2話
クルルが身体を起こした拍子に、何か黒い物体がポシェットから畳の上に零れ落ちた。
「あれ? 何か落ちたよ? 携帯?」
潤が拾おうと手を伸ばし、それに触れた途端ぴりぴりぴりと甲高い音が鳴り響いた。
「え? え? え? もしかしてどこか壊れちゃった?」
驚いた潤が手の中の黒い物体からクルルへと視線を移すと、クルルはその真紅の瞳を大きく見開いていた。どうやら彼女も驚いているようだ。
「…………反応……してます……?」
「え?」
「お、おおおお乙女テスターが反応してますぅぅぅぅっ!!」
クルルは潤から黒い物体──乙女テスターを潤から奪い取るような勢いで手にすると、そのまま乙女テスターを凝視する。
こちらに来て以来、うんともすんとも言わなかった乙女テスター。その乙女テスターの針が、間違いなく大きく揺れ動いていた。
「よ、47,50OOTMっ!? こ、こここここんな膨大な乙女力が……っ!!」
手の中の乙女テスターを凝視していたクルルの視線が、ゆっくりと潤へと向けられる。
「じゅ……潤さん……あ、あなたは一体……」
「えっと、その……やっぱりそれ、壊れちゃった? ごめんね、どうしよう……」
涙に潤んだ瞳でクルルを見返す潤。潤にそんな目で見られたクルルは、なぜか自分がいけないことをしているような気分になったが、それが逆にクルルを冷静にさせた。
(お、落ち着くです、自分!)
心の中で自分に言い聞かせる。ようやく見付けた『象徴』の有資格者である。それも潤はかなりの逸材のようだ。
その潤に断られでもしようものなら、次の有資格者を見つけるのはいつになるやら見当もつかない。
(そ、そうです。支部長も言ってました。まずはこちらの事情を懇切丁寧に説明しろと)
自分を送り出した支部長の言葉を思い出す。だが、単にこちらの事情を話しても信用してもらいないだろう。だからまずは、その機会を窺おうとクルルは判断した。
「い、いえ、大丈夫です。壊れてませんから安心してください」
「本当? 良かったぁ……」
ほっと胸をなで下ろす潤を見て、クルルは思わず笑みを浮かべる。
(何か……いい人そうです)
いや、間違いなく潤は善良で心優しい人物なのだろう。行き倒れの見ず知らずの他人を、こうして何の疑いもなく自分の家に連れて来てくれたのだから。
(ますます『象徴』に相応しいです。ですが……)
それでも今の段階でこちらの都合をそのまま話しても、おそらく不審に思われるだけだ。
どうにかしてこちらの話を信用し、なおかつ協力してもらわなくてはならない。
(にゅ。そこが難しいのです)
「じゃあ、ご飯にしようか。家族にも紹介するから」
考え込むクルルをよそに、潤は立ち上がって彼女を促す。
「ご飯っ!? はい、すぐ行きますですっ!!」
そしてクルルも同じように立ち上がる。やっぱり頭上のハネ毛がひょこひょこと、まるで子犬の尻尾のように揺れた。
ぽちゃん、と一滴雫が落ちる。
落ちた雫は湯船に蓄えられた湯と一瞬で同化し、そこに残るは小さな円状の波紋のみ。
その波紋の奥では、真っ直ぐで漆黒の長い髪がゆらゆらと踊っている。
すらりとした肢体を湯船に沈めながら、瀬戸あさひは今日という日を振り返る。
「──今日は悪い日ではなかったな。いや、最良と言っていいかもしれない」
何せ今日は久し振りにあいつと言葉を交えることができたのだから。
叔父から借りた本を返すという建前で、久し振りにあいつと会話した。それを思い返しただけで、あさひの口元に思わず笑みが浮かぶ。
「ふふ。相変わらずだったな、あいつは……」
あいつとの出会いはまだ幼い頃。
父親の転勤によって引っ越して来たこの町には、父親の弟が住んでいるという。その親戚の家に初めて行った時、そこにあいつはいた。
初めて出会った時、自分に向けられたあいつの笑顔。
それはあさひの心の奥に今も焼きついている。そんなあいつに、あさひは恋心を抱くようになった。
きっかけは些細なこと。
あいつが放った正拳突きを見たことが全ての始まりだった。
もちろん、あいつが空手を習っていたことは、直接聞いて知っていた。
始めは「へえ、そうなんだ」ぐらいの認識しかなかったが、あいつが放った突きを見た時、あさひの心は打ち震えた。
まるで夜空を切り裂く流星のように。
それはあいつの心を映し出したように真っ直ぐで。
初めて会った時の笑顔と共に、その光景は彼女の心に刻み込まれた。
