにだって判っている。
だが潤はまるで疑う素振りもない。これにはクルルの方が逆に不安になってしまった。
「うん、信じるよ。だってクルル、真剣な表情してるもの。それに嘘や冗談にしては規模が大き過ぎるし」
微笑みながらそう言い切る潤の姿に、思わず感動を覚えるクルル。
ああ、そうだ。こういう人物だからこそ、クルルも潤が『象徴』に相応しいと思ったのだ。そしてこの瞬間、クルルは自分の判断が間違いでなかったことを改めて悟った。
「この世界の運営に必要なもの……それは歓喜や感動、熱意や情熱といった正の方向へと向かう心の働き。自分たち管理官は、これを『熱情』と呼んでますです」
この世界に住む人々の、前向きな正の感情。それこそが世界を運営するためのエネルギー源であり、その『熱情』を用いて世界を管理運営するのが、クルルたち管理官と呼ばれる存在なのだと彼女は言う。
「ですが最近、この『第1382被管理界』には負の感情が凝り固まるようになってきているです。この負の感情が多くなると、恐ろしいものを呼び寄せてしまいますです」
「……恐ろしいもの……?」
「はい。自分たち管理官はそれを『破滅』と呼んでいるです」
クルルがこちらへ赴くよう命じられた際、彼女の上司が口にした「奴ら」。それこそが『破滅』なのである。
『破滅』がどこから現われて、何を目的としているのかは、クルルたち管理官も正確には把握していない。だが負の感情が高まれば、『破滅』は必ず現われる。
クルルの説明によると世界は一つではなく、一つの世界はいわば1枚の『葉』であり、幾つもの『葉』が繁った1本の『樹木』が全体世界なのだという。
その『葉』の総数はクルルも知らない。彼女が属するのが第1382管理支部というから、少なくともそれ以下の『葉』が存在することは確かだろう。
そして『破滅』とはこれらの樹木上には本来存在しない存在である。
世界を『樹木』に例えるなら、『破滅』は害虫に該当するだろうか。
害虫が徐々に葉を食い荒らし、やがては樹木そのものを枯らせてしまうように、『破滅』は世界という『葉』を食い荒らし、世界を滅亡へと追いやるのだ。
「自分たち管理官の過去の資料によると、これまでたくさんの世界が『破滅』によって滅ぼされて来ました」
最初は小さな欠け片でしかない『破滅』。
だが『破滅』はまるで癌細胞が正常な細胞を飲み込んでいくように徐々に世界を蝕み、やがては世界全体を飲み込んでしまう。
クルルの説明を聞いた潤は思わず身震いを一つする。
「じゃあ、もしもその『破滅』が現れたら、どうすればいいの?」
「はい。自分たち管理官は、これまでに幾つもの『破滅』を滅ぼしてきました。負の感情を糧とする『破滅』を滅ぼすためには、その真逆たる正の感情、それも純粋なる乙女の如き穢れない想いの力……通称『乙女力』こそが、『破滅』を滅ぼす唯一無二の武器なのです!」
「お、おとめ……りょくぅ?」
そのなんとも力の抜けるネーミングに、それまでのシリアスな話の反動もあって、思わず脱力してしまう潤であった。