第5章 1話
第5章 とある世界滅亡のきっかけ
最近、市内の商店街はどこもかつての活気を失って、シャッターを閉じたままの店舗も数多い。
だが、この商店街はまだまだ活気が残っており、潤もこの商店街を愛用していた。
そんな潤がいつもの商店街の、いつもの精肉店を出てしばらくした時のこと。
目的の特売豚肉を手に入れた潤は、見た者の方が幸せになるようなにこにこ顔で商店街を歩いていた。
時々、潤を見かけた顔なじみの店員や主婦が彼に声をかけ、潤もそれに笑顔で応える。
それはいつもの、日常的に繰り返されてきた光景の一つ。長い月日の間、連綿と続けられてきた「いつも」。
だがそんな「いつも」は、たった1つの異物の混入であっさりと崩れ去ることとなる。
「うわああああああぁぁぁぁぁっ!!」
商店街を歩いていた潤の背後から、突如叫び声が上がった。
「え? 何?」
突然のことに、潤も思わず足を止めて背後へと振り返る。
土曜の午後ということもあり、商店街にはそれなりの人が集まっていた。
そしてそんな人たちが、潤の視線の先で慌てふためきながら逃げ惑っている。
右往左往する人垣の奥。そこに1人の青年が居るのを潤の瞳は捉えた。
年の頃は20歳前後か。Tシャツとデニムというラフな格好ながら、きちんと櫛が入れられたと思われる黒髪に縁なしの四角い眼鏡。体型はやや太りぎみだが、どこにでもいる普通の青年だ。
だが、普通とは隔絶した点が唯1つ。
それは青年の両手に握られた2つの包丁。青年は異様に血走った眼で周囲を見回しつつ、両手の2つの包丁をでたらめに振り回していた。
「じゅ、潤ちゃんっ!! 早く逃げなさいっ!!」
呆然と立ち尽くす潤に、通りかかった顔見知りの主婦がそう促した。
「な、何が起こったんですかっ!?」
「通り魔よ! あの男の人が、ふらふらっと商店街にやって来たかと思ったら、急に包丁を振り回し始めたのよっ!!」
一緒に逃げながら、潤は主婦から状況の説明を受けた。それによると幸いなことに、今のところ怪我人などは出ていないようだ。
(でも、放っておいたら怪我する人が絶対に出ちゃうよ……)
潤はその瞳に決意を浮かべると、一緒に逃げていた主婦から離れるように駆け出した。
「潤ちゃんっ!? どこ行くのっ!? 逃げないと危ないわよっ!?」
「ボクなら大丈夫だからっ!! おばさんはこのまま逃げてっ!!」
そう叫んだ潤は商店と商店の間にある、店舗の裏へと続く細い路地へと飛び込んだ。
そのまま路地を駆け抜けて商店街の裏側へと出ると、携帯電話を取り出してクルルへとコールする。そして彼女に早く商店街まで来るように告げて通話を切ると、周囲に誰も居ないことを確認して携帯電話を右手に構える。
「『呼出』01(ゼロイチ)っ!!」
潤の唇から紡ぎ出されたキーワードと共に、彼の身体を虹色の光が包み込む。
数瞬の後、虹光が弾けるように消え去ると、そこには虹風をまとったアルカンシェの姿が現れた。
「『呼出』02(ゼロニイ)っ!!」
キーワードに反応して起動する飛行スペルグラム。身に纏った虹風と共に、アルカンシェの身体が空へと舞い上がった。
オカメインコに変身したクルルは、商店街を目指して飛行する。
そして目指す商店街の上空にアルカンシェの姿を認めると、更にスピードを上げてアルカンシェに近づく。
だが、クルルが辿り着くより早く、アルカンシェは地上へと降下した。
商店街から聞こえていた悲鳴に、アルカンシェが登場したことによる歓声が混じる。
「い……一体何が起きてるですかっ!?」
ようやくクルルが商店街の上空に差しかかった時、その眼下では両手に包丁を持った青年とアルカンシェが対峙していた。
「アルカンシェっ!!」
クルルがアルカンシェの元へと舞い降りようとした時、背筋に何か得体の知れないおぞましい感覚が、ぞわりぞわりと這い上るのを感じた。
「こ……この感覚は……ま……さか……」
アルカンシェの元へと降下しようとしていたクルルは空中で方向転換し、人目の及ばない店舗裏へと舞い降りる。
そこで変身を解除して人の姿に戻ると、ポシェットから乙女テスターを取り出して、商店と商店の間の細い路地を足音を殺して青年へと近づく。
どうやら青年は、アルカンシェに気を取られていてクルルに気付いていないようだ。
路地からそっと顔だけ出してそのことを確認すると、クルルは乙女テスターのアンテナを青年へと向け、テスターのノブスイッチを捻る。
途端、ぴーががががと耳障りなノイズが乙女テスターから響く。
「や……やっぱり……っ!!」
ノイズと共に乙女テスターの針が大きく動く。しかしその針の動きは、潤の時とは真逆の方向、言わばマイナス方向への動きだった。
「この反応は────」
手の中の乙女テスターを凝視するクルル。その彼女の上に不意に影が差した。
「──え?」
手中の乙女テスターから顔を上げたクルルのすぐ前に、包丁を振り被った青年がいた。
どうやら、先程乙女テスターが発したノイズで気付かれたらしい。
クルルは恐怖と驚きのあまり言葉も出ず、ただ棒立ちで振り上げられた包丁を見上げることしかできない。
そんな彼女を青年は血走った眼で睨みつけながら、包丁を力一杯振り下ろした。
アルカンシェは商店街の通路へと舞い降りた。
途端、それまで悲鳴を上げて逃げ惑っていた人々が、魔法少女の登場に歓声を上げる。
そしてあっという間に、青年と魔法少女を遠巻きに取り囲むように人垣が形成された。
(そんなところで見てないで、逃げてくれないかなぁ)
アルカンシェは心中でそう思いながらも、油断なく青年を見据える。
彼我の距離は約7メートル。見たところ、青年には何らかの武道の経験はないようで、出鱈目に包丁を振り回しているだけのようだ。
(取り敢えずは、包丁を何とかしないと……怪我人が出てからじゃ遅いからね)
そう判断し、身体を拘束するようなスペルグラムはあったかなと、アルカンシェは自身の記憶を検索する。
左上腕の小さなポシェットに収納されている携帯を取り出せれば、一覧を呼び出して目的のスペルグラムを探せるのだが、目の前に包丁を持った人物がいる以上、呑気に携帯を操作する訳にもいかない。
包丁を持った青年から視線を外すことなく、アルカンシェはすっと身構える。
右足を後方に引き、身体を半身に。
正対する青年に晒す自身の身体の面積を極力少なくする。
両足の踵を気持ち持ち上げ、重心を爪先に。
咄嗟にどちらの方向へ動こうとも、それに素早く対応できるように。
左手を前方に突き出し、右手は軽く握り締めて腰の位置へ。
左手で相手の武器を持つ腕を払い、右手で武器を無力化するために。
視線はぼんやりと青年の全身を捕える。
視線を例えば青年の顔や手にした包丁などの一箇所に固定すると、それ以外の箇所が動いた時に反応が遅れるから。
これら一連の動きを、アルカンシェは特に意識することなく、流れるように行った。
アルカンシェ──潤の実家である赤崎空手道場では、素手で武器をもった者を相手にする場合の対処法も教えていた。師である母との長年の稽古が、アルカンシェの身体を無意識のうちにそのように動かしたのだ。
青年は相変わらず眼を血走らせ、よく聞き取れないような小さな声でぶつぶつと何かを呟いている。明らかに正気ではない。何らかの狂気に憑かれているのだろう。
その青年が眼を更に大きく見開き、アルカンシェへと駆け寄ろうとした時。
青年の動きを察知し、アルカンシェが軽く腰を落とした時。
丁度その時のことだった。
不意に青年の左手の奥の方からぴーががががという耳障りな音が響いた。
アルカンシェは青年から視線を外すことなく、視界の隅でその音の発生源を確認すると、商店街の店舗と店舗の細い路地で、クルルが手の中の乙女テスターを凝視していた。
(ク、クルルっ!? そんな所で何してるのっ!?)
クルルと青年の距離は3メートルもない。しかも今、彼女の視線は乙女テスターに注がれており、青年のことをまるで見ていない。
アルカンシェの脳裏にレッドシグナルが点燈する。
すぐ近くに凶器を持った者がいるというのに、その存在から意識を外すなんて論外以外の何者でもない。
「クル──っ!!」
アルカンシェは注意を促すために叫ぼうとした。だがその言葉がよりも早く、青年の身体が獲物を狙った土蜘蛛の如く動いた。
一度大きく身体をたわめると、クルルに向かって跳躍する。そして彼女の目の前に着地すると、右手の包丁を大きく振りかざす。
この時になって、クルルはようやく青年に気付き顔を上げる。
「クルルぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
アルカンシェの悲壮な叫びが響く中、青年は右手の包丁をクルルへと振り下ろした。
毎度お読みくださりありがとうございます。
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こ、こんなにうれしいことはないっ!!
も……もう自分、ゴールしてもいいよね……?
すいません。読んでくれている人がいると判り、うれしさのあまり取り乱しました。大丈夫です。『アルカンシェ』はまだ続きます。