そして1つの想いが彼女の心を支配する。
いつか自分も、あんなに綺麗で真っ直ぐな突きを放ってみたい。
あんなに綺麗で真っ直ぐな突きを放てるあいつに純粋に憧れた。
そしてその憧れは、長い時間をかけてやがて想いへと昇華することになる。
だから当時のあさひは、すぐに母親に武術を習ってみたいと願い出た。
できれば赤崎道場が良かったのだが、あいにくと赤崎道場までは小学生であった当時の彼女には少々距離があると母親に反対された──母親が自動車の免許を持っていれば話は別だっただろう──ため、近所の警察署で開かれていた剣道の教室に通うことになった。
種目は違えど同じ武術。きっと通じるものがあるだろうと、あさひは剣道を習い始め、そしてあさひは去年、中学一年にして県大会のベスト4まで進出するほどの腕になる。
「今の私があるのは、あいつのおかげだな。でも──」
あさひは思う。あいつの強さにはまだまだ及ばない、と。
「あいつに比べたら私は弱い……」
あいつはいつも真っ直ぐで、その強さは眩しい程で。
だからあさひはあいつに惹かれる。
いつかあいつのような強さを得たい。
そう願いながらあさひは湯船の中で立ち上がる。
いくつもの雫が、彼女のその若々しくて瑞々しい均整の取れた身体の表面を滑り落ちる。
長く続けて来た剣道のおかげで、その身体には余分な脂肪はまるでない。でもできれば、胸にはもう少し脂肪があって欲しいと思うけど。
「やっぱり……あいつも胸が大きい方が好みなのか?」
そう独りごちて、自分の胸に手をあてるあさひ。クラスの中でもあさひは長身の方だが、胸ばかりは小さい方から数えた方が早かった。
そしてクラスの友人たちとの何気ない会話で、男はやはり胸の大きな女性に憧れると聞いたことがあった。
もちろん、そこは個人の趣味の問題であるとあさひも理解している。
問題はあいつの好みが、『ある』のと『ない』のどちらかということだが、こればかりは付き合いが長いあさひでも知らない。
「ふ、あいつが胸の大小などで惑わされる訳がないじゃないか」
あさひは自分に言い聞かせるように呟く。
あいつが外見で人の善し悪しを判断するような人間ではないことは、彼女もよく知っている。
でもなぁ──。
念のためもう少し成長して欲しいなぁ、と切に願いながらあさひは浴室を後にした。
居間と廊下を区切る戸が引き開けられる。
敷居を堺に廊下側にはクルルを連れた潤が。そして居間の中には初穂と冬華と鉄心。
「あれ? まだ夕食始めてないの? 先に食べててねって言ったのに」
「おまえがいないのに、私たちだけで食べても美味しくないだろ?」
「冬華姉の言う通りだ。お、そいつも目ぇ覚めたのか?」
鉄心が潤の後ろのクルルに気づいて視線を向けた。
「は、はい! クルル・ミルル・パルルっていいます。クルルと呼んでください。この度はお世話になってしまって、その……うにゅぅ」
3対6個の視線に晒され、クルルの声は徐々に小さくなっていく。
「もう、だめでしょ、鉄心。女の子をそんな無遠慮に見つめたら。ほら、クルルもそんなに緊張しなくてもいいから。じゃあ、ボクの家族を紹介するね」
潤はクルルの緊張を解きほぐそうと、潤に居間にいる人物を紹介していく。
「こちらが冬華お姉ちゃんと初穂お母さん。で、こっちが幼馴染の天野鉄心」
「え、幼馴染……?」
「うん。鉄心は正確には家族じゃないけど、ほとんど家族みたいなものだよ」
「へえ、そいつが潤が拾って来たっていう外人か。日本語めちゃ上手いな。しかし、潤も犬猫だけじゃ飽き足らず、とうとう人間まで拾ってきたか。だがな、クルルとやら」
冬華は、最初呆れと感心が入り交じったような顔で呟いたが、一転して真面目な表情でクルルを見つめる。
「は、はいっ!! な、ななななんでしょう……っ!?」
「潤は私のものだからな。手ぇ出したら承知しねえぞ」
「お姉ちゃんっ!!」
「はは、冗談だよ、冗談。まあ、こうやって一緒に食事をするのも何かの縁だ。よろしくな」
冬華は片目を閉じながら笑みを向ける。
「さあ、紹介はそこまでにして、夕食にしましょう。クルルさんも座って下さい」
初穂の言葉に従い、まずは潤がいつもの場所に腰を下ろし、その隣りをクルルに薦める。
「クルルはお箸使える? だめならフォークを用意するけど」
「にゅ、できればフォークをお願いしますです」
