第11話
時刻は十一時台、思い出のベンチを目指して駅から歩きだす。
潤沢な軍資金もあるし、駅に停まっていたタクシーを利用しても良かったのだが、それでは趣がない。
梅雨特有のジメっとした雨や、まとわりつく湿気のせいで髪の毛が修正不可能なほどボワっと広がっていたら、すかさずタクシーに乗っていたかも。
油断しているとヘアオイルをつけていても負けてしまう。肩まで髪を伸ばしているため、ムラやベタつきも恐ろしい。
髪の手入れは好きでなくなった。もともと、肌や爪の手入れと同じぐらいの重要性で、人の目を気にすることがなければ適当に済ませたかったこともあるけど。
朝の貴重な時間は身だしなみよりも料理に費やしたくなってしまう。髪と格闘している時間で二品は作れる自信がある。
髪の毛が料理へ入ってしまわないように、髪を結ぶのも無意識で結べるぐらいに慣れたとはいえ、最近は意図的に髪の毛を入れているので罪悪感が増すばかり。
何度も髪をバッサリ切ってしまおうと思ったが、結局はそのまま伸ばしてしまう。
今はあんなにも憎い母だけど、まだ私が幼くて好きだったとき、『糸の髪は透き通って綺麗ね』と褒めてくれたことが嬉しかったことの一つだから。
それでも、片手……いや、かろうじて両手で数えられるぐらいしか、褒められた記憶がないので文句も言いたくなる。
直接、文句を言えることは……もう、できないけどね。
「カバン持とうか?」
「ケガ人は歩くのに集中してて。もし、マカナが転んでしまったら、その右肩だと受け身すら取りづらいでしょう」
「なによー。ハワイの柔道家から教わった受け身を見せてやる!」
「ふふ、なにをそれ」
ハワイにいたマカナが柔道着姿の写真を、手紙付きで送ってきたことを思い出す。極めていたら、バレーボールだけではなくて、柔道でも活躍していそうだ。
「マカナは柔道をしていてもカッコいいだろうな。巨漢な相手を、美しく投げる姿を見てみたいよ」
「いやー、柔道は痛いから体験入部の一日で辞めてしまったのです。それに……バレーのほうがアウにあっていたと思うし」
利き手ではない左腕で、軽くスパイクのポーズを見せてくれる。本来の右腕を使っているわけでないのに、動きが様になって、マカナの培ってきたものを感じた。
「そんなに動いて、右肩に痛みが響かないの?」
「骨折しているわけではないからね。こうした慢性的な痛みは、スポーツをしている人にはよくあるのですよ。よよよ……」
痛い体を我慢してまでスポーツをする人の気持ちは分かる。分かっているのに、私自身には実感が湧かない。選手としては諦めてもいいだろうに。
「アウからすれば、糸も同じだからね」
「えっ、どういうこと?」
「毎日料理を頑張っていることだよ。その腱鞘炎疑惑の手。痛いのを我慢してまで、アウのお弁当を作らなくていいのと同じ」
「それは……」
反射的に、言い訳の言葉が口から出てしまったが、次の言葉は出てこない。
「まあ、別にいいんだけど。アウがバレーボールをはじめた理由も大それたもんじゃないし」
「マカナがバレーボールをはじめた理由?」
「そう、理由。アウにとっては大事な理由だけど、他の人からすれば取るに足らない、そんな理由」
記憶の底を探ってみると、幼稚園と小学校時代に一緒だったときは、バレーボールで遊んだことも、興味を持っていた記憶もない。
日本とハワイで離れて暮らし、手紙を交換し続けて、ある日いきなり、マカナはバレーのユニフォームを着ていた写真を送ってきた。
当時から試合でも活躍しているらしく、ハワイで頑張っているマカナを見て、私も頑張ろうと思ったものだ。
「さぁ、目的のベンチまで間近だね」
「うん」
「糸の作ったお弁当が楽しみだよ。お昼前だけど、お腹はペコペコだ」
両手を使って、大げさにお腹をさするポーズをする。ケガしている右腕も使ったので、動かした痛みで顔を歪ませてしまっていた。
「ほら、変なことで無理しない」
「ごめんね」
「マカナが楽しみなのは分かったから、謝ることもないの」
「それもあるけど……うん」
つい最近、観客席から見ていた、試合と同じような緊張感のある顔つきに変わり、呆気に取られてしまう。
「お弁当を食べ終わったら、ちゃんと伝えるよ。全部」
先へ前を歩くマカナに、私は遅れてついていく。