待っててね、と言い置いて潤が台所へと向かう。すぐに戻って来た潤からフォークを手渡されたクルルは、目の前の主菜と思しき魚のフライをフォークで刺して口へと運んだ。
「──お、美味しい……」
「そう? カレイのフライに、ゆで卵とマヨネーズのソースをかけてオーブンで焼いたものなんだけど、この前読んだ料理の本に載ってたのを作ってみたんだ」
「え? これ、潤さんが作ったんですか? 初穂さんではなくて?」
クルルは驚いて潤と初穂を交互に見比べる。
「申し訳ありません。私は、その……料理が苦手でして……」
言い難そうに応える初穂に、クルルは慌ててごめんさないと誤った。
(こんな美少女で優しくて、しかも料理上手……)
これはますます『象徴』に、と決意も新たのクルル。
その後は会話も弾み、次第にクルルも赤崎家の雰囲気に打ち解けていった。やがて食事も終わり、皆で使った食器を台所へと運ぶ。もちろんクルルもそれを手伝う。
「じゃあ、ボクはお風呂の準備をしてくるけど……どうする? 鉄心も今日はうちでお風呂入る?」
「そうだなぁ。今から帰ってから風呂沸かすのも面倒だな。じゃあお言葉に甘えさせてもらって……久々に一緒に入るか、潤?」
「えええええぇぇぇぇっ!?」
そう叫んだのは、潤ではなくクルルだった。
「ど、どうしたのクルル? 急に大声出したりして?」
「だ、だだだって、お二人で一緒に、そ、その、お、おおお風呂って……にゅぅぅぅっ」
潤と鉄心が一緒に風呂に入っている光景を想像し、思わず赤面するクルル。
「小さい頃はよく一緒に入ってたじゃねえか」
「小さい頃と今を一緒にしないでよ」
「で? 一緒に入るのか?」
「入らないよっ!」
脳内劇場絶賛妄想中で真っ赤になっているクルルをよそに、潤と鉄心はぎゃいぎゃいと言い合っている。
そしてそんな二人を楽しそうに見つめる初穂と、今にも自分も一緒に入ると言い出しそうな冬華。
こんな光景も赤崎家のいつもの日常なのであった。
「あ、クルルはどうする? うちでお風呂入っていく? もし誰かが待っているようなら電話して……クルル? 一体どうしたの?」
見るからに表情を陰らせるクルルに驚く潤。潤だけでなく、初穂や冬華、鉄心も困惑顔だ。
「あの……実は自分……行くあてがなくて……」
目を伏せ俯き、ぽつぽつと零すようにこれまでのことを説明するクルル。
仕事でこちらに来たが、その仕事が順調に進まず住む所も定まっていないこと、そして手持ちの現金も残り僅かなことなど。
もちろん、『象徴』の件や思わず活動資金を使い込んじゃったことは伏せながら。
「そっか。それであの公園で倒れていたんだね」
「いやしかし、今時リアルで行き倒れも珍しいな」
納得顔の潤と呆れ顔の冬華。鉄心は冬華と同じ心境で、初穂は一部始終をただ黙って見守っていた。
「じゃあさ、しばらく家に泊まらない?」
クルルの説明を聞いた後、潤がしごく当たり前のようにそう提案した。
「え? い、いいんですか?」
これには逆にクルルの方が困惑した。
できればここに住まわせて欲しいなーと、内心クルルも厚かましいことを考えていた。
だが、身元不明の行き倒れに何とも簡単に泊まらないかと薦めるとは。いくらんでも不用心過ぎないだろうか。
思わず初穂や冬華を見回せば、彼女たちもさも当然とばかりに落ち着いている。
そんなクルルの当惑を悟ったのか、冬華が肩を竦めながら口を開く。
「ま、潤が拾ってきた段階で、こうなるんじゃないかと思ってたんだよ。潤はこれまでも、犬や猫をたくさん拾ってきたからなぁ」
「にゅぅ……自分は犬や猫と同格ですか……」
「そんなに落ち込むなって。潤に拾われた段階で似たようなものなんだからさ」
「ちっともフォローになっていないですよぉ……」
鉄心の追い打ちに更にクルルが落ち込んだ。
「と、とにかく、クルルの仕事の都合がつくまで家にいていいからね」
落ち込むクルルを励ますように、潤が満開の笑顔で告げる。初穂や冬華、そして鉄心もそれに同意するように頷いた。
クルルが事情を説明した辺りから、彼らには判っていたのだ。きっとこうなるだろうと。
だって困った人を前にして、潤が救いの手を差し伸べない訳がないのだから。
「あ……ありがとうございます……っ!」
微笑む赤崎家の面々に対して、クルルは深々と頭を下げる。
こうして赤崎家に金髪の居候が住み付くことになった